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2011年7月31日日曜日

冷やしおろしたぬきそば+T君の投稿


この間の昼食は、「おにざわ」。鉾田の名店。昼時はいつも満席だ。
冷やしおろしたぬきそばを食べる。蕎麦は太めでしっかりとしたコシがある。
旨し。

岐阜のT君からメールが来た。「ブログに載せてくれたまへ」とあったので、転載します。埼玉県行田市、忍城訪問のレポートです。

先日、珍しくフリーの日ができ、武州忍城まで遠征した。
「のぼうの城」で大にぎわいと思ったら閑散に近い。歴女もおらず年寄りばかり。
おもてなし隊も1人で、この暑いのに面頬までしている。この人も年配で、それを隠すため?しかも装束は六文銭の赤具足で真田幸村?なぜ?
何だかなあと思っていたら幸村氏がその格好のままで、コンビニから弁当を買ってきた。
ゼリーフライをほおばりつつ、諸行無常を感じるのであった。

T君とはけっこうシブい所を選んで、色んな土地をほっつき歩いた。また、変な所を一緒に旅したい。
T君、面白い所があったら、またレポートしてください。

2011年7月27日水曜日

四代目春風亭柳好

どこで出しているんだろう、落語名人選とかいうシリーズがあって、よくホームセンターなどのワゴンセールでバラ売りをしているのを見かける。このラインナップがなかなか個性的なのだ。四代目三遊亭圓馬、二代目桂小南、四代目春風亭柳好、四代目三遊亭右女助ってところなんざ、なかなかにシブい。二代目桂枝太郎なんか堂々と「桂梅太郎」と間違った名前のまま、随分長い間売っている。(どこからもクレームが来ないんだろうか。)
私も以前これにハマって、近くのカインズホームへ行くたびに、せっせとカセットテープを買ったものだ。
この中の、四代目春風亭柳好の演目は『牛ほめ』と『道具屋』の2本であった。収録されたのが両方与太郎ものというのも普通ではない。それほど、この人の与太郎はニンに合っていた。
柳好というと、三代目の、「野ざらしの柳好」が有名だ。若いうちから「睦会の四天王」として売れに売れ、華やかな謡い調子の高座は、多くの人を魅了した。
その次の柳好がこの人である。師匠でもある三代目が、全編粋で固めたような芸であったのに対し、幾分地味で、幾分野暮ったかった。だからといって、売れていなかったわけではない。「お笑いタッグマッチ」というテレビ番組で売り出し、芸術協会の寄席には欠かせない存在だった。
私は、高校入学前の春休み、初めて寄席に連れて行ってもらったが、その時、この柳好が出演していた。演じたのは『道具屋』。私は文字通りひっくり返って笑った。子ども心に私は、柳好を「与太郎が面白い人」として、しっかりと記憶した。(同様に、八代目雷門助六は「踊りの上手い人」、六代目春風亭柳橋は「えらい人」であった。)
特に熱心なファンであったわけではない。でも、何となく好きな落語家だった。最初の出会いがよかったこともあったし、そのほんわかした飄々とした佇まいに惹かれたのだ。(私は華麗な楷書の芸が好きだが、この「飄々」にも弱いのだ。)もちろん、ワゴンセールでこのカセットを見つけたときは、ためらわず購入した。
川崎区渡田に住んでいたので、楽屋では「川崎の師匠」とか「渡田の師匠」と呼ばれていた。京浜工業地帯に住む落語家の師匠というのもユニークだ。(三代目が、向島という粋そのものの場所に住んでいたのとは、これも対照的ですな。)大学時代、私は川崎駅を挟んで反対側の幸区に住んでいた。私が、ちょっと長い散歩をすれば行けるような所に、柳好はいたのだ。
晩年は協会のゴタゴタに嫌気がさし、体を壊したこともあって、芸術協会を脱退した。酒乱であったとも聞く。ただのほんわかした人じゃなかったんだな。何かしらの屈折が柳好にはあったのだ。
もうちょっと聴いておけばよかったな、と今さらながらに思う。

2011年7月25日月曜日

おきにいりのおきもの


猫が好きなのだが、息子がアレルギー性鼻炎なので、飼うのを我慢している。
その代わりといっては何だが、かわいい猫の置物があると、つい買ってしまう。
釣り猫と魚を持っている猫は、笠間の「かつら陶芸」の敷地内にある雑貨屋で買った。釣り竿は、息子が折ってしまったのを、ボンドと紙で修繕した。小さくて見えないかもしれないが、その手前にある、肘枕で寝ている黒い猫は、この間、妻と出かけたとき、笠間稲荷近くの雑貨屋で買った。
この他に、落下傘猫や野球猫もいる。
素焼きの家と馬に乗った男はペルー製。25年ぐらい前、日光からの帰り、杉並木にある雑貨屋で買った。今、ペルー製の置物はけっこう見るけど、当時はあまり出回っていなかったと思う。大きさ、形、共にいい。あの震災でも運良く壊れなかった。

2011年7月20日水曜日

寄席の日

落研では、週に1度、昼休みに校内寄席を開いていた。
教室を借りて、そこに高座を作る。当然準備のために時間がいる。そこで、その日は11時半の集合になる。
高座を作るためにはいくつか用意するものがある。金屏風が2枚。大太鼓。〆太鼓。座布団。毛氈。ガムテープ。めくり台とめくり。ネタ帳、墨汁、筆。出囃子のテープとラジカセ。これを1年生が手分けして運ぶ。しかも、全力疾走だ。金屏風は男が担ぐ。これが重い。手が足りないときは、大太鼓を肩に担ぎ、〆太鼓を手にぶら下げて走る。毎週水曜日は、このように学内を落研の法被姿で走る1年生の姿を必ず見ることが出来た。
大急ぎで高座と客席を作ると、呼び込みへ走る。「落語いかがですか」と客を呼ぶ。
太鼓を覚えると、呼び込みをやらずに済んだ。まず一番太鼓を入れる。ドンドンドントコイと打つ、プロの寄席で開場を知らせる太鼓だ。そして、お客が入ると、2人組で二番太鼓を打つ。これもプロの寄席で入れる開演を知らせる太鼓である。一番も二番も、プロのものよりは少し叩きやすいようにアレンジしてあった。二番が終わると、シャギリの太鼓を入れて、前座の上がりを流す。
出演者は前座、二つ目、真打ちの3人。持ち時間は1人10分~20分といったところだ。お客はいつも10人ほどは入ったと思う。真打ちの時は、呼び込みも入って噺を聴く。私が1年の時の4年生では、金瓶梅さんの『だくだく』『勘定板』、紫雀さんの『無精床』『蜘蛛駕籠』、艶雀さんの『もぐら泥』、一生楽さんの『寄合酒』、小柳さんの『権助魚』などが心に残る。
真打ちの噺が終わると、追い出しを打つ。デテケデテケと叩く。部員は「ありがとうございましたー」と声を張った。
そこから大急ぎで後片づけ。準備の時と同じように、1年生はもろもろのものを担いで部室へと走るのだった。(もちろん出演した前座も着物姿で走るのだが、雪駄は走りづらかったなあ。)

2011年7月17日日曜日

模倣と創造

RCサクセションが、仲井戸麗市を迎え、スーパーバンドに変身した時、モデルとなったのはローリングストーンズだった。忌野清志郎はどう見てもミック・ジャガーの真似だったし、仲井戸麗市のポジションはどう見てもキース・リチャーズだった。でも、彼らの楽曲は紛れもなく彼らのオリジナルだったし、彼らの世界は紛れもなくRCサクセションだけのものだった。だからこそ、我々は彼らを強烈に支持したのだ。
模倣と創造は永遠のテーマだが、純粋なオリジナルなど果たして存在するのだろうか。
古今亭志ん生が噺をしていると、楽屋では「圓右の真似じゃねえか」とか「三語楼の真似じゃねえか」とか言う年寄りがいたらしい。初代三遊亭圓右の速記を読むと、確かに志ん生の口調に似ているし、初代柳家三語楼が死んだ時、向かいに住んでいた志ん生が三語楼のノートを持ち出して行ったというエピソードも有名だ。多分、志ん生は圓右の口調に三語楼のギャグを乗せて売り出したのかもしれない。でも、我々にとっては、あれはまさに志ん生の世界以外何ものでもない。
三代目三遊亭圓馬写しの落語家として、八代目桂文楽と三代目三遊亭金馬の二人が挙げられるが、この二人が似ているかと言えば、そんなことはないだろう。
春風亭小朝が売り出した頃、私たちは「志ん朝の物真似だ」と言っていたが、今ではもうそんなことを言う人もいない。
三代目柳家権太楼の落語には、桂枝雀、立川談志の影響を色濃く感じるが、もはやあれも権太楼ワールドとしか言えないものになっていよう。
立川志の輔も談春も志らくも、師匠談志の口調そのものだが、誰も彼らを談志の物真似とは思わないだろう。
こうしてみると、優れた表現者は、模倣から出発しても、結局はオリジナルな個性を確立させるものなのだ。陳腐な結論かもしれないが、事実は往々にしてありふれたものなのかもしれない。
一方で、オリジナルな個性を確立できなかった悲劇を、私たちは春風亭一柳に見ることができる。彼は師匠六代目三遊亭圓生の影法師と呼ばれ、生涯その呪縛から解放されることなく、自ら命を絶った。
芸というものは、非情で残酷なものだな、とつくづく思う。

2011年7月16日土曜日

こどもや


茨城町小鶴の「こどもや」。
私が大好きな建物。
看板の絵なんかキッチュでいいでしょ。
震災でどうなったか心配だった。
少しは影響があったみたいだけど、元気に営業中。
よかった。

2011年7月13日水曜日

落研部員の一日

落研の活動は、月曜から金曜までは昼休みに行っていた。
私の場合、1限目の授業に出た後、学食で朝飯を食い、2限目の授業に出るか、そのまま部室へ行った。
部室は坂道を上ってきて最初の建物、通称「螺旋階段」と呼ばれる棟の中にあった。向かい合わせで二部屋を落研が所有し、一つを通常の部室、もう一つを和室として使っていた。
和室は落語の稽古をつけてもらったり、寄席の時に着替えをしたり、上級生から説教されたりする神聖な場所で、普段は飲食禁止だった。(学祭のコンパの時だけは開放され、大手を振ってそこで酒が飲めた。)
1年のうちは、先輩を待たせるのは御法度なので、皆息を切らせて部室に飛び込んでくる。(私はそれが嫌で2限目の授業に出なくなっていった。)
そこで、約1時間活動をする。細々したことは大福さんの方が詳しいだろう。(何せ彼は代表をやっていたからね。)確か、月曜は近くの緑地公園へ行って発声練習(もちろん、1年は全力疾走で移動、…って野球部か)、水曜は教室を借りて校内寄席(もちろん、1年は全力疾走で移動、…って野球部か)、他は「落語鑑賞会」とか「大喜利」とかやっていたなあ。
活動が終わると、昼食になる。1年はまず先輩に「今日はどこですか?」と訊く。「上」と言われたら、さらに少し坂を上った所にある食堂館、「下」と言われたら、すぐ向かいにある森永食堂という意味だ。そこからまた1年は全力疾走。座席を確保し、水を用意する。そして、先輩が入ってくると、「何にしますか?」と訊いて、食券を購入する。基本的に昼飯は先輩が奢ってくれるが、先輩より高いものを食べるのは許されない。だから、森永だったら、150円のランチか130円のカレーをよく食べた。
食後の一服をする先輩には、もちろん火をつけて差し上げる。ライターを使っていいのは2年から。1年はマッチしか使ってはいけない。すぐに火をつけられるように、2本は箱から出して蓋と箱の間に挟んでおく。
食事が終わると部室に戻り、暫し雑談。そのうち麻雀に行こうという話がまとまれば、馴染みの雀荘「みどり」へお供する。寄席と言われれば、新宿末廣亭か池袋演芸場へ。飲みと言われれば、これまたほいほいとついて行った。
それじゃあ、午後の授業はどうしたんだ、という声もあるかもしれない。申し訳ない。ほとんど出なかった。だけど、それが当時の落研部員の(とりわけ男子部員の)ごく普通の姿だったのだ。
(もっとも、私の後輩からは授業によく出る人たちが増えた。彼らの言い分は「だって授業料がもったいないでしょう。」というものだった。もっともだとは思ったが、一方で私たちは「この頃の1年は授業に出やがる。」なんてことを言っていた。今思うと、とんでもないこと言っておりましたなあ。)

2011年7月7日木曜日

森鴎外『渋江抽斎』

高尚だが退屈だと評判の鴎外の史伝である。
それが面白い、と言えば、スノッブに思われるだろうか。いや、それでも十分面白かった。
解説にも書いてあったように、これを小説のように読んじゃ駄目だな。いやね、ひょんなことで知ったんだけど、幕末の漢方医で渋江抽斎という人がいてね、この人が本業は医者なんだが、儒学をよくする文芸の徒でもあり、演劇の通でもあるという、私の先達みたいな人なのよ、というような鴎外さんの随談を聞くような心持ちで読んだ方がいい。
それがさあ、友達にも面白い人がいて役者の真似事をして主家をクビになった人がいたり、息子も放蕩者で苦労したり、そうそう最後の妻が女傑でねえ、なんていう風に話が広がっていくのも面白い。
幕末の漢方医群像といった趣もある。とすれば、手塚治虫の『陽だまりの樹』とは合わせ鏡のような感じもする。(手塚の方は幕末の蘭法医が中心の話だ。)併せて読むと、また面白いと思う。
この話は文庫で342ページあるのだが、何と161ページで、渋江抽斎は、コレラのために、明治を待たずに死んでしまう。それも凄い。主人公が話の半分もいかないうちに死んでしまうのだ。そんな小説なんかないよなあ。
その後は、抽斎亡き後の渋江家が丹念に描かれる。
私が好きなのは、抽斎最後の妻、女傑五百だ。抽斎の晩年、渋江家に暴漢が押し入った。五百は入浴中だったが、腰巻き一枚の姿で匕首を武器に暴漢を追い払ったというエピソードがある。坂本龍馬の妻お龍を思わせるが、あっちは刺客の到来を報せただけ。五百の方が数倍勇ましい。
それから、抽斎の娘陸。この人は明治になって砂糖店を経営した後、長唄の師匠となった。砂糖店をやっていた頃は、士族の商法の成功例として、あの三遊亭圓朝が噺の枕で振ったほどだった。長唄の師匠としても杵屋勝三郎門下の重鎮として活躍した。鴎外という人は、こういう一本筋の通った女の人が好きなんだな。
敷居は高かったが、決して乙にすましたものではない。かえって飄々としていい話だったよ。

2011年7月6日水曜日

阿見を歩いた


先日、仕事で阿見へ行った。
合間に散歩したが、広いねえ、阿見は。
私の好みは古い町並みを見て歩くことだが、そういう区域がどこにあるのか、見当つかない。
古いものでは海軍殉職者の慰霊碑が、幼稚園の隣にあった。もとは神社だったのだが、戦後撤去されたのだという。阿見は予科練の町である。そういえば資料館があったのを思い出したが、歩いて行くには遠すぎる。
ビッグボーイで昼食をとりながら、雑誌『SIGHT』を読む。特集は「自民・東電・メディアが作った原発ニッポン」。
それにしても、この国は戦時中とちっとも変わらないのな。原発も戦線も、いつの間にか取り返しのつかないほど拡大してしまったし、大本営発表の「転進」と、ついこの間までよく聞いた「ただちに健康には影響しない値です」という台詞も同じようなものだし、言論統制も行われていたわけだし、全く何やってたんだか。今さらながらに腹立たしい。
食後のコーヒーを飲んで、仕事に戻る。いやあ暑かった。
写真は散歩中見つけたお菓子屋。「ニコまん」って何だろう。ちょっとそそられるな。

2011年7月5日火曜日

筑波昭『津山三十人殺し』

読んでいて暗澹とした気分になる。でも、先を読まずにいられない。
昭和13年、日中戦争勃発の年、岡山県の山村で起きた大量殺人事件の記録である。
前半は事件の資料が淡々と綴られ、後半は犯人の生涯を丹念に辿っていく。
犯人都井睦雄は、両親を肺病でなくし、祖母に溺愛され、学校一の秀才として育った。しかし、中学進学を断念、その後肋膜を病んだことを理由に仕事もせず引き籠もる。
やがて都井は悪友から女の味を教えられ、漁色に耽るようになった。彼の暮らす山村には夜這いの風習があり、人妻でも簡単に体を開いた。都井はある時は強引に、ある時は不倫の証拠を突きつけて脅し、ある時は金を餌に、複数の女との関係を重ねた。
そんな折、都井は徴兵検査で肺病と診断され、衝撃を受ける。死病を患ったと思い込んだ彼の夜這いは、無節操で無軌道で、かつ執拗なものとなった。その結果、女たちは都井と距離を置くようになるが、彼は女たちが離れていったのを肺病ゆえの差別ととった。
都井は恨みを募らせ、女からの罵詈雑言を浴びるに及んで、殺意を膨らませた。そして、自家の田畑山林を抵当に入れて手にした大金で、武器を買い集め凶行の準備を始める。一度は警察に通報され取り調べを受けたが、涙ながらに更生を誓い、その場をやりすごした。この時、集めた武器を取り上げられたのが、かえって都井に凶行を決意させた。
再び武器を調達した彼は、電線を切断して集落を停電させ、5月21日午前1時、自分を溺愛した就寝中の祖母の首を、斧で一刀のもとに刎ねたのを皮切りに、集落の人々30人余を次々と殺戮した。極めて冷静に、極めて無慈悲に、である。標的は関係した女が中心であったが、結果的には年寄りから幼児に至るまで老若男女誰彼かまわずといった状態であった。最後は逃げ込んだ山の頂で凶器の猟銃を以て自殺を遂げる。都井の死亡推定時刻は午前3時、まさにこの凶行は「丑の刻」に行われたのだった。
それにしても凄まじい客観描写だ。筆者は一切の感想も心理描写も差し挟まない。圧倒的な事実のみを積み上げる。それが人間の暗部をありありと描き出す。外界と隔絶した山村で繰り広げられる性の饗宴、そのために引き起こされる惨劇。憎悪を膨らませ悪鬼へと変貌していくかつての秀才とくれば、どこか『山月記』の李徴を連想させるが、李徴の虎など足下にも及ばないほど恐ろしい。これが事実であることに戦慄する。しかも、この凶行の引き金となったのは、とどのつまりは色と欲だ。本当に人間は恐ろしい。
筆者は元新聞記者。あとがきを読んで驚いた。彼がこの事件に関心を知るきっかけとなったのが、昭和29年に茨城県鹿島郡徳宿村(現鉾田市)で起きた、一家9人毒殺放火事件に対する取材であったという。そうか、わりと近くでそんなことがあったのか、ちっとも知らなかった。思わず鳥肌が立った。