RCサクセションが、仲井戸麗市を迎え、スーパーバンドに変身した時、モデルとなったのはローリングストーンズだった。忌野清志郎はどう見てもミック・ジャガーの真似だったし、仲井戸麗市のポジションはどう見てもキース・リチャーズだった。でも、彼らの楽曲は紛れもなく彼らのオリジナルだったし、彼らの世界は紛れもなくRCサクセションだけのものだった。だからこそ、我々は彼らを強烈に支持したのだ。
模倣と創造は永遠のテーマだが、純粋なオリジナルなど果たして存在するのだろうか。
古今亭志ん生が噺をしていると、楽屋では「圓右の真似じゃねえか」とか「三語楼の真似じゃねえか」とか言う年寄りがいたらしい。初代三遊亭圓右の速記を読むと、確かに志ん生の口調に似ているし、初代柳家三語楼が死んだ時、向かいに住んでいた志ん生が三語楼のノートを持ち出して行ったというエピソードも有名だ。多分、志ん生は圓右の口調に三語楼のギャグを乗せて売り出したのかもしれない。でも、我々にとっては、あれはまさに志ん生の世界以外何ものでもない。
三代目三遊亭圓馬写しの落語家として、八代目桂文楽と三代目三遊亭金馬の二人が挙げられるが、この二人が似ているかと言えば、そんなことはないだろう。
春風亭小朝が売り出した頃、私たちは「志ん朝の物真似だ」と言っていたが、今ではもうそんなことを言う人もいない。
三代目柳家権太楼の落語には、桂枝雀、立川談志の影響を色濃く感じるが、もはやあれも権太楼ワールドとしか言えないものになっていよう。
立川志の輔も談春も志らくも、師匠談志の口調そのものだが、誰も彼らを談志の物真似とは思わないだろう。
こうしてみると、優れた表現者は、模倣から出発しても、結局はオリジナルな個性を確立させるものなのだ。陳腐な結論かもしれないが、事実は往々にしてありふれたものなのかもしれない。
一方で、オリジナルな個性を確立できなかった悲劇を、私たちは春風亭一柳に見ることができる。彼は師匠六代目三遊亭圓生の影法師と呼ばれ、生涯その呪縛から解放されることなく、自ら命を絶った。
芸というものは、非情で残酷なものだな、とつくづく思う。
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