新協会設立の失敗について、談志シンパの人たちは圓生の政治センスの欠如を批判する。代表的なものを挙げておこう。立川談志と評論家福田和也との対談集、『談志 名跡問答』から、圓生が次期会長に談志ではなく志ん朝を指名したことについての福田の見解である。
「でも、圓生師匠にしてみれば、自分の首を賭けた一世一代の大博打ですよね。志ん朝や圓楽がいたにせよ、人脈やアイディア、言い方が難しいけれども口八丁手八丁できるのは家元でしょう。落語協会や落語芸術協会に対抗して、圧倒していかなければならないこというときに、なんでまたそんな・・・。」
「悪く言えば、五年十年働かせて、三遊協会が安定したら潰す、という考え方もできたはずです。結局三遊協会は寄席から締め出されて、志ん朝も圓蔵も頭を下げて落語協会に戻ってしまった。散々ですよね。同時に、もし仮に三遊協会が存続したとして、初代会長はもちろん圓生。二代目を志ん朝にするか、談志にするか、それによって初代の存在感も全然違ってくる。そういう損得勘定が、なんで通らないのか。」
これに対しては、私見を述べたい。
まず福田はこの見解に先立って、「圓生師匠が落語協会を飛び出して三遊協会を作ったとき、家元をどかすという経緯がありましたよね。」と言っているが、これは事実誤認。談志は、圓生が後継者に志ん朝を指名したので、自ら飛び出したのだ。三遊協会の方から談志を切ったわけではない。圓丈の『御乱心』によると、三遊協会の中で談志の地位は圓生の直弟子である圓楽よりも上だったという。(もし分かってそう言っているのであれば、それは立派な「印象操作」である。)
そして、「悪く言えば、五年十年働かせて、三遊協会が安定したら潰す、という考え方もできたはず」と言うが、談志の方が自分の手腕を存分に発揮して志ん朝を無力化しリーダーから引きずりおろす、ということもできたはずである。
談志の行動を見れば、①圓生脱退の原因となる大量真打を提案、②圓生脱退に乗じて新協会設立に動き騒動を拡大させる、③自分が後継者でないと分かり逃走、とまさにマッチポンプ。節操なんか糞くらえ、なのだろうが、とても褒められたものではない。協会に戻りはしたが、柳家一門からも金原亭一門からも総スカンを食らった。(本人は“屁とも思わない”と言い張っているが、本心は分からない)
そもそも大量真打誕生の発案者が、それに憤って協会を出る者を担いで新協会を立ち上げるというのは理屈に合わないではないか。
それに、一般的に言って、頭は人望のある人格者、参謀は怜悧な実行者という組み合わせがバランスいい。(例えば新選組の近藤勇と土方歳三のように、薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通のように、である。)志ん朝が頭にいて皆の不満を吸収してくれることによって、談志は思う存分やりたいようにできる、ということもあるのではないか。圓生も、次世代のリーダーには峻烈な談志より円満な志ん朝の方が組織がまとまると判断したのかもしれない。
談志は『あなたも落語家になれる』の中で、「楽屋と世の噂では、あれは談志が自分で会長になろうとしたのだが、駄目だったのであの始末・・・、であった。まァ半分当たっているといわれても仕方あるまい。会長の椅子は、別に自分のために求めたわけではなかったが・・・」と言い、私心のないことを強調しているが、私心がなければ会長にならずともよかったわけであり、前述したように会長になることが100パーセント不可能だったわけでもないのである。 談志シンパが、三遊協会の失敗を圓生が談志を後継者に選ばなかったことにのみ帰結させようとするのは、ある意味、談志に対するおもねりのように私には聞こえてならないのだ。
『御乱心』の中で、歌麿は新協会設立へ向けた談志の行動を「このまま行けば、師匠が亡くなっても小三治がいるから小さんの名前は継げないし、落語協会の会長にもなれそうもない。そこで円生師匠の担ぎ出しを図ったということでしょう」と分析している。
そして、その後の動向についてはこう予測しているのである。
「協会を飛び出して師匠を裏切ることは、弟子にとってはなかなか決心の要ることです。しかし仮に今の段階で戻ったとしても柳家一門は全員このことを知っていますから、快く迎えませんよ。更に一層談志さんが浮くことになり、彼を支持し、従おうとする兄弟弟子は皆無となり、一門の中で発言権を全く失うことになりますョ。その辺で悩んでるんじゃないですか。(中略)
まァ、戻りたい気持が五割、新天地で活路を開きたい気持が五割で五分五分ですが、そこに失敗したらどうしようという不安が一割プラスされるから、四分六の割合で戻る可能性が強いんじゃないですかね」
談志が協会に戻ったことを知った圓丈は「本当に序列が不満で飛び出したのか、あるいは最初から戻りたくてウズウズしてて、序列にケチをつけて飛び出したのかは、本人に聞くしかない」と書いているが、仮に本人に聞いたとしても「序列が不満だった」としか言わないだろう。
後に談志は、自らの一門を引き連れて落語協会を脱退し、立川流を設立する。結局、談志は圓生と同じような形で、念願の「会長」(正確に言えば「家元」だが)の座を手にすることになるのである。(この項終わり)