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2015年8月29日土曜日
阿武隈SA エゴマ豚のスタミナ丼
磐越道、阿武隈サービスエリアのフードコート。エゴマ豚のスタミナ丼。
エゴマ豚とは、エゴマを餌にして育てた、福島のブランド豚。
あっさり目のタレで焼いてある。
柔らかくて旨し、でした。
妻と長男が食べたざるそばも、なかなか本格的でした。
ではアップで。
五百川パーキングエリアで食べた、白桃ソフトも美味しかったよ。
2015年8月24日月曜日
水戸散歩
ちょっと前、水戸で宴会があった。
少し早めに行って、ぶらぶら歩く。
1時間ほど歩いて銀杏坂のカフェに入り、ヱビスビールを飲む。
飲み会前のフライングの一杯はたまらないねえ。
少し早めに行って、ぶらぶら歩く。
東照宮の鳥居を右に入ったとこ。シブい家並みが続く。
今はやってないんでしょうなあ。中華そば、食べてみたかったっす。
味のある坂道。
南町、富士食堂。
ずらりと並んだサンプルがそそる。
こんなとこにボクシングジムが…。
お城みたいな造りです。
写真屋さん。頑張って営業中。
水戸芸術館のタワー。
シブいビルだ、と思ってよく見ると…。
レオタードショップがあった。残念ながら営業はしていないようだ。
素敵なフォントです。
このタバコ屋に八の字眉みたいな模様の猫がいて、TVでも取材されておりました。
1時間ほど歩いて銀杏坂のカフェに入り、ヱビスビールを飲む。
飲み会前のフライングの一杯はたまらないねえ。
2015年8月21日金曜日
喜多方 松食堂のラーメン
喜多方、松食堂のラーメン。600円。
メニューは至ってシンプル。ラーメン、ラーメン大盛、チャーシュー麺、チャーシュー麺大盛、以上。
女の人だけでやっているお店。客を待たせることもなく、手際がいい。きびきびと応対してくれる。
品物と代金は引き換えというパターン。
豚ガラベースの醤油味。自家製チャーシューが3枚。腰のある麺に、あっさり味のスープが絡む。旨かったねえ。これぞ喜多方ラーメンという一品。
店構えはこんな感じ。
シブくていいでしょ。
隣の坂内食堂は長蛇の列だ。
落語で言えば、柳家小三治を聴くか、さん喬を聴くか、といったところなんでしょうなあ。
2015年8月19日水曜日
家族6人、福島旅行②
ホテルを後にし、猪苗代湖畔を通る国道49号線に出る。
磐梯山を右手に、猪苗代湖を左手に眺めながら、会津若松方面に向かう。
30歳になった頃、猪苗代湖畔で一人キャンプをやったことを思い出す。
あの晩は雨で、閉まっていた管理小屋の庇の下でおでんを煮て酒を飲んだ。やがて雨が上がり、雲間から月が顔を出した。きらきらと光る湖面の、この世のものではないような美しさを忘れることができない。
さて、昼食は喜多方でラーメンを食べる予定だった。
前回来た時はラーメン会館みたいな所で食べたのだが(そこはそこでけっこう美味しかった)、父のリクエストで、今回は街のラーメン屋に行くことにする。
市営駐車場に車を止め、歩いて街中に向かう。母は市から借りた車いすに乗せる。
市役所の脇の小道を入ると、喜多方を代表する坂内食堂がある。
11時半だが、もはやかなりの行列ができている。
これじゃ母や子どもを連れて並ぶのは無理。
隣の松食堂に入る。うまいことすぐに座れた。
ラーメン600円也を6つ、すぐさま注文。待たされることもなく、ラーメンがやって来る。
いやあ見事。旨かった。写真は後日、「飲んだり食ったり」でアップします。
喜多方は古い町並みが残る。私としては1時間ぐらい写真を撮りながらぶらぶら歩きたいのだが、年寄り子ども連れの身では自分の趣味を優先させる訳にはいかない。
駐車場までちょこちょっと撮りながら車へ向かう。
最後に観光をしようと、会津若松へ戻り、鶴ヶ城へ行く。
会津は、昨年だったか、大河ドラマの『八重の桜』の舞台。鶴ヶ城付近にはそれ系の看板や展示が目立つ。
鶴ヶ城の天守閣の中は会津藩の歴史を展示している。この手のものを長男は、実に丁寧に見るが、今回は次男も興味を持ったらしく、けっこう時間をかけて見学して行った。
天守閣のてっぺんから母の車いすを押す父を探す。こちらから電話をすると、すぐ下の木陰から姿を現した。病後、随分怒りっぽくなった母を、生来短気な父がよく面倒を見ている。母も父を頼りにしているからこそ、父にしか大きな声を上げない。何だかんだ言って、うちの両親は仲が良いのだ。これは、私にとって(それほど大量にないと思われる)幸運の一つだろう。
会津藩は、幕末、薩長の討幕勢力と敵対し、戊辰戦争では官軍に激しく抗戦した。そのため、明治政府は、会津藩を下北半島の斗南へと移封する。極寒の地で彼らは塗炭の苦しみをなめた。
東京への電力供給のため原子力発電所が作られたのは、この福島県と、やはり戊辰戦争で官軍を苦しめた長岡藩のあった新潟県である。そして、福島では東日本大震災による原発事故で、15万人もの人々が帰る土地を失った。
我が国の首相は、「2018年まで頑張って、明治50年、100年、150年の区切りの年を、すべて山口県(つまり長州ですね)出身の首相で揃えたい」と言ったという。
久し振りに見た鶴ヶ城は、この辺りでよく見る、赤瓦の屋根に変わっていた。
明治政府の命令で、鶴ヶ城の建造物は天守閣を含み、ほとんどが取り壊された。(会津藩士の「悲愴感慨の心を消すために」という意図があったらしい)
鉄筋コンクリート製の天守閣が再建されたのは昭和40年。今年が再建50周年にあたる。
15年程前の鶴ヶ城の写真はこちら。
3時ごろ、会津若松を出て、家に着いたのが7時頃。スーパーカスミで買って来た寿司でビール、酒を飲む。
2015年8月16日日曜日
家族6人、福島旅行①
両親と妻子を連れて、福島へ行く。
3年前、母がくも膜下出血で倒れた。その後、日常生活に問題がない程度にまで回復したものの、母は外出もしたがらないようになった。ところが、今回、長男の強い勧めがあり、重い腰を上げることになる。孫の力は大したものなのだ。
となると、場所も考えなければなるまい。子どもたちが遊べて、年寄りがゆっくりできて、移動もそれほど時間のかからない所。
そこで、リステル猪苗代に宿を取る。以前、家族旅行で使ったことがあるし、子どもたちも楽しんでいた。次男に訊いたら「覚えていない」と言う。彼が幼稚園に入るか入らないかの頃だったもんな。
9時過ぎに家を出る。常磐道から磐越道へ。磐越道を走るのは久し振り。そうか、私はこの風景が好きだったんだよなあ。
阿武隈サービスエリアで昼食。私はエゴマ豚のスタミナ丼を食べる。旨し。妻と次男が食べていたざるそばも本格的だったよ。
猪苗代インターを1時過ぎに下りる。まだチェックインには時間があるので、世界のガラス館を見た後、志田浜へ行ってみる。猪苗代湖には湖水浴場がいくつかあって、その一つ。昔は霞ヶ浦にもけっこうあったのだが、水質が悪化したため今は存在しない。そう考えると、猪苗代湖はえらい。
ほどほどの賑わい。子どもたちは大喜びでサンダルを脱ぎ、水に足をつける。
リステルへは3時にチェックイン。
早速子どもたちを連れプールに行く。外は少し肌寒いが、屋内はスパもあって至極快適。1時間以上、たっぷり遊ぶ。
夕食は福島マルシェのバイキング。牛ステーキが旨かったな。和洋中何でもあり。親父と二人飲み放題プランを付け、ビール、日本酒を飲む。
長男はじいさんばあさんの部屋で寝る。次男を寝かしつけ、妻と寝酒をちびりちびり。缶のハイボールを半分ほど飲んで寝てしまう。
翌朝は、朝食を食べて、チェックアウトを済ませ、子どもたちをアクティビティーで遊ばせる。
パターゴルフ、トランポリン、ひまわり迷路、キックターゲットと、ここでもやはり1時間以上たっぷり遊ぶ。
10時頃、スタッフの皆さんの笑顔に送られてホテルを後にする。
決して安いわけではない。だけど、施設やアクティビティーが充実していて、3世代の旅行にはうってつけだ。(実際3世代の家族客が多かった。)スタッフの対応も丁寧で、よく行き届いている。よく工夫してますよ。リピーターは多いでしょうな。私たちも十分楽しめました。
2015年8月12日水曜日
新宿 思い出横丁
新宿駅西口、思い出横丁。(学生の頃は「しょんべん横丁」と呼んでおりました。)
先日、池袋演芸場へ行く前に寄った。
特に馴染みの店はないので、最初に目の合ったお姉さんの店に入る。店名すら確認しなかった。
まずはきりっと冷えた瓶ビール。お通しは300円とメニューに明記してある。
カウンターには男の人がいて、お姉さんと中国語で喋っている。仕入れの手伝いをしているらしい。どこかからセロリを調達してきた。
煮込みを頼む。出てきたのがこれ。
その後、常連とおぼしきおじさんが隣に座る。おじさんの話で、お姉さんの名前がチンさんであることが分かる。おじさんは今日はパチンコで5万儲けたといって、ご機嫌だった。私にも気軽に話しかけてくる。
おじさんの話では、ここの煮込みは旨いよ、とのこと。「あそこの店なんか、こんにゃくばかりだよ」と言う。
なるほど肉がいっぱい入っていて、ピリ辛で旨かった。
ビールを飲み切って酒にする。1合でよかったのだが、2合ずつしか売らないと言う。まあいいやと2合頼む。
この煮込みを食べるとなると、やはり2合は必要だったなあ。
おじさんの身の上話を聞き、カウンターの男とお姉さんが中国語でやり合うのを聞きながら、煮込みをつまみ酒を飲んだ。そして、ああ、ここは紛れもなくアジアなんだなあと思った。
いい時間が過ごせた。「困ったときは思い出横丁」。間違いない。
2015年8月10日月曜日
向ヶ丘遊園 インドール
小田急線、向ヶ丘遊園駅近く、カレー専門店、インドール。
私が学生の頃、開店した。かれこれ30年余り、この地で頑張っている。(訂正:後日ネットで見たら、1975年開店とのこと。私が大学に入った頃は、既に開店して数年経っていたのか。気づかなかったなあ。ということは、今年で40周年になるんだ。)
辛口は10倍から100倍まで。昔は100倍を完食すると、記念のポラロイド写真を店内に貼ってくれた。
私はせいぜい10倍まで。この日も中辛を食べた。
キーマカレーやカツカレーなどメニューが増えたが、昔と同じインドールカレー(ポークカレー)を食す。
やっぱりこれが基本だなあ。色んなものが溶け合って渾然一体となったルーに、豚肉がころころと入る。昔のままの味。あの頃の記憶が蘇る。
「みどり」で麻雀をやったあとは、ここでカレー食べて川崎のアパートへ帰ったっけ。
カレーの後はコーヒーだよな、というのでブレンドをオーダー。きちんと豆を挽いて淹れてくれる。
コーヒーを飲みながら、ふと気づく。…福神漬けもラッキョウも使わなかった。
夢中で食っちゃったもんなあ。これはいつか、リベンジせねばなるまい。
お姉さん、それまで頑張ってちょうだいね。よろしくお願いします。
2015年8月8日土曜日
8月上席 池袋演芸場 夜の部
池袋演芸場、8月上席、といえば、柳家小三治がトリをとる昼の部なんだろうけど、これが凄まじいぐらいの混みようなんだろうな。
何年か前、覚悟して行ったが、1時間前に行ってやっと入れたほど。呼吸するのさえ苦しかった。
まして、小三治は人間国宝になったばかり。市場での小三治株の高騰ぶりは想像に難くない。
いいよ、小三治の高座はこの30年余、結構楽しんだ。今の客に譲るよ。現在の東京落語の最高峰だ。今のうちにしっかり聴いておいてくれ。
私は夜の部、林家正雀の怪談噺を聴くことにする。と思ったら、正雀は休席。隅田川馬石の代バネだった。まあいい。馬石の噺も興味がある。
20分前に演芸場に入ると、ロビーのモニターに小三治が映っていた。ネタは『千早振る』。15年前浅草で同じ『千早振る』を聴いた時には、空席があったっけ。
さて、夜の部が始まる。昼の部とは打って変わって、五分の入り。
前座は柳亭市丸。市丸といっても天ぷら屋じゃあない。(って茨城県鉾田市でしか分からないことを言うな。)ネタは『道具屋』。池袋は持ち時間がたっぷりあるので、前座さんもしっかり噺ができる。固い客だが、いい修業になると思います。
二つ目は春風亭朝之助、『寄合酒』。学生時代のバイトの話がマクラ。ネズミを客の前では「ミッキー」と呼ぶという内容。ふわふわした独特の口調だ。これもお客はぴくりともこない。
昼の小三治よりも怪談噺をとる客だ。普通のくすぐりは聞き飽きているんだろうな。
蜃気楼龍玉が『強情灸』を熱演。すっきりとした口調。「ミネの灸」が出てきたので、古今亭系だなと思ったが、やはり五街道雲助の弟子だったか。丁寧に演っていたけど、やはりウケはこなかった。やっちゃったみたいな顔で引っ込んでいったが、こういう時こそ泰然としていた方がいいと思う。
ここで漫才、ホンキートンク。東京の若手漫才にはこの頃逸材が多い。この人たちもそう。ボケのずれ具合が絶妙。固い客を時間をかけてもみほぐす。やっと客席に笑いがもれるようになった。
ここで三遊亭吉窓登場。桂小文治さんとともに日暮里特選落語会のメンバーの一人。何より明るいのがいい。余裕の『大安売り』。お客を陽気に笑わせて、「なすかぼ」を踊る。
お次は桂才賀。落語協会落語台本応募作品『カラオケ刑務所』。刑務所といえば慰問回数において才賀の右に出る者はいない。デティールの細かさなどは、作者というより才賀本人の工夫によるものだろう。ちなみに「春風亭柳昇師匠の『カラオケ病院』のパクリではなく、オマージュ」とのこと。
翁家社中の太神楽。昨年和楽さんが亡くなり、小楽・和助二人の高座。
仲トリは柳亭小燕枝。彼は、1980年、春風亭小朝とともに真打に昇進した。当時は、36人抜きの小朝の華々しさの陰に隠れた感があったが、それでも実力派という評価は得ていた。歌い調子、古風な風貌は先日亡くなった入船亭扇橋を思わせる。しかし、扇橋が甚兵衛さんや与太郎などでとぼけた持ち味を発揮したのに対し、小燕枝はすっきりとした職人がいい。今日は『小言幸兵衛』。いきなり仕立て屋から入り、サゲまで。もはや寄席の重鎮としての風格を身にまとう。
クイツキは柳家三語楼。最近大名跡を襲名した柳家のホープ。鈴々舎馬風の弟子なのね。柳家のお家芸『長短』をきっちりと演じ切る。華があるな。
柳家小菊姐さんの俗曲でしばし江戸情緒に浸る。
トリは隅田川馬石、『真景累ヶ淵より、豊志賀の死』。これがよかった。豊志賀の情念、新吉の揺らぎ、お久の可憐を見事に描いていたなあ。馬石のハンサムさが、この噺にはよく合っていた。もう少し上下を整理すれば、より噺が引き締まったんじゃないかなとは思うけど、十分客は馬石の世界に引き込まれていたよ。私もそうだった。
お賑やかにかっぽれを踊って終演。追い出しの太鼓を背に外に出る。外は弱い雨が降っていた。
久し振りに寄席を堪能できてよかった。奥さんありがとう。女子会の時は喜んで送迎させていただきますよ。
何年か前、覚悟して行ったが、1時間前に行ってやっと入れたほど。呼吸するのさえ苦しかった。
まして、小三治は人間国宝になったばかり。市場での小三治株の高騰ぶりは想像に難くない。
いいよ、小三治の高座はこの30年余、結構楽しんだ。今の客に譲るよ。現在の東京落語の最高峰だ。今のうちにしっかり聴いておいてくれ。
私は夜の部、林家正雀の怪談噺を聴くことにする。と思ったら、正雀は休席。隅田川馬石の代バネだった。まあいい。馬石の噺も興味がある。
20分前に演芸場に入ると、ロビーのモニターに小三治が映っていた。ネタは『千早振る』。15年前浅草で同じ『千早振る』を聴いた時には、空席があったっけ。
さて、夜の部が始まる。昼の部とは打って変わって、五分の入り。
前座は柳亭市丸。市丸といっても天ぷら屋じゃあない。(って茨城県鉾田市でしか分からないことを言うな。)ネタは『道具屋』。池袋は持ち時間がたっぷりあるので、前座さんもしっかり噺ができる。固い客だが、いい修業になると思います。
二つ目は春風亭朝之助、『寄合酒』。学生時代のバイトの話がマクラ。ネズミを客の前では「ミッキー」と呼ぶという内容。ふわふわした独特の口調だ。これもお客はぴくりともこない。
昼の小三治よりも怪談噺をとる客だ。普通のくすぐりは聞き飽きているんだろうな。
蜃気楼龍玉が『強情灸』を熱演。すっきりとした口調。「ミネの灸」が出てきたので、古今亭系だなと思ったが、やはり五街道雲助の弟子だったか。丁寧に演っていたけど、やはりウケはこなかった。やっちゃったみたいな顔で引っ込んでいったが、こういう時こそ泰然としていた方がいいと思う。
ここで漫才、ホンキートンク。東京の若手漫才にはこの頃逸材が多い。この人たちもそう。ボケのずれ具合が絶妙。固い客を時間をかけてもみほぐす。やっと客席に笑いがもれるようになった。
ここで三遊亭吉窓登場。桂小文治さんとともに日暮里特選落語会のメンバーの一人。何より明るいのがいい。余裕の『大安売り』。お客を陽気に笑わせて、「なすかぼ」を踊る。
お次は桂才賀。落語協会落語台本応募作品『カラオケ刑務所』。刑務所といえば慰問回数において才賀の右に出る者はいない。デティールの細かさなどは、作者というより才賀本人の工夫によるものだろう。ちなみに「春風亭柳昇師匠の『カラオケ病院』のパクリではなく、オマージュ」とのこと。
翁家社中の太神楽。昨年和楽さんが亡くなり、小楽・和助二人の高座。
仲トリは柳亭小燕枝。彼は、1980年、春風亭小朝とともに真打に昇進した。当時は、36人抜きの小朝の華々しさの陰に隠れた感があったが、それでも実力派という評価は得ていた。歌い調子、古風な風貌は先日亡くなった入船亭扇橋を思わせる。しかし、扇橋が甚兵衛さんや与太郎などでとぼけた持ち味を発揮したのに対し、小燕枝はすっきりとした職人がいい。今日は『小言幸兵衛』。いきなり仕立て屋から入り、サゲまで。もはや寄席の重鎮としての風格を身にまとう。
クイツキは柳家三語楼。最近大名跡を襲名した柳家のホープ。鈴々舎馬風の弟子なのね。柳家のお家芸『長短』をきっちりと演じ切る。華があるな。
柳家小菊姐さんの俗曲でしばし江戸情緒に浸る。
トリは隅田川馬石、『真景累ヶ淵より、豊志賀の死』。これがよかった。豊志賀の情念、新吉の揺らぎ、お久の可憐を見事に描いていたなあ。馬石のハンサムさが、この噺にはよく合っていた。もう少し上下を整理すれば、より噺が引き締まったんじゃないかなとは思うけど、十分客は馬石の世界に引き込まれていたよ。私もそうだった。
お賑やかにかっぽれを踊って終演。追い出しの太鼓を背に外に出る。外は弱い雨が降っていた。
久し振りに寄席を堪能できてよかった。奥さんありがとう。女子会の時は喜んで送迎させていただきますよ。
2015年8月6日木曜日
出口一雄と酒
近くのスーパーで剣菱を買って来た。
私にとって菊正宗が金原亭馬生の酒なら、剣菱は出口一雄の酒だ。
毎度、京須充偕からの引用になるが、『みんな芸の虫』中の「鬼の眼に涙」から。
三遊亭圓生レコード制作の交渉の場面である。
「これで話はまとまった。まア、めでたい。一杯飲んでくれ」
二度目の新富町訪問。きょうもまだ日は高い。一升びんから注がれた酒は湯呑みの縁からまるく盛り上がった。
「『剣菱』ですね」
「うん、まア、以前ほどのものじゃない」
無感動に言い捨てて、出口さんは自分の湯呑みの残りをグビリと干し、注ごうとする私の手を払って自分で新規をいれた。
「俺はつまみをやらないんだ」
かっこいいねえ。一升瓶から茶碗酒。男の酒だ。
「つまみはやらない」とこの時出口は言ったが、飲み食いでの印象的な場面はいくつかある。
魚河岸の知り合いからもらった鮪の中落ちをビニール袋から取り出して醤油つけて食べる場面。新富町のなじみの洋食屋でコロッケやカキフライをつまみにコップ酒を傾ける場面。寿司をつまみながら京須に「(圓生の)次は志ん朝だな」と次のターゲットを示唆した場面。
酒飲みはあまりものを食い散らかさない。つまみは少しでいい。とはいえ、豊かな商家に育ち、花柳界にも通じていた出口のことだ。口は奢っていたのだと思う。
京須は落語の世界に淫しながらも、自ら「誰のファンでもない」という人である。文楽・志ん生・圓生といった昭和の名人に対しても、一途に惚れ込むことはない。どこかクールに距離を保っている。
それが、この出口一雄については晩年のわずかな期間の交流であったのにもかかわらず、『圓生の録音室』『鬼の眼に涙』『落語名人会夢の勢揃い』と3冊にわたって同じようなエピソードを繰り返し書いている。しかも、そこには出口に対する敬慕の念が、ありありと読み取れるのだ。
出口の芸界との関わりは、レコード制作が始まりであった。京須はそんなところにも出口と通じ合うものを感じたのかもしれない。
京須さん、もしかしてあなたは出口一雄のファンではないか、と訊きたくなる。(多分、京須氏はそれでも「ファンではない」と言うだろうけど)
それはさておき、酒の話だ。 出口にとって酒は終生の友であった。出口は車を運転しない。六本木のマンションから新富町の事務所への通勤には、千枝子夫人に運転させた。
Suziさんの言では「(自分で運転すると)酒が飲めねえじゃねえか」とのことらしい。
志ん生とは、戦前、レコード会社にいた頃からの飲み友達。(志ん生との交友がきっかけとなって、出口は文楽と知り合ったのだと私は見ている)志ん生がくさやを持って来て酒をねだる話は以前ブログで書いた。
八代目林家正蔵とは、劇作家の宇野信夫、川柳作家の坊野寿山、東京新聞記者、富田宏らと「はしば会」を結成、「たいめいけん」を根城に酒を酌み交わす仲だった。
「たいめいけん」といえば洋食の老舗。池波正太郎もそうだったが、明治生まれの男は洋食で日本酒を飲むのが好きだったのか。
出口は口下手で人前でのスピーチは大の苦手だったというが、酒席での座談はどうだったのだろう。ぶっきらぼうで無愛想、いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていた、とは出口を知る誰もが言う。それでも出口の周りには人が集まった。
京須がサシで飲んで出口に惹かれたように、出口との酒は何かしら人を惹きつけるものがあったのだろう。
Suziさんの母上は「お父さんに比べたら伯父さんはトーーーってもやさしい話し方をする人よ。あの男前であれだけゆっくりと優しく話されれば、皆ホロッと行くんじゃないかしら」と言っていたという。
そして、Suziさんによると出口の飲み方はこんなだったらしい。
「伯父は酒の飲み方も不味そうに飲むんですよ。本当に不味そうに飲む。口に持っていくまでは良いんです。口に含んで飲むときです。喉を通しグビッと飲むときに、ニガイ、苦い薬を飲むときのように、口をへの字にして、嫌々ながら飲むようにして飲むんです。『あんな嫌そうに飲むくせに、何時まで経っても飲んでやがる』って、父が笑ってよく言っていました。」
晩年の出口を知る者が一様に語るのは、彼が酒を飲んで泣くようになったことだ。
これは、川戸貞吉編『対談落語芸談2』から。
川戸「文楽師匠が亡くなってから、いろんな人がガックリきましたね。」
談志「そうでしょ。」
川戸「まず出口一雄さん。」
談志「TBSのね。」
川戸「TBSの落語番組を牛耳ってた大先輩。出口さんはお酒飲んで泣くようんなっちゃった。」
円蔵「いや、事務所が赤字ンなってきたからだよ。」
円楽「あはははは。」
円蔵「本当に黒門町ファンだったものね、出口さんは。」
円楽「そうなの、芸に惚れてたからね。」
Suziさんもこう言っている。(ブログ記事『出口一雄と安藤鶴夫』より)
「伯父は落語家に沿った商売をして、その時その時の人と人との心の通じあいがあればそれで良い。そういう人でした。年とともにそれが増して行き、酔いがまわってツーツーに腹が通うとしんみりし、ホロリとするときも多くなりました。 昔話をしていてイロイロ思い出したり懐かしい話になるとそれもホロリ、でした。 父が『兄貴も涙もろくなったなあ』とよく言っていたものです。文楽さんの亡き後は、黒門町、って言葉が出たらもう泣き、そんなでしたね。ガクーーッと来ていました。」
それほどまでに黒門町桂文楽は、出口一雄にとって大きな存在だったのだな。
京須の『鬼の眼に涙』の中で、こんな場面がある。
CBSソニーから出た、桂文楽全集の制作時、収録演目について、監修者の山本益博と出口との間に意見の対立があり(山本が、文楽の珍品ではあるが失敗作を全集に入れようとして、出口がそれに待ったをかけたのだ)、この全集を企画した市橋茂満と京須を交え会談をした。
出口が例によって茶碗酒を勧めると、山本が断った。もともと酒が飲めないのだという。
出口はそれを聞いて、「そうかい」と低く呟いた後、山本を見据えてこう言った。
「酒が飲めなくて、桂文楽が好きかい」
無茶な理屈だが、しびれる。いや、きっと理屈じゃないんだ。
出口さん、私は酒も飲むし桂文楽が大好きです。もしもタイムマシーンがあったら、あの頃の新富町へ行って出口さんと酒を酌み交わしたい。
今宵は剣菱を飲みながら、黒門町の噺を聴こうかなあ。…出口さん、一緒に聴いてくれますよね。
私にとって菊正宗が金原亭馬生の酒なら、剣菱は出口一雄の酒だ。
毎度、京須充偕からの引用になるが、『みんな芸の虫』中の「鬼の眼に涙」から。
三遊亭圓生レコード制作の交渉の場面である。
「これで話はまとまった。まア、めでたい。一杯飲んでくれ」
二度目の新富町訪問。きょうもまだ日は高い。一升びんから注がれた酒は湯呑みの縁からまるく盛り上がった。
「『剣菱』ですね」
「うん、まア、以前ほどのものじゃない」
無感動に言い捨てて、出口さんは自分の湯呑みの残りをグビリと干し、注ごうとする私の手を払って自分で新規をいれた。
「俺はつまみをやらないんだ」
かっこいいねえ。一升瓶から茶碗酒。男の酒だ。
「つまみはやらない」とこの時出口は言ったが、飲み食いでの印象的な場面はいくつかある。
魚河岸の知り合いからもらった鮪の中落ちをビニール袋から取り出して醤油つけて食べる場面。新富町のなじみの洋食屋でコロッケやカキフライをつまみにコップ酒を傾ける場面。寿司をつまみながら京須に「(圓生の)次は志ん朝だな」と次のターゲットを示唆した場面。
酒飲みはあまりものを食い散らかさない。つまみは少しでいい。とはいえ、豊かな商家に育ち、花柳界にも通じていた出口のことだ。口は奢っていたのだと思う。
京須は落語の世界に淫しながらも、自ら「誰のファンでもない」という人である。文楽・志ん生・圓生といった昭和の名人に対しても、一途に惚れ込むことはない。どこかクールに距離を保っている。
それが、この出口一雄については晩年のわずかな期間の交流であったのにもかかわらず、『圓生の録音室』『鬼の眼に涙』『落語名人会夢の勢揃い』と3冊にわたって同じようなエピソードを繰り返し書いている。しかも、そこには出口に対する敬慕の念が、ありありと読み取れるのだ。
出口の芸界との関わりは、レコード制作が始まりであった。京須はそんなところにも出口と通じ合うものを感じたのかもしれない。
京須さん、もしかしてあなたは出口一雄のファンではないか、と訊きたくなる。(多分、京須氏はそれでも「ファンではない」と言うだろうけど)
それはさておき、酒の話だ。 出口にとって酒は終生の友であった。出口は車を運転しない。六本木のマンションから新富町の事務所への通勤には、千枝子夫人に運転させた。
Suziさんの言では「(自分で運転すると)酒が飲めねえじゃねえか」とのことらしい。
志ん生とは、戦前、レコード会社にいた頃からの飲み友達。(志ん生との交友がきっかけとなって、出口は文楽と知り合ったのだと私は見ている)志ん生がくさやを持って来て酒をねだる話は以前ブログで書いた。
八代目林家正蔵とは、劇作家の宇野信夫、川柳作家の坊野寿山、東京新聞記者、富田宏らと「はしば会」を結成、「たいめいけん」を根城に酒を酌み交わす仲だった。
「たいめいけん」といえば洋食の老舗。池波正太郎もそうだったが、明治生まれの男は洋食で日本酒を飲むのが好きだったのか。
出口は口下手で人前でのスピーチは大の苦手だったというが、酒席での座談はどうだったのだろう。ぶっきらぼうで無愛想、いつも苦虫を噛み潰したような顔をしていた、とは出口を知る誰もが言う。それでも出口の周りには人が集まった。
京須がサシで飲んで出口に惹かれたように、出口との酒は何かしら人を惹きつけるものがあったのだろう。
Suziさんの母上は「お父さんに比べたら伯父さんはトーーーってもやさしい話し方をする人よ。あの男前であれだけゆっくりと優しく話されれば、皆ホロッと行くんじゃないかしら」と言っていたという。
そして、Suziさんによると出口の飲み方はこんなだったらしい。
「伯父は酒の飲み方も不味そうに飲むんですよ。本当に不味そうに飲む。口に持っていくまでは良いんです。口に含んで飲むときです。喉を通しグビッと飲むときに、ニガイ、苦い薬を飲むときのように、口をへの字にして、嫌々ながら飲むようにして飲むんです。『あんな嫌そうに飲むくせに、何時まで経っても飲んでやがる』って、父が笑ってよく言っていました。」
晩年の出口を知る者が一様に語るのは、彼が酒を飲んで泣くようになったことだ。
これは、川戸貞吉編『対談落語芸談2』から。
川戸「文楽師匠が亡くなってから、いろんな人がガックリきましたね。」
談志「そうでしょ。」
川戸「まず出口一雄さん。」
談志「TBSのね。」
川戸「TBSの落語番組を牛耳ってた大先輩。出口さんはお酒飲んで泣くようんなっちゃった。」
円蔵「いや、事務所が赤字ンなってきたからだよ。」
円楽「あはははは。」
円蔵「本当に黒門町ファンだったものね、出口さんは。」
円楽「そうなの、芸に惚れてたからね。」
Suziさんもこう言っている。(ブログ記事『出口一雄と安藤鶴夫』より)
「伯父は落語家に沿った商売をして、その時その時の人と人との心の通じあいがあればそれで良い。そういう人でした。年とともにそれが増して行き、酔いがまわってツーツーに腹が通うとしんみりし、ホロリとするときも多くなりました。 昔話をしていてイロイロ思い出したり懐かしい話になるとそれもホロリ、でした。 父が『兄貴も涙もろくなったなあ』とよく言っていたものです。文楽さんの亡き後は、黒門町、って言葉が出たらもう泣き、そんなでしたね。ガクーーッと来ていました。」
それほどまでに黒門町桂文楽は、出口一雄にとって大きな存在だったのだな。
京須の『鬼の眼に涙』の中で、こんな場面がある。
CBSソニーから出た、桂文楽全集の制作時、収録演目について、監修者の山本益博と出口との間に意見の対立があり(山本が、文楽の珍品ではあるが失敗作を全集に入れようとして、出口がそれに待ったをかけたのだ)、この全集を企画した市橋茂満と京須を交え会談をした。
出口が例によって茶碗酒を勧めると、山本が断った。もともと酒が飲めないのだという。
出口はそれを聞いて、「そうかい」と低く呟いた後、山本を見据えてこう言った。
「酒が飲めなくて、桂文楽が好きかい」
無茶な理屈だが、しびれる。いや、きっと理屈じゃないんだ。
出口さん、私は酒も飲むし桂文楽が大好きです。もしもタイムマシーンがあったら、あの頃の新富町へ行って出口さんと酒を酌み交わしたい。
今宵は剣菱を飲みながら、黒門町の噺を聴こうかなあ。…出口さん、一緒に聴いてくれますよね。
2015年8月4日火曜日
猛暑日の炎天下、おれは歩く ②
昨日の続き。
インドールはカレーの専門店。かれこれ30年以上、この地で頑張っている。
当時の店があらかたなくなっているので、遊園に来たらなるべくこの店を訪れるようにしている。
生ビールを飲み、インドールカレーを食べ、コーヒーを飲む。
大分元気が出てきた。もうひと頑張り、小田急線に乗って、途中下車しながら、新宿に向かおう。
まず最初に降りたのが、和泉多摩川。多摩川を渡って、東京都に入る最初の駅だ。
ここは学生時代、何度となく降りた。桂小文治さん、弥っ太君、牛丼君といった面々が歴代住んだアパートが、この近くにあったのである。
まずは、多摩川の土手に出てみる。私はここからの風景が好きだった。多摩川を挟んだ、登戸の街並み。その向こうに多摩丘陵。大学の3号館が見え、向ヶ丘遊園の大観覧車が見えた。
3号館は震災の被害に遭って取り壊され、そのずっと前に遊園はつぶれて大観覧車はなくなっていた。
それでも川の眺めはいいもんだ。
そして、いよいよ小文治さんたちのアパートに向かう。道を忘れていないか不安だったが、歩いているうちに記憶がよみがえる。
小文治さんと小柳さんがバイトしていた大龍というラーメン屋があった所は、今は焼肉屋になっていた。そこを曲がって畑の脇を通る。あった、あった、ありました。建て替えられているけど、確かにこれだ。(写真は大福さんのブログ参照)
そこから、狛江駅の方へと歩みを進める。すぐ近くに、よくワンカップを買った酒屋を発見。自分の記憶力の確かさを、密かに自画自賛する。
狛江の駅前をちょっとうろつき、電車に乗る。
この辺で身体は「きついよ」と言い始めた。ところが、私もアホだ。次の喜多見で降りてしまう。
ここは高山T君のアパートがあった所。伊藤比呂美の詩の舞台でもある。
商店街を歩いてみるが、特に見所はない。ただ、この無個性な所が、またよかったりするのだ。
喜多見の駅から各停に乗る。トータルでもう3時間以上歩いた。どうする、祖師ヶ谷大蔵は、経堂は、頭の方はしきりに囁くが、身体は断固却下。そのままぼんやりと新宿まで行ってしまう。
新宿に着いたのが午後3時。夜席が始まるまで2時間。もう街歩きをする気にもならない。じゃ、飲んじゃおうか。思い出横丁へ行けば、この時間でも飲めるだろう。
というわけで、西口へ出て足は思い出横丁へ。
ちょっと目の合ったお姉さんの店へふらふらと入って、煮込みをつまみにビールに冷や酒。1時間半ぐらいぐだぐだして、池袋へと向かうのでありました。
寄席のレポートは後日いたします。今日はこれまで。
インドールはカレーの専門店。かれこれ30年以上、この地で頑張っている。
当時の店があらかたなくなっているので、遊園に来たらなるべくこの店を訪れるようにしている。
生ビールを飲み、インドールカレーを食べ、コーヒーを飲む。
大分元気が出てきた。もうひと頑張り、小田急線に乗って、途中下車しながら、新宿に向かおう。
まず最初に降りたのが、和泉多摩川。多摩川を渡って、東京都に入る最初の駅だ。
ここは学生時代、何度となく降りた。桂小文治さん、弥っ太君、牛丼君といった面々が歴代住んだアパートが、この近くにあったのである。
まずは、多摩川の土手に出てみる。私はここからの風景が好きだった。多摩川を挟んだ、登戸の街並み。その向こうに多摩丘陵。大学の3号館が見え、向ヶ丘遊園の大観覧車が見えた。
3号館は震災の被害に遭って取り壊され、そのずっと前に遊園はつぶれて大観覧車はなくなっていた。
それでも川の眺めはいいもんだ。
貸ボート屋が営業中。暑くて客はいなさそう。
この辺のホテル、30年前は温泉マークのネオンだったと思う。
そして、いよいよ小文治さんたちのアパートに向かう。道を忘れていないか不安だったが、歩いているうちに記憶がよみがえる。
小文治さんと小柳さんがバイトしていた大龍というラーメン屋があった所は、今は焼肉屋になっていた。そこを曲がって畑の脇を通る。あった、あった、ありました。建て替えられているけど、確かにこれだ。(写真は大福さんのブログ参照)
そこから、狛江駅の方へと歩みを進める。すぐ近くに、よくワンカップを買った酒屋を発見。自分の記憶力の確かさを、密かに自画自賛する。
昔はここにワンカップの自販機があったのだ。
狛江の駅前をちょっとうろつき、電車に乗る。
この辺で身体は「きついよ」と言い始めた。ところが、私もアホだ。次の喜多見で降りてしまう。
ここは高山T君のアパートがあった所。伊藤比呂美の詩の舞台でもある。
商店街を歩いてみるが、特に見所はない。ただ、この無個性な所が、またよかったりするのだ。
喜多見の駅も立派になっちゃって、まあ。
喜多見の駅から各停に乗る。トータルでもう3時間以上歩いた。どうする、祖師ヶ谷大蔵は、経堂は、頭の方はしきりに囁くが、身体は断固却下。そのままぼんやりと新宿まで行ってしまう。
新宿に着いたのが午後3時。夜席が始まるまで2時間。もう街歩きをする気にもならない。じゃ、飲んじゃおうか。思い出横丁へ行けば、この時間でも飲めるだろう。
というわけで、西口へ出て足は思い出横丁へ。
ちょっと目の合ったお姉さんの店へふらふらと入って、煮込みをつまみにビールに冷や酒。1時間半ぐらいぐだぐだして、池袋へと向かうのでありました。
寄席のレポートは後日いたします。今日はこれまで。
2015年8月3日月曜日
猛暑日の炎天下、おれは歩く ①
昨日は、妻がママ友とお互いの子どもを連れて出掛けた。
私には「お父さんは寄席にでも行ってらっしゃいよ」と言ってくれたので、こっちはこっちでありがたく出掛けることにする。
検討した結果、寄席は池袋の夜席にした。昼の小三治にも心は動いたが、日曜日だし混みようもハンパないと思ったのだ。
だったら、ちょっとばかり足を延ばして大学の辺りを歩いてみよう。余裕があれば小田急線途中下車の旅も面白いぞ。
8時の常磐線で品川まで。川崎に着いたのが10時前。いつものように西口から、住んでいたアパートのあった路地を見て、南武線尻手駅まで歩く。
住んでいたアパートは今はない。三階建の、小洒落た名前の付いた賃貸マンションになっている。
それでも、路地の佇まいは当時のままだ。一生楽さんから貰ったアーミージャケットをはおり、遊園のダイエーで買った帽子を被った私がうつむいて歩く姿が見える。
3年前歩いた時とは近所の様子も変わっていた。昔あった店や建物がけっこうなくなっている。しょうがないよな、あれから30年以上経っているんだし。
と、少しばかり感傷的になっていたのだが、当時通っていた銭湯が、ほぼそのままの形で残っていた。これは嬉しかったなあ。
それから、尻手から南武線に乗って登戸まで。登戸から向ヶ丘遊園まで歩く。
この時点で11時30分。インドールで早めの昼食を、と思ったが、まだ準備中。よし、それじゃあ大学まで行ってみよう、と山の上に向かう。
頭上から太陽が、椎名誠ふうに言えば、「むはははははは」と言った感じて照りつける。身体の方はしきりに「やめようよ」と言うのだが、頭の方が「ここまで来てもったいない」と言うことを聞かない。暑さのせいでおかしくなっていたのだ。
途中、天神社の石段を上がってお参りをし、部室見たらいいやと思いながら、正門まで行ってしまった。たまたまオープンキャンパスをやっていたけど、大丈夫か、山の上大学(仮名)、この坂道を登らせて志願者は逃げないか。
ここまでやれば十分だ、と坂道を下りにかかる。膝が笑う。足がつってくる。いかん、このままいくと熱中症だ。
やっとの思いでインドールにたどり着く。
で、まず頼んだのがこれ。
今日はここまで。次回に続きます。
私には「お父さんは寄席にでも行ってらっしゃいよ」と言ってくれたので、こっちはこっちでありがたく出掛けることにする。
検討した結果、寄席は池袋の夜席にした。昼の小三治にも心は動いたが、日曜日だし混みようもハンパないと思ったのだ。
だったら、ちょっとばかり足を延ばして大学の辺りを歩いてみよう。余裕があれば小田急線途中下車の旅も面白いぞ。
8時の常磐線で品川まで。川崎に着いたのが10時前。いつものように西口から、住んでいたアパートのあった路地を見て、南武線尻手駅まで歩く。
住んでいたアパートは今はない。三階建の、小洒落た名前の付いた賃貸マンションになっている。
それでも、路地の佇まいは当時のままだ。一生楽さんから貰ったアーミージャケットをはおり、遊園のダイエーで買った帽子を被った私がうつむいて歩く姿が見える。
この路地のちょっと先にアパートがあった。
3年前歩いた時とは近所の様子も変わっていた。昔あった店や建物がけっこうなくなっている。しょうがないよな、あれから30年以上経っているんだし。
と、少しばかり感傷的になっていたのだが、当時通っていた銭湯が、ほぼそのままの形で残っていた。これは嬉しかったなあ。
これが、あの友川かずきと同じ湯船につかった銭湯である。
それから、尻手から南武線に乗って登戸まで。登戸から向ヶ丘遊園まで歩く。
この時点で11時30分。インドールで早めの昼食を、と思ったが、まだ準備中。よし、それじゃあ大学まで行ってみよう、と山の上に向かう。
頭上から太陽が、椎名誠ふうに言えば、「むはははははは」と言った感じて照りつける。身体の方はしきりに「やめようよ」と言うのだが、頭の方が「ここまで来てもったいない」と言うことを聞かない。暑さのせいでおかしくなっていたのだ。
途中、天神社の石段を上がってお参りをし、部室見たらいいやと思いながら、正門まで行ってしまった。たまたまオープンキャンパスをやっていたけど、大丈夫か、山の上大学(仮名)、この坂道を登らせて志願者は逃げないか。
天神社から通学路を望む。
やっとたどり着いた部室。
正門まで行っちゃった。
オープンキャンパスをやってました。
やっとの思いでインドールにたどり着く。
で、まず頼んだのがこれ。
やっと息を吹きかえしましたよ。
今日はここまで。次回に続きます。
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