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2018年7月25日水曜日

戦地からの葉書②

前回の続き。

やがて伯父自身の召集も近づいてくる。

「拝啓 其の後は暫く御無沙汰致しました。
貴君には其の後増々御壮健の御事と思います。私も御陰様にて元気で居ります故、他事ながら御安心下さい。貴君も今年適齢の年配に検査の結果は如何で御座居ましたか。小兵、過日貴君が見事甲種合格になりました夢を見ましたよ。早く貴君の懐かしい其の良き御返事を待って居ります。去年の今頃貴君らと肩を並べて青年学校に通学した事が今になって如何にも懐かしく思い出されます。其の内此ちらの様子追って申し上げるつもりです。では時節柄御身に充分御大切に。さようなら。 
中支派遣軍甘粕部隊飯田部隊赤鹿隊 ****   7月15日」

検査は20歳には必ず受けることになっていたというから、伯父が受けたのは昭和15年か。青年学校本科5年は19歳で修了らしいので、「去年の今頃貴君らと肩を並べて青年学校に通学した」ということは平仄に合う。

この後葉書は祖父宛のものになる。

「拝啓朝夕の風はめっきり秋の気配殊に著しく感ぜられてまいりました。其の後は意外なる御無音に打過ぎ申し訳ありません。悪しからず御許し下さい。皆様には御変わり有りませんか御伺い申し上げます。
僕もお蔭様にて元気に軍務に精励して居りますから他事ながら御安心下さい。
三郎君は此の度身苟くも選び征せられて愈々護国の大任を負担する光栄をえ此の奉公の期間を完全に服務せられんことをお祈りいたします。 
朝鮮(二字不明)第四十三部隊平山隊 ****」

三郎というのは伯父の名である。伯父は昭和17年10月に召集され、翌年の1月、ビルマ派遣軍に編入されてビルマに渡った。だから、この葉書は昭和18年の秋に書かれたことになる。

「拝啓 昭南に転勤になって早や半月です。田舎から都会へ勝手が判らず困りました。三郎君の宛名が判りましたら御知らせ下さい。今僕の住居はケンヒルストリートと云う処で小丘の多い気分の良い処です。 早や一年です。もう一頑張りです。南方建設に御奉公です。甚だ非力ですが。皆様御元気で。 草々
昭南市デ・スーザーストリート日本発送署南方局 ****」

この葉書は、川崎の伯父のものだ。彼の所に三郎さんの姉が嫁いでいる。伯父は東電の技師をしていた。そうか、川崎の伯父さんはシンガポールにいたんだ。
次の葉書は川崎の伯父の弟から来たものらしい。

「拝啓 御無沙汰致しまして申し訳もありません。(以下数文字不明)さぞかし御多忙の御事と拝察致します。
(数文字不明)内地からのお便りにて、今般、三郎さんも名誉の召集とのこと、(以下数文字不明)さぞかしと存じます。御苦労様です。私の部隊へでも来てくだされば何かと御話相手になれますものをと存じますが、もう現在の如く(四字不明)の統制の整備致しました今日では決して御心配の様なこともありますまいと存じます故、御気になさらず、前線の兵士の何よりの楽しみな、内地からの手紙ですから、精々御手紙にて御励まし下さいませ。
私の出征に思いもかけず父の不幸もあり、近く征途につく**もきっと随分淋しかろうと存じますが、何分よろしく願います。父の生前の遺言として**は大切な**家の跡取りであります故、せめて出征までには兄か私が帰還すればよいのですが、命令に動く我らはなかなかに自由には参れません故、後事は何分よろしくお頼み致します。 先ずは平素の御無沙汰御詫び方々御見舞いまで。
ジャワ派遣治第一〇三三一部隊本部 ****  3月16日」

「もう現在の如く(四字不明)の統制の整備致しました今日では決して御心配の様なこともありますまいと存じます」とあるからには、祖父は何か三郎さんの軍隊生活に心配なことがあって相談したにちがいない。
後半には跡取り問題の切実な思いが綴られている。
戦争というものは国民に本当に迷惑をかけるものなのだ。当時の軍部にそのような意識があったとは到底思えない。

「東部三十七連隊美留町隊 **三郎君(本人不在のため実家に廻送) 
拝啓 其后三郎君、君は元気かね。
俺も相変わらず元気旺盛だ。貴君の父から便りがあって隊名が知ったのだ。大分骨が折れるだろう。昨年の今頃が想像されるネ。共に元気で働こう。当地はとうに雪が降り○○の連山が目前に聳えて居る。本当に緊張して居るよ。想像出来るだろう。貴君たちの渡満も楽しみだ。では呉れ呉れも御身大切に。先ずは御一報。(二字不明)は后便にて。 
満州国東安省半截河舘野隊子次隊 ****」

これは伯父宛なのが実家に転送されてきたもの。「本人不在のため」とはどういうことか。伯父はこの時点ですでに本隊から離れていたということか。
差出人はお向かいのおじさん。彼は生還して、90歳ぐらいまで生きた。私が小さい頃、兵隊に行った時の傷だ、と言って、足の傷跡を見せてくれたことがある。酒に酔うと、軍隊仕込みなのだろうか、春歌を歌って私たちを笑わせた。
「昨年の今頃が想像されるネ」というところを見ると、召集されて1年か。「とうに雪が降り」ということは冬なのだろうな。伯父は昭和17年10月に召集されたから、このおじさんも同じ頃に入隊したのかもしれない。「○○の連山」は原文通り。作戦上具体名は書けなかったものらしい。

次の葉書は終戦後のもの、祖父宛である。

「謹啓 時下秋冷の候と相成りました。
御尊家御一同様御健勝のことと存じ申し上げます。
扨て此度三郎様御戦死との由承り、驚き入り御両親様の御心境如何ばかりの事と御察し申し上げます。実は早速参上御悔み申し上げたく存じ居りますが、目下表記療養中にて失礼至極に存じますが、取敢えず書面を以て謹みて御悔み申し上げます。 御一同様呉れ呉れも宜敷く御(二字不明)下されたく御願い申し上げます。 敬白  
土浦市国立霞ケ浦病院六ノ一 ****  昭和22年10月16日」

伯父が戦死したのは昭和20年7月20日。それが分かったのは2年も経ってから、ということになろうか。差出人も療養中。皆大変だったのだ。

これらは、資料としては大した価値はないかもしれないが、我が家にとっては大切なものだ。だからこそ、祖父も父も残しておいたのだろう。
これを読むまで墓石や位牌でしか知らなかった伯父の、人間としての側面に触れることができたのは有難い。

絵葉書は中国からのもの。



シンガポールの消印。

検閲印である。

私は戦争を知らない。でも、その時何があったのか、人はどう生きたのかを、私は知りたいと思う。

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