まずは芸術協会。名簿順に通し番号を付け、真打ち昇進の年と月を調べてみた。
真打昇進年月 | ||
1 | 春風亭扇枝 | 昭和47年4月 |
2 | 三遊亭圓太 | 昭和47年4月 |
3 | 三遊亭千遊(三遊亭遊朝) | 昭和47年4月 |
4 | 春風亭栄橋 | 昭和48年10月 |
5 | 三遊亭圓輔 | 昭和49年4月 |
6 | 三遊亭若馬 | 昭和49年4月 |
7 | 桂枝松(桂枝助 | 昭和49年4月 |
8 | 春風亭橋之助(八代目春風亭梅枝→華柳) | 昭和50年4月 |
9 | 三遊亭笑遊(五代目三遊亭圓遊) | 昭和51年4月 |
10 | 桂欣治(桂文生) | 昭和49年10月 |
11 | 三笑亭茶楽 | 昭和51年4月 |
12 | 桂南笑(桂南喬) | 昭和52年3月 |
13 | 三笑亭夢八(三笑亭夢丸) | 昭和53年4月 |
14 | 春風亭笑好(九代目春風亭小柳枝) | 昭和53年10月 |
15 | 三遊亭とん馬(廃業) | |
16 | 三遊亭遊三郎(昭和53年に三遊亭相馬の名前あり。) | |
17 | 雷門花助(雷門五郎) | 昭和56年10月 |
18 | 春風亭柏葉(昭和44年、映画「新与太郎戦記に出演?) | |
19 | 桂南八 | 昭和56年10月 |
20 | 春風亭とん橋(昔々亭桃太郎) | 昭和56年10月 |
21 | 三笑亭夢二(三笑亭夢太朗) | 昭和56年4月 |
22 | 桂米助 | 昭和56年10月 |
23 | 三遊亭栄馬 | 昭和56年4月 |
24 | 三遊亭春馬(三遊亭圓雀) | 昭和58年4月 |
ほとんどが名簿順に真打昇進している。抜擢は桂文生(昭和60年1月に落語協会に移籍)ぐらい。昇進人数も多くても1回で3人までだ。
では、昭和46年、落語協会の二つ目。
真打昇進年月 |
1 | 三升家勝弥(七代目三升家小勝) | 昭和48年3月 |
2 | 立花家橘松(橘家圓平) | 昭和48年3月 |
3 | 三遊亭さん生(川柳川柳) | 昭和48年3月 |
4 | 吉原朝馬 | 昭和48年3月 |
5 | 柳家小のぶ | 昭和48年3月 |
6 | 柳家かゑる(十代目鈴々舎馬風) | 昭和48年3月 |
7 | 三升家勝二(八代目三升家小勝) | 昭和48年3月 |
8 | 桂小益(九代目桂文楽) | 昭和48年3月 |
9 | 桂枝治(七代目春風亭栄枝) | 昭和48年3月 |
10 | 柳家さん吉 | 昭和48年3月 |
11 | 三遊亭好生(春風亭一柳) | 昭和48年9月 |
12 | 桂文平(六代目柳亭左楽) | 昭和48年9月 |
13 | 三遊亭歌笑 | 昭和48年9月 |
14 | 三遊亭圓弥(三遊亭圓彌) | 昭和47年9月 |
15 | 三遊亭生之助 | 昭和48年9月 |
16 | 橘家三蔵 | 昭和48年9月 |
17 | 林家こん平 | 昭和47年9月 |
18 | 柳家小きん(六代目柳家つば女) | 昭和48年9月 |
19 | 三遊亭歌雀(三代目三遊亭歌奴) | 昭和48年9月 |
20 | 柳家さん弥(二代目柳家小はん) | 昭和48年9月 |
21 | 林家木久蔵(林家木久扇) | 昭和48年9月 |
22 | 金原亭桂太(金原亭伯楽) | 昭和48年9月 |
23 | 林家時蔵(はやし家林蔵) | 昭和50年9月 |
24 | 桂小勇(柳家小満ん) | 昭和50年9月 |
25 | 柳家小もん(二代目柳家菊語楼) | 昭和54年3月 |
26 | 桂文七(十代目翁家さん馬) | 昭和54年3月 |
27 | 金原亭馬六(鈴の家馬勇) | 昭和54年3月 |
28 | 柳家小ゑん(六代目柳家小さん) | 昭和51年9月 |
29 | 古今亭志ん駒 | 昭和51年3月 |
30 | 柳家とんぼ(柳亭風枝) | 昭和54年3月 |
31 | 桂楽之助(橘家二三蔵) | 昭和54年3月 |
32 | 柳家小丸(柳亭金車) | 昭和53年3月 |
33 | 三升家勝松(四代目桂文字助) | 昭和55年9月 |
34 | 三遊亭ぬう生(三遊亭圓丈) | 昭和53年3月 |
35 | 三遊亭旭生(三遊亭圓龍) | 昭和56年3月 |
36 | 金原亭馬太呂(金原亭馬好) | 昭和54年9月 |
37 | 林家照蔵(八光亭春輔) | 昭和54年9月 |
38 | 柳家小団治 | 昭和54年9月 |
39 | 柳家小三太(七代目柳亭小燕枝) | 昭和55年3月 |
40 | むかし家今松 | 昭和56年3月 |
まず目を引くのが、人数が多いこと。芸術協会が24名なのに対し、落語協会は40名もいる。それが真打昇進年月に影響する。
協会の会長が三遊亭圓生から五代目柳家小さんに交代するのが、この名簿の翌年、昭和47年。その翌年の昭和48年3月に10名、同年9月に10名を真打にした。圓生を激怒させた大量真打である。圓生は昭和48年3月には三遊亭さん生(後に川柳川柳)、同年9月には三遊亭好生(後に春風亭一柳)、三遊亭生之助と自分の弟子が昇進したのにもかかわらず、口上にも披露宴にも参加しなかった。そして、昭和53年にも落語協会の理事会は10人の二つ目を真打に昇進させることを決定。これが引き金となって落語協会分裂騒動が勃発する。
一方で抜擢された者もいる。三遊亭圓彌と林家こん平は、昭和48年昇進組を抜いて昭和47年9月に昇進。六代目柳家小さん(真打昇進時は三語楼を襲名。五代目小さんの息子)と古今亭志ん駒は昭和51年に、三遊亭圓丈と柳亭金車は昭和53年に、それぞれ昭和54年昇進組を抜いて真打になった。ただ、こうして見ると、古典の本格派だけが抜擢されているわけではない。
芸術協会が昭和58年までかけて24人の二つ目を真打にしたのに対し、落語協会は40人の二つ目を昭和56年までに真打にした。一般的に、新作派の芸術協会、古典派の落語協会と言われたが、真打問題に関して言えば、落語協会の方がかなり急進的だったと言える。
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