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2010年5月18日火曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか④

いささかの不協和音を奏でながらも、新協会は形を整えていく。色物は手品の伊藤一葉、漫才の春日三球照代をメンバーに加えた。いずれも売れっ子だった。
ある日、圓生のマンションに、志ん朝・談志・圓楽が集結し、今後のことを話し合う機会があった。その時、談志が突然、圓生に向かって「師匠、ここで師匠の次の会長を決めておきましょう」と言った。圓生は「今決めることではないでしょう」といなしたが、談志はなおも、「こういうことは早いうちに決めておかないと禍根を残すことになります。師匠はご自分の後継を誰にとお考えですか?」と詰め寄る。新協会設立の発案者であり、新協会設立に向け奔走した自分が次期会長である、と談志はここで決めておきたかったのだ。

実は、この新協会設立に動く前、談志は柳家一門で総スカンを食らっていた。事の起こりは、柳家一門の大宴会の席上(圓丈の『御乱心』では正月の小さんの誕生会、伯楽の『落語協団騒動記』では忘年会だったと言っている)。そこで談志は酒に酔い、小さんに「協会の会長を俺に譲れ」と迫ったのだ。それまでにも、談志が小さんに対して不遜な態度をとることは度々あったが、談志を可愛がっていた小さんは特に問題にするわけでもなく、二人は深い信頼関係を築いていた。しかし、この時は周囲が黙っていなかった。小さん自身も談志に不信感を抱いた。談志はやりすぎたのだ。
それにしても、なぜこの時期、談志はこれほどまでに会長になりたがったのだろう。何をそんなに焦っていたのだろう。

圓生は、「談志さんがそこまで言うなら」と前置きして言った。「あたくしは志ん朝さんを、と考えています」
その瞬間、談志の顔色が変わったという。

談志は志ん朝に二度負けた。最初は真打ち昇進の時。志ん朝は入門して5年で真打ちに上り詰めた。柳朝、談志、圓楽といった錚々たる人たちでさえ、軽々と抜かれた。志ん生の息子ということも、もちろんそこには影響しただろう。だが、無理を通してまで真打ちにさせるだけの魅力が、志ん朝にあったことにちがいはない。
談志はこの時、激怒した。当時、彼は小ゑんを名乗り、売れっ子だった。実力も高く評価されていたし、彼自身もそれを自認していた。志ん朝に抜かれるとことなど、到底許し難いことだった。彼は志ん朝に「真打ちを辞退せよ」と詰め寄る。結局、談志は真打ち昇進レースでは圓楽にも抜かれた。ちなみに、落語家の社会では、真打ち昇進順(香盤順と呼ばれる)が、そのままこの社会での序列となる。談志にとって、志ん朝・圓楽・談志という昇進順は大きなトラウマとなった。

二度目がこれだ。自分が発案し、奔走したにもかかわらず、圓生は自らの後継に志ん朝を選んだ。またしても志ん朝か、という思いだっただろう。
談志は、圓生の志ん朝への後継指名を聞くと、そのまま席を立った。そして、その直後、電話で新協会離脱を圓生に伝えたのだった。

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