本ブログ、岐阜県特派員のT君からメールが来た。
岐阜はこの夏、連日の猛暑だった。しかもT君は40℃超えのあの市に住んでいるのだ。冷房をこよなく愛する彼にとって、まさに地獄のような日々に違いない。
その状況下での、渾身のレポートである。以下に全文を掲載する。
* * *
殺人的な暑さで、猫も朝からのびていた。
そんな中、愛知県江南市にある「布袋の大仏」を訪ねた。
愛知県は有数の大仏県で、中でも「布袋の大仏」のユニークさは群を抜いており、全国のB級スポット愛好家を引き付けているとか。
夢のお告げを受け、個人が5年がかりで造った大仏様は、奈良の大仏様を2メートル上回る。露天の大仏様なので、周囲からよく見え、スケール感が際立っている。
そしてこの風貌。
まるでそのへんのおっさ…、でーたらぼ…、いや親しみのあるお顔をしていらっしゃる。
大仏様の背後に回ると驚異の世界が待っている。大仏様と建物がつながっているのだ。
この建物は、大仏様を建立した方の自宅兼事業所(接骨院)である。ちなみに接骨院は営業中で、その名も「布袋大仏接骨院」。
大仏様と自宅と事業所の驚異のコラボレーション。
「布袋の大仏」、一見の価値あり。
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2018年7月30日月曜日
2018年7月25日水曜日
戦地からの葉書②
前回の続き。
やがて伯父自身の召集も近づいてくる。
「拝啓 其の後は暫く御無沙汰致しました。
貴君には其の後増々御壮健の御事と思います。私も御陰様にて元気で居ります故、他事ながら御安心下さい。貴君も今年適齢の年配に検査の結果は如何で御座居ましたか。小兵、過日貴君が見事甲種合格になりました夢を見ましたよ。早く貴君の懐かしい其の良き御返事を待って居ります。去年の今頃貴君らと肩を並べて青年学校に通学した事が今になって如何にも懐かしく思い出されます。其の内此ちらの様子追って申し上げるつもりです。では時節柄御身に充分御大切に。さようなら。
中支派遣軍甘粕部隊飯田部隊赤鹿隊 **** 7月15日」
検査は20歳には必ず受けることになっていたというから、伯父が受けたのは昭和15年か。青年学校本科5年は19歳で修了らしいので、「去年の今頃貴君らと肩を並べて青年学校に通学した」ということは平仄に合う。
この後葉書は祖父宛のものになる。
「拝啓朝夕の風はめっきり秋の気配殊に著しく感ぜられてまいりました。其の後は意外なる御無音に打過ぎ申し訳ありません。悪しからず御許し下さい。皆様には御変わり有りませんか御伺い申し上げます。
僕もお蔭様にて元気に軍務に精励して居りますから他事ながら御安心下さい。
三郎君は此の度身苟くも選び征せられて愈々護国の大任を負担する光栄をえ此の奉公の期間を完全に服務せられんことをお祈りいたします。
朝鮮(二字不明)第四十三部隊平山隊 ****」
三郎というのは伯父の名である。伯父は昭和17年10月に召集され、翌年の1月、ビルマ派遣軍に編入されてビルマに渡った。だから、この葉書は昭和18年の秋に書かれたことになる。
「拝啓 昭南に転勤になって早や半月です。田舎から都会へ勝手が判らず困りました。三郎君の宛名が判りましたら御知らせ下さい。今僕の住居はケンヒルストリートと云う処で小丘の多い気分の良い処です。 早や一年です。もう一頑張りです。南方建設に御奉公です。甚だ非力ですが。皆様御元気で。 草々
昭南市デ・スーザーストリート日本発送署南方局 ****」
この葉書は、川崎の伯父のものだ。彼の所に三郎さんの姉が嫁いでいる。伯父は東電の技師をしていた。そうか、川崎の伯父さんはシンガポールにいたんだ。
次の葉書は川崎の伯父の弟から来たものらしい。
「拝啓 御無沙汰致しまして申し訳もありません。(以下数文字不明)さぞかし御多忙の御事と拝察致します。
(数文字不明)内地からのお便りにて、今般、三郎さんも名誉の召集とのこと、(以下数文字不明)さぞかしと存じます。御苦労様です。私の部隊へでも来てくだされば何かと御話相手になれますものをと存じますが、もう現在の如く(四字不明)の統制の整備致しました今日では決して御心配の様なこともありますまいと存じます故、御気になさらず、前線の兵士の何よりの楽しみな、内地からの手紙ですから、精々御手紙にて御励まし下さいませ。
私の出征に思いもかけず父の不幸もあり、近く征途につく**もきっと随分淋しかろうと存じますが、何分よろしく願います。父の生前の遺言として**は大切な**家の跡取りであります故、せめて出征までには兄か私が帰還すればよいのですが、命令に動く我らはなかなかに自由には参れません故、後事は何分よろしくお頼み致します。 先ずは平素の御無沙汰御詫び方々御見舞いまで。
ジャワ派遣治第一〇三三一部隊本部 **** 3月16日」
「もう現在の如く(四字不明)の統制の整備致しました今日では決して御心配の様なこともありますまいと存じます」とあるからには、祖父は何か三郎さんの軍隊生活に心配なことがあって相談したにちがいない。
後半には跡取り問題の切実な思いが綴られている。
戦争というものは国民に本当に迷惑をかけるものなのだ。当時の軍部にそのような意識があったとは到底思えない。
「東部三十七連隊美留町隊 **三郎君(本人不在のため実家に廻送)
拝啓 其后三郎君、君は元気かね。
俺も相変わらず元気旺盛だ。貴君の父から便りがあって隊名が知ったのだ。大分骨が折れるだろう。昨年の今頃が想像されるネ。共に元気で働こう。当地はとうに雪が降り○○の連山が目前に聳えて居る。本当に緊張して居るよ。想像出来るだろう。貴君たちの渡満も楽しみだ。では呉れ呉れも御身大切に。先ずは御一報。(二字不明)は后便にて。
満州国東安省半截河舘野隊子次隊 ****」
これは伯父宛なのが実家に転送されてきたもの。「本人不在のため」とはどういうことか。伯父はこの時点ですでに本隊から離れていたということか。
差出人はお向かいのおじさん。彼は生還して、90歳ぐらいまで生きた。私が小さい頃、兵隊に行った時の傷だ、と言って、足の傷跡を見せてくれたことがある。酒に酔うと、軍隊仕込みなのだろうか、春歌を歌って私たちを笑わせた。
「昨年の今頃が想像されるネ」というところを見ると、召集されて1年か。「とうに雪が降り」ということは冬なのだろうな。伯父は昭和17年10月に召集されたから、このおじさんも同じ頃に入隊したのかもしれない。「○○の連山」は原文通り。作戦上具体名は書けなかったものらしい。
次の葉書は終戦後のもの、祖父宛である。
「謹啓 時下秋冷の候と相成りました。
御尊家御一同様御健勝のことと存じ申し上げます。
扨て此度三郎様御戦死との由承り、驚き入り御両親様の御心境如何ばかりの事と御察し申し上げます。実は早速参上御悔み申し上げたく存じ居りますが、目下表記療養中にて失礼至極に存じますが、取敢えず書面を以て謹みて御悔み申し上げます。 御一同様呉れ呉れも宜敷く御(二字不明)下されたく御願い申し上げます。 敬白
土浦市国立霞ケ浦病院六ノ一 **** 昭和22年10月16日」
伯父が戦死したのは昭和20年7月20日。それが分かったのは2年も経ってから、ということになろうか。差出人も療養中。皆大変だったのだ。
これらは、資料としては大した価値はないかもしれないが、我が家にとっては大切なものだ。だからこそ、祖父も父も残しておいたのだろう。
これを読むまで墓石や位牌でしか知らなかった伯父の、人間としての側面に触れることができたのは有難い。
やがて伯父自身の召集も近づいてくる。
「拝啓 其の後は暫く御無沙汰致しました。
貴君には其の後増々御壮健の御事と思います。私も御陰様にて元気で居ります故、他事ながら御安心下さい。貴君も今年適齢の年配に検査の結果は如何で御座居ましたか。小兵、過日貴君が見事甲種合格になりました夢を見ましたよ。早く貴君の懐かしい其の良き御返事を待って居ります。去年の今頃貴君らと肩を並べて青年学校に通学した事が今になって如何にも懐かしく思い出されます。其の内此ちらの様子追って申し上げるつもりです。では時節柄御身に充分御大切に。さようなら。
中支派遣軍甘粕部隊飯田部隊赤鹿隊 **** 7月15日」
検査は20歳には必ず受けることになっていたというから、伯父が受けたのは昭和15年か。青年学校本科5年は19歳で修了らしいので、「去年の今頃貴君らと肩を並べて青年学校に通学した」ということは平仄に合う。
この後葉書は祖父宛のものになる。
「拝啓朝夕の風はめっきり秋の気配殊に著しく感ぜられてまいりました。其の後は意外なる御無音に打過ぎ申し訳ありません。悪しからず御許し下さい。皆様には御変わり有りませんか御伺い申し上げます。
僕もお蔭様にて元気に軍務に精励して居りますから他事ながら御安心下さい。
三郎君は此の度身苟くも選び征せられて愈々護国の大任を負担する光栄をえ此の奉公の期間を完全に服務せられんことをお祈りいたします。
朝鮮(二字不明)第四十三部隊平山隊 ****」
三郎というのは伯父の名である。伯父は昭和17年10月に召集され、翌年の1月、ビルマ派遣軍に編入されてビルマに渡った。だから、この葉書は昭和18年の秋に書かれたことになる。
「拝啓 昭南に転勤になって早や半月です。田舎から都会へ勝手が判らず困りました。三郎君の宛名が判りましたら御知らせ下さい。今僕の住居はケンヒルストリートと云う処で小丘の多い気分の良い処です。 早や一年です。もう一頑張りです。南方建設に御奉公です。甚だ非力ですが。皆様御元気で。 草々
昭南市デ・スーザーストリート日本発送署南方局 ****」
この葉書は、川崎の伯父のものだ。彼の所に三郎さんの姉が嫁いでいる。伯父は東電の技師をしていた。そうか、川崎の伯父さんはシンガポールにいたんだ。
次の葉書は川崎の伯父の弟から来たものらしい。
「拝啓 御無沙汰致しまして申し訳もありません。(以下数文字不明)さぞかし御多忙の御事と拝察致します。
(数文字不明)内地からのお便りにて、今般、三郎さんも名誉の召集とのこと、(以下数文字不明)さぞかしと存じます。御苦労様です。私の部隊へでも来てくだされば何かと御話相手になれますものをと存じますが、もう現在の如く(四字不明)の統制の整備致しました今日では決して御心配の様なこともありますまいと存じます故、御気になさらず、前線の兵士の何よりの楽しみな、内地からの手紙ですから、精々御手紙にて御励まし下さいませ。
私の出征に思いもかけず父の不幸もあり、近く征途につく**もきっと随分淋しかろうと存じますが、何分よろしく願います。父の生前の遺言として**は大切な**家の跡取りであります故、せめて出征までには兄か私が帰還すればよいのですが、命令に動く我らはなかなかに自由には参れません故、後事は何分よろしくお頼み致します。 先ずは平素の御無沙汰御詫び方々御見舞いまで。
ジャワ派遣治第一〇三三一部隊本部 **** 3月16日」
「もう現在の如く(四字不明)の統制の整備致しました今日では決して御心配の様なこともありますまいと存じます」とあるからには、祖父は何か三郎さんの軍隊生活に心配なことがあって相談したにちがいない。
後半には跡取り問題の切実な思いが綴られている。
戦争というものは国民に本当に迷惑をかけるものなのだ。当時の軍部にそのような意識があったとは到底思えない。
「東部三十七連隊美留町隊 **三郎君(本人不在のため実家に廻送)
拝啓 其后三郎君、君は元気かね。
俺も相変わらず元気旺盛だ。貴君の父から便りがあって隊名が知ったのだ。大分骨が折れるだろう。昨年の今頃が想像されるネ。共に元気で働こう。当地はとうに雪が降り○○の連山が目前に聳えて居る。本当に緊張して居るよ。想像出来るだろう。貴君たちの渡満も楽しみだ。では呉れ呉れも御身大切に。先ずは御一報。(二字不明)は后便にて。
満州国東安省半截河舘野隊子次隊 ****」
これは伯父宛なのが実家に転送されてきたもの。「本人不在のため」とはどういうことか。伯父はこの時点ですでに本隊から離れていたということか。
差出人はお向かいのおじさん。彼は生還して、90歳ぐらいまで生きた。私が小さい頃、兵隊に行った時の傷だ、と言って、足の傷跡を見せてくれたことがある。酒に酔うと、軍隊仕込みなのだろうか、春歌を歌って私たちを笑わせた。
「昨年の今頃が想像されるネ」というところを見ると、召集されて1年か。「とうに雪が降り」ということは冬なのだろうな。伯父は昭和17年10月に召集されたから、このおじさんも同じ頃に入隊したのかもしれない。「○○の連山」は原文通り。作戦上具体名は書けなかったものらしい。
次の葉書は終戦後のもの、祖父宛である。
「謹啓 時下秋冷の候と相成りました。
御尊家御一同様御健勝のことと存じ申し上げます。
扨て此度三郎様御戦死との由承り、驚き入り御両親様の御心境如何ばかりの事と御察し申し上げます。実は早速参上御悔み申し上げたく存じ居りますが、目下表記療養中にて失礼至極に存じますが、取敢えず書面を以て謹みて御悔み申し上げます。 御一同様呉れ呉れも宜敷く御(二字不明)下されたく御願い申し上げます。 敬白
土浦市国立霞ケ浦病院六ノ一 **** 昭和22年10月16日」
伯父が戦死したのは昭和20年7月20日。それが分かったのは2年も経ってから、ということになろうか。差出人も療養中。皆大変だったのだ。
これらは、資料としては大した価値はないかもしれないが、我が家にとっては大切なものだ。だからこそ、祖父も父も残しておいたのだろう。
これを読むまで墓石や位牌でしか知らなかった伯父の、人間としての側面に触れることができたのは有難い。
絵葉書は中国からのもの。 |
シンガポールの消印。 |
検閲印である。 |
私は戦争を知らない。でも、その時何があったのか、人はどう生きたのかを、私は知りたいと思う。
2018年7月22日日曜日
戦地からの葉書①
物置から戦時中の葉書が出てきた。祖父と、戦死した伯父宛のものだ。
伯父が戦地から送ったものはなかった。残念ながら伯父の肉声を感じることはできなかったが、友人や親戚が書いた文章から、多少なりとも伯父の人間性が立ち上ってくる。
ワープロに起こしてみたので、紹介してみたい。
なお、旧字は常用漢字に、歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに改めた。手書きであるため、判読できない文字も幾つかあったので、それは「不明」としておいた。
では、まず伯父の出征前。戦地に赴いた友人からのものである。
「拝啓 先日は御手紙有難う。早速御返事をと思い居りましたが、元来の筆不性故遅れました。御許し下さい。月日の立つのは早いもので、去年貴君等と同窓会の云々にて**先生等と学校の火鉢を囲んだが、又今年も囲む候となりましたね。君の言われた様に今月の三十日に休暇許されましたよ。其の節は何分宜敷く願います。貴君の家等ではもう野良の仕事も片付いたでしょう。我々は年の暮で新年を迎える準備です。今日は旗日にて半(一字不明)外出、下宿でのんびりして居ります。**君にも御無沙汰して居りますから君より宜しく。先ずは右御返事迄。草々
谷田部航空隊二十分隊電気部 **** 昭和14年12月25日」
日付がはっきりしているものでは、これがいちばん古い。
伯父は大正9年の生まれだから、この当時19歳だったはずだ。
これ以降と思われるものは、全て外地からの便りとなる。
「其后御無沙汰ばかりで誠に失礼。
其后相変わらず元気だろうね。俺も相変わらず元気百倍。
内地も随分寒くなったでしょうね。 北満虎頭も零下二十度位で大したこともない。若い僕等だもの、平気。
君も御自愛の程。又いずれ。
東安省虎頭木村部隊福富隊 ****」
「三月三十一日附き端書有難く拝見致しました。お便りに依れば貴君には至極壮健にて農業生産拡充に非常の努力を画し居たる由、誠に御苦労様です。御陰様で頑強にて勤務致し居ります故、他事乍ら御安心の程。此方等は真夏にて百二十度位して居ります。小麦や麦の収穫等は一ヶ月も前に終わり田植えも修了した様です。胡瓜や茄等出来盛りです。青年会の方は本年は何か計画が出来ましたか。しっかり頼みます。それから支部の皆様にも宜敷くお伝えください。呉々も身体を大切に御奮斗を祈る。南国の端にて北斗星を望めば雲覆わる。
南支派遣基第二八〇三部隊野口隊 **** 昭和17年4月24日」
伯父も青年団で活動していたんだなあ。この人は青年団活動に熱心だったようで、この葉書に先立って、団員一同宛にこんなことを書いている。
「拝啓 暫く青年会の皆様には御無音致して終いました。悪しからず。又此の度は御丁寧にも御繁忙中もいとえなく私留守の為勤労奉仕をなし下されたる由を**君のお便りにより判明致し、誠に御苦労様でした。内地の青少年団殊に青年団の責務、日英米開戦に依り一段と強化されたる事は及申さる事と思います。支部としても**君、北支(二字不明)員行き、**君、**君の入営と相続いて職業戦線に或いは戦地と青年団より送り出す誠に喜ばしい現象であると共に、又一方に於いて**君(注:職業戦線に赴いた人)の様な事は此の際考えるべきものが多々有ると思われます。農村に生まれたる以上は此れ天業と思い、次男三男も村に残り農業生産の原動力となりて此の大東亜戦争遂行に邁進すべきが真の青年道ではなかろうかと思われます。つまらぬ事を書き立てましたが、農村青年は農村と言う物を真に理解しなければなるまいと思います。今後も銃後運動に御協力の程願い上げます。先ずは御礼事と一寸思いついたる一事を。
南支派遣基第二八〇三部隊野口隊 **** 1月14日」
「一白無事御書面拝見いたしました。久しく小兵御無沙汰致しまして誠に申し訳有りません。悪しからずお許し下さい。お便りにて貴君方も皆元気にお働きの事何よりと思います。小兵も御陰様にて幸い元気に変わった北支の一角に(二字不明)致しております故、何卒御安心下さい。細かい事種々お知らせしたいのですが、今の所書く訳にも行かず、追って申し上げるつもりです。農事も日に増々御多忙の事でしょう。支那には桜もなく花見も出来ません。支那名物の柳や名も知れぬ立木が有るだけです。では暮々もお体に御注意し銃後の一員としてお働き下さい。先ずは乱文乱筆にて一寸御返事まで。さようなら。
北支桜井部隊(一字不明)村部隊小池隊 **** 5月3日」
当然、葉書は検閲済みである。葉書の表には検閲印が押してある。「細かい事種々お知らせしたいのですが、今の所書く訳にも行かず、」とはその辺りの事を憚ってのことだろう。
葉書は全て返信。伯父が律儀に戦地の先輩や友人に便りを書いていることが分かる。青年団の先輩からも「しっかり頼みます」と言われるような実直な人柄だったのだと思う。
伯父が戦地から送ったものはなかった。残念ながら伯父の肉声を感じることはできなかったが、友人や親戚が書いた文章から、多少なりとも伯父の人間性が立ち上ってくる。
ワープロに起こしてみたので、紹介してみたい。
なお、旧字は常用漢字に、歴史的仮名遣いは現代仮名遣いに改めた。手書きであるため、判読できない文字も幾つかあったので、それは「不明」としておいた。
では、まず伯父の出征前。戦地に赴いた友人からのものである。
「拝啓 先日は御手紙有難う。早速御返事をと思い居りましたが、元来の筆不性故遅れました。御許し下さい。月日の立つのは早いもので、去年貴君等と同窓会の云々にて**先生等と学校の火鉢を囲んだが、又今年も囲む候となりましたね。君の言われた様に今月の三十日に休暇許されましたよ。其の節は何分宜敷く願います。貴君の家等ではもう野良の仕事も片付いたでしょう。我々は年の暮で新年を迎える準備です。今日は旗日にて半(一字不明)外出、下宿でのんびりして居ります。**君にも御無沙汰して居りますから君より宜しく。先ずは右御返事迄。草々
谷田部航空隊二十分隊電気部 **** 昭和14年12月25日」
日付がはっきりしているものでは、これがいちばん古い。
伯父は大正9年の生まれだから、この当時19歳だったはずだ。
これ以降と思われるものは、全て外地からの便りとなる。
「其后御無沙汰ばかりで誠に失礼。
其后相変わらず元気だろうね。俺も相変わらず元気百倍。
内地も随分寒くなったでしょうね。 北満虎頭も零下二十度位で大したこともない。若い僕等だもの、平気。
君も御自愛の程。又いずれ。
東安省虎頭木村部隊福富隊 ****」
「三月三十一日附き端書有難く拝見致しました。お便りに依れば貴君には至極壮健にて農業生産拡充に非常の努力を画し居たる由、誠に御苦労様です。御陰様で頑強にて勤務致し居ります故、他事乍ら御安心の程。此方等は真夏にて百二十度位して居ります。小麦や麦の収穫等は一ヶ月も前に終わり田植えも修了した様です。胡瓜や茄等出来盛りです。青年会の方は本年は何か計画が出来ましたか。しっかり頼みます。それから支部の皆様にも宜敷くお伝えください。呉々も身体を大切に御奮斗を祈る。南国の端にて北斗星を望めば雲覆わる。
南支派遣基第二八〇三部隊野口隊 **** 昭和17年4月24日」
伯父も青年団で活動していたんだなあ。この人は青年団活動に熱心だったようで、この葉書に先立って、団員一同宛にこんなことを書いている。
「拝啓 暫く青年会の皆様には御無音致して終いました。悪しからず。又此の度は御丁寧にも御繁忙中もいとえなく私留守の為勤労奉仕をなし下されたる由を**君のお便りにより判明致し、誠に御苦労様でした。内地の青少年団殊に青年団の責務、日英米開戦に依り一段と強化されたる事は及申さる事と思います。支部としても**君、北支(二字不明)員行き、**君、**君の入営と相続いて職業戦線に或いは戦地と青年団より送り出す誠に喜ばしい現象であると共に、又一方に於いて**君(注:職業戦線に赴いた人)の様な事は此の際考えるべきものが多々有ると思われます。農村に生まれたる以上は此れ天業と思い、次男三男も村に残り農業生産の原動力となりて此の大東亜戦争遂行に邁進すべきが真の青年道ではなかろうかと思われます。つまらぬ事を書き立てましたが、農村青年は農村と言う物を真に理解しなければなるまいと思います。今後も銃後運動に御協力の程願い上げます。先ずは御礼事と一寸思いついたる一事を。
南支派遣基第二八〇三部隊野口隊 **** 1月14日」
「一白無事御書面拝見いたしました。久しく小兵御無沙汰致しまして誠に申し訳有りません。悪しからずお許し下さい。お便りにて貴君方も皆元気にお働きの事何よりと思います。小兵も御陰様にて幸い元気に変わった北支の一角に(二字不明)致しております故、何卒御安心下さい。細かい事種々お知らせしたいのですが、今の所書く訳にも行かず、追って申し上げるつもりです。農事も日に増々御多忙の事でしょう。支那には桜もなく花見も出来ません。支那名物の柳や名も知れぬ立木が有るだけです。では暮々もお体に御注意し銃後の一員としてお働き下さい。先ずは乱文乱筆にて一寸御返事まで。さようなら。
北支桜井部隊(一字不明)村部隊小池隊 **** 5月3日」
当然、葉書は検閲済みである。葉書の表には検閲印が押してある。「細かい事種々お知らせしたいのですが、今の所書く訳にも行かず、」とはその辺りの事を憚ってのことだろう。
葉書は全て返信。伯父が律儀に戦地の先輩や友人に便りを書いていることが分かる。青年団の先輩からも「しっかり頼みます」と言われるような実直な人柄だったのだと思う。
中国北部から絵葉書である。 |
2018年7月19日木曜日
昭和46年の前座
ものはついで。昭和46年当時の前座一覧。やはり通し番号を付けてみた。
まずは芸術協会。
では落語協会。
「芸能人重宝帳」には住所も載っている。師匠宅に内弟子で入っているのは、芸術協会では京丸(米丸宅)、遊吉、遊ぼう(遊三宅)、楽遊(圓遊宅)の4人。落語協会で町奴(圓歌宅)、竹蔵(圓蔵宅)、高助(志ん生宅)、生坊(圓生宅)、杵助(圓鏡宅)、文吉(文楽宅)、朝太郎(柳朝宅)、勝馬(金馬宅)の9人だった。
現在もベテランとして活躍している人が多いな。
というか、私の学生時代、若手だった人たちだ。華柳の梅枝時代、左圓馬の桂馬時代の手拭いは今も持っている。(前座時代の小文治さんからいただいたものだ。)
廃業したばん平は、タレントとしてもちょっと売れていた。私は池袋演芸場の高座から、「お兄さん、落語なんか面白けりゃいいんだよね」と話しかけられたことがある。何だったんだろ。
ベテラン陣の修業時代、青春時代がここにある。故人になっている人もいる。そう思うと感慨深い。
まずは芸術協会。
1 | 春風亭はち好(五代目春風亭柳條 フリーとなってはち好と改名。) |
2 | 桂京丸(昭和58年真打昇進後廃業) |
3 | 三笑亭夢九(三笑亭夢之助) |
4 | 三遊亭右詩夫(古今亭寿輔) |
5 | 三遊亭好遊(廃業か?) |
6 | 柳亭痴太郎(五代目柳亭痴楽・故人) |
7 | 三遊亭富太馬(四代目三遊亭圓左・故人) |
8 | 三遊亭喜久馬(三遊亭左圓馬) |
9 | 三遊亭右らん(三代目三遊亭小圓右) |
10 | 三遊亭女遊(廃業か?) |
11 | 三遊亭遊吉(三遊亭小遊三) |
12 | 三遊亭遊ぼう(三遊亭左遊) |
13 | 雷門助三(四代目春雨や雷蔵) |
14 | 桂南次(桂南治) |
15 | 三遊亭楽遊(三遊亭金遊) |
では落語協会。
1 | 三遊亭歌一(三遊亭歌坊→小歌) |
2 | 林家ばん平(廃業) |
3 | 三遊亭楽松(三遊亭鳳楽) |
4 | 三遊亭歌二(三遊亭歌司) |
5 | 三遊亭町奴(廃業?) |
6 | 金原亭小馬吉(二代目金原亭馬の助) |
7 | 橘家竹蔵(竹蔵のまま真打) |
8 | 林家九蔵(三遊亭好楽) |
9 | 三遊亭朝治(六代目三遊亭圓橘) |
10 | 古今亭高助(古今亭志ん五・故人) |
11 | 柳家そう助(柳家さん八) |
12 | 林家辰平(林家ぎん平) |
13 | 三遊亭生坊(七代目三遊亭圓好・故人) |
14 | 柳家マコト(柳家小袁治) |
15 | 月の家杵助(六代目月の家圓鏡) |
16 | 柳家小稲(柳家さん喬) |
17 | 金原亭駒八(四代目吉原朝馬) |
18 | 金原亭駒七(五街道雲助) |
19 | 桂文吉(柳家さん枝) |
20 | 金原亭駒三(駒三のまま真打) |
21 | 立川談十(十代目土橋亭里う馬) |
22 | 春風亭朝太郎(春風亭一朝) |
23 | 三遊亭勝馬(三遊亭小金馬) |
「芸能人重宝帳」には住所も載っている。師匠宅に内弟子で入っているのは、芸術協会では京丸(米丸宅)、遊吉、遊ぼう(遊三宅)、楽遊(圓遊宅)の4人。落語協会で町奴(圓歌宅)、竹蔵(圓蔵宅)、高助(志ん生宅)、生坊(圓生宅)、杵助(圓鏡宅)、文吉(文楽宅)、朝太郎(柳朝宅)、勝馬(金馬宅)の9人だった。
現在もベテランとして活躍している人が多いな。
というか、私の学生時代、若手だった人たちだ。華柳の梅枝時代、左圓馬の桂馬時代の手拭いは今も持っている。(前座時代の小文治さんからいただいたものだ。)
廃業したばん平は、タレントとしてもちょっと売れていた。私は池袋演芸場の高座から、「お兄さん、落語なんか面白けりゃいいんだよね」と話しかけられたことがある。何だったんだろ。
ベテラン陣の修業時代、青春時代がここにある。故人になっている人もいる。そう思うと感慨深い。
2018年7月16日月曜日
昭和46年の二つ目
Suziさんからいただいた「昭和46年度芸能人重宝帳」より、二つ目の落語家をピックアップしてみる。
まずは芸術協会。名簿順に通し番号を付け、真打ち昇進の年と月を調べてみた。
ほとんどが名簿順に真打昇進している。抜擢は桂文生(昭和60年1月に落語協会に移籍)ぐらい。昇進人数も多くても1回で3人までだ。
では、昭和46年、落語協会の二つ目。
まず目を引くのが、人数が多いこと。芸術協会が24名なのに対し、落語協会は40名もいる。それが真打昇進年月に影響する。
協会の会長が三遊亭圓生から五代目柳家小さんに交代するのが、この名簿の翌年、昭和47年。その翌年の昭和48年3月に10名、同年9月に10名を真打にした。圓生を激怒させた大量真打である。圓生は昭和48年3月には三遊亭さん生(後に川柳川柳)、同年9月には三遊亭好生(後に春風亭一柳)、三遊亭生之助と自分の弟子が昇進したのにもかかわらず、口上にも披露宴にも参加しなかった。そして、昭和53年にも落語協会の理事会は10人の二つ目を真打に昇進させることを決定。これが引き金となって落語協会分裂騒動が勃発する。
一方で抜擢された者もいる。三遊亭圓彌と林家こん平は、昭和48年昇進組を抜いて昭和47年9月に昇進。六代目柳家小さん(真打昇進時は三語楼を襲名。五代目小さんの息子)と古今亭志ん駒は昭和51年に、三遊亭圓丈と柳亭金車は昭和53年に、それぞれ昭和54年昇進組を抜いて真打になった。ただ、こうして見ると、古典の本格派だけが抜擢されているわけではない。
芸術協会が昭和58年までかけて24人の二つ目を真打にしたのに対し、落語協会は40人の二つ目を昭和56年までに真打にした。一般的に、新作派の芸術協会、古典派の落語協会と言われたが、真打問題に関して言えば、落語協会の方がかなり急進的だったと言える。
まずは芸術協会。名簿順に通し番号を付け、真打ち昇進の年と月を調べてみた。
真打昇進年月 | ||
1 | 春風亭扇枝 | 昭和47年4月 |
2 | 三遊亭圓太 | 昭和47年4月 |
3 | 三遊亭千遊(三遊亭遊朝) | 昭和47年4月 |
4 | 春風亭栄橋 | 昭和48年10月 |
5 | 三遊亭圓輔 | 昭和49年4月 |
6 | 三遊亭若馬 | 昭和49年4月 |
7 | 桂枝松(桂枝助 | 昭和49年4月 |
8 | 春風亭橋之助(八代目春風亭梅枝→華柳) | 昭和50年4月 |
9 | 三遊亭笑遊(五代目三遊亭圓遊) | 昭和51年4月 |
10 | 桂欣治(桂文生) | 昭和49年10月 |
11 | 三笑亭茶楽 | 昭和51年4月 |
12 | 桂南笑(桂南喬) | 昭和52年3月 |
13 | 三笑亭夢八(三笑亭夢丸) | 昭和53年4月 |
14 | 春風亭笑好(九代目春風亭小柳枝) | 昭和53年10月 |
15 | 三遊亭とん馬(廃業) | |
16 | 三遊亭遊三郎(昭和53年に三遊亭相馬の名前あり。) | |
17 | 雷門花助(雷門五郎) | 昭和56年10月 |
18 | 春風亭柏葉(昭和44年、映画「新与太郎戦記に出演?) | |
19 | 桂南八 | 昭和56年10月 |
20 | 春風亭とん橋(昔々亭桃太郎) | 昭和56年10月 |
21 | 三笑亭夢二(三笑亭夢太朗) | 昭和56年4月 |
22 | 桂米助 | 昭和56年10月 |
23 | 三遊亭栄馬 | 昭和56年4月 |
24 | 三遊亭春馬(三遊亭圓雀) | 昭和58年4月 |
ほとんどが名簿順に真打昇進している。抜擢は桂文生(昭和60年1月に落語協会に移籍)ぐらい。昇進人数も多くても1回で3人までだ。
では、昭和46年、落語協会の二つ目。
真打昇進年月 |
1 | 三升家勝弥(七代目三升家小勝) | 昭和48年3月 |
2 | 立花家橘松(橘家圓平) | 昭和48年3月 |
3 | 三遊亭さん生(川柳川柳) | 昭和48年3月 |
4 | 吉原朝馬 | 昭和48年3月 |
5 | 柳家小のぶ | 昭和48年3月 |
6 | 柳家かゑる(十代目鈴々舎馬風) | 昭和48年3月 |
7 | 三升家勝二(八代目三升家小勝) | 昭和48年3月 |
8 | 桂小益(九代目桂文楽) | 昭和48年3月 |
9 | 桂枝治(七代目春風亭栄枝) | 昭和48年3月 |
10 | 柳家さん吉 | 昭和48年3月 |
11 | 三遊亭好生(春風亭一柳) | 昭和48年9月 |
12 | 桂文平(六代目柳亭左楽) | 昭和48年9月 |
13 | 三遊亭歌笑 | 昭和48年9月 |
14 | 三遊亭圓弥(三遊亭圓彌) | 昭和47年9月 |
15 | 三遊亭生之助 | 昭和48年9月 |
16 | 橘家三蔵 | 昭和48年9月 |
17 | 林家こん平 | 昭和47年9月 |
18 | 柳家小きん(六代目柳家つば女) | 昭和48年9月 |
19 | 三遊亭歌雀(三代目三遊亭歌奴) | 昭和48年9月 |
20 | 柳家さん弥(二代目柳家小はん) | 昭和48年9月 |
21 | 林家木久蔵(林家木久扇) | 昭和48年9月 |
22 | 金原亭桂太(金原亭伯楽) | 昭和48年9月 |
23 | 林家時蔵(はやし家林蔵) | 昭和50年9月 |
24 | 桂小勇(柳家小満ん) | 昭和50年9月 |
25 | 柳家小もん(二代目柳家菊語楼) | 昭和54年3月 |
26 | 桂文七(十代目翁家さん馬) | 昭和54年3月 |
27 | 金原亭馬六(鈴の家馬勇) | 昭和54年3月 |
28 | 柳家小ゑん(六代目柳家小さん) | 昭和51年9月 |
29 | 古今亭志ん駒 | 昭和51年3月 |
30 | 柳家とんぼ(柳亭風枝) | 昭和54年3月 |
31 | 桂楽之助(橘家二三蔵) | 昭和54年3月 |
32 | 柳家小丸(柳亭金車) | 昭和53年3月 |
33 | 三升家勝松(四代目桂文字助) | 昭和55年9月 |
34 | 三遊亭ぬう生(三遊亭圓丈) | 昭和53年3月 |
35 | 三遊亭旭生(三遊亭圓龍) | 昭和56年3月 |
36 | 金原亭馬太呂(金原亭馬好) | 昭和54年9月 |
37 | 林家照蔵(八光亭春輔) | 昭和54年9月 |
38 | 柳家小団治 | 昭和54年9月 |
39 | 柳家小三太(七代目柳亭小燕枝) | 昭和55年3月 |
40 | むかし家今松 | 昭和56年3月 |
まず目を引くのが、人数が多いこと。芸術協会が24名なのに対し、落語協会は40名もいる。それが真打昇進年月に影響する。
協会の会長が三遊亭圓生から五代目柳家小さんに交代するのが、この名簿の翌年、昭和47年。その翌年の昭和48年3月に10名、同年9月に10名を真打にした。圓生を激怒させた大量真打である。圓生は昭和48年3月には三遊亭さん生(後に川柳川柳)、同年9月には三遊亭好生(後に春風亭一柳)、三遊亭生之助と自分の弟子が昇進したのにもかかわらず、口上にも披露宴にも参加しなかった。そして、昭和53年にも落語協会の理事会は10人の二つ目を真打に昇進させることを決定。これが引き金となって落語協会分裂騒動が勃発する。
一方で抜擢された者もいる。三遊亭圓彌と林家こん平は、昭和48年昇進組を抜いて昭和47年9月に昇進。六代目柳家小さん(真打昇進時は三語楼を襲名。五代目小さんの息子)と古今亭志ん駒は昭和51年に、三遊亭圓丈と柳亭金車は昭和53年に、それぞれ昭和54年昇進組を抜いて真打になった。ただ、こうして見ると、古典の本格派だけが抜擢されているわけではない。
芸術協会が昭和58年までかけて24人の二つ目を真打にしたのに対し、落語協会は40人の二つ目を昭和56年までに真打にした。一般的に、新作派の芸術協会、古典派の落語協会と言われたが、真打問題に関して言えば、落語協会の方がかなり急進的だったと言える。
2018年7月15日日曜日
野の仏
吉田拓郎の『ライヴ’73』というアルバムの中に、「野の仏」という曲がある。作詞は岡本おさみ。「襟裳岬」とか「落陽」などの吉田拓郎屈指の名曲を書いた作詞家である。
そのさわりだけ紹介しよう。
「この頃さっぱり釣りは駄目ですと/高節(こうせつ)くんが言う/昔はこんな大物をと両手を広げて/野の仏笑ったような笑わぬような」
のどかな雰囲気のいい歌で、私は高校の頃から好きだった。(ちなみに、ここに登場する「高節くん」とは、南こうせつのことである。)
だからかどうかは知らないが、野の仏が好きだ。「高節くん」の与太話に「笑ったような笑わぬような」雰囲気が、野の仏には確かにある。
では、最近撮った、野の仏特集であります。
そのさわりだけ紹介しよう。
「この頃さっぱり釣りは駄目ですと/高節(こうせつ)くんが言う/昔はこんな大物をと両手を広げて/野の仏笑ったような笑わぬような」
のどかな雰囲気のいい歌で、私は高校の頃から好きだった。(ちなみに、ここに登場する「高節くん」とは、南こうせつのことである。)
だからかどうかは知らないが、野の仏が好きだ。「高節くん」の与太話に「笑ったような笑わぬような」雰囲気が、野の仏には確かにある。
では、最近撮った、野の仏特集であります。
舟塚古墳の所にあった。六地蔵でしょうか。
上の写真と同じ所。道祖神らしきものが。
権現山古墳のすぐ側にある、小さい前方後円墳にありました。
小さいけど、ちゃんと前方後円墳である。
薬師様の御堂の側にありました。
夏草に埋もれた野の仏。
小美玉市小川地区には女人講から奉納された、こういう石仏がけっこうある。
子育て観音というのかなあ。
以下の二つも小美玉市の小川地区のものである。
2018年7月10日火曜日
昨日の日記
先週は、土日が仕事。昨日は平日だが休みだった。
子どもたちを学校に送り出し、妻と土浦イオンに行く。
昼はレストラン街でランチ。ミラノ風チキンカツレツにパンの食べ放題。
本を買う。石原千秋と小森陽一の対談『漱石激読』。面白い。
2時ごろ帰る。テレビで西日本豪雨被害の惨状を見る。死者は120人を超えた。言葉にならない。
時折、ざっと雨が降ったり、遠くで雷が鳴ったり、かーっと太陽が照りつけたりと、一日中不安定な天気だった。
夕食はハヤシライス。酒は飲まず。
今朝、前の山の百合が咲いていた。本格的な夏がやって来た。
2018年7月7日土曜日
昭和46年(1971年)の香盤
お次は昭和46年の香盤。Suziさんにいただいた「昭和46年度芸能人重宝帳」からの引用となる。
芸術協会から。これも真打のみ記す。
六代目春風亭柳橋 五代目古今亭今輔 四代目三遊亭圓馬 四代目三遊亭圓遊 二代目桂枝太郎 *柳亭痴楽 *八代目雷門助六 四代目桂米丸 三代目三遊亭圓右 桂伸治(十代目桂文治) 春風亭柳昇 三遊亭小圓馬 二代目桂小南 三笑亭夢楽 四代目春風亭柳好 三笑亭笑三 三遊亭右女助 八代目春風亭小柳枝 春風亭柏枝(七代目春風亭柳橋) 五代目三遊亭遊三 柳亭芝楽 三代目柳家金三 桂歌丸 三遊亭小圓遊 鶯春亭梅橋 三代目桂圓枝 三代目橘ノ圓 八代目都家歌六 浮世亭写楽(九代目三笑亭可楽) 桂文朝
昭和23年に名前があったのは、柳橋、今輔、圓馬、圓遊、枝太郎、痴楽の6人。
23年も経てば、大分人も変わる。23年当時前座や二つ目だった、米丸、圓右、伸治、柳昇が中堅真打として協会の屋台骨を支えている。小南は三代目三遊亭金馬の弟子で、23年の時点では協会には属していなかった。昭和26年頃、桂小文治門下として芸術協会に加入している。
痴楽と助六は欄外の扱いになっていた。この頃、痴楽は東京の寄席にはほとんど出演せず、大阪を主戦場にしていた。「綴り方教室」で売れに売れ、そのためか香盤順のトラブルがあったりして、寄席の楽屋にいづらくなったという。助六は大正12年に睦の五郎で真打になっていたが、その後落語家をやめて役者をしており、昭和31年に落語界に復帰した。そういった事情が、この二人の香盤を確定させていなかったのだろう。
次に落語協会。やはり真打のみ。
八代目桂文楽 五代目古今亭志ん生 六代目三遊亭圓生 八代目林家正蔵 六代目三升家小勝 五代目柳家小さん 九代目桂文治 七代目橘家圓蔵 三代目三遊亭小圓朝 十代目金原亭馬生 六代目蝶花楼馬楽 金原亭馬の助 三代目三遊亭圓歌 林家三平 柳家小せん 柳家さん助 古今亭志ん朝 春風亭柳朝 三遊亭圓楽 立川談志 柳家つばめ 月の家圓鏡 三遊亭圓之助 古今亭志ん馬 古今亭圓菊 柳亭燕路 橘家文蔵 三遊亭圓窓 柳家小三治 入船亭扇橋 *四代目三遊亭金馬
五代目柳家小さんに注目してほしい。昭和23年当時小三治だった小さんは、五代目襲名に伴い、小勝の下にまで香盤を上げた。そのため文治、圓蔵、小圓朝といった明治生まれの人たちがそろって抜かれた。この時点で故人となっている九代目鈴々舎馬風は、小さんに抜かれて協会をやめようとまで思ったという。
ここでまた会長人事の話になるが、文楽、志ん生、圓生ときた会長は、その次には正蔵を飛ばして小さんに行く。立川談之助『立川流騒動記』によれば、圓生は「正蔵さんだけは会長にしたくない」と弟子に向かって明言したとのことである。
もう一人、注目すべきは古今亭志ん朝。入門順で言えば、春風亭柳朝から橘家文蔵までを抜いている。志ん朝は父志ん生に入門してわずか5年で、36人を抜いて真打に昇進した。
また当時真打になったばかりの圓窓、小三治、扇橋の3人も抜擢真打。彼らに抜かれた二つ目上位の人たちは、後に小さん会長の下で、大量真打として昇進することになる。
四代目三遊亭金馬は欄外で別格扱い。三遊亭圓丈は金馬について『落語家の通信簿』で「金馬師は落語協会に途中入会したために、ヨソ者扱いされる。途中入会と言っても、もう四十年になるが・・・。」と書いている。この本が書かれたのが2013年、ということはこの頃、金馬は落語協会に入会したばかりだったのだろう。
芸術協会から。これも真打のみ記す。
六代目春風亭柳橋 五代目古今亭今輔 四代目三遊亭圓馬 四代目三遊亭圓遊 二代目桂枝太郎 *柳亭痴楽 *八代目雷門助六 四代目桂米丸 三代目三遊亭圓右 桂伸治(十代目桂文治) 春風亭柳昇 三遊亭小圓馬 二代目桂小南 三笑亭夢楽 四代目春風亭柳好 三笑亭笑三 三遊亭右女助 八代目春風亭小柳枝 春風亭柏枝(七代目春風亭柳橋) 五代目三遊亭遊三 柳亭芝楽 三代目柳家金三 桂歌丸 三遊亭小圓遊 鶯春亭梅橋 三代目桂圓枝 三代目橘ノ圓 八代目都家歌六 浮世亭写楽(九代目三笑亭可楽) 桂文朝
昭和23年に名前があったのは、柳橋、今輔、圓馬、圓遊、枝太郎、痴楽の6人。
23年も経てば、大分人も変わる。23年当時前座や二つ目だった、米丸、圓右、伸治、柳昇が中堅真打として協会の屋台骨を支えている。小南は三代目三遊亭金馬の弟子で、23年の時点では協会には属していなかった。昭和26年頃、桂小文治門下として芸術協会に加入している。
痴楽と助六は欄外の扱いになっていた。この頃、痴楽は東京の寄席にはほとんど出演せず、大阪を主戦場にしていた。「綴り方教室」で売れに売れ、そのためか香盤順のトラブルがあったりして、寄席の楽屋にいづらくなったという。助六は大正12年に睦の五郎で真打になっていたが、その後落語家をやめて役者をしており、昭和31年に落語界に復帰した。そういった事情が、この二人の香盤を確定させていなかったのだろう。
次に落語協会。やはり真打のみ。
八代目桂文楽 五代目古今亭志ん生 六代目三遊亭圓生 八代目林家正蔵 六代目三升家小勝 五代目柳家小さん 九代目桂文治 七代目橘家圓蔵 三代目三遊亭小圓朝 十代目金原亭馬生 六代目蝶花楼馬楽 金原亭馬の助 三代目三遊亭圓歌 林家三平 柳家小せん 柳家さん助 古今亭志ん朝 春風亭柳朝 三遊亭圓楽 立川談志 柳家つばめ 月の家圓鏡 三遊亭圓之助 古今亭志ん馬 古今亭圓菊 柳亭燕路 橘家文蔵 三遊亭圓窓 柳家小三治 入船亭扇橋 *四代目三遊亭金馬
五代目柳家小さんに注目してほしい。昭和23年当時小三治だった小さんは、五代目襲名に伴い、小勝の下にまで香盤を上げた。そのため文治、圓蔵、小圓朝といった明治生まれの人たちがそろって抜かれた。この時点で故人となっている九代目鈴々舎馬風は、小さんに抜かれて協会をやめようとまで思ったという。
ここでまた会長人事の話になるが、文楽、志ん生、圓生ときた会長は、その次には正蔵を飛ばして小さんに行く。立川談之助『立川流騒動記』によれば、圓生は「正蔵さんだけは会長にしたくない」と弟子に向かって明言したとのことである。
もう一人、注目すべきは古今亭志ん朝。入門順で言えば、春風亭柳朝から橘家文蔵までを抜いている。志ん朝は父志ん生に入門してわずか5年で、36人を抜いて真打に昇進した。
また当時真打になったばかりの圓窓、小三治、扇橋の3人も抜擢真打。彼らに抜かれた二つ目上位の人たちは、後に小さん会長の下で、大量真打として昇進することになる。
四代目三遊亭金馬は欄外で別格扱い。三遊亭圓丈は金馬について『落語家の通信簿』で「金馬師は落語協会に途中入会したために、ヨソ者扱いされる。途中入会と言っても、もう四十年になるが・・・。」と書いている。この本が書かれたのが2013年、ということはこの頃、金馬は落語協会に入会したばかりだったのだろう。
2018年7月5日木曜日
2018年7月3日火曜日
続昭和23年の香盤
前回の昭和23年、香盤の続き。
東宝名人会専属の落語家を忘れてた。次に挙げる。
三代目三遊亭金馬 七代目林家正蔵(初代三平の父) 初代柳家権太楼 昔々亭桃太郎(柳家金語楼の実弟) 林家三平 山遊亭金太郎(二代目桂小南) 三遊亭小金馬(四代目三遊亭金馬
多分、桃太郎までが真打。桃太郎の真打昇進がいつ頃なのかは分からない。キャリアからいって、この時点では真打になっていたのではないかと思う。
ものはついで、芸術協会と落語協会で、二つ目でその後が明らかになっている人たちを紹介しておこう。
まずは芸術協会。
桃源亭花輔(翌年、鶯春亭梅橋で真打。眼鏡をかけたまま高座に上がった最初の落語家とされる。推理小説家都築道夫の実兄) 古今亭今児(桂米丸) 林家正太郎(七代目春風亭小柳枝 色川武大言うところの“しょぼしょぼの正太郎”) 桂伸治(十代目桂文治) 春風亭柳之助(春風亭柳昇) 三笑亭可寿美(三笑亭笑三) 桂小竹(桂小金治 将来を嘱望されながら映画に転向。タレントとして活躍したが、老年になって落語を演じた。)
では落語協会。
こちらは、春輔、志ん三、花蝶、志ん朝といった名前が見えるが、この人たちは落語家として残っていない。唯一、むかし家今松だけが後の金原亭馬の助となった。
おっと、よく見たら三遊亭歌治、本名中沢信夫というのがあった。歌治はこの年の4月に歌奴で二つ目昇進する。御存知、「授業中」で売れに売れ、三代目三遊亭圓歌となったお人。
調べてみたら、今松の二つ目昇進がこの年の3月。ということは、この名簿が作られたのは昭和23年3月ということか。
* * *
桂歌丸師が亡くなった。
多くのメディアで取り上げられ、色々な人がその功績を讃え死を悼んでいるので、あまり熱心な聴き手でなかった私としては、長々と述べることは避けたい。
テレビの演芸番組最後の牙城とも言うべき「笑点」を長きにわたって支えて来たこと、圓朝作の人情噺、怪談話を今の世に継承したこと、この二つを同時に成し遂げたのは本当にすごい。師の噛んで含めるような、締めた調子の語り口は、圓朝ものにぴったりだったと思う。最初の師匠五代目古今亭今輔は新作落語の闘将として知られたが、怪談噺の「もう半分」や、圓朝作「塩原多助一代記」なども得意としていた。この辺りに私は芸の系譜を感じる。
この前の日曜日、笑点の冒頭で三平を相手に掛け合いをしているのを、次男と一緒にげらげら笑いながら見た。その翌日の訃報だった。
落語ファン以外の一般の人を含めれば、いちばん有名な落語家だったのではないか。
長い間お疲れ様でした。ご冥福をお祈り申し上げます。
東宝名人会専属の落語家を忘れてた。次に挙げる。
三代目三遊亭金馬 七代目林家正蔵(初代三平の父) 初代柳家権太楼 昔々亭桃太郎(柳家金語楼の実弟) 林家三平 山遊亭金太郎(二代目桂小南) 三遊亭小金馬(四代目三遊亭金馬
多分、桃太郎までが真打。桃太郎の真打昇進がいつ頃なのかは分からない。キャリアからいって、この時点では真打になっていたのではないかと思う。
ものはついで、芸術協会と落語協会で、二つ目でその後が明らかになっている人たちを紹介しておこう。
まずは芸術協会。
桃源亭花輔(翌年、鶯春亭梅橋で真打。眼鏡をかけたまま高座に上がった最初の落語家とされる。推理小説家都築道夫の実兄) 古今亭今児(桂米丸) 林家正太郎(七代目春風亭小柳枝 色川武大言うところの“しょぼしょぼの正太郎”) 桂伸治(十代目桂文治) 春風亭柳之助(春風亭柳昇) 三笑亭可寿美(三笑亭笑三) 桂小竹(桂小金治 将来を嘱望されながら映画に転向。タレントとして活躍したが、老年になって落語を演じた。)
では落語協会。
こちらは、春輔、志ん三、花蝶、志ん朝といった名前が見えるが、この人たちは落語家として残っていない。唯一、むかし家今松だけが後の金原亭馬の助となった。
おっと、よく見たら三遊亭歌治、本名中沢信夫というのがあった。歌治はこの年の4月に歌奴で二つ目昇進する。御存知、「授業中」で売れに売れ、三代目三遊亭圓歌となったお人。
調べてみたら、今松の二つ目昇進がこの年の3月。ということは、この名簿が作られたのは昭和23年3月ということか。
* * *
桂歌丸師が亡くなった。
多くのメディアで取り上げられ、色々な人がその功績を讃え死を悼んでいるので、あまり熱心な聴き手でなかった私としては、長々と述べることは避けたい。
テレビの演芸番組最後の牙城とも言うべき「笑点」を長きにわたって支えて来たこと、圓朝作の人情噺、怪談話を今の世に継承したこと、この二つを同時に成し遂げたのは本当にすごい。師の噛んで含めるような、締めた調子の語り口は、圓朝ものにぴったりだったと思う。最初の師匠五代目古今亭今輔は新作落語の闘将として知られたが、怪談噺の「もう半分」や、圓朝作「塩原多助一代記」なども得意としていた。この辺りに私は芸の系譜を感じる。
この前の日曜日、笑点の冒頭で三平を相手に掛け合いをしているのを、次男と一緒にげらげら笑いながら見た。その翌日の訃報だった。
落語ファン以外の一般の人を含めれば、いちばん有名な落語家だったのではないか。
長い間お疲れ様でした。ご冥福をお祈り申し上げます。
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