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2018年4月7日土曜日

落語協会分裂騒動~立川談志を中心に~①

落語協会の分裂騒動については、立川談志も自らの著書で語っている。三遊亭圓丈の『御乱心』の前年(1985年)に刊行された、『あなたも落語家になれる』というのが、それである。
それでは、この騒動について、談志を中心に辿ってみよう。
まず、六代目三遊亭圓生と五代目柳家小さんが対立する原因となった、大量真打問題において談志は小さんと同じく肯定派だった。戦後の入門者急増によって二つ目がだぶついた。その当時の状況を打破するために、談志はこのように提案する。
「結果、十年以上協会で辛抱していた二つ目を差別・区別なく一様に真打ちにしてしまえ、年に一人か二人を真打ちにしていた日にゃァ、ことによると、百年たっても真打ちになれないかもしれない。ならいっぺんに、束で集団で真打ちにしてしまえ、そうしないと、年ばかり食って真打ちにもなれず、本人もくさってしまい、なまじ売れる才能も開花せず、しぼんでしまうのではないだろうか。」
この「十把一絡げ真打ち案」は理事会に諮られ、賛成多数で承認された。圓生はこれに反対し、小さんの側近、三代目三遊亭圓歌、四代目三遊亭金馬、五代目春風亭柳朝を理事から外し、十代目金原亭馬生、初代林家三平、五代目三遊亭圓楽、古今亭志ん朝、立川談志を入れることを要求する。当初の案では談志は入っていなかったのだが、圓楽の進言で談志も加わったのだという。
小さんは、一旦は圓生の人事案を了承したが、次の理事会ではこれを黙殺した。この対応に圓生は激怒、ついに協会脱退を決意する。
この時、談志も圓生について協会を出ることにしたのだが、その動機を彼はこう語る。
 「止めても無駄だと知った時、私はかねてからの持論をもち出した。落語協会、落語芸術協会に、もう一つの第三の協会をつくって、一月を十日ずつ寄席を担当した方が、プログラムのマンネリも変えられるし、私も自分の考え方をより強くその会に反映させることができるから、落語界の前途のためにも、いろんな実験もやり易いと考えていた。」
こうして談志は、圓生の協会脱退を新協会設立にまで一気に発展させた。
この辺りのことについて八代目林家正蔵(彦六)は、著書『噺家の手帖』の中の「円生師匠への公開状」という文章の中で次のように書いている。
「ところで今回の脱退騒ぎなんですが、これは貴方が私たちに話しかけることをしないで突如として脱会を宣言なさった。貴方の弟子である円楽・円窓・円弥その他の人々も貴方と一緒に脱会をする。落語協会から貴方の門下でない人も馳せ参じて、その人数は総勢二十五名になったわけです。これは私の推測ですが〈おそらく的をはずれてないと思うが〉立川談志という思いつきの実に新しい、よく言えば企画の新鮮味をもっているような人も馳せ参じたわけですから、おそらくこの人々が献策をしたんじゃないかと思う。(中略)
最初は今のようにお弟子さんを引き連れての脱退ではなくって、恐らく私の想像ではご自分一人だけ孤高の精神で世に渡って行こうとお思いになったに相違ないんですが、前に言ったように策士も加わり、お弟子さんの中には師匠とともに死んでもいいから供をしたいというような殊勝な方もあって、今回の三遊派というものを組織なさったに相違ないと思います。」
まさにその通り。正蔵の冷静な状況判断に恐れ入る。(つづく)


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