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2018年4月24日火曜日

高山T君のレポート ~岐阜県明知鉄道極楽駅~

私の大学時代の友人、高山T君からメールが来た。
明知鉄道明知線の極楽駅へ行ったというレポートだ。
面白かったので、ここで紹介する。本文、写真とも高山T君によるものである。

   *  *  *

明知鉄道は、岐阜県の恵那から明智までをつなぐ、第3セクターの単線鉄道である。
特別列車を仕立てて、客を集めようとするが、沿線の名物が寒天やところてんと地味なため、苦戦している。列車の速度が遅く、遅刻寸前の高校生が飛び乗ったという伝説をもつ。
いつぞや「極楽」という駅を新設した。近くに極楽寺という寺があったのにちなんだらしい。「極楽」という駅は日本に一つしかない。



先日、近くまで来たので寄ってみた。むろん無人駅であるが「極楽」の文字にはインパクトがある。しかも、岩村や明智といった有人駅では「極楽行」の切符を販売している。ネーミングの勝利だ。
そして、駅の入口では三波春夫が待っている。そうきたかと驚く。


しかし本当の驚きと感銘は、3人ほどしか入れない小さな駅舎の中にあった。
そこには手作り感満載の等身大の観音像が鎮座していた。妙に体をくねらせており、その名も「OK観音様」…!いったい誰が作ったんだ?いったい誰が置かせたんだ?恐るべし明知鉄道!ここまでやるか。


この観音像を見るだけでも、極楽駅を訪れる価値がある。私も同じポーズで記念撮影をしたのは言うまでもない。

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私も極楽駅について、ちょっと調べてみた。
開業は2008年、地元スーパー、バローからの1080万円の寄付金によって建設されたという。
「観音様」は極楽寺にあやかって安置されたもの。この鉄道はキャラクターに力を入れているようで、明智駅には日本大正村公式キャラクター「大正ロマンちゃん」、山岡駅には地元名産の寒天をアピールする「寒天家族」、岩村駅には「岩村城女城主」、恵那駅には恵那市の公式キャラクター「エーナ」が設置されている。
これらは断熱材で作った「リアルかかし」。明知鉄道に依頼され、切山営農組合、愛知県立芸術大学の学生、恵那市立恵那北小学校の6年生が協力して作成した。明知鉄道の公式キャラクター「てつじぃ」5体も併せて作成され、前述の5駅に設置された。同鉄道では「楽しいかかしがお待ちしています。ぜひ撮影に来てください」と呼びかけている。(2017年11月8日、毎日新聞の記事より)
すげえな。T君、これはもう5駅制覇しないとね。
ああ私も行って写真撮りたいなあ。

2018年4月23日月曜日

暑い週末

土日、暦の上では晩春のはずなのだが、連日の夏日となった。
妻と次男がお出かけ。長男と石岡散歩と洒落込む。

まずは中町の駐車場に車を止め、総社宮へと向かって行く。





初夏の爽やかさは最早なく、しっかりと暑い。
途中、石岡小学校の敷地内にある「いしおか歴史館」に入る。長男はずいぶん丹念に見ていたな。

照光寺の刀傷。天狗党の乱の頃のもの。

常陸国分寺の復元模型。


総社宮は木陰で涼しかった。清浄な空間。



宮下を通って中町に戻り、「紫苑」でランチ。長男はピラフ、私はドライカレーを食べた。

アイスコーヒーを付けて750円。

ピリッとしたカレーにとろとろのオムレツが絡んで、旨し。



家の周りは今、新緑と色とりどりの花に包まれております。






2018年4月19日木曜日

大洗で出雲神話が再現されている

大洗磯前神社について、その由緒を原文で読んでみた。これが面白かったので、現代語訳してみる。

斉衡三年十二月、常陸の国鹿島郡大洗磯崎の地に、新たに神が降り立つ。ある夜半、塩焼きの翁が海を望むと、突然天から光が降り注いだ。明くる日、二つの怪石が海辺にあった。石の高さは各々一尺ばかり。とても普通のものとは思われない。塩焼きの翁はひそかにこれを怪しんだ。一日おいて、今度は二十余りの石が、二つの怪石の周りに、まるで侍座しているかのようにあった。怪石の色は尋常ではなく、僧のような形をしていたが、耳目はなかった。ある時、神が人に憑りついて言う、「私は大奈母知(大穴持、またの名は大国主命)、少比古奈命(少彦名命)である。昔、この国を造り、終えて東海へ行く。今、民を救わんがため、また帰って来たのだ」と。

その大国主命と少彦名命が石となって降臨した所に、現在「神磯の鳥居」が立っている。


大国主命と少彦名命といえば、出雲の神様。国譲りを迫った武甕槌命の御膝元である常陸の国に、どうしてやって来たのだろう。
大洗磯前神社の祭事に、興味深いものがあったので紹介しておく。
今は行われていないが「網掛祭」というのがあった。これは旧暦の8月1日、大国主命が祭神である網掛(茨城町、涸沼の畔)と武甕槌命が祭神の宮ヶ崎(茨城町)の神職が鉾と盾を奉じ、早馬で神事に参加するというものである。
もう一つは現在でも行われている「有賀祭」。武甕槌命が祭神の有賀神社(水戸市内原)から、11月11日(もとは9月25日)の早朝、牛車で(さすがに現在はトラックのようだが)大鉾を奉じた行列が大洗に向かい、米・柚子・里芋などを神殿にお供えして神事を行う。そして大洗からは鯛や鰯などの魚類を贈答されるという。
これらはまさしく「出雲神話の再現」であろう。出雲から遠く離れたこの地で、大国主命と武甕槌命が、今日に至るまで「国譲り」の神事を繰り返し行っていたのだ。すごいことだと思う。

平安時代の延喜式では、「常陸二十八座」の中に、鹿島神宮と並んで「大洗磯前薬師菩薩明神社」という名前で載っている。その後、度重なる戦乱で荒廃していたが、江戸時代、水戸藩二代藩主徳川光圀によって復興され、随神門、拝殿、本殿が三代藩主綱條の時代(1730年頃)に完成した。

随神門。

拝殿。

本殿は見事な茅葺。

背後から。神々しい。

江戸時代は下の鳥居前に茶屋が建ち、参詣客で賑わったと言うが、それが現在の旅館街になったのだろうな。
上からの眺めはまさに絶景である。





2018年4月14日土曜日

備忘録

朝、御飯、味噌汁、納豆、スクランブルエッグ、ウィンナー。
朝ドラ「半分青い」を妻と見る。その中の原田知世の台詞(正確ではないが)、「私って、これからいい話するよって顔するんだって。それがいかにも説教くさいんだって」。そういえば、S君に「説教くさい」と言われたことがあったっけ。肝に銘じておこう。「備忘録」として書いておく。「記憶」より「記録」の方が確かだもんな。
長男のピアノの送迎。合間に高浜を少しだけ歩く。高浜神社にお参り。

本殿。最近、屋根を葺き替えた。

拝殿。こちらも茅葺屋根が美しい。

御手洗池には鯉が泳ぐ。

三猿が彫られております。

力石。力自慢が担ぎ上げたのでしょうか。

県道沿いにあるとは思えない神寂びた雰囲気。
30分の散歩は慌ただしかったが、陽射しが出て、いい気分だったよ。

八重桜、芝桜が満開。

白菊酒造の土蔵。

昼はインスタントの味噌ラーメン。
午後は次男の授業参観。
帰って、『小泉八雲集』を読む。不思議な哀しい物語。中世日本の怪異譚を翻訳で読むというのも面白い。
夕食は、チンジャオロース、ししゃも、煮物で燗酒。食後にジョニーウォーカー赤ラベル。夜、雨が降り出す。

先週は次男と近所をサイクリング。その時の写真も載せておく。

新緑。もはや初夏の装い。

文化年間のもの。

霞ケ浦の堤防に出る。菜の花がきれいでした。


ドストエフスキー『悪霊』を再読。怒涛の面白さ。

2018年4月12日木曜日

一人酒が好き

散歩のシメに、ふらっと飲み屋に入り、カウンターに座って一人で飲むのが好きになった。
好きな者同士、わいわいがやがやするのも楽しいし、飲みながら普段はしない深い話をするのはいいもんだ。
でも、ぼんやりとテレビを眺めながら一人杯を傾けつつ、他の客の喋っているのも聞くとはなしに聞いているというも、これはこれで味わいがある。(まあ思惑が働く飲み会に飽きた、ということもあるのだが・・・。)
こういう時、名店である必要はない。ゆるい普通の居酒屋か、普通の食堂あたりがいい。ただ、やたらマニュアル通りの、やたら元気のいい、チェーンの居酒屋などは御免こうむる。
チェーン店で許せるのは、何度か言っているが、「養老乃瀧」だな。自由になりたくて飲むのだ。店も自由度が高い方がいい。
というわけで、ちょっと前、上野で飲んだ時の写真です。

「男は黙ってサッポロビール」
スーパードライしか飲まないという人もいるけどねえ。

お通しは、カニカマのマヨネーズあえ。

だいたい焼き鳥は、ネギ間と皮を注文することが多い。
白モツがあれば必ず頼む。

辛味噌付けてビールをぐいっ、たまりませんな。

山かけときたら、燗酒。

刺身よりこっちの方がはずれがない。

1時間ほどのんびりして、2000円でおつりがきた。贅沢な時間でありました。
それにしてもアメ横界隈では、明るいうちから飲んでる人がけっこういたねえ。

2018年4月9日月曜日

落語協会分裂騒動~立川談志を中心に~③

新協会設立の失敗について、談志シンパの人たちは圓生の政治センスの欠如を批判する。代表的なものを挙げておこう。立川談志と評論家福田和也との対談集、『談志 名跡問答』から、圓生が次期会長に談志ではなく志ん朝を指名したことについての福田の見解である。
「でも、圓生師匠にしてみれば、自分の首を賭けた一世一代の大博打ですよね。志ん朝や圓楽がいたにせよ、人脈やアイディア、言い方が難しいけれども口八丁手八丁できるのは家元でしょう。落語協会や落語芸術協会に対抗して、圧倒していかなければならないこというときに、なんでまたそんな・・・。」
「悪く言えば、五年十年働かせて、三遊協会が安定したら潰す、という考え方もできたはずです。結局三遊協会は寄席から締め出されて、志ん朝も圓蔵も頭を下げて落語協会に戻ってしまった。散々ですよね。同時に、もし仮に三遊協会が存続したとして、初代会長はもちろん圓生。二代目を志ん朝にするか、談志にするか、それによって初代の存在感も全然違ってくる。そういう損得勘定が、なんで通らないのか。」
これに対しては、私見を述べたい。
まず福田はこの見解に先立って、「圓生師匠が落語協会を飛び出して三遊協会を作ったとき、家元をどかすという経緯がありましたよね。」と言っているが、これは事実誤認。談志は、圓生が後継者に志ん朝を指名したので、自ら飛び出したのだ。三遊協会の方から談志を切ったわけではない。圓丈の『御乱心』によると、三遊協会の中で談志の地位は圓生の直弟子である圓楽よりも上だったという。(もし分かってそう言っているのであれば、それは立派な「印象操作」である。)
そして、「悪く言えば、五年十年働かせて、三遊協会が安定したら潰す、という考え方もできたはず」と言うが、談志の方が自分の手腕を存分に発揮して志ん朝を無力化しリーダーから引きずりおろす、ということもできたはずである。
談志の行動を見れば、①圓生脱退の原因となる大量真打を提案、②圓生脱退に乗じて新協会設立に動き騒動を拡大させる、③自分が後継者でないと分かり逃走、とまさにマッチポンプ。節操なんか糞くらえ、なのだろうが、とても褒められたものではない。協会に戻りはしたが、柳家一門からも金原亭一門からも総スカンを食らった。(本人は“屁とも思わない”と言い張っているが、本心は分からない)
そもそも大量真打誕生の発案者が、それに憤って協会を出る者を担いで新協会を立ち上げるというのは理屈に合わないではないか。
それに、一般的に言って、頭は人望のある人格者、参謀は怜悧な実行者という組み合わせがバランスいい。(例えば新選組の近藤勇と土方歳三のように、薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通のように、である。)志ん朝が頭にいて皆の不満を吸収してくれることによって、談志は思う存分やりたいようにできる、ということもあるのではないか。圓生も、次世代のリーダーには峻烈な談志より円満な志ん朝の方が組織がまとまると判断したのかもしれない。
談志は『あなたも落語家になれる』の中で、「楽屋と世の噂では、あれは談志が自分で会長になろうとしたのだが、駄目だったのであの始末・・・、であった。まァ半分当たっているといわれても仕方あるまい。会長の椅子は、別に自分のために求めたわけではなかったが・・・」と言い、私心のないことを強調しているが、私心がなければ会長にならずともよかったわけであり、前述したように会長になることが100パーセント不可能だったわけでもないのである。 談志シンパが、三遊協会の失敗を圓生が談志を後継者に選ばなかったことにのみ帰結させようとするのは、ある意味、談志に対するおもねりのように私には聞こえてならないのだ。
『御乱心』の中で、歌麿は新協会設立へ向けた談志の行動を「このまま行けば、師匠が亡くなっても小三治がいるから小さんの名前は継げないし、落語協会の会長にもなれそうもない。そこで円生師匠の担ぎ出しを図ったということでしょう」と分析している。
そして、その後の動向についてはこう予測しているのである。
「協会を飛び出して師匠を裏切ることは、弟子にとってはなかなか決心の要ることです。しかし仮に今の段階で戻ったとしても柳家一門は全員このことを知っていますから、快く迎えませんよ。更に一層談志さんが浮くことになり、彼を支持し、従おうとする兄弟弟子は皆無となり、一門の中で発言権を全く失うことになりますョ。その辺で悩んでるんじゃないですか。(中略)
 まァ、戻りたい気持が五割、新天地で活路を開きたい気持が五割で五分五分ですが、そこに失敗したらどうしようという不安が一割プラスされるから、四分六の割合で戻る可能性が強いんじゃないですかね」
談志が協会に戻ったことを知った圓丈は「本当に序列が不満で飛び出したのか、あるいは最初から戻りたくてウズウズしてて、序列にケチをつけて飛び出したのかは、本人に聞くしかない」と書いているが、仮に本人に聞いたとしても「序列が不満だった」としか言わないだろう。
後に談志は、自らの一門を引き連れて落語協会を脱退し、立川流を設立する。結局、談志は圓生と同じような形で、念願の「会長」(正確に言えば「家元」だが)の座を手にすることになるのである。(この項終わり)

2018年4月8日日曜日

落語協会分裂騒動~立川談志を中心に~②

それから談志は、「談志・圓楽・志ん朝の三人は離れるべきではない」と言って志ん朝を参加させ、圓生の前名を継いでいる縁から七代目橘家圓蔵門下を引き入れた。色物(漫才の三球・照代、奇術の伊藤一葉などの売れっ子がいた)にも声をかけるなどして、それなりのメンバーをそろえた。
脱退する圓生とともに新協会を設立するということは談志にとって、会長である師匠小さんに弓を引く行為であるはずなのだが、「そのことが落語界のためになり、十年の計になれば、それもやむを得ない」し、「もっとも以前から、落語協会二分論を小さん師匠に進言し、落語芸術協会と三分するとはいうものの、三分の二対三分の一という発想だともいっていたので、分裂はさほどの驚きではなかったろう」というのが、彼の認識だった。談志は、小さんの息子、三代目柳家三語楼(現六代目子さん)をも新協会に連れて行こうとしたのである。
もちろん小さんは組織の防衛に動く。冷遇されていたという十代目金原亭馬生を副会長に任命、これは絶妙の一手であった。圓丈の『御乱心』の中で、小さん門下の夢月亭歌麿(現清麿)は、圓丈にこう分析して見せる。
「あの常任理事(※圓歌、金馬、柳朝のこと)に対する不満は、うちの柳家一門にすらあります。それが馬生副会長就任によって協会員も納得するし、“馬生師匠は残るのか!”ということで、浮足立った会員の気持を抑えることが出来る。
  また馬生師匠が新協会へ行けば、柳家一門に匹敵する古今亭ファミリーが全員出ることになるが、馬生師匠を副会長にさせることによって古今亭のほぼ三分の一の流出で済むことになり、その上志ん朝師匠が協会へ戻る時のパイプ役にもなるし、あの常任理事の牽制にもなるし、もう一石二鳥どころか、一石三鳥の価値がありますねェ」
そしてこうも言うのだ。
「普通なら、自分の協会員をどんどん引っこ抜かれたら“一度、新協会加入者は以後、如何なる場合も落語協会は受け入れない”なんて通告を出すとか、色々と協会員を締めつけにかかるモノですが、師匠は何もしない。ただ馬生師匠を副会長にさせただけなんです。
  あとは全て受けて立つ。横綱相撲ですョ。こりゃ、本当に偉いと思いますねェ」
うーん、まさに完璧。圓丈が唸るのも肯ける。
しかし、談志はこの新団体から離脱する。理由は圓生の後継問題だった。圓生は新団体の次期会長に志ん朝を指名。これに談志が反発。新団体旗揚げに最も功績のあったのが自分であり、リーダーシップがあるのも自分であると自負していた。
談志は志ん朝に後継者を譲るよう要求するが、拒否される。志ん朝の言い分では「圓生師匠は私に、と言っている」ということであった。 談志は、「嫌だというのなら、俺は辞める」と言い、さっさと新団体から手を引いた。「俺がいなくて、このメンバーで三月もったらおなぐさみだ」という捨て台詞を残して。
ここからの談志の行動は迅速だ。すぐさま、「やっぱり子弟の血は濃いですよ」と言って、小さんに詫びを入れ、その晩に馬生宅へ復帰の挨拶に行った。馬生宅では弟子たちを集めて対応策を練っている最中だった。当然、談志には非難の目が集中した。
「お前さんは百叩きですよ」と言う馬生に、心中で談志は「小さんに冷遇されて、圓生に泣きついたのは誰なんだ」と、非難の言葉を飲み込んでいたという。
その後のことは周知のとおり。圓生一派は、三遊協会を立ち上げ記者会見をするが、寄席側は新協会の出演を認めなかった。そのため志ん朝、圓蔵一門は協会に戻り、圓生一門のみが落語協会を脱退して、全国展開の活動をすることになる。
その騒動の最中、談志はハワイにいた。落語協会分裂騒動は、談志の言葉通り新協会設立が頓挫したことで終結を迎えたのである。(つづく)


2018年4月7日土曜日

落語協会分裂騒動~立川談志を中心に~①

落語協会の分裂騒動については、立川談志も自らの著書で語っている。三遊亭圓丈の『御乱心』の前年(1985年)に刊行された、『あなたも落語家になれる』というのが、それである。
それでは、この騒動について、談志を中心に辿ってみよう。
まず、六代目三遊亭圓生と五代目柳家小さんが対立する原因となった、大量真打問題において談志は小さんと同じく肯定派だった。戦後の入門者急増によって二つ目がだぶついた。その当時の状況を打破するために、談志はこのように提案する。
「結果、十年以上協会で辛抱していた二つ目を差別・区別なく一様に真打ちにしてしまえ、年に一人か二人を真打ちにしていた日にゃァ、ことによると、百年たっても真打ちになれないかもしれない。ならいっぺんに、束で集団で真打ちにしてしまえ、そうしないと、年ばかり食って真打ちにもなれず、本人もくさってしまい、なまじ売れる才能も開花せず、しぼんでしまうのではないだろうか。」
この「十把一絡げ真打ち案」は理事会に諮られ、賛成多数で承認された。圓生はこれに反対し、小さんの側近、三代目三遊亭圓歌、四代目三遊亭金馬、五代目春風亭柳朝を理事から外し、十代目金原亭馬生、初代林家三平、五代目三遊亭圓楽、古今亭志ん朝、立川談志を入れることを要求する。当初の案では談志は入っていなかったのだが、圓楽の進言で談志も加わったのだという。
小さんは、一旦は圓生の人事案を了承したが、次の理事会ではこれを黙殺した。この対応に圓生は激怒、ついに協会脱退を決意する。
この時、談志も圓生について協会を出ることにしたのだが、その動機を彼はこう語る。
 「止めても無駄だと知った時、私はかねてからの持論をもち出した。落語協会、落語芸術協会に、もう一つの第三の協会をつくって、一月を十日ずつ寄席を担当した方が、プログラムのマンネリも変えられるし、私も自分の考え方をより強くその会に反映させることができるから、落語界の前途のためにも、いろんな実験もやり易いと考えていた。」
こうして談志は、圓生の協会脱退を新協会設立にまで一気に発展させた。
この辺りのことについて八代目林家正蔵(彦六)は、著書『噺家の手帖』の中の「円生師匠への公開状」という文章の中で次のように書いている。
「ところで今回の脱退騒ぎなんですが、これは貴方が私たちに話しかけることをしないで突如として脱会を宣言なさった。貴方の弟子である円楽・円窓・円弥その他の人々も貴方と一緒に脱会をする。落語協会から貴方の門下でない人も馳せ参じて、その人数は総勢二十五名になったわけです。これは私の推測ですが〈おそらく的をはずれてないと思うが〉立川談志という思いつきの実に新しい、よく言えば企画の新鮮味をもっているような人も馳せ参じたわけですから、おそらくこの人々が献策をしたんじゃないかと思う。(中略)
最初は今のようにお弟子さんを引き連れての脱退ではなくって、恐らく私の想像ではご自分一人だけ孤高の精神で世に渡って行こうとお思いになったに相違ないんですが、前に言ったように策士も加わり、お弟子さんの中には師匠とともに死んでもいいから供をしたいというような殊勝な方もあって、今回の三遊派というものを組織なさったに相違ないと思います。」
まさにその通り。正蔵の冷静な状況判断に恐れ入る。(つづく)


2018年4月5日木曜日

高山T君が送ってくれた「しぶい建物」

高山T君という、岐阜県に住む私の大学時代の同級生がいる。彼とは同じクラスで、同じゼミだった。卒業後も、夏にまとまった休みを取って、一緒に旅行に出かけたものだ。(けっこうしぶい所をうろうろしたのだ。)こちらにもよく遊びに来ていて、「岐阜県一の茨城通」を自認している。このブログにも「岐阜T君」として登場していたのだが、「おれは飛騨高山の人間で、岐阜ではない」と言うので、「高山T君」と改名した。
その高山T君がしぶい建物の写真を送ってくれた。ありがたい。早速アップしよう。それにしても西の方の建物は、モノが違う。すごいな。

滋賀県長浜市名物「堅ボーロ」の元祖本舗。重厚だねえ。創業27年創業とのこと。
ネットで調べたら「絶妙の歯ごたえとほんのりと生姜の風味の上品な味」とあった。
「宮内庁御用達」の立札が誇らしげだ。

岐阜県大垣駅前。何でもそろう「ナンデモヤ」。ほんとに何でもあるらしい。
以下は高山T君のメールの文章。いい解説になっているので、そのまま載せます。
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先日、県内の八百津町をぶらぶらした。「日本のシンドラー」こと杉原千畝の生誕地だ。渋い建物がいろいろあったよ。「流行軒」という美容院は名前が秀逸だった。バーゲン中の店は「値下げ断行」という札がかかっているが、売り尽くしは困難であるらむ。しかも、へそ曲がりらしく、郷土の英雄、千畝の生誕地を「うそぴょん」など書いておる。まあ、これが許されるなら、寛容な土地柄ということだろう。近くには、森蘭丸の兄、「鬼武蔵」が城主だった兼山城がある。入口に蘭丸の像があったが、経年劣化で気の毒な状態になっていた。ぶらぶら見て歩くのはおもしろい。また旅がしたくなったよ。






T君、おれも君と旅がしたくなった。