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2010年5月31日月曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか⑥

こうして、三遊亭圓生一門は東京の寄席を締め出され、ジプシー集団となった。
圓生は弟子たちを養うため、全国を飛び回る。その超過密スケジュールは、78歳の圓生の体を徐々に蝕んでゆく。
昭和54年9月3日、六代目三遊亭圓生は、千葉県習志野で「桜鯛」を口演した後、突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。死因は心筋梗塞。奇しくも、その日、圓生は満79歳の誕生日を迎えていた。
三遊協会設立以来の強引なやり方から、圓楽とその他の圓生一門の弟子との間に確執が生まれていた。圓生亡き後、彼らが行動を共にできるはずもない。
圓楽一門を除いた圓生の弟子たちは、圓生未亡人の口利きで落語協会に復帰する。
そして、圓楽は、未亡人から「落語三遊協会」を名乗ることを禁じられた。圓楽の傲慢さに、実は圓生夫妻も辟易していたのだ。
やむなく、圓楽は自らの団体を「大日本すみれ会」(最終的には「圓楽党」という名前に落ち着くことになる)と称し、ジプシー生活を継続してゆく。圓楽一門もこの機会に、落語協会に戻るという選択肢があったが、プライドの高い彼はそれをよしとしなかった。
落語協会に復帰した、圓弥・圓窓・圓丈らは香盤を下げられた上、各々が協会預かりという身分になった。三遊亭一門として、一門を形成することすら、許してはもらえなかったのだ。
こうして、三遊亭圓朝以来、落語界の主流であり続けた三遊亭本流は崩壊する。
後に、圓楽は「弟子の修業の場を作るため」と言って、私費を投じ「若竹」という寄席を作った。しかし、あの、圓生・志ん朝・圓楽・圓鏡を擁した三遊協会でさえ無理と言われた寄席の興行を、さらに薄いメンバーでできるはずがない。程なく、莫大な借金を残して若竹は潰れる。
その上、圓楽は自分の弟子に対し、前座3年、二つ目5年を経た者は一律真打ちに昇進させると決め、実行した。落語協会分裂騒動が、大量真打ち反対に端を発したことを考えれば、これは暴挙に近い。圓生の遺志を裏切り、真打ちの粗製濫造を始めたというと言い過ぎだろうか。
一方、三遊亭圓生という名跡も問題になった。三遊亭一門が、このような事態になった以上、圓生の名前を巡って、将来、揉め事が起きるであろう事は容易に想像できた。そこで、圓生の遺族、一番弟子圓楽、元法相稲葉修らが立会人となり、全員署名の上、三遊亭圓生の名跡を止め名(永久欠番)とした。落語界の財産である、圓生の名をあっさりと封印するのもどうかと思うし、それが根本的な解決にはなるまい。案の定、30年後の現在、圓楽の一番弟子鳳楽と圓丈、それに圓窓を加え、泥沼の七代目圓生襲名争いが起きている。
そもそも、圓生襲名問題のきっかけは、圓楽が作った。彼は自らが圓生封印の立会人の一人であるにもかかわらず、弟子の鳳楽を圓生にするべく画策したのだ。晩年は、それを公言しさえした。
落語三遊協会設立、その後の三遊亭一門分裂、年数による一律の真打ち昇進、圓生名跡問題、それぞれの場面で、圓楽は信念に基づき行動したのだとは思う。しかし、それが彼を取り巻く人々にとってプラスになったかというと、疑問に感じずにはいられない。そのことに圓楽は、あまりに無自覚だったのではないだろうか。

2010年5月25日火曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか⑤

昭和53年5月24日、赤坂プリンスホテルで「落語三遊協会」設立の記者会見が行われた。会長三遊亭圓生、副会長橘家圓蔵、古今亭志ん朝、三遊亭圓楽、月の家圓鏡といった面々が雛壇に並んだ。ここで圓生は、小さんの協会運営を厳しく批判した。とりわけ、大量真打ち問題については激烈を極める。今回真打ち昇進を決めた林家正蔵の弟子照蔵を、名指しで下手だと言い切った。
三遊亭圓丈によると、圓生はあれだけの発言をしたにもかかわらず、照蔵の落語を聴いたことがなかったという。それどころか、圓丈は「落語三遊協会」という新協会の名称すら知らされていなかったというのだ。そんな団体が成功するはずがないと今にして思う。
意気揚々と新団体は船出したはずだった。しかし、翌25日には決定的な打撃を受けることになる。席亭会議で、三遊協会の寄席出演は認められないということになったのだ。
もともとこの話は、談志・圓楽の誘いに鈴本の社長が乗って現実化したものだ。だが、実際メンバーが発表されてみると、致命的な欠陥があった。確かにメンバーは豪華だった。ただ、いかんせん層が薄かった。「毎日休みなし」の寄席で興行を打つには無理があった。
これは新宿末廣亭の北村銀太郎が喝破した。彼は『〔聞き書き〕寄席末広亭』という本の中で、こう言っている。「なかなかいいメンバーだったから、私もやらしてみたいという気にもなったんだけど、いかにも浅いんだ、メンバーの底が。一人欠けたら、ぐんと落ちてしまうようじゃ困るわけだよ。」
つまり、北村は商売になるならやってみようという気があったのだ。しかし、冷静に判断して無理があるという結論に達したのだ。北村が三遊協会の寄席出演を認めなかったのは、落語協会に肩入れしたわけではない。冷徹なプロの目がそうさせたのである。
この決定を受け、古今亭志ん朝は落語協会復帰を決意する。弟子たちのために、寄席に出られなくなるという事態は、何としても避けたかったのだ。志ん朝は圓鏡とともに、圓生も協会に戻るよう説得した。「師匠、落語には寄席が必要です。師匠は落語と面子とどちらが大切ですか?」と迫ったが、圓生は「今は面子です。」と答えて、復帰を拒否した。
橘家圓蔵一門も協会復帰を決める。
復帰組に落語協会はペナルティーを課すつもりだったが、北村銀太郎の「小さん会長にも責任の一端はある。元のままで戻してやりなさい。」の一言で、結局、不問に帰すことになった。
北村は圓生・小さんの調停の場を設けるも、圓生はそれに無断欠席。
圓生一門だけが落語協会を脱退することで、この騒動は一応の終結をむかえることとなったのである。

2010年5月18日火曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか④

いささかの不協和音を奏でながらも、新協会は形を整えていく。色物は手品の伊藤一葉、漫才の春日三球照代をメンバーに加えた。いずれも売れっ子だった。
ある日、圓生のマンションに、志ん朝・談志・圓楽が集結し、今後のことを話し合う機会があった。その時、談志が突然、圓生に向かって「師匠、ここで師匠の次の会長を決めておきましょう」と言った。圓生は「今決めることではないでしょう」といなしたが、談志はなおも、「こういうことは早いうちに決めておかないと禍根を残すことになります。師匠はご自分の後継を誰にとお考えですか?」と詰め寄る。新協会設立の発案者であり、新協会設立に向け奔走した自分が次期会長である、と談志はここで決めておきたかったのだ。

実は、この新協会設立に動く前、談志は柳家一門で総スカンを食らっていた。事の起こりは、柳家一門の大宴会の席上(圓丈の『御乱心』では正月の小さんの誕生会、伯楽の『落語協団騒動記』では忘年会だったと言っている)。そこで談志は酒に酔い、小さんに「協会の会長を俺に譲れ」と迫ったのだ。それまでにも、談志が小さんに対して不遜な態度をとることは度々あったが、談志を可愛がっていた小さんは特に問題にするわけでもなく、二人は深い信頼関係を築いていた。しかし、この時は周囲が黙っていなかった。小さん自身も談志に不信感を抱いた。談志はやりすぎたのだ。
それにしても、なぜこの時期、談志はこれほどまでに会長になりたがったのだろう。何をそんなに焦っていたのだろう。

圓生は、「談志さんがそこまで言うなら」と前置きして言った。「あたくしは志ん朝さんを、と考えています」
その瞬間、談志の顔色が変わったという。

談志は志ん朝に二度負けた。最初は真打ち昇進の時。志ん朝は入門して5年で真打ちに上り詰めた。柳朝、談志、圓楽といった錚々たる人たちでさえ、軽々と抜かれた。志ん生の息子ということも、もちろんそこには影響しただろう。だが、無理を通してまで真打ちにさせるだけの魅力が、志ん朝にあったことにちがいはない。
談志はこの時、激怒した。当時、彼は小ゑんを名乗り、売れっ子だった。実力も高く評価されていたし、彼自身もそれを自認していた。志ん朝に抜かれるとことなど、到底許し難いことだった。彼は志ん朝に「真打ちを辞退せよ」と詰め寄る。結局、談志は真打ち昇進レースでは圓楽にも抜かれた。ちなみに、落語家の社会では、真打ち昇進順(香盤順と呼ばれる)が、そのままこの社会での序列となる。談志にとって、志ん朝・圓楽・談志という昇進順は大きなトラウマとなった。

二度目がこれだ。自分が発案し、奔走したにもかかわらず、圓生は自らの後継に志ん朝を選んだ。またしても志ん朝か、という思いだっただろう。
談志は、圓生の志ん朝への後継指名を聞くと、そのまま席を立った。そして、その直後、電話で新協会離脱を圓生に伝えたのだった。

2010年5月12日水曜日

戦時下の桂文楽

文楽が落語協会に入ったのは、昭和13年。日本は戦争への道をひた走っていた。この年の4月には国家総動員法が公布され、言論統制も始まっていた。
文楽は自署『あばらかべっそん』の中で、戦時中、ラジオに出演した時のエピソードを語っている。この時は『富久』を口演する予定だったが、郵政省の若い役人に「太神宮様が出てくるのはいけない。他の神様でやってくれ」と言われ、演目を『松山鏡』に変更したのだという。「いやでしたね、まったくあの時分は」と、文楽は述懐する。
昭和16年には「はなし塚」が建立され、禁演落語53種が指定された。これは、別に当局からの要請ではない。協会の幹部や席亭が、顧問の野村無名庵と協議を重ね、自粛という形をとったものだ。いわば、落語家側から当局に取り入ったのである。(事実、この一覧表を見た当局は「改訂して適当にやれるものはやってよろしい」と言ったそうだ。)
文楽のネタで、禁演落語53種に入っているのは、『明烏』『つるつる』『よかちょろ』『星野屋』の4つ。しかし、これに類する噺にも、前述の『富久』のように、内容の変更を求められることはあっただろう。持ちネタが少なく、不器用な文楽にとって、まさに受難の時代だった。
昭和17年には、正岡容とともに三代目圓馬を慰める落語会を鈴本で開催。売り上げを病床にあった圓馬に贈っている。正岡は、この日の朝、『三代目圓馬研究』を書く。圓馬の芸を今日に伝える名文である。この中には文楽を高く評価する内容も含まれていた。
正岡は翌18年には『当代志ん生の味』というのも書いている。この中で彼はこう言う、「当代の噺家の中では、私は文楽と志ん生を躊躇なく最高位におきたい」と。多分、文楽・志ん生を、昭和の名人として並び称した、最も早いものだろう。五代目を襲名して3年、志ん生がついに文楽と肩を並べた瞬間だった。
文楽にしても、戦時下で自分のやりたい噺をやりたいようにできない状況の中、古典落語の旗手として評価されたことは大きい。時流に乗って売れに売れた柳橋・金馬に対し、文楽は当時不遇ではあったが、識者は文楽の実力を認めていたし、そんな彼を同情的な目で見ていたのである。
戦争が終わると、文楽の芸は大輪の花を咲かせる。戦後落語の最高峰として、賞賛を一身に浴びた。もちろん、文楽自身の精進の賜だが、そこには正岡容、安藤鶴夫などの演芸評論家が大きく寄与していたのも事実だった。

2010年5月5日水曜日

緑屋食堂 半ちゃんラーメンセット


鉾田市、緑屋食堂。半ちゃんラーメンセット。900円。

通勤途中に、ずっと昔からある。潰れない店に外れはない。ずっと気になっていたが、初めて入った。

貧乏性のためか、セットメニューに目がない。中でも、半ちゃんラーメンセットにはそそられる。ただ、あまり満足した例はない。特にチャーハンが、どこもいまいちなのだ。

ここのはいい。ほのかに生姜の風味が効いた醤油味のラーメン。おそらく、出汁は鶏ガラでとったのであろうスープ。その上に、ナルト、チャーシュー、メンマ、ほうれん草といった定番の具がのっている。チャーハンが、またいい。卵のやさしさと紅生姜が絶妙なバランスを保っている。何の文句もない、基本的なチャーハンだ。しかも、餃子付き。これがいけるのよ。

こだわりの味、といった大上段に振りかぶった感じはない。あくまで普通の、長年、愛され続けた味がする。

ご飯もののメニューも多い。まっとうな食堂だな。今度は定食に挑戦したい。