斉衡三年十二月、常陸の国鹿島郡大洗磯崎の地に、新たに神が降り立つ。ある夜半、塩焼きの翁が海を望むと、突然天から光が降り注いだ。明くる日、二つの怪石が海辺にあった。石の高さは各々一尺ばかり。とても普通のものとは思われない。塩焼きの翁はひそかにこれを怪しんだ。一日おいて、今度は二十余りの石が、二つの怪石の周りに、まるで侍座しているかのようにあった。怪石の色は尋常ではなく、僧のような形をしていたが、耳目はなかった。ある時、神が人に憑りついて言う、「私は大奈母知(大穴持、またの名は大国主命)、少比古奈命(少彦名命)である。昔、この国を造り、終えて東海へ行く。今、民を救わんがため、また帰って来たのだ」と。
その大国主命と少彦名命が石となって降臨した所に、現在「神磯の鳥居」が立っている。
大洗磯前神社の祭事に、興味深いものがあったので紹介しておく。
今は行われていないが「網掛祭」というのがあった。これは旧暦の8月1日、大国主命が祭神である網掛(茨城町、涸沼の畔)と武甕槌命が祭神の宮ヶ崎(茨城町)の神職が鉾と盾を奉じ、早馬で神事に参加するというものである。
もう一つは現在でも行われている「有賀祭」。武甕槌命が祭神の有賀神社(水戸市内原)から、11月11日(もとは9月25日)の早朝、牛車で(さすがに現在はトラックのようだが)大鉾を奉じた行列が大洗に向かい、米・柚子・里芋などを神殿にお供えして神事を行う。そして大洗からは鯛や鰯などの魚類を贈答されるという。
これらはまさしく「出雲神話の再現」であろう。出雲から遠く離れたこの地で、大国主命と武甕槌命が、今日に至るまで「国譲り」の神事を繰り返し行っていたのだ。すごいことだと思う。
平安時代の延喜式では、「常陸二十八座」の中に、鹿島神宮と並んで「大洗磯前薬師菩薩明神社」という名前で載っている。その後、度重なる戦乱で荒廃していたが、江戸時代、水戸藩二代藩主徳川光圀によって復興され、随神門、拝殿、本殿が三代藩主綱條の時代(1730年頃)に完成した。
随神門。 |
拝殿。 |
本殿は見事な茅葺。 |
背後から。神々しい。 |
上からの眺めはまさに絶景である。
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