以前、「幇間考」という記事を書いた。今回はその続編。
幇間というものに興味を持ったのは、小沢昭一の『芸人の肖像』という本を見てからだ。
その中の「吉原の幇間」とタイトルがついている写真がよかった。宴席なのだろう。一人の老幇間が御飯をよそっている。それが何ともいい形なのだ。
こんなふうによそってもらった御飯は、さぞ旨いだろう。いや、こんな人がいる宴席はさぞや心地いいだろう。その写真は、そんなことを思わせるのに十分な説得力を持つ一枚だった。
落語の方に、幇間噺の枕で振る小噺がありますね。幇間には主体性というものがまるでない、というやつ。
「おい一八、いい天気だな」「いい天気ですねえ。まさに日本晴れですな」「でもちょいと雲が出て来たぜ」「ずいぶんまた雲が出てきましたな。ことによると一雨来そうですな」「ゆんべの刺身は旨かったな」「へえ、あんな旨い刺身はありません」「ちょいと筋があったかな」「筋だらけだよ、歯に挟まって大変でした」「あの三公ってやつ、おれは嫌いだよ」「あたしも嫌い。あんな嫌な奴はいませんよ」「でもちょっとかわいいとこがあるぜ」「かわいいんです。あれでなかなか本当に」「どっか行こうか」「行きましょう」「面倒臭えな」「やめましょう」
いやあ、見事なカウンセリングマインドですな。話題がこんなだから、すこぶるいいかげんだけど。古今亭志ん朝が、『鰻の幇間』の枕で、名人といわれた幇間の言葉を紹介しているけど、これがいい。
「おれたちは喋っちゃダメなんだ。お客にどんどん喋らせる。自慢でも何でも、とても興味を持って聞く。そして、ただうなずいているんじゃなくて、『これはどうなんですか』と質問すると、『うん、よく話を聞いてくれた』ってんでまた喋る。この、こっちが喋らないでお客の話を聞くってのが難しいんだよ」
まさにその通り。側にいて、話を聞いてくれて、変なアドバイスをしたりなんてことがない。うまく気持ちを察してくれて、楽しい方へ向けてくれる。
そりゃあ、祝儀も切りますよ。贔屓にもしますよ。金があれば、こういう遊びをやってみたかったねえ。
昔の落語家には、幇間をやっていた人がけっこういた。昭和の大恐慌で寄席が大打撃を受け、(本当に景気が悪くなれば、生きるために必要なことから遠い商売がまず駄目になる)食えなくなった落語家が、幇間に転向した。そして、戦争が始まって花柳界が駄目になると、また落語家に復帰した。
この間大福さんが『堀の内』で書いてた四代目三遊亭圓遊とか、我らが七代目橘家圓蔵師匠なんかもその口だ。
圓遊なら明るくてつやつやしてて、宴席も楽しかったろう。圓蔵師匠の屈折具合は宴席では映えなかったろうな。(事実、売れなかっと雷門福助は言っている。)
幇間噺が得意な落語家といえば八代目桂文楽だが、文楽にお座敷を務められると格式が高すぎる。私なんか緊張しちゃうだろうなあ。アンツル並みの図々しさがあれば迷わず文楽なんだけど。
むしろ三代目春風亭柳好の方が楽しそう。私のお座敷では柳好を指名しよう。って、どっちにしても贅沢な妄想だなあ。
ページビューの合計
2014年6月28日土曜日
水戸歴史散歩
水戸で飲み会があり、その前に一時間ほど、水戸城三の丸の辺りを散歩した。
上の写真は徳川斉昭公の銅像。水戸藩では、黄門様(光圀公)と並び称せられる名君。
光圀公の諡号が義公であるのに対し、斉昭公は烈公。激しい人柄であったことが偲ばれる。
頃は幕末、米国からの強硬な開国要求に、国は揺れていた。そこに攘夷を主張し、時の大老井伊直弼と鋭く対立したのが、この斉昭公である。
かつて光圀公も時の政権担当者柳沢吉保と対立したが、この時はまさに日本存亡の危機的状況であったが故に、対立も激しかった。
結局、斉昭公は井伊との政争に敗れ、政治の表舞台から退場する。斉昭公は桜田門外の変の直後に亡くなるのだが、その後、水戸の尊王攘夷思想は討幕運動の精神的支柱となる。
斉昭公の作った偕楽園や弘道館は、今も水戸の象徴だ。
その弘道館からスタート。弘道館の道のこっち側に、斉昭公の像はある。
弘道館脇から、弘道館公園に入る。
県庁三の丸庁舎の裏っ手に出る。
かつては、三層櫓が天守的存在だったが、第二次世界大戦の空襲で焼けた。再建してもいいと思うんだけど。どうなのかなあ。
上の写真は徳川斉昭公の銅像。水戸藩では、黄門様(光圀公)と並び称せられる名君。
光圀公の諡号が義公であるのに対し、斉昭公は烈公。激しい人柄であったことが偲ばれる。
頃は幕末、米国からの強硬な開国要求に、国は揺れていた。そこに攘夷を主張し、時の大老井伊直弼と鋭く対立したのが、この斉昭公である。
かつて光圀公も時の政権担当者柳沢吉保と対立したが、この時はまさに日本存亡の危機的状況であったが故に、対立も激しかった。
結局、斉昭公は井伊との政争に敗れ、政治の表舞台から退場する。斉昭公は桜田門外の変の直後に亡くなるのだが、その後、水戸の尊王攘夷思想は討幕運動の精神的支柱となる。
斉昭公の作った偕楽園や弘道館は、今も水戸の象徴だ。
その弘道館からスタート。弘道館の道のこっち側に、斉昭公の像はある。
弘道館脇から、弘道館公園に入る。
公園内にある鹿島神社。
鹿島神宮に倣ったという要石。彫られている歌は、斉昭公の自作。筆跡も斉昭公のものらしい。
八卦堂。
孔子廟。
三の丸庁舎の駐車場から見える水道塔。
県庁三の丸庁舎。昔はここが県庁本部でした。
旧県章。「イハラキ」のカタカナを県の花、バラの形にデザインしたもの。
私にとっては、こっちのほうが愛着がある。
庁舎前の土塁と空堀。城跡を思わせる、数少ない風景。
水戸城には石垣がないのだ。
2014年6月24日火曜日
石岡散歩③
石岡散歩の続き。
プラザホテルの裏っ手に回る。
ここも好きなエリアだ。
金丸通りへ出る。となると、喫茶店、四季は外せませんなあ。
再び中町通りに出た。
プラザホテルの裏っ手に回る。
ここも好きなエリアだ。
私の法則では、床屋さんにはシブい建物が多いのだ。
プラザホテル裏といったらこれ。震災でダメージを被ったが、きれいに修復された。
裏からの眺め。周りの建物がなくなっちゃったので、こういうアングルでも見られるようになった。
もう一枚、別角度。
この酒屋さんの看板には、石岡の地酒がずらりと並んでいる。
昔からの履物屋さん。よく見ると閉店セールやってる。
こうやって古いお店がなくなっていくんだねえ。
最後にお店がなくなった後の空き地。寂しい風景だなあ。
2014年6月22日日曜日
2014年6月21日土曜日
2014年6月17日火曜日
T君からの情報 愛知県豊田市足助
先日、郡上八幡の記事を書いたら、早速、高山T君からメールが来た。
その中で、愛知県豊田市足助の情報があった。
T君が、香嵐渓という名所に行った折、「古い町並み」の案内を見つけて行ってみた。
すると、中馬街道沿いに、見事に昭和の香り漂う街並みがあったという。
わざわざ写真も送ってくれたので、ここに紹介する。
では、T君撮影、足助の街並みです。
最後の写真は、その上に載せた肉屋さんの横に吊るしてあった、イノシシの毛皮。
何でも豊田市にあるラーメンの名店には「マタギラーメン」なる一品があるそうな。
その中で、愛知県豊田市足助の情報があった。
T君が、香嵐渓という名所に行った折、「古い町並み」の案内を見つけて行ってみた。
すると、中馬街道沿いに、見事に昭和の香り漂う街並みがあったという。
わざわざ写真も送ってくれたので、ここに紹介する。
では、T君撮影、足助の街並みです。
最後の写真は、その上に載せた肉屋さんの横に吊るしてあった、イノシシの毛皮。
何でも豊田市にあるラーメンの名店には「マタギラーメン」なる一品があるそうな。
2014年6月16日月曜日
平日の休み
平日の休み。こういう時は妻とデートすることにしている。
土浦イオン。ここんとここういうのが続くが、なかなかまとまった時間が取れないのでしょうがないよな。
まずはお互いの買い物。
昼食は、1階の「パスタの釜」。ランチセットをいただく。パスタは、私がペスカトーレ、妻はカルボナーラ。両方とも旨し。岩間の彩美亭のペスカトーレが好きで、よく食べたなあ。デザートにくずもち。満足満足でありました。
その後、雑貨屋なんぞをぶらぶら見て、土浦の街に向かう。
亀城公園、中城通りを少しだけ散歩。妻の母の実家がこの近くにあった。妻の思い出話を聞きながら歩く。
2時過ぎには帰宅。子どもたちの帰りを待つ。
土浦イオン。ここんとここういうのが続くが、なかなかまとまった時間が取れないのでしょうがないよな。
まずはお互いの買い物。
昼食は、1階の「パスタの釜」。ランチセットをいただく。パスタは、私がペスカトーレ、妻はカルボナーラ。両方とも旨し。岩間の彩美亭のペスカトーレが好きで、よく食べたなあ。デザートにくずもち。満足満足でありました。
その後、雑貨屋なんぞをぶらぶら見て、土浦の街に向かう。
亀城公園、中城通りを少しだけ散歩。妻の母の実家がこの近くにあった。妻の思い出話を聞きながら歩く。
2時過ぎには帰宅。子どもたちの帰りを待つ。
元白石楽器の建物。ほんのちょっとだけ昔の名残がある。
亀城公園。太鼓櫓。
西櫓。
東櫓。木がじゃましてよく見えるアングルが限られちゃうんだよな。
どうしても撮ってしまう、ほたて食堂。
これもまた、どうしても撮らずにいられない、吾妻庵総本店。
「まちかど蔵野村」にあった昭和56年当時の土浦駅の写真。
震災で大きなダメージを受けた矢口酒店は、大規模な修理中でした。
震災の年はこんな感じ。
登録:
投稿 (Atom)