動機が勝った本だな、という感想をまず持った。
最近の落語評論に対する風当たりの強さに対して、「本来の落語評論家の使命は落語の今を伝えることで、落語をこれから聴く人に、面白い落語、聴いて損のない落語家の情報提供に徹するべきだ」という風潮に対して、異を唱えたかったのだろう。それと、立川談志原理主義の跋扈に対する違和感か。それらを筆者は厳しく批判する。
その上で、「役に立つ、立たない」といった狭い価値観に依るものではない、「何でも談志が正しい、家元マンセー」的なガキみたいな評論ではない、「自分で考え何かを導き出す」、「色んな形で落語を語ることを『是』とする」、「大人の落語評論」を、筆者は提唱する。
これは私の考えに近い。
筆者は1960年生まれ。はっきりとは書いていないが、日大芸術学部の落研にいたと思われる。私も彼と同じ時代の空気をたっぷりと吸った。芸の好みも近いものがある。だから、彼の語る落語論・落語家論はすんなりと肌になじむ。むしろ、その大筋に賛同を示したい。
特に立川談志を「名人」として認めた上で、きちっと批判している点は画期的だった。アンチでもない信者でもない視座からの談志論を試みたのは、大きな収穫だったと思う。(ただ、いささかとっ散らかった印象はあるな。談志を客観的に語るというのは、かくも困難なことなのだ。)
一方で不満も残る。
ひとつは談志原理主義者を批判しながら、その総本山、吉川潮に対しては「談志原理主義者を徹底的に実践し、立川流の顧問にまでなってしまえば、それは談志を極めたわけで、スゴいと思う」とし、日大芸術学部の後輩、立川志らくに対しては「弟子はいいんだよ」と、その切っ先が鈍る所だ。彼らは落語に関する著作も多く、立派な評論家と言ってもいい。いや実際に落語評論家として影響力を持っている。なのに「始末に悪いのは『談志がこう言っている』とか『家元の価値観とは違う』とか、談志の理論を伝家の宝刀だと思い込んで振り回しているバカな評論家がいることだ。どうして評論家のくせに談志原理主義者なんだ」と言っておきながら、舌の根も乾かぬうちに前述のようなフォローをするのは、ちょっと潔くないんじゃないか。
もうひとつは、批判の対象をはっきりさせないことである。古今亭志ん朝を論じている所で「志ん朝の死を『落語の終焉』と書いたバカな評論家もいたっけ」と言っているのは、小林信彦のことを指しているのだろう。前述の、筆者が批判している「本来の落語評論家の使命は落語の今を伝えることで、落語をこれから聴く人に、面白い落語、聴いて損のない落語家の情報提供に徹するべきだ」という主張は広瀬和生のものだ。筆者は「落語評論家にはどんな人がいるか」という項を立てて評論家の名前を挙げているが、広瀬和生の名前はそこにはない。堀井憲一郎を取り上げながら広瀬を外しているのだから、それはかなり意図的なものに違いない。
この頃、この出処をはっきりさせない批判というのが目立つような気がする。狭い世界の中で、事を荒立てることもあるまいという配慮からなのか、誹謗中傷とか営業妨害だとかで訴えられることを回避するためか、詳しいことは分からない。ただ、それではどうしても何か腰が据わらない感じがするし、客観性も保たれまい。かつて漫画家のいしかわじゅんは、同業者の柴門ふみに対し、敢然と「愚かだぞ、柴門ふみ」という批判文を書いた。それはいっそ清々しくさえあったぞ。
まあ、何にせよ好きな落語のことについて語るのは楽しい。それをどのように語っても、結局は「落語のためになるのだ」という道を示してくれたことはありがたい。勇気を貰えた本でありました。
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