『立川談志遺言大全集14 芸人論二 早めの遺言』を読んでいたら、出口一雄について書かれた箇所があった。
民放の誕生とともに、落語を含めた寄席演芸番組がゴールデンタイムのトップに躍り出る、特に東京では、後のTBSであるラジオ東京、関西では朝日放送が特に力を入れていた、という記述に続いて、談志はこんなことを書いている。
「東の方には出口一雄という辣腕な、ポリドールレコードから引き抜かれた演芸部長がデンと座り、関西には出口氏の無二の親友であり、よく似た気性、芸に対する価値基準が似ていた松本昇三氏。この二人にどういうわけだか柳家小ゑん(二つ目時代の談志)は愛された。生意気だからだったからかもしれない。」
そして、出口、松本の二人は東西交流を考える。その第一回目の東京からの派遣落語家が柳家小ゑんであったというのである。
談志は出口一雄について何度か語っているが、自身との交流を述べている文章は、私が読んだ限りでは、これしかない。
早速、出口は談志についてはどう思っていたのか、出口一雄の姪、Suziさんにメールで訊いてみた。
その返信に言う。
「私の知る限りでは、東京中学〔今はない〕の後輩で、あのキザさを根っから嫌っていました。
『あいつは中学の後輩だけどナ、江戸っ子なんかじゃねえ。キザな野郎だ。江戸っ子がキザ?、見られたもんじゃねえよ。だけど頭の回転はいいよ。凄い』
それしかワカリマセン。
だから『絶対に俺のプロにゃ入れねえし、頼まれたってゴメンこうむる』って言ってました。
波長がなんとも合わない相手だったようです。
それしかありません。
私自身は、彼のあの話し方が嫌いでした。口先でちょぼちょぼ話すのが嫌い。江戸っ子のあの歯に衣着せぬ、ポンポン言うのでなくちゃ嫌です。
しかし、彼はこれを武器にしたんではないでしょうか?
ネタはあちこち行って多くを吸収し、落語学〔?〕もきちんと勉強し、基礎も知識も持っていました。若者にはこれが受けたんでしょうねえ。そんな気がします。
今となっては古い記憶。もう詳細は思い出せません。」
相変わらず「歯に衣着せぬ」見事な論評である。
後の四天王では、出口さんの好みで言えば、一に、その才能と人柄をこよなく愛した古今亭志ん朝であり、二に、デグチプロを引き継いだ八代目橘家圓蔵(当時の月の家圓鏡)だったろう。小賢しい印象を与える、五代目三遊亭圓楽や立川談志は、あまり好きではなかったかもしれない。
しかし、その彼を、東西若手落語家交流において、第一回目の派遣落語家に抜擢するのだから、好き嫌いで仕事をしない出口一雄の、面目躍如といったところではないか。
内海桂子が「当時の若手で、出口さんの世話になっていない者はいない」と言っていたけど、本当だったのだなあ、と今更ながらに思う。