『関東大震災の禍根―茨城・千葉の朝鮮人虐殺事件―』(桜井優子・五島智子/筑波書林)
茨城大学の卒業論文を基にしたもの。
千葉県は習志野連隊がらみで虐殺があったことは知っていたような気がするが、茨城県にもこういうことがあったのだなあ。
当時の新聞記事や、事件を知る人々の証言を丹念に積み重ね、事の真相に迫って行く。誠実で真摯な記録。いかにも真面目な女子大生の仕事である。
『証言集 関東大震災直後 朝鮮人と日本人』(西崎雅夫編/ちくま文庫)
こちらは、「文化人、庶民、子供の作文、公的資料が伝える朝鮮人虐殺事件」とある。生々しい、しかも膨大で詳細な証言の数々に圧倒される。
大正12年9月1日午前11時58分、相模湾の北西部を震源として、マグニチュード7.9の地震が発生した。これによって首都圏は壊滅状態となり、死者99331人、行方不明43476人という甚大な被害を受けた。
この震災による犠牲者は地震や津波、それに伴う火災によるものだけではなかった。地震直後から、「朝鮮人が暴動を起こし、爆弾による放火や井戸への投毒が行われている」というデマが流布し、多くの朝鮮人が暴行を受けて殺された。朝鮮人ばかりではない。中国人、社会主義者、朝鮮人に間違われた人たちも犠牲となった。
阪神淡路大震災当時の自治大臣で国家公安委員長だった故野中広務は、辛淑玉との対談『差別と日本人』の中でこんなことを言っている。
「『関東大震災の二の舞は絶対にしてはいけない』。これは当時、警察庁長官だった國松孝次さんが最初に徹底的に言うたこと。彼は兵庫県警本部長をしておったので、兵庫のことと、長田(神戸市において在日コリアンが多く居住していた区域)のことも一番よく知っている。」
関東大震災時には、警察や軍もデマを拡散していた。その反省は、阪神淡路大震災にも、東日本大震災にも生かされたと思う。歴史に学ぶ謙虚さを、権力の中枢にいる人たちが持っていたことに安堵したい。
しかし、未だに「実際に朝鮮人による暴動はあった」などと言う人もいる。根拠は何かというと、当時の新聞に書いてあるからだと言う。
『関東大震災の禍根―茨城・千葉の朝鮮人虐殺事件―』の茨城新聞の記事の記録を見ると、確かに9月4日付に「朝鮮人二千の掠奪 毒薬を井戸に投入した噂」、9月5日付でも「不逞鮮人団の目標 胸に赤布は爆弾組 黄色の布は毒薬組」という記事がある。
しかし9月9日付になると「鮮人行為に虚伝多し 戒厳司令部発表」とあり、9月12日付では「徒らに昂奮して 鮮人を憎悪するなかれ 第十四師団参謀長 井染禄郎氏談」となっている。
ちゃんと新聞は、当局の公式発表として、朝鮮人による暴動が「虚伝」であることを報じているし、朝鮮人に対する暴行をやめるよう呼びかけてもいるのである。(遅きに失した感は否めないが)
犠牲者の数がはっきりしないことを問題視する人もいるが、そもそも当時、日本政府がそれらの調査に消極的だったことが原因であって、それをもって「虐殺はなかった」ということにはできないだろう。虐殺を裏付ける、それを目撃した人の証言は、膨大な数に上っているのだから。
東京都の小池百合子知事は、「関東大震災で犠牲になった全ての方々を追悼したい」として、虐殺事件の犠牲者への追悼文を、昨年に引き続き今年も送らないことに決めた。自然災害の犠牲者と、それを生き延びた後に人によって殺された人々を同一に扱うことで、虐殺の事実が覆い隠されてしまうのではないか、という指摘は多いが、小池氏はそれに対してきちんと答えようとはしない。
当時、酷い朝鮮人差別があったからこそ、「日頃の復讐のため、彼らが暴動を起こした」というデマに、少なからぬ日本人は恐怖し過剰に反応したのだ。『証言集 関東大震災直後 朝鮮人と日本人』の後書きには「今でも大きな地震があるたびに外国人を排斥するデマが流れる。『朝鮮人を殺せ!』というヘイトスピーチが大音量で街頭を流れる。日本社会には九五年前と変わらぬ光景が現れつつある。その恐ろしさの一端を本書で感じていただけたら幸いである。」と書かれている。あの時、何があったのか。それを知ろうとすることは、極めて今日的な問題なのだと、私は思う。
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