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2018年8月4日土曜日

戦地からの葉書 その後

この前、母屋の本棚を見ていたら、村の戦没者名簿をみつけた。
めくってみると、伯父さんに便りをくれた人の名前もあった。その後の彼らを辿ってみたい。

まず伯父の青年団の先輩。
この人は葉書では 「南支派遣基第二八〇三部隊野口隊」に所属していた。
昭和16年6月に入隊。昭和20年6月25日、ビルマのパアンで戦死している。享年28歳。衛生伍長だった。
もう一人、「戦地からの葉書②」の冒頭、伯父が甲種合格になる夢を見た人。彼は、うちのすぐ近所の人だった。
葉書では「北支桜井部隊(一字不明)村部隊小池隊」から「中支派遣軍甘粕部隊飯田部隊赤鹿隊」と所属が変わっている。
入隊は昭和15年2月。昭和18年3月17日、ビルマのアラカンで戦死。享年25歳、陸軍伍長だった。ビルマというとインパール作戦がすぐ頭に浮かぶが、調べてみると、その前に第1次アラカン作戦というのがあったらしい。
日本軍が駐留していたインド国境付近のアキャブを奪還すべく、昭和17年12月イギリス軍が攻撃を開始。その援軍に日本軍は第55師団を送った。第55師団はアラカン山脈を踏破してイギリス軍の側面を急襲し勝利を収めた。これが昭和18年3月末。近所のおじさんは、多分この戦闘で亡くなったのだろう。アラカン山脈踏破をイギリス軍は不可能と思っていた。過酷な行軍だったと予想される。あるいは行軍中の死だったのかもしれない。召集から3年、中国戦線を転戦し、最後はビルマに回されての死だった。
三郎伯父は昭和17年10月入隊、昭和20年7月20日、ビルマのトングーで戦死。享年26歳、陸軍伍長だった。三人は巡り巡って同じビルマの地で死んだことになる。小さな農村でつつましく暮らしていた彼らが、なぜこんな遠い異国で死ななければならなかったのだろう。

戦没者名簿には母方の祖父の名もあった。
祖父は昭和16年、長女(つまり私の母)の4歳の誕生日に召集され、昭和18年2月3日、ニューギニアのワウ付近で戦死した。享年34歳、陸軍軍曹だった。
飛行場のあったワウを攻略しようとサラモアを出発したのが、昭和18年1月16日。兵士に支給された食糧は10日分。ワウに到着したのは11日後の1月27日。この時点で、もはや食糧はほとんどない。守備隊のオーストラリア軍は日本軍の夜襲を受け、いったんは守勢にまわったが、空輸による増援を受けて盛り返す。一方食糧の尽きていた日本軍はじりじりと後退し、ついに2月14日に作戦中止、木の実や野草を食べながら撤退したという。兵士は消耗し、ほとんどが倒れた。祖父が死んだのは2月3日だから、オーストラリア軍との激戦の中、死んだのだろう。
オーストラリア軍が空輸によって兵員、物資を補強したのに対し、日本軍は食糧などワウを奪取して現地調達すればよい、という考えであった。兵士が人間であるという視点が全く欠落している。日本軍は、兵士の命を、召集令状の郵便代、「一銭五厘」程度にしか考えていなかった。
祖父は地元の農業協同組合の設立に力を尽くした。生きていれば、県の農政に大きく貢献しただろうと、後に要職に就いた彼の後輩が言っていたという。

彼らは国を守るために死んだと人は言う。国を守るためと言うのなら、なぜ彼らはあんなに遠くまで行かされて死んだのか。彼らの死を美しい物語にしてはいけない。

真夏の花、さるすべり。
「蝉時雨 昭和も遠くなりにけり」風柳

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