それから談志は、「談志・圓楽・志ん朝の三人は離れるべきではない」と言って志ん朝を参加させ、圓生の前名を継いでいる縁から七代目橘家圓蔵門下を引き入れた。色物(漫才の三球・照代、奇術の伊藤一葉などの売れっ子がいた)にも声をかけるなどして、それなりのメンバーをそろえた。
脱退する圓生とともに新協会を設立するということは談志にとって、会長である師匠小さんに弓を引く行為であるはずなのだが、「そのことが落語界のためになり、十年の計になれば、それもやむを得ない」し、「もっとも以前から、落語協会二分論を小さん師匠に進言し、落語芸術協会と三分するとはいうものの、三分の二対三分の一という発想だともいっていたので、分裂はさほどの驚きではなかったろう」というのが、彼の認識だった。談志は、小さんの息子、三代目柳家三語楼(現六代目子さん)をも新協会に連れて行こうとしたのである。
もちろん小さんは組織の防衛に動く。冷遇されていたという十代目金原亭馬生を副会長に任命、これは絶妙の一手であった。圓丈の『御乱心』の中で、小さん門下の夢月亭歌麿(現清麿)は、圓丈にこう分析して見せる。
「あの常任理事(※圓歌、金馬、柳朝のこと)に対する不満は、うちの柳家一門にすらあります。それが馬生副会長就任によって協会員も納得するし、“馬生師匠は残るのか!”ということで、浮足立った会員の気持を抑えることが出来る。
また馬生師匠が新協会へ行けば、柳家一門に匹敵する古今亭ファミリーが全員出ることになるが、馬生師匠を副会長にさせることによって古今亭のほぼ三分の一の流出で済むことになり、その上志ん朝師匠が協会へ戻る時のパイプ役にもなるし、あの常任理事の牽制にもなるし、もう一石二鳥どころか、一石三鳥の価値がありますねェ」
そしてこうも言うのだ。
「普通なら、自分の協会員をどんどん引っこ抜かれたら“一度、新協会加入者は以後、如何なる場合も落語協会は受け入れない”なんて通告を出すとか、色々と協会員を締めつけにかかるモノですが、師匠は何もしない。ただ馬生師匠を副会長にさせただけなんです。
あとは全て受けて立つ。横綱相撲ですョ。こりゃ、本当に偉いと思いますねェ」
うーん、まさに完璧。圓丈が唸るのも肯ける。
しかし、談志はこの新団体から離脱する。理由は圓生の後継問題だった。圓生は新団体の次期会長に志ん朝を指名。これに談志が反発。新団体旗揚げに最も功績のあったのが自分であり、リーダーシップがあるのも自分であると自負していた。
談志は志ん朝に後継者を譲るよう要求するが、拒否される。志ん朝の言い分では「圓生師匠は私に、と言っている」ということであった。 談志は、「嫌だというのなら、俺は辞める」と言い、さっさと新団体から手を引いた。「俺がいなくて、このメンバーで三月もったらおなぐさみだ」という捨て台詞を残して。
ここからの談志の行動は迅速だ。すぐさま、「やっぱり子弟の血は濃いですよ」と言って、小さんに詫びを入れ、その晩に馬生宅へ復帰の挨拶に行った。馬生宅では弟子たちを集めて対応策を練っている最中だった。当然、談志には非難の目が集中した。
「お前さんは百叩きですよ」と言う馬生に、心中で談志は「小さんに冷遇されて、圓生に泣きついたのは誰なんだ」と、非難の言葉を飲み込んでいたという。
その後のことは周知のとおり。圓生一派は、三遊協会を立ち上げ記者会見をするが、寄席側は新協会の出演を認めなかった。そのため志ん朝、圓蔵一門は協会に戻り、圓生一門のみが落語協会を脱退して、全国展開の活動をすることになる。
その騒動の最中、談志はハワイにいた。落語協会分裂騒動は、談志の言葉通り新協会設立が頓挫したことで終結を迎えたのである。(つづく)
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