昭和53年5月24日、赤坂プリンスホテルで「落語三遊協会」設立の記者会見が行われた。会長三遊亭圓生、副会長橘家圓蔵、古今亭志ん朝、三遊亭圓楽、月の家圓鏡といった面々が雛壇に並んだ。ここで圓生は、小さんの協会運営を厳しく批判した。とりわけ、大量真打ち問題については激烈を極める。今回真打ち昇進を決めた林家正蔵の弟子照蔵を、名指しで下手だと言い切った。
三遊亭圓丈によると、圓生はあれだけの発言をしたにもかかわらず、照蔵の落語を聴いたことがなかったという。それどころか、圓丈は「落語三遊協会」という新協会の名称すら知らされていなかったというのだ。そんな団体が成功するはずがないと今にして思う。
意気揚々と新団体は船出したはずだった。しかし、翌25日には決定的な打撃を受けることになる。席亭会議で、三遊協会の寄席出演は認められないということになったのだ。
もともとこの話は、談志・圓楽の誘いに鈴本の社長が乗って現実化したものだ。だが、実際メンバーが発表されてみると、致命的な欠陥があった。確かにメンバーは豪華だった。ただ、いかんせん層が薄かった。「毎日休みなし」の寄席で興行を打つには無理があった。
これは新宿末廣亭の北村銀太郎が喝破した。彼は『〔聞き書き〕寄席末広亭』という本の中で、こう言っている。「なかなかいいメンバーだったから、私もやらしてみたいという気にもなったんだけど、いかにも浅いんだ、メンバーの底が。一人欠けたら、ぐんと落ちてしまうようじゃ困るわけだよ。」
つまり、北村は商売になるならやってみようという気があったのだ。しかし、冷静に判断して無理があるという結論に達したのだ。北村が三遊協会の寄席出演を認めなかったのは、落語協会に肩入れしたわけではない。冷徹なプロの目がそうさせたのである。
この決定を受け、古今亭志ん朝は落語協会復帰を決意する。弟子たちのために、寄席に出られなくなるという事態は、何としても避けたかったのだ。志ん朝は圓鏡とともに、圓生も協会に戻るよう説得した。「師匠、落語には寄席が必要です。師匠は落語と面子とどちらが大切ですか?」と迫ったが、圓生は「今は面子です。」と答えて、復帰を拒否した。
橘家圓蔵一門も協会復帰を決める。
復帰組に落語協会はペナルティーを課すつもりだったが、北村銀太郎の「小さん会長にも責任の一端はある。元のままで戻してやりなさい。」の一言で、結局、不問に帰すことになった。
北村は圓生・小さんの調停の場を設けるも、圓生はそれに無断欠席。
圓生一門だけが落語協会を脱退することで、この騒動は一応の終結をむかえることとなったのである。
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