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2018年3月20日火曜日

立川左談次を悼む

立川左談次の訃報を知る。19日21時20分、食道がんのため息を引き取ったという。67歳だった。
前回の記事で私は左談次について触れていた。投稿時間は19日21時31分。まさに彼の臨終の時間帯に、彼のことを思い出していたことになる。そう思うと感慨深い。

私は学生の頃、立川談志が池袋演芸場で主任をとる時には必ず観に行った。
小田急線で新宿に出て山手線に乗り換え、途中、高田の馬場の「ポルノ噴水」に目を遣りながら池袋まで行く。西口に出て、まずは吉野家の牛丼で腹ごしらえをし、テケツで入場券を買うと階段を上り、畳敷きの客席に座る。
私が行くのは前座が上がるちょっと前。その時間帯はまだがらがらで、好きな所に座ることができた。そんな時代だったのだ。(何年か前、柳家小三治が池袋演芸場で主任をとった時、開場1時間前から並んだけど、もはや立ち見。消防法に引っかかるんじゃないかと思うような超満員だった。)
当時、池袋演芸場は客が入らないことでは定評があった。そんな所で談志は自ら主任を務めて客を集め、若手に出演の機会を与えたのだった。
だから、出演者のほとんどは二つ目だった。真打では、春風亭一柳や川柳川柳、柳家小満んなどが出ていたな。私は二つ目時代の柳家さん喬の『棒鱈』を聴いて、巧いなあと思ったのを覚えている。
当然、談志門下もよく出ていた。立川談十郎(現土橋亭里う馬)、立川談生(現鈴々舎馬桜)、朝寝坊のらく(現立川ぜん馬)、立川小談志(故喜久亭寿楽)などはおなじみの面々だったし、もちろん左談次もその中にいた。
しかし残念ながら彼らの印象はほとんどない。私は当時、メモや日記、写真など記録に関することを一切しなかった。寄席の番組表などもすぐに捨てていた。記憶力には自信があったのだが、それでも忘れるものは忘れる。今さらながらに、もったいないなあと思います。
左談次に再会したのは上野広小路亭で、立川流一門会という興行だったか。まだ二つ目だった立川談生(現談笑)がトリで、快楽亭ブラックやモロ師岡なんかが出ていた。
前回の記事で書いた通り、左談次は『読書日記』で、こぶ平の『通になりたい』を俎上に上げてバカウケしていた。ちょっと斜に構えたような、クールな感じが、よかったなあ。
ブログを見つけて、しばらく読んでいたけど、こちらも飄々として面白かった。(『さだやんのほろ酔い日記』、今読んでみたけど、やっぱりいいな。昨年の秋に「落語家生活五十周年記念特別興行」を見事にやり遂げていたんだ。)
熱心なファンというわけではなかったし、結局、自分の思い出話しかできなかったけど、立川左談次師匠、好きでした。ご冥福をお祈り申し上げます。

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