今回も芸名の話。
落研にも芸名はある。明治の「紫紺亭志い朝」というのは、三宅祐司、立川志の輔、渡辺正行という錚々たる人たちが名乗った名前として有名だ。東海では、亭号は全員「頭下位亭」。春風亭昇太の落研時代の芸名は「頭下位亭切奴」だった。
うちの落研は、松風亭・楽家の一門、松竹亭・小酒家の一門、夢三亭・月見家の一門に別れていた。
いちばん大きな名前が、夢三亭艶生(ゆめみてい・えんしょう)。何しろ創設者が名乗られた名前だ。私の頃には、畏れ多くて継げる者はいなかった。
松風亭は、「扇」とか「柳」を使った「風」にちなんだ名前が多い。風来坊、風柳、扇柳、小柳といった具合。二つ目名だが、風扇とか扇松とか、いい名前だと思う。入船亭あたりにありそうだ。真打ち名で、私の現役時代で人気があったのは、紫雀(しじゃく)。在学4年間で3人の紫雀がいた。歌ん朝というのも愛嬌があっていい。小柳は、1年の時の4年の先輩が作った。川柳川柳のファンで、字面が似てるでしょ。先輩は、小柳流家元と称された。だから、私にとって家元と言えば、談志ではなく小柳師匠なのだ。
松竹亭は「梅」がつくのが基本。松竹梅ですな。草創時代の名跡が梅太郎。もちろん、私の頃には畏れ多くて継げる者はいなかった。梅之助、梅王(ばいきんぐ)、洒落たところで小右女(こうめ)というのがありました。中でも大きかったのが、金瓶梅。二代目さんは3年の4月に真打ちに昇進したという記録をもつ伝説の名人。今でも鶯春亭梅朝の名前で高座に上がっておられる。以後襲名したのは全てトップ真打ち(その学年でいちばん最初に真打ちになった人です)。三代目さんは鶯春亭梅八の名前で、本県の南部を中心にセミプロとして活躍中。四代目さんは私が1年生の時の4年生。威厳の塊みたいな方で、私は尊敬しておりました。
夢三亭では、桂小文治さんの艶雀(えんじゃく)、これは同輩の弥っ太君が継いだ。艶生の流れからかな、他に艶奴(いろやっこ)という名前もありました。一生楽なんかスケールが大きくて好きな名前。圓漫、小たつもプロっぽくていい。ついでに言うと、この夢三亭という亭号は、シモがかった名前も多かった。寝鶴(ねてかく)とか海太郎(かいたろう)、前座名だが、弥っ太(やった)もそうだね。
楽家、小酒家、月見家は分家の扱いなので、真打ち名は少ない。楽家艶好という名前があった。そのころは援交という言葉はなかったけど、「たのしや・えんこう」というのは、今では相当問題があるぞ。それから、同輩が初代小酒家酔梅(こざかや・よばい)で真打ちになった。真打ち名というと、知っているのはそれくらいか。
ただ、二つ目名でも、いい名前がけっこうある。楽家では、雀志(じゃんし)、雀窓(じゃんそう)。それぞれ、談志、圓窓のもじりだろうが、雀士、雀荘に通じて洒落ている。ちなみに雀志は、二代目金瓶梅さんが二つ目になる時作った名前。小柳さんの二つ目名でもある。小酒家では、酔歌が好きだなあ。
私は、真打ちになった時、松風亭風柳の三代目を継がせて頂いた。初代は今も、いなせ家半九郎という名前で高座に上がっておられる。この方も伝説の名人。私が聴いた中では、初代風柳さんと二代目金瓶梅さんが二大名人だと思う。二代目さんも地元で高座に上がられている。二代目さんの噺はテープでしか知らないが、憧れてよく聴いたものだ(「締め込み」だったな)。
名前を継ぐときは、初代と先代に許可を得る。真打ち昇進が決まった初秋の夜、川崎の公衆電話で、初代さんと二代目さんとお話ししたのを思い出した。初代さんはよく存じ上げていたが、二代目さんは全くの初めてで、突然の電話にたいそう驚いておられた。
私の後、風柳は出ていない。私の不徳の至りで、先輩方には申し訳なく思う。だけど、風柳という名前は誰にも譲ってないわけだから、まだ私が使ってていいんですよね。