ページビューの合計

2011年9月10日土曜日

校外の活動

前に校内寄席のことを書いたが、今度は校外での活動について話そうと思う。
大福さんも書いていたが、うちの落研では定期的に新宿で寄席をやっていた。(それより前は高田の馬場のビッグボックスでやっていた。)
これは初代の風柳さんが持ってきた仕事だった。最初はサブナードで単独で、その後、西口センタービルのNCホールで何校か合同でやった。うちの他に、東海とか國學院とか日大とか国士舘、青学、東洋といったラインナップだった。
この高座は好きだった。私はどちらかというと部員の前よりも、一般客の前で演じる方が好きだったし、他の学校の人たちとの共演というのもいい刺激になった。
頭下位亭切奴時代の春風亭昇太さんの『昭和任侠伝』を聴いて、ひっくり返って笑った。芸術協会の中堅真打、三遊亭遊吉さんが國學院の落研時代、『禁酒番屋』を演ったのを聴いて「うめえなあ」と思った。国士舘の部員と仲良くなって、通学途中、南武線の電車の中で、「僕も『豆屋』の稽古を始めました。」なんて声を掛けられたこともある。
NCホールの時は司会がついた。大福さんが書いていたとおり、ペコちゃんのオオタスセリさんだった。(その頃はペコちゃんでもない「太田寸世里」だった。)これも初代風柳さんの紹介だったと思う。着物で、本当に背が高かった。私が『猫の災難』を演じて、真っ赤な顔をして高座を下りてきた時、「ほんとに飲んでるの?」と言われたのを覚えている。(確かに二日酔いの気味だった。)そうか、大福さん、彼女におでん奢ってもらったのか、下戸なのにずるいぞ。
変わったところでは、お座敷がかかったことがある。これは川崎の議員さんが、支持者を集めた宴会で落語を演ってくれと言ってきた。当時私は4年で、この会のトリをとった。何しろ宴会の席だ。古今亭志ん生でさえ、巨人軍の優勝祝賀会のパーティーの余興に呼ばれ、聴いてもらえなくて頭に血が上り、脳卒中で倒れたのだ。予想通り、飲み食いが始まると、見事に誰も聴いてくれない。五里ん君の『日和違い』、風公君の得意ネタ『蜘蛛駕籠』も通じなかった。
私は覚えたばかりの『鰻の幇間』をやるつもりだったが、やめた。『豆屋』をがんがん演って下りちゃおう、と決めた。ところが、私が上がる前、司会の人が「学生さんが一生懸命やってくれているのだから」と言って、席を静めてくれた。これがラッキーだったね。つかみの一言がちょっと受けて、関心がこっちへ向いてくれた。丁寧に売り声の枕を振っていくと、手応えがある。視界の端に、酌に回ろうとする人を隣の人が制しているのが見えた。しめた、最後まで行ける。後は一気にサゲまでもっていけた。
噺の後は、宴会に混じってご馳走になった。余った料理も折に詰めて持たせてくれた。
川崎のアパートに後輩を連れて行って、飲み直したが、この時は気持ちよかったなあ。文楽は噺の出来がよかった時は「終わり初物ですよ」と言って機嫌良く飲んだというが、(文楽師匠と一緒にするのはもったいないことだが)この時はそんな気分をちょっとだけ味わわせてもらいました。大切な思い出です。

0 件のコメント: