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2011年1月29日土曜日

リンクできました


リンクできました。
やってみるもんですね。
大福さん、これからもよろしくお願いします。
これだけでも何なので、画像をひとつ。
渋谷道玄坂途中の古い建物。どうやら元は店舗らしい。こういうものがあったりするから、町歩きは面白い。

2011年1月26日水曜日

檀一雄 『火宅の人』

お伽噺である。大人の男の、お伽噺である。とても私にはできない。 妻子ある作家桂が、新劇女優恵子と天然の旅情で結ばれ、妻子のいる家を省みずに諸方を流転する物語(水上勉の解説より)。その妻子のいる家は、先妻との間に出来た長男が不良になるし、次男は日本脳炎のために全身麻痺で寝たきりのまま。虚実ない交ぜになってはいるが、この大筋は事実を元にしている。 さすが、最後の無頼派だ。世間の常識などものともしない。安定など糞食らえだ。見事に転がり続ける。まさにライク・ア・ローリング・ストーン的な人生。地獄の業火に焼かれても、自分のやりたいようにやる。いや、自分のやりたいようにしかやれないのだ。 ただ、そこには悲壮感も自己への陶酔もない。あるのは明るい諦念だ。どこかあっけらかんとしているところがいい。 私としては、矢島恵子と同棲を始めての最初の頃、浅草千束町に部屋を借りた辺りがよかったねえ。まるで檀版『浅草紅団』だな。下町の人々やいかがわしい芸人たちとの交流が生き生きと描かれる。私も浅草辺りに部屋を借りて、隠れ家にしてみたい。ふとそんな妄想を抱きたくなった。 それから、恵子との最初の別れ話の後の道行き。二人は上野から土浦まで常磐線でやって来て、土浦から船に乗って潮来に向かうのよ。牛堀の旅館での侘びしい交情。いいねえ。 もちろん、桂の流転はとどまることを知らない。放浪はやがてアメリカ、ヨーロッパへと拡大する。そこで桂は恵子の過去に対する嫉妬に狂い、菅野もと子という女と愛人関係になる。帰国後は新たに葉子という酒場の女と九州全土を放浪する。行き当たりばったりに女と関係し、盛大に煮炊きし飲みかつ食らい、湯水の如く浪費する。次第に桂の狂躁は凄惨さを帯びてくる。 やがて、女たちは桂の下を去り、彼は神楽坂の連れ込みホテルに流れ着く。彼の身を焦がした業火も、彼の衰弱と共に勢いを失っていく。ぶすぶすとくすぶるその残り火をもてあます寂寥の中、話は終わる。 檀一雄が死の直前まで書き続けた最後の長編。完成までに20年を要した大作だ。深作欣二の監督で映画にもなった。この間CSでやってたのをちらっと見たけど、映像だと主人公の勝手さだけが目に付くなあ。本の方が、はちゃめちゃの奥に立ち上る哀しさが感じられていい。いずれにせよ、女の人には、到底受け入れられない話だよねえ。 さて、リンクの件ですが、確かに、大福さんの言うとおり、読者の画像の中のリンクを使うのがいちばん簡単ですね。ご指摘ありがとうございます。(実はリンクを試みてはみましたが、結局、できませんでした。お騒がせしてすみません。)

2011年1月23日日曜日

麻生温泉白帆の湯


年の冬も、妻のしもやけがひどくなってきたので、麻生温泉白帆の湯に行く。
いい天気。二人の息子と一緒に、内湯、露天風呂とゆっくり入る。
いつもながら眼下の霞ヶ浦の景色が素晴らしい。
風呂上がりに三ツ矢サイダー。この頃これがお気に入り。
休憩室で昼食。南向き、日当たりがいい。海鮮かき揚げそばを食べる。
暫しうつらうつらしてから、2度目の入浴。
風呂上がりに牛乳の一気飲み。旨し。妻子はアイスを食べる。
ほかほかで帰る。
夕方、皆で餃子を作り、夕食で食べる。
家で作った餃子はしつこさがなく、いくらでも食べられる。例の「すだちぽん酢しょうゆ」が、ここでも活躍した。ビール、黒糖焼酎のお湯割りを飲む。

大福さんのブログにはどうやって行くの?という質問がありました。
紹介したわりには親切ではなかった。改めて反省。
そういやタイトルも書いてなかった。ブログ名は「夢三亭大福それなりに一所懸命」です。
私の詳細プロフィールを開けると、読者になっているブログのリストがあって(といっても1コだけだけど)、そこから行けます。
また、グーグルでもって「夢三亭大福」を検索かけると、いちばん最初に出てきますよ。大福さん、出てこないと謙遜してましたが、今は大丈夫です。
そうか、リンクを貼ればいいのか。でも、どうやってやるんだろ。大福さーん、もし、できたらリンク貼ってみていいですか?

2011年1月21日金曜日

芸名考 落研編

今回も芸名の話。
落研にも芸名はある。明治の「紫紺亭志い朝」というのは、三宅祐司、立川志の輔、渡辺正行という錚々たる人たちが名乗った名前として有名だ。東海では、亭号は全員「頭下位亭」。春風亭昇太の落研時代の芸名は「頭下位亭切奴」だった。
うちの落研は、松風亭・楽家の一門、松竹亭・小酒家の一門、夢三亭・月見家の一門に別れていた。
いちばん大きな名前が、夢三亭艶生(ゆめみてい・えんしょう)。何しろ創設者が名乗られた名前だ。私の頃には、畏れ多くて継げる者はいなかった。
松風亭は、「扇」とか「柳」を使った「風」にちなんだ名前が多い。風来坊、風柳、扇柳、小柳といった具合。二つ目名だが、風扇とか扇松とか、いい名前だと思う。入船亭あたりにありそうだ。真打ち名で、私の現役時代で人気があったのは、紫雀(しじゃく)。在学4年間で3人の紫雀がいた。歌ん朝というのも愛嬌があっていい。小柳は、1年の時の4年の先輩が作った。川柳川柳のファンで、字面が似てるでしょ。先輩は、小柳流家元と称された。だから、私にとって家元と言えば、談志ではなく小柳師匠なのだ。
松竹亭は「梅」がつくのが基本。松竹梅ですな。草創時代の名跡が梅太郎。もちろん、私の頃には畏れ多くて継げる者はいなかった。梅之助、梅王(ばいきんぐ)、洒落たところで小右女(こうめ)というのがありました。中でも大きかったのが、金瓶梅。二代目さんは3年の4月に真打ちに昇進したという記録をもつ伝説の名人。今でも鶯春亭梅朝の名前で高座に上がっておられる。以後襲名したのは全てトップ真打ち(その学年でいちばん最初に真打ちになった人です)。三代目さんは鶯春亭梅八の名前で、本県の南部を中心にセミプロとして活躍中。四代目さんは私が1年生の時の4年生。威厳の塊みたいな方で、私は尊敬しておりました。
夢三亭では、桂小文治さんの艶雀(えんじゃく)、これは同輩の弥っ太君が継いだ。艶生の流れからかな、他に艶奴(いろやっこ)という名前もありました。一生楽なんかスケールが大きくて好きな名前。圓漫、小たつもプロっぽくていい。ついでに言うと、この夢三亭という亭号は、シモがかった名前も多かった。寝鶴(ねてかく)とか海太郎(かいたろう)、前座名だが、弥っ太(やった)もそうだね。
楽家、小酒家、月見家は分家の扱いなので、真打ち名は少ない。楽家艶好という名前があった。そのころは援交という言葉はなかったけど、「たのしや・えんこう」というのは、今では相当問題があるぞ。それから、同輩が初代小酒家酔梅(こざかや・よばい)で真打ちになった。真打ち名というと、知っているのはそれくらいか。
ただ、二つ目名でも、いい名前がけっこうある。楽家では、雀志(じゃんし)、雀窓(じゃんそう)。それぞれ、談志、圓窓のもじりだろうが、雀士、雀荘に通じて洒落ている。ちなみに雀志は、二代目金瓶梅さんが二つ目になる時作った名前。小柳さんの二つ目名でもある。小酒家では、酔歌が好きだなあ。
私は、真打ちになった時、松風亭風柳の三代目を継がせて頂いた。初代は今も、いなせ家半九郎という名前で高座に上がっておられる。この方も伝説の名人。私が聴いた中では、初代風柳さんと二代目金瓶梅さんが二大名人だと思う。二代目さんも地元で高座に上がられている。二代目さんの噺はテープでしか知らないが、憧れてよく聴いたものだ(「締め込み」だったな)。
名前を継ぐときは、初代と先代に許可を得る。真打ち昇進が決まった初秋の夜、川崎の公衆電話で、初代さんと二代目さんとお話ししたのを思い出した。初代さんはよく存じ上げていたが、二代目さんは全くの初めてで、突然の電話にたいそう驚いておられた。
私の後、風柳は出ていない。私の不徳の至りで、先輩方には申し訳なく思う。だけど、風柳という名前は誰にも譲ってないわけだから、まだ私が使ってていいんですよね。

2011年1月18日火曜日

早坂隆『戦時演芸慰問団「わらわし隊」の記録 芸人たちが見た日中戦争』

拡大する日中戦線の中、朝日新聞が吉本興業に依頼して大陸に派遣した、演芸慰問団「わらわし隊」の記録である。
著者は私より一回り年下。若いのにしっかりしているなあ。彼は、当時の記録を漁り、芸人たちの足取りを丹念に辿ってゆく。元兵士の老人と会い、現地を歩く。イデオロギーに惑わされず、自分の目で見たこと自分の感じたことからこの戦争を考えようという、真摯な態度がそこにある。小林よしのりの『戦争論』辺りに影響を受けた世代なのかもしれないが、日本の兵士だけでなく、中国の人々の心情に思いを致すことができるところに私は好感を持った。
それにしても、お国のために戦う兵隊さんも、その兵隊さんのために熱演する芸人さんも(大スターの金語楼も三亀松もエンタツもアチャコも)、みんなみんな健気だ。みんなみんな健気に命をかけて頑張っている。ただ、その戦争自体は、大局的な戦略もなく始められ、ずるずると泥沼にはまっていく。それが、この上なく哀しいのだ。
とりわけ筆者が多く割いているのは、第1回、第2回の派遣に参加し、いちばんの人気者となったミスワカナのエピソードだ。彼女の奔放さ無邪気さは、兵士たちへの思いをまっすぐに表現する。中国人の孤児に対する同情も隠すこともない。それは時に反戦的な匂いを持つほどに踏み込んだものになる。観客は(大陸の兵士も内地の庶民も)そんなワカナの漫才に大いに泣かされた。
「わらわし隊」は大評判を博すが、戦局の悪化とともに規模が縮小されていく。「わらわし隊」という名称も不謹慎だというので使われなくなっていった。世の中に余裕というものがなくなった。
慰問団は送られていたが、その芸人の中に犠牲者も出た。夫の桂金吾とコンビを組んでいた花園愛子という漫才師が、戦闘に巻き込まれ、大腿部に被弾、出血多量で死亡したのだ。彼女の死は大きな衝撃を与える。愛子の遺児トシ子には同情の目が集まり、告別式には東条英機夫人から直々に言葉をかけられた。このトシ子は長じて八代目古今亭志ん馬夫人となった。この人は、前回紹介した『内儀さんだけはしくじるな』にも登場する。彼女は父の反対を押し切って、志ん馬と駆け落ち同然に一緒になった。そうか、その反対した父は、この本に出てくる桂金吾だったか。(その時はもう芸人をやめていたらしいが。)
日米開戦前夜でこのルポルタージュは終わる。そして、最終章では「わらわし隊」に参加した主な芸人たちのその後が語られる。筆者はここでもあのミスワカナの死について懇ろに綴っている。
労作である。筆者の積み上げたひとつひとつの証言は、どれも胸に迫ってくるし、あの戦争に正面から取り組み、誠実に向き合う姿勢には敬意を覚える。見解を異にする箇所もなくはないが、教えられることは多かった。いい本に出会えたと思う。
ただ、ひとつだけ。桂右女助(後の六代目三升家小勝)を神田伯龍の弟子という記述には首を傾げる。右女助の師匠は八代目桂文楽だ。同じ東京の芸人だから、楽屋などで教えを受けたこともあるだろうし、可愛がられてもいたのだろうが、右女助は伯龍と師弟関係にあったわけではない。(些細なことかもしれないが、文楽に関することだったので見逃せなかったのよ。)
蛇足ですが、解説は最近何かと話題の麻木久仁子さんが書いています。それがどうしたと言われても、別に何も、としか答えられないけれど。

2011年1月16日日曜日

雪の日


この冬初の積雪。子どもたちは大喜び、雪まみれになって遊ぶ。
昼はマクドナルドのハンバーガーを買ってくる。私はテキサスバーガー、フィレオフィッシュとコーンスープ。テキサスバーガーは100パーセントビーフのハンバーグにマスタードソース、チリビーンズが挟んである。結構辛いけど、なかなかいける。チリビーンズといえば、刑事コロンボの大好物。当時、テレビでよく見たが、旨そうだったなあ。
夕方は本屋に行って『酒のほそ道 第28巻』を買う。新刊が出れば、必ず買っている。小学3年生の長男と幼稚園年長組の次男も愛読者だ。(いいんだろうか。)
夕食は、とんかつ、もずく豆腐でビール、燗酒。とんかつは、ビールではソースに辛子をつけて、燗酒ではすだちぽん酢しょうゆで。それぞれに旨し。とんかつで燗酒を飲むのは、池波正太郎の好みだった。やってみると意外に合う。ただ、この頃は揚げ物を食べ過ぎると胃にもたれるので、ソースが続くのは少々きつい。さっぱり系の味がいい。すだちぽん酢しょうゆ(川中醤油製造)は、広島の義妹の家で送ってくれたもの。これが旨い。とがったところがない、上品な味なのだ。
子どもたちを寝かしつけて、タラモアデュー。録画していた遠藤賢司の番組を途中まで見る。「不滅の男」、「カレーライス」、いいなあ。穏やかな日曜日でした。

2011年1月13日木曜日

桂文楽 その妻たち

文楽は女性にもてた。
落研の後輩の女の子も「文楽師匠ってかわいいですね」と言っていたし、私がたまに見るブログでも(これも書いているのは女性だ)愛を込めて文楽を「エロ爺さん」と書いている。女性から見ると文楽はよりセクシーに映るらしい。
文楽は晩年まで艶っぽさを失わなかった。それは彼が晩年まで色事に関わってきたことと無縁ではない。
文楽と女性との関わりは、ある時期まで、ひとつの特徴がある。それは(これは以前にも書いたが)必ず年上が相手だったということだ。
文楽は5回の結婚をしているが、3人目まではずっと年上だった。最初の妻は大阪で知り合い、共に上京してきた。下積み時代の文楽に随分尽くしたらしい。しかし、文楽襲名のため金が必要だった彼は、最初の妻を捨て、旅館の女将だった2番目の妻に婿入りする。さらに関東大震災でその旅館が倒壊すると、文楽は旅巡業へと逃げ、3人目の妻の下に走るのだ。当時のゴシップ紙に「馬之助(文楽の前名)の情婦になるとケツの毛まで抜かれる」と書かれたのも頷ける。文楽には女を踏み台にする冷酷さがあった。
文楽は少年期、無理矢理奉公に出されるといった形で母に捨てられた。年上の女性を求めたのは、母性への憧れであろう。そして、その年上の女性を次々と捨てた。もしかしたら、昔のTV番組「知ってるつもり」が指摘したように、それは母への復讐だったのかもしれない。
しかし、4人目の妻、寿江夫人と結婚し、終の棲家となる黒門町に腰を落ち着けると、文楽の結婚生活は安定する。
寿江夫人のことは『内儀さんだけはしくじるな』(文藝春秋刊)に詳しい。これは五代目小さん、六代目圓生、八代目文楽のそれぞれの弟子が師匠夫人について語り合ったのをまとめたものだ。読み物としても楽しいし、資料としても貴重なものである。
寿江夫人は「長屋の淀君」とあだ名された。よくいるでしょ、夫が偉いとお内儀さんまで偉くなっちゃう人。(中日の監督さんの所とか、元楽天の監督さんの所とか)ああいう人のイメージがある。協会への電話一本で弟子を二つ目にさせたとか、愛犬が可楽の股ぐらにかみついたら謝りもせず「可楽さん、大丈夫よ。この子注射してるから。」と言ったとか、その手のエピソードは多い。ただ、弟子たちの話を読むと、そんなに権力者然とした人ではなかったようだ。むしろ無邪気な人だったように思う。
寿江夫人と結婚した時、文楽は33歳。新進気鋭の売れっ子から壮年へと向かう時期である。また、寿江夫人は体が弱かった。この結婚では、文楽が初めて妻を庇護する立場になった。この結婚生活は40年以上続いたが、もしかしたら、そういったことがその一因になったかもしれない。
寿江夫人が亡くなったのは、文楽77歳の時。最期は大腸癌だったという。弟子の文平(現左楽)から妻の病気を知らされた文楽は、文平に酒の用意をさせ、二人で飲みながら「看病を頼む」と言った。そして夫人には「お前が死んだら俺も生きちゃいられない。俺も死ぬよ。」と言ったという。寿江夫人はその言葉に喜び、旅立って行った。
いい話だ。ただ、これで終わらないのが文楽である。趣味の義太夫が高じ、大阪の義太夫芸者と深い仲になる。翌年には周囲の説得もあり、その芸者と別れ、長年の愛人だった梅子という常磐津の師匠を5人目の妻に迎えた。梅子夫人との出会いは、彼女が東京音楽学校邦楽科に在籍していた19歳の時であったという。
78歳にして、これだ。桂文楽、天晴れ色男である。

2011年1月11日火曜日

滝平二郎展を観た


県の近代美術館でやっていた滝平二郎展が、延べ3万人を越える入場者数を集め、盛況のうちに幕を閉じた。
私も1月2日、村松虚空地蔵尊に初詣に行った帰りに寄ってみた。
滝平二郎といえば、私にとって郷土の偉人であり、高校の大先輩でもある。
小学5年だか6年だかの時、中学校の体育館で滝平二郎の「きりえ教室」という催しがあった。当時、彼のきりえは朝日新聞日曜版の一面を飾っており、評判を取っていた。「故郷に錦を飾る」といった感じだったのだろうか。私も当然のように参加した。
その時、滝平は白と黒の模造紙を使って見本のきりえを作った。上に重ねた白模造紙に無造作に鉛筆で線を引き大胆にカッターで切り抜くと、下からおなじみの桃割れ髪の少女が現れた。あまりの鮮やかさにため息がもれた。(その後、そのきりえは中学校の校長室に飾られた。)
今回の展示はきりえだけでなく、木版画や絵本の挿絵も含まれており、滝平二郎の仕事を年代を追って総合的に辿ることが出来る。
私としては初期の木版画が新鮮だった。特に後期の作品は単純化された造形とシンプルで力強い線が、後のきりえの作風を思わせた。
また、斎藤隆介と組んだ絵本の仕事では、多くの人を惹きつける力を感じさせた。『八郎』、『三コ』、『ベロ出しチョンマ』の切なさ、『モチモチの木』、『花咲き山』、『半日村』の完成された美しさ…。これらの仕事で滝平は自ら物語性を存分に発揮し、画家としての地歩を固めたのだった。
そして、朝日新聞日曜版を飾ったきりえで脚光を浴びる。
霞ヶ浦沿いの昔の農村、しっかり者の姉と甘えん坊の弟、平和でのどかな四季折々の情景、ステレオタイプといわれればそうかもしれないが、そこには見る人の心を揺さぶるものがある。町中の丼ものも出すありきたりな蕎麦屋だが、その丁寧な仕事と誰でも楽しめる雰囲気で多く人に愛されている、そんな感じの絵だ。厳選された材料と高い技術を誇るこだわりの店のようなものばかりが芸術ではない。
また、初めてまとめて原画を観ることが出来たのだが、やっぱり凄いなあ。紙を貼り合わせた凹凸の立体感。台紙に色をぼかしてみたり、薄い紙を上から重ねて貼ってみたり、何気ないけれど、手法は多彩だ。ただの農村を描いた素朴なきりえというだけではない。職人芸といってもいい技巧が、あらゆる所に施されている。作品の側には制作時の年齢も記してあったが、圧倒的に50歳以降のものが多かった。ということは、作品で食えるようになるまでに、そこまでの歳月を要したということなんだなあ。
滝平二郎の年譜を見て新たに気づいたことがあった。彼は終戦を沖縄で迎えたのだ。あの地獄の戦場から、滝平は生きて帰ったのだ。展示で見る限り、彼の沖縄戦に関わる発言はない。作品にも戦争を思わせるものはほとんどなかった。(木版画に2、3点見られたか。ただ、それも直接的な表現ではなかった。)それがかえって、戦争が残した心の闇の深さを物語っているような気がしてならない。

2011年1月7日金曜日

芸名考③

三遊亭圓生。柳家小さん。古今亭志ん生。春風亭柳枝。桂文治。林家正蔵。三笑亭可楽。
以上が先代文楽の言う「てっぺんの名前」であろう。(由緒ある名跡だが、現在、金原亭馬生は古今亭、入船亭扇橋は柳家の一派となっている。)
このうち今いるのは、小さん、正蔵、可楽。
圓生は、本来であれば先代圓楽が継ぐべきだった。しかし、例の分裂騒動で、圓楽は六代目圓生及び夫人の信頼を失う。結局、圓生という名跡は騒動の種になるという理由から、六代目の死後、その名は封印されてしまった。
柳枝は前回述べた通り、現在継ぐ人はいない。
志ん生は、六代目を継げる唯一の人、志ん朝が逝ってしまったので、今のところ継げる人はいない。五代目が伝説的存在になっていることに加え、あの志ん朝が継がなかったことで、余計にハードルが高くなったと言えよう。
文治は十代目が継いだことで、落語協会から芸術協会に名跡が移った。今後は、故十代目の門下で適任者が育つかどうかにかかっている。
少々、話が脇道に逸れた。芸名そのものの話に戻したい。
現在の落語家の名前は、基本的に前述の「てっぺんの名前」のアレンジだ。三遊亭は「圓」、柳家は「小」、春風亭は「柳」、古今亭は「志ん」、桂は「文」の字がずらりと並ぶ。師匠の字をもらうというのが、もっともポピュラーなパターンだもんな。
大きな名前に「小」を付けるというのもある。「小圓朝」、「小柳枝」、「小文治」といえば、既に看板の名前だ。「小遊三」も当代の活躍でそうなりつつある。「小燕枝」も渋いな。他にも「小圓馬」、「小圓遊」、「小金馬」などは売れた名前だし、「小談志」、「小圓鏡」などもかつてはあった。
また、音を似せるというのもある。圓生に対する「圓窓」や「圓丈」などはそうだな。もしかしたら、あの「圓朝」、「圓喬」、「圓蔵」も成り立ちから言えば同じかもしれない。燕枝に対する「燕路」、小さんに対しての「小せん」、「小ゑん」もそうだ。「小きん」は字面を似せたものだな。
名人の名前にちなんだものもある。「志ん朝」は、初代である先代馬生が圓朝にあやかってつけたというし、柳家さん喬も橘家圓喬にあやかったものだろう。
そりゃあ、アレンジしたものよりはオリジナルの方が格好いいと思う。格好いい名前は残して欲しいなあ。(もちろん中身を伴った上でね。)

2011年1月5日水曜日

芸名考②

前回はそれぞれの亭号の止め名(最高位の名前)の話だった。少々不正確な部分はあるが、勘弁してください。
その中で、今回は柳派について思いを巡らしたい。
柳派の祖は船遊亭扇橋という名前だ。船遊び、扇から芸者を思わせる。落語家らしく色っぽくていい。次に出たのが麗々亭柳橋。芸者のイメージがより具体的になる。そしてその後が、春風亭柳枝。春風に柳の枝が揺れる、具体から抽象への飛躍がある。さらにそこから柳亭燕枝。季節が春から初夏へと移る。
いやあ、この辺の主題の転がり方が実に見事だなあ。江戸時代に流行した俳諧連歌のようだ。

余談だが、初代三笑亭可楽の高弟、朝寝房夢羅久、林屋正蔵、三遊亭圓生、三笑亭可上、うつしゑ都楽、翁家さん馬、猩々亭左楽、佐川東幸、石井宗叔、船遊亭扇橋の10人を総称して「可楽十哲」という。もちろん、松尾芭蕉の高弟、蕉門十哲に倣ったものだろう。(ただ、三遊亭圓生については可楽の弟子というわけではなかったらしい。)
そういえば、俳諧も本来は滑稽を基調としている。

この柳派の中で、現在最高位にある名前は燕枝門から出た柳家小さんであろう。
柳派の祖である名跡、船遊亭扇橋は現在、入船亭と亭号を変え、現在は柳家の一派に入っている。
春風亭の止め名、柳枝は早死にが続いたところからか、現在は継ぐ者がいない。止め名には最高位という意味と共に、永久欠番という意味もあるけれど、文字通りの止め名になっている。いい名前だけに使って欲しいな。故三遊亭圓弥が適任だったと思われるだけに残念だ。
柳橋は現在は春風亭になっている。六代目が襲名時、師匠柳枝と同じ春風亭に変えたのだ。
本来柳枝は柳橋門から出た名前なので、ここで逆転現象が起きたわけである。柳枝が止め名状態になっているので、現在この柳橋が春風亭の最高位となっている。
燕枝は明治大正にかけて柳派のトップに君臨した名前だが、三代目が野垂れ死にのような死に方をしたために継ぐ者がいなくなった。誰か今の小三治に襲名してもらいたいと言っていた人がいるが、それをよく知る小三治がその気になるとは思えない。
小さんは柳派では比較的新しい名前だが、二代目以降名人上手が途切れることがなかったため、最高位となった。結局、名前はそれを名乗る人によるのである。その意味では当代は大変だなあと思います。

2011年1月4日火曜日

芸名考①

落語家の名前について少し語りたい。
それぞれの亭号での最高位の名前を止め名というが、それらは江戸時代の後半に次々と誕生した。
文化文政の頃(1800年代初頭)、三笑亭可楽が登場。彼が職業落語家の祖とされている。三題噺を得意とした。名前は「山椒はからい」のもじり。(ちなみに明治の文豪二葉亭四迷は「くたばってしまえ」のもじりです。)
初代三遊亭圓生も同時代の人だ。こちらは鳴り物入り芝居噺で売り出した。最初、山遊亭猿松という字を当てていた。どこか文人画を思わせるが、「三遊亭圓生」の方がやはり噺家らしい。「三道楽で円く生き」に通じる。(この圓生の兄が桃月庵白酒。この名前も随分古い名前だったんだ。)
可楽門下からは怪談噺の祖、林屋正蔵(林家となるのは五代目から)、音曲噺の祖、船遊亭扇橋(八代目からは入船亭となる)が出る。
圓生門下では初代橘屋圓蔵(橘家となるのは三代目から)と三遊亭圓太との二代目争いが起きた。結果的に圓蔵が二代目圓生を継ぐが、その後圓蔵は圓生の前名的な位置づけとなっていく。一方圓太は失意の旅に出るが、そこでの修業を経て、初代古今亭志ん生となって江戸に戻ってくる。志ん生は当初「新生」、「真生」という字を当てた。「真の圓生は俺だ」という自負がにじむ。彼は「八丁荒らしの志ん生」の異名を取り、売れに売れた。三遊亭圓朝はこの志ん生に憧れたという。
同じ圓生門下から初代金原亭馬生が出る。彼は道具入り芝居噺の祖とされる。名前は小金ヶ原の放牧場にちなんだ。馬生門下は馬派と呼ばれた。ここから鈴々舎馬風が生まれ蝶花楼馬楽が生まれた。
船遊亭扇橋の門下から人情噺の祖、麗々亭柳橋が出、さらに柳橋門下から春風亭柳枝が出た。ここから柳派が生まれていく。ただ現在の柳派の止め名、柳家小さんの名前は、柳枝門下から柳亭燕枝、そのまた燕枝門下、明治期の二代目柳家小さん(初代は春風亭柳枝門下の音曲師春風亭小さん)の登場を待たなければならない。(ちなみに小さんという名は当時の芸者に多い名前だった。それをあばた面で「鬼」と呼ばれた容貌の持ち主である初代が、逆効果をねらって名乗ったという。)
桂文治というのは、もともとは上方の名跡だった。それを二代目三笑亭可楽の弟子だった人が上方に上り、初代文治の娘と結婚し、文政年間に三代目文治を継いで江戸に戻った。その後、七代目で一度上方に戻るが、八代目が再び東京に持ち帰り、以後は東京落語の名跡となった。また、この三代目文治は養子に四代目を継がせる際に、文治の「文」と師匠可楽の「楽」の字を合わせ、隠居名として初代文楽を名乗った。
立川談志の「立川」の止め名は焉馬だ。初代は江戸落語草創期の大立て者で、烏亭を名乗っていたが、二代目が立川を名乗り、文政年間に「立川家元」を称し落語界に君臨、立川流を率いた。(歴史は繰り返すのですなあ。)談志の名前は、焉馬の門人、談笑の弟子が名乗ったのが初代。現在と師弟が逆転しているところが面白い。「金馬」というのも、もともとは立川の名前だった。
基本的に落語家の名前は、亭号に名前が付く。亭号は三遊亭の「亭」も柳家の「家」も蝶花楼の「楼」も鈴々舎の「舎」も、いずれも建造物という意味だ。つまり「何々という家の誰それさん」といったところか。とすれば、森鴎外は「観潮楼鴎外」だし、永井荷風は「断腸亭荷風」だね。小説家の大看板といった感じで、こちらもなかなか格好いい。

2011年1月3日月曜日

「昭和なつかし亭」だったかな

元日、BSの演芸番組を見た。
橘家圓蔵が5分ぐらいで「猫と金魚」を演らされていた。
「金魚鉢は棚の上に載っけましたが、金魚はどうします?」辺りのくだりはほぼカット。無理矢理サゲまでもっていく。正直、つまんなかった。まああの状況じゃしょうがないか。
ところが、ゲスト席に呼ばれて雑談に入ると、これが俄然面白い。圓蔵大暴れ。林家三平の頭をひっぱたくは、カンペを奪い取ろうとするは、三平に向かって「こんなの、アドリブでやれ」と毒づくは。やっぱり圓蔵さん、こうでなくっちゃいけません。
その後、VTRで立川談志が、志ん生・馬生・志ん朝についての思い出話を喋ったのだが、談志、老いたなあ。声がもう出ない。話の調子もおかしい。見てて辛くなった。淋しい。
昭和61年の映像で志ん朝の「もと犬」。体力気力が充実している頃の志ん朝だ。軽い噺を軽く演っているが、やはりいい。ありきたりのくすぐりでも、すごい面白いんだよなあ。
子どもの風呂の面倒を見ながら、馬生の「そば清」をチラ見。昭和51年の映像。これもいい時の馬生。いいよねえ。この噺は現在、柳家さん喬が得意にしている。「どおーもー」ってのは馬生の演出なんだな。さん喬の方はきれいで気障。馬生の方はどっかぶっとんでる、エキセントリックだ。
夕食の時間なのでテレビはここまで。録画の用意もしていなかった。残念。
でも、思わぬところでいいものを観ることが出来たよ。

2011年1月1日土曜日

明けましておめでとうございます


朝、母屋で家族6人揃って雑煮を食べる。
私はそのまま常会の新年会。今年はばらけるのが早く、12時前に帰る。
年賀状の返事を書き、大宮神社にお参りに行きがてら出しに行く。
静かなお正月。今年もいい年でありますように。

写真は昨日洗った愛車ミニ。今年で19年乗っている。
あと10年乗りたいのですが…。奥さん、いいですか?