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2015年9月30日水曜日

楼外楼でランチ


今日はお休み。妻と二人でランチを食べる。
つくばの楼外楼。
この店も古いよねえ。20年以上はやってるよね。
店の入り口、レジの向かい側には、シェフが「料理の鉄人」に出演したとおぼしき写真が飾ってある。
私は「豚煮たっぷり麺」に半炒飯をつける。妻は好物の「上海風焼きそば」。加えて、サラダと麻婆豆腐が食べ放題。デザートに杏仁豆腐が付く。
最近はイオンのフードコートにも出店してるけど、やっぱ店で食べる方が旨いや。
もうお腹いっぱいいただきました。
また、ここはお茶が美味しいの。今日はシナモンティーでした。
二人だけのランチは久し振り。
のんびりできてよかったね。

では、私が食べた「豚煮たっぷり麺」をアップで。


今日のつくばは、さわやかな秋晴れ。気持ちよかった。





2015年9月27日日曜日

続 文楽と出口②

文楽が出口の家にやって来た時の思い出話をSuziさんがしてくれた。以下に記す。
                      *     *
新宿の牛込だったかのアパートに伯父にアイススケートの靴買ってもらいたくって行ったんです。訪ねていったときにお会いしました。
何か欲しいと平気で「買ってよーー」って言うので、伯父にこう言われました。
「お前が言ってくるのはいいんだが、お前はいつも高ェ物ばっかりねだりやがる。この間はスキーだ、今度はアイススケート靴。それもホッケーシューズだと?! 俺は戦争中朝鮮で滑ってるから少しは面白ェのは解るけど・・・、オッ!これは弟の娘でして、跳ねっかえりでしてねえ・・・」と紹介されたんです。
「元気が良さそうですなあ」と答えた黒門町に、「こんちわ」ぺこりと頭下げた私。そうやってお会いしました。
どういう訳か文楽さんは最初っから私を可愛がってくださり、「ウン、元気が良い子はいいよ」と言ってくださいました。
何だかんだと、これもおかしなことから落語の話かなんかを、生意気にも黒門町とし出して・・・、伯父が「お前なあ・・・」と制止するのですが、私には文楽さんも偉いサンも同じ伯父のところにたまたま居る師匠、って感覚で(ま、そういう一切お構いナシの子でしたが・・)、それが師匠に受けたのかもしれません。
私はこういう子だったおかげで(?)円生さん、金馬さん、志ん生、皆かわいがって呉れました。伯父もハラハラしながらですがそのうち放っておいてくれるようになり・・・でした。 
黒門町は背の高い人ではなく、もうその当時すでにおじいちゃんのお年でしたが(私から見て、だって中学生か高校生ですから)、眉毛が長くて・・・それが最初のウヘッ!?って印象。物静かな方で、ちょっと他の落語家さんとは違い、インテリジェンスがありそう!っていう印象でもありました。それにとってもシックなグリーンのブレザーかなんか着て、カッコよかった、モダンな上品なおじいちゃんに見えました。そうそう確かにTBSのバッジが襟にとめてありましたよ。
そして話していくうちに・・・師匠の甘納豆のあの調子が大好き!!って興奮して言ったんです。
そうしたら、「お嬢ちゃん、あれもね、いろいろやり方があるんだよ」と黒門町が応じてくれたので、私は「ヘェーー???」って言ったんです。
「小粒のね、小豆があるでしょ、あれはね小さいでしょ、だからこう手の先に持ってね、チョチョッと、早く小刻みに口に放り込むのよ」
「へエーー、やっていいですか?」
「どうぞ、どうぞ」ってんで、私がシュシュッと食べる真似した。
すると、「上手い!上手いよ!」って褒めるんですよ。 「すみません」 「いやホントだよ、お嬢チャン、男だったらいいのになあ」ってマジで言ったんです。
伯父はあきれて、ビックリして見てました。 そしたら又続けて「大きい豆があるでしょ、あれはね大きいから沢山持てないし一個かせいぜい食べたって2個、だからチョッとゆっくりと口に運ぶの。時にはじっくり噛むじゃないですか、だからこうなんだよ」って又教えてくれた。
私もすぐに真似た。何しろ子供の時から人の癖を真似るのが得意な子で、ま、言うなれば私は太鼓持ち的な子供でしたから・・・すぐやった。
「上手い!すごいなあ、オセイジじゃない。惜しいなあ女の子で」 (当時女で落語家になろうなんて子は居ませんよ)そんなエピソードがあります。
伯父は文楽さんが帰って行った後、少し驚いて私に言ったんです。
「お前なあ、黒門町があんなことするってのは、後にも先にも俺は初めて見たぞ。驚いたよ」 私はただ「フーーーン」てな感じでした。
父にも帰宅後話したら父も、「お前ってヤツは・・・」ってビックリしてました。
きっと今頃あの辺の斜め上の方から、「又おいで、」って言ってくれるような気がします。そうしたら今じゃ《天上女子落語会》だって出来るでしょう。会長にでも納まろう!って夢見るのも悪くないですね。今度はおつまみだってなんだって出してあげられるし(私は写真の次にか、同等くらいに好きなのが料理、なんでス) だってものすごく物静かに教えて下さって、って印象なんですよ。
             *      *
無邪気な若い娘さんに相好を崩す文楽師匠。それが生き生きと描かれている。それにしても羨ましい体験だなあ。
Suziさんは志ん生、圓生、先代金馬にも可愛がられたという。彼女の、彼ら「昭和の名人」についての感想も聞いてみた。寸評は次の通り。 

「志ん生さんは、いつも酔っ払ってて、長屋の熊さんのお父っつあんみたいな人。小柄ででころころしてた。(でも太っているというのとは違います。どういったらいいんでしょうか?ポッチャリ型、です。貌から来る印象が今そんな風な記憶になっているのかもしれません。)時には高座で話し忘れちゃって・・・、今何話していましたっけ?なんてお客に聞いたりして・・・それが又受ける人でしたね。むちゃくちゃだけど憎めない、子供みたいなところがあって。何やらかしてもみんなが許しちゃう、そんな人。奥さんが兎に角偉かった。伯父もあんな良い内儀さんはいない。志ん朝、馬生があんなによく育ったのも内儀さんのおかげ、っていつも言ってました。
円生さんは、粋な感じで背が高く色男。女性に人気があったんじゃないでしょうか。でも細かくってケチなところが一杯在る。だから金持ち。式服用の靴はコードバン履いてました。高座でもいつも話しながら襟をしょっちゅう直しているくらい神経質な人、という印象です。 
金馬さんは、出っ歯の金馬とも口の悪い人は言いました。こまっしゃくれた子供の出てくる落語をやらせたら天下一品でしたね。
小さんさんは、(がっちりした体つきでした)。剣道好きで自宅に道場があった。おかみさんも強くて。実際にバンバン手を出してけんかしちゃうくらいな人。でも夫婦仲は兎に角円満でした。」 

文楽・志ん生・圓生・金馬・小さんなんてところが、始終出入りしている環境なんて、想像もできないなあ。
出口一雄という人は、彼ら昭和の名人たちと堂々と渡り合い、信頼を勝ち得ていたんだな。その大きさに改めて感じ入る。

2015年9月26日土曜日

続 文楽と出口①

出口一雄シリーズは「文楽と出口」という記事から始まった。
この記事を書いたのがきっかけで、出口の姪、Suziさんとお知り合いになれた。おかげで、出口一雄について色々なことを知ることができ、今のこのシリーズがある。
あの記事を書いて数年が経つ。新たに分かったことも多い。この辺でもう一度、出口と黒門町八代目桂文楽について書いてみたいと思う。 

そもそも、文楽と出口の出会いはどのようなものであったのだろうか。
文楽の弟子、柳家小満んは著書『べけんや』の中で、こんな風に書いている。 

「出口一雄さんはレコード会社にいる頃は志ん生師匠と大変に親しかったようだ。その頃の志ん生は、次々と新作、改作のような落語を持ちこんではレコード(SPレコード、両面十数分)に吹きこんでいったそうで、『女給の文』『夕立勘五郎』『電車風景』等々、後世にも残る名作、珍作もあった。
  そんな志ん生師匠と出口一雄さんとの縁から、落語家五人によるラジオ東京との専属契約となったが、当の志ん生師匠は、契約早々他局へ出演してしまい、 『専属てえのは不便だねえ……』 と云いながら、さらにニッポン放送へと専属替えをしてしまったのである。」 

これを読むと、出口は、レコード会社時代親交のあった志ん生を介し、文楽・圓生・小さん・桃太郎と専属契約を結んだことになる。ということは、文楽との本格的な関わりは、この時期に始まったと言っていいだろう。
しかし、この人選については出口の意向が大きく反映していると思う。あくまで、志ん生を含め、この5人を選んだのは出口一雄なのだ。 

出口が文楽の芸に惚れていたというのは、誰もが認めることである。
文楽が、翁家馬之助で真打に昇進したのが大正6年(1917年)、出口10歳の時、八代目桂文楽襲名が大正9年(1920年)、出口が13歳の時である。出口の家は裕福な商家、芸事には恵まれた環境だ。芝居や寄席等は、なじみの深い場所だったに違いない。加えて出口は15歳の頃から花柳界に親しむほどの早熟ぶりを発揮していた。
その時期に、文楽は睦の四天王として大いに売れ、「馬之助の情婦になるとケツの毛まで抜かれる」と噂されるほどの色男だった。
出口少年の憧れの存在であったとしても不思議はない。
そして、出口がポリドールの社員時代、志ん生と交流のあった頃(昭和10年頃か)、文楽と志ん生は同じ睦会の高座に出ていた。志ん生を通じて文楽と知り合ったのが、実際にはこの時期なのではないか、と私は見ている。TBS専属以前から、出口は文楽との仕事を切望していたように、私には思えてならないのだ。 

いずれにせよ、TBSで出口は文楽のプロデュースを始める。それは、三遊亭圓楽が『落語芸談2』(川戸貞吉編)の中で語ったように、文楽の芸の特質を知ったうえでの、きめ細やかに行き届いたものだった。以前記事にしたものだが、それを再録してみよう。

「まず出口さんというもっとも桂文楽を愛していた人を番頭さんにしたということね。これァもう番頭さんというよりブレーンですね。
それからTBSの専属だったということ。それがためにあの文楽師匠は、時間の制約がなく、気ままに出来たっていうことがあるでしょ、あの師匠に限っては。 おそらくねェ、どのネタでも、文楽師匠のはぴったり28分なんて、30分番組に寸法通りの噺はないですよ。みんな23分であったりね、21分であったり。20分デコボコが多いんですよ。そうすとね、あとどうするかというと、対談やなにやらで埋めて、そうして大事に使われたということですね。
そして季節感のある噺が多かったもんですから、夏ンなると『船徳』、『酢豆腐』、ね?冬ンなるとなにッていうふうに、ピシャアッと頭ンなかで全部出口さんが計算して、出してましたね。したがって、飽きも飽かれもしなかったということね。」

その中で、出口自身、文楽の芸に感動し、いっそう傾倒していく。専属契約を結んだ昭和20年代後半といえば、正に桂文楽の全盛期。ものすごい迫力だったと、当時を知る人は口を揃える。出口は文楽の芸についてしばしば感嘆の念をにじませてこう言ったという。「何しろ同じ噺は1分と違わないんだ」
そしてまた、文楽も出口に全幅の信頼を置く。後年、専属制度が有名無実化する中で、文楽だけが頑なにTBSにしか出演しなかった。洋装を好んだ文楽は、背広の襟に常にTBSの社員証を付け、TBSを「うちの会社」と言ったという。

出口の文楽に対する目がいかに行き届いたものだったかを示すエピソードが、やはり『落語芸談2』の中にあるので、引用してみる。(文中の「川戸」は元TBSプロデューサーの川戸貞吉、「西野入」は文楽の主治医だった西野入尚一である。) 

川戸「黒門町もこよなくご婦人を愛しまして、奥さんに先立たれたあとは、色んな話がありました。」
 西野入「そうそう。」
川戸「またそれをうれしそうにしゃべるんだ。『君ィ知ってんのかい、あれを?』なんて。出口さんがね、怒ってた。『ご婦人と接した翌日は、ガタガタだ』って。」
西野入「ああそう。」
川戸「『接しなきゃいいのに』って、怒ってましたよ。」
西野入「ボクは『接して漏らさずでいきァいい』っていってたの。だから、漏らしてはいないんじゃァないかな。」

出口さん、そこまで黒門町のコンディションを把握してたのか、って感じですな。
出口は文楽を公私にわたって献身的に支えた。TBS退社後、デグチプロを設立したのも、文楽が出口を頼りにしていたから、というのが大きかったのだろうと思う。
文楽の弟子がしくじった時も、出口が間に入るのが常だったらしい。
まさに文楽と出口一雄は家族同様の絆で結ばれていたのだ。

スーツ姿の出口一雄(後列向かって右)
一雄は立教大学卒業後、ポリドールレコードに入社。
落語レコードの制作に関わる。
そこで古今亭志ん生と親交を深めた。
志ん生は一雄の17歳年上。それでも、弟利雄(後列向かって左)とともに飲み仲間だった。
写真提供はSuziさんである。

2015年9月23日水曜日

息子と見つけた小さい秋

先日、長男が勉強をしている間、暇を持て余していた次男を連れて、家の周りを歩いた。
デジカメをぶら下げ、秋を見つけに行ったのだ。
庭のこぶしが実をつけているのを見つけ、畑のコスモスをカメラに収め、今が盛りの曼珠沙華を眺めた。
栗畑に栗がたくさん落ちているのを見て、次男の栗拾いスイッチが入った。
家に戻ってゴム手袋をはめ、長靴を履いて出撃。ビニール袋いっぱいに栗を拾う。
拾った栗は、妻がすぐに茹でた。ほくほくして旨い。
もっとも甘いものを好まない次男は、一つ食べただけだったけど。

では、次男と見つけた「小さい秋」です。







ふと思い出す、中国の昔話。

昔、サルをたくさん飼っている男がいた。家族の分の食事を減らしてまでサルの面倒を見ていたが、生活が苦しくなり、いよいよサルの餌を制限せざるを得なくなった。
しかし彼は、サルの機嫌を損ねるのが嫌で、まず、こんな提案をした。「お前たちに、朝3つ晩に4つのどんぐりをやろう」
それを聞いてサルたちが怒ると、すかさず彼は言った。「では朝4つ晩に3つにしよう」
サルたちは喜んでその提案を受け入れた。

言うまでもなく、目先のことに気を取られて一喜一憂するサルの愚かさを主題とした話である。

これからは経済政策をばんばんやるだろう。
「来年の選挙の頃には、『そんなこともあったよね』だ」と言っている人もいるという。

……でも、我々はサルじゃないんだぜ。たぶん。

2015年9月21日月曜日

秋の土浦散歩


先日、土浦に佃煮を買いに行った。せっかくなので、1時間ぐらいぶらぶらする。
土浦を歩くのは久し振り。秋空の下、気持ちよく散歩できました。

まずはモール505から、武蔵屋の交差点に出る。

モール505。土曜の昼下がり。

うっすらと武蔵屋の文字。

武蔵屋を裏から。

この看板絵がたまんない。

美しい造形だねえ。

店構えはこんな感じ。

NTTの前から裏道に入る。街歩きは裏道を歩かなきゃ。

そうは見えないが、写真屋さん。
営業はしていないのかな。

幸福稲荷。いい名前です。

風情のある通りでしょ。


お店を裏側から見るのも面白い。

私の好きな中城通りへ向かいます。

中城通りの入り口にある、ほたて食堂。
車の手前に見えるのが、この辺りを流れていた川に懸っていた橋の名残り。

中城通りといえば、吾妻庵総本店。

その後、桜町をちょっとだけ。



こちらは鰹節屋さん。

店先にごろっと鰹節が置いてある。

それから、駅前通りに戻って、「こまつや」さんで美味しい佃煮を買いました。

2015年9月16日水曜日

柴沼醤油


土浦市、柴沼醤油。
醤油の俗称を「むらさき」というが、紫峰筑波の麓で醤油の醸造が盛んだったことが、その語源のひとつとされている。
その中の醸造元で、いちばんの老舗がここ。主要商品はその名もずばり「紫峰」である。
外まで大豆を煮る匂いと醤油の匂いがしてくる。いい匂いだな。昔、村内を通る国道沿いに、おかめ納豆の工場があって、いつも大豆を煮る匂いがしていたのを思い出す。

こちらは、いかにも老舗といった風情。

1688年創業。
紋は亀甲に正の字が入る。これは土浦城が亀城と呼ばれたことに由来する。
醤油醸造元に亀甲印が多いのは、ここが元祖とのこと。
(アド街情報です)


古い醤油樽が無造作に転がっておりました。

前の山に隠れてちょっとしか見えないけれど、紫峰筑波です。

2015年9月14日月曜日

町角の神様

この頃、散歩の中、神社や祠などに目が行くようになった。
立ち止まっては手を合わせる。
我々の日々の営みを、そっと見守っている神様がいてくださる。それがありがたい。

では、まず川崎市多摩区升形の天神社。大学へ続く坂の途中にある、この辺りの鎮守様。



映画『転校生』に出てきそうな石段です。


川崎市幸区、学生時代のアパートがあった路地を抜けると、お稲荷様がありました。


こちらは和泉多摩川商店街にあったお稲荷様。

狛江の畑の側にあったお稲荷様。
お稲荷様は商売、農業の神様。だから、商店街にも畑にもあるのだ。

木の根元に小さな石仏が立つ。

2015年9月9日水曜日

和泉多摩川から狛江へ

8月の炎天下、久し振りに和泉多摩川から狛江まで歩いた。
和泉多摩川は、小田急線で多摩川を渡って、東京都最初の駅。
私は学生時代、この駅に何度となく下りた。この辺りは私が最も足繁く通った所である。小文治さん、弥っ太君、牛丼君が歴代住んだアパートがあったからだ。
あんなに通ったのに、ほとんど覚えていない。でも、歩いているうちに記憶って蘇るんだよなあ。

では、あの猛暑日、ふらふらになりながら撮った写真を掲載します。

和泉多摩川駅前の商店街。

河原のグランド。
ここで落研で草野球をやったことがある。


畑がまだ残ってた。
この近くに、昔、バッティングセンターがあったなあ。

昔、よくワンカップを買った酒屋さんの塀にあったポスター。
ちょっと怖いけど、やってみようかなあ、という気にさせますな。

狛江に近づいてきました。

狛江駅近くの路地裏。
卒業後、ここでばったり、ゼミで一緒だった、ガラモンSさん(女性です)に会ったことがあります。

狛江の駅前。

よく見ると、窓辺に盆栽。シブいなあ。
看板のフォントも素敵。

この「立ち吞みや」の建物も古いよ。
営業してんのかねえ。

まあ、あんまり需要のない記事だとは思うけど、私にとってはけっこう大切な場所だったりするのですよ。