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2010年5月12日水曜日

戦時下の桂文楽

文楽が落語協会に入ったのは、昭和13年。日本は戦争への道をひた走っていた。この年の4月には国家総動員法が公布され、言論統制も始まっていた。
文楽は自署『あばらかべっそん』の中で、戦時中、ラジオに出演した時のエピソードを語っている。この時は『富久』を口演する予定だったが、郵政省の若い役人に「太神宮様が出てくるのはいけない。他の神様でやってくれ」と言われ、演目を『松山鏡』に変更したのだという。「いやでしたね、まったくあの時分は」と、文楽は述懐する。
昭和16年には「はなし塚」が建立され、禁演落語53種が指定された。これは、別に当局からの要請ではない。協会の幹部や席亭が、顧問の野村無名庵と協議を重ね、自粛という形をとったものだ。いわば、落語家側から当局に取り入ったのである。(事実、この一覧表を見た当局は「改訂して適当にやれるものはやってよろしい」と言ったそうだ。)
文楽のネタで、禁演落語53種に入っているのは、『明烏』『つるつる』『よかちょろ』『星野屋』の4つ。しかし、これに類する噺にも、前述の『富久』のように、内容の変更を求められることはあっただろう。持ちネタが少なく、不器用な文楽にとって、まさに受難の時代だった。
昭和17年には、正岡容とともに三代目圓馬を慰める落語会を鈴本で開催。売り上げを病床にあった圓馬に贈っている。正岡は、この日の朝、『三代目圓馬研究』を書く。圓馬の芸を今日に伝える名文である。この中には文楽を高く評価する内容も含まれていた。
正岡は翌18年には『当代志ん生の味』というのも書いている。この中で彼はこう言う、「当代の噺家の中では、私は文楽と志ん生を躊躇なく最高位におきたい」と。多分、文楽・志ん生を、昭和の名人として並び称した、最も早いものだろう。五代目を襲名して3年、志ん生がついに文楽と肩を並べた瞬間だった。
文楽にしても、戦時下で自分のやりたい噺をやりたいようにできない状況の中、古典落語の旗手として評価されたことは大きい。時流に乗って売れに売れた柳橋・金馬に対し、文楽は当時不遇ではあったが、識者は文楽の実力を認めていたし、そんな彼を同情的な目で見ていたのである。
戦争が終わると、文楽の芸は大輪の花を咲かせる。戦後落語の最高峰として、賞賛を一身に浴びた。もちろん、文楽自身の精進の賜だが、そこには正岡容、安藤鶴夫などの演芸評論家が大きく寄与していたのも事実だった。

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