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2022年2月1日火曜日

木下華声のこと

ロスアンゼルスのSUZIさんから、メールをいただく。古い写真が見つかったので送るとのこと。SUZIさんは、八代目桂文楽のマネージャー、出口一雄の姪御さんである。

写真は出口一雄夫婦と、出口の弟であるSUZIさんの父君一家の写真。「私の祖父十三回忌の時の写真です。1957年頃で、私が15才くらいだと思います。撮影者は私です」とのことであった。

SUZIさんの祖父、つまり出口一雄の父策一は、貿易商として一代で財を成したが、信頼していた部下に裏切られ会社を乗っ取られた。老後はSUZIさんの父君の家に同居することになった。

「これは、伯父が何度も何度も結婚、離婚の人で、女出入りの激しい人でしたからねえ。到底祖父母が一緒に住める状態の生活ではなかったからです」SUZIさん談)

その写真はこちら。

 詳細は以下の通りである。

 向かって右奥は叔母(末っ子で伯父、父の妹)。叔母の後ろで笑っているのが、伯母の母(出口一雄の義母)。手を口に当てている男の子は叔母の息子。飲み過ぎで肝臓やられ、47で亡くなりました。横向きの子は私の弟。右父(横向きの男性)の横にいるのが私の妹。伯父(墓石の前でシャツをはだけている男性・出口一雄)の左となりは伯母(一雄の妻)。母が居ないのは、きっとお寺さんと話しているのでしょう。

可笑しなご縁で、伯母の家のお墓も同じこのお寺で、お墓もすぐそば、と言うおかしな縁です。この寺には芸者で、歌手の市丸さんのお墓もありますよ。

 

ここに「二代目江戸家猫八」こと木下華声が写っているという。後方左に写っている人物がそれである。

「なぜ、彼が写っているんですか?」と聞いたところ、「 古い、古い付き合いの仲で、伯父、父の独身時代、ポリドール時代からです。亡くなった祖父母もの事も知っているからじゃないでしょうかねえ??」という答えが返って来た。

 

 

木下華声の本を持っていたことに気づいて、物置を探してみたら、あった。昭和52年(1977年)に大陸書房から出た『芸人紙風船』という本だ。私はこれを随分前に古本屋で買った。「田園書房 新丸子店・元住吉店」の札が付いている所を見ると学生時代に買ったのだろう。




では、『芸人紙風船』を基に、華声についてまとめてみる。

 

木下華声は明治44年(1911年)、東京御徒町に生まれた。


父親は大物五厘の春風亭大輿枝(だいよし)。「五厘」について『図説・落語の歴史』(山本進・河出書房新社)がこう解説をしている。

 

“五厘”というのは各興業ごとの芸人の顔ぶれの決定や、給金ほか、契約上の問題など、落語家と席亭の間の周旋を業とする者のことで、五厘(5パーセント)の手数料をとったので、その名がある。

 

大輿枝という人は敏腕プロデューサーという側面もあって、三代目柳家小さんを真打にして世に出し、大道芸人の初代江戸家猫八を見出した。(とすれば、昭和のプロデューサー出口一雄を彷彿とさせるではないか)


しかし、五厘という存在には、前述の『図説・落語の歴史』にも、「阿諛、専横の振る舞いがあって、席亭、芸人の両方から恨まれたらしい」とあるように色々と問題があったらしい。大正の頃には排斥されるようになり、大輿枝も大正6年〈1917年〉伊藤痴遊との衝突をきっかけに職を失った。


華声は、大正8年(1919年)、三代目小さんの配慮で、落語と手踊りで初高座を踏み、その後(大正14年頃か)初代猫八の旅興行について行った。小さんも猫八も、父大輿枝への恩返しだったのだろう。華声は猫八の下で小猫八を名乗り、物真似の修業をした。


芸歴としては、大正10年(1921年)、二代目三遊亭金馬に入門し金時、大正14年(1923年)には三升家小勝門に転じて勝頼を名乗る。そして昭和6年(1931年)、二代目江戸家猫八を襲名して真打の看板を上げた。口上には初代猫八、三代目小さん(※華声の記述に拠ったが、小さんは前年に亡くなっており、これは記憶違いだろう)、談洲楼燕枝、五代目左楽、八代目文治などの超大物がずらりと並んだという。かつての大物、大輿枝の息子だからこその豪華メンバーだった。


昭和10年には漫談に転向。大阪吉本でボーイズをやったり、東京に戻って俳優をやったり、多才な人だったのだろう。昭和26年(1951年)に初代猫八の息子、岡田六郎に三代目猫八を襲名させ、自らは木下華声となった。


木下華声という名前は、昭和8年(1933年)に、東宝名人会に出演した時から名乗っていた。「猫八」というのが元大道芸人の名だから東宝には出せない、と言われたので、久保田万太郎に付けてもらったのである。由来はこうだ。漫談の大家は「徳川」(徳川夢声のことか)、それに対抗して「豊臣」といきたいが、まだその域には達していないから木下藤吉郎からとって「木下」、声帯模写で色々な声を出すから「華声」、それに貧乏で始終「貸せい貸せい」と言っているからちょうどいい、というわけだ。万太郎は「猫八が木下華声となる師走かな」という句まで添えてくれた。ボーイズや俳優、司会など、寄席芸以外をやる時には木下華声で出ていたようだ。


戦後は物真似、漫談で寄席、テレビ、ラジオに出演、また巷談・作家としても活躍した。

 

木下華声についてのSUZIさんのコメントを以下に記す。


 戦後はヒロポンやって頭髪が急になくなったりして、物まねの質も落ちたりしました。

よく父の所へも来ていましたねえ。


奥さんは看護婦さんのとっても人のできた、大人でした。


戦後はとにかく芸人社会にヒロポンが流行り、楽屋で打っているのを、子供の私も見た覚えがあります。母親が打って子供におっぱいを飲ませると子供もその気配が出るんです。


父に「今言っても難しいかもしれないけど、この姿をよ~~く見て覚えて置けよ」と言われ、それが妙に重く、父の真剣さが子供ながら覚えています。


私は育った環境もあり、戦後傷病兵として帰還した人が、モルヒネ中毒となり、大暴れして診療所に担ぎ込まれ、それを抑えるのに、ティーンの私も手伝わされた記憶があります。


でもなぜ、この時代になって、父の所に飛び込んできたかは不明です。父は麻薬扱いの資格は持っていましたから、それかな?とも思いますが。


そして父は、私が中学生くらいの時、その資格はもう要らん、と返上していたのを覚えています。

 

ヒロポンは戦後、大流行した。先代の鈴々舎馬風や柳家三亀松などがその愛好者としては有名だ。プロ野球の伝説の名選手「青バット」の大下弘の母親はヒロポン中毒で、彼の年俸の多くがその薬代に費やされたという。小説家の坂口安吾や太宰治も薬物依存症だったな。

 

SUZIさんはさらにこう続けた。

 

ヒロポンは今の麻薬ほど強烈ではなかったようです。

芸人さんはとにかくたくさんやっていましたよ。もう鬼籍に入った人たちばかりですがねえ。時効ですよ。

あの戦後のどさくさから這い上がった、高度成長期の前章時代です。

笑いを振りまいている人だって、多くの残酷を見てきています。戦争で人を殺しているかもしれません。

今もアメリカではベトナム戦争帰りの70-75歳前後の人達の内底の心は、この時代の人達に似ています。私はものすごくそれを感じます。

だから東京ブギウギが流行り、美空ひばりの歌にみんな吸い寄せられたのです。

嫌なことを忘れたい。焦土と化した日本を見たくない面と、立ち上がろうとする気力と、落胆。

そんな内に秘めた火山があったから、ヒロポンにも走り、笑いを売り、笑いを、気力を民衆は求めたのです。

三亀松のことは聞いたことありますが、何せ私は小学生になるかならないかの年、よくわかりません

伯父にしたってたった一度だけ試しに打ったって言ってました。

我が家は麻薬についてはものすごい厳格な家です。女、ギャンブルはまだしも、麻薬をやったら一生がダメになる、と育てられました。

ヒロポンは今のヤクのように、1回でダメ、なんてものではなく、抜け出すのも楽()でしたが、伯父も「馬鹿よなあ」といっていたそうです。

私は薬に関しては異常なまでに警戒心と、恐怖心を持っており、昔、まだ独り者の頃、友人がマリワナを見せると言って、ポケットから出した途端に、「出て行け!」っと追い出したほどです。

麻薬は手を出したら、人生オシマイです。見ても、触ってもいけないものなのです。それ以外答えも方法もありません。親からもらった命、人生は大事に全うすべきです。

あの麻薬の切れた錯乱状態の患者を見た時には、中学生でしたが、恐ろしい!そう体も心も感じました。

薬の事は本当は話すのも書くのも私は嫌いです。(でも、話さなければ、書かなければいけないと思えば書きます・・・正直、ま、あまり気乗りのしない、腹にしまっておきたいことです)

 

でも、100に1ではなく、1ヒロポンは大したことない、とは言え、軽い好奇心でフラッと始め、それがとっかかりとなり、次、次・・・、ともっと強いものにはまっていく。蟻地獄へ落ちて行く、それが麻薬なのです。

何人もダメになった。才能ある芸人さんがそうなっていったんです。

麻薬は「怖い」です。怖い、触れてはいけない。そう肝に命じなければいけません。

メキシコも、コロンビアにも麻薬王はいます。政府も手が出ません。

麻薬王はいっさい麻薬には手を出しません。やくざの大親分は薬には触れません。その怖さを知っているからです。

麻薬にやられた人間は、廃人です。「灰人」とでもいえるでしょう。

風が吹けば飛ばされ、雨が降れば流され、ソレッきりの人生です。何の存在でもありませんよ。

麻薬には絶対に触れてはいけない、私の人生の大鉄則です。


もちろん、麻薬から抜け出せる人だっています。廃人から、真っ当になれる人だっています。1000に1、いいえ、万に1人だと私は思います。


一生涯1分、1秒、四六時中、飲みたい、吸いたいという欲求、欲望と戦い続けなければならない時間の継続です。だから薬は一度やったら、まともに戻れる人がホンの僅かなんです。


廃人=灰人と書いてしまいましたが、抜け出した人だっている訳です。


そういう人達には拍手を心から送りたいと思います。人生生きてりゃ失敗はつきもの、その失敗のどん底から立ち直った人の努力は認め、社会は受け入れてあげるべきだと私は思います。

 

木下華声が亡くなったのは、昭和61年(1986年)、享年75だった。戦後の混乱から生き延び長く活躍した。落語家として出発し、物真似、声帯模写、ボーイズ、漫談、役者、文筆業・・・、その道一筋というわけではないが、ともかくも芸能界を泳ぎ切った。久保田万太郎、安藤鶴夫、高見順、徳川夢声らにかわいがられ、幸せな芸人人生だったと言えるのではないだろうか。 

9 件のコメント:

東志郎 さんのコメント...

木下華声、懐かしい。
ワタシも同じ本、持ってます。
紀伊国屋ホールで志ん生の「おかめ団子」のフィルム上映の後で、華声が「志ん生のこと」と題して思い出話をやったのを聴きました。
小沢昭一や永六輔も来ていて、何か凄い事なんだな~と思ったものでした。

densuke さんのコメント...

コメントありがとうございます。
私は機会がなくて、木下華声の高座を聞いたことがないんですよね。
どんな感じだったのか、教えていただけるとうれしいです。

quinquin さんのコメント...
このコメントは投稿者によって削除されました。
東志郎 さんのコメント...

華声の高座ではなく、「講演」の様な形でした。既に三代目猫八がバリバリやっていて、ワタシもこの紀伊国屋ホールで初めて二代目がこの方であった事を知ったのでした。何か大仰な話し方で、現役の演芸家という感じはしませんでした。当時はまだ古今亭が死去して数年でしたが、ワタシは当然高座に間に合っていません。まだビデオが家庭に出回ってもいない時ですから、古今亭の映像を大きなスクリーンで見られるという魅力で集まった方も多かったのでは?
10年ほど前に長年しまっていた落語界の紙資料を処分してしまいました。その時のパンフもあった筈、又ワタシも所属する落研の渉外をやってましたので、各大学の発表会のパンフが一杯ありました。記憶に残っているので「鈍気泡亭寺満茶」さんなんてのは、そちらのOBだったでしょうか? 以前にも書いたかと存じますが、そちらの落研の発表会には、円蔵師匠が「補導出演」という名目で出てましたね。「甚五郎の蟹」を初めて聞いたのでした。
華声の話でなくってすみません。

densuke さんのコメント...

コメントありがとうございます。
木下華声の語り口、そんな感じだったんですね。文章を読むと、何となく想像できます。

「鈍気泡亭寺満茶」はうちの芸名ではありません。うちは松風亭、松竹亭、夢三亭でした。
私が現役の頃、圓蔵師匠が補導出演されたのは、1年の時の本牧亭での「手向けのかもじ」だったと思います。今にして思えば、あの師匠は珍しい噺をずいぶん持っていました。最近、圓蔵師匠の中古CDを買いましたが、いやあ壮年時代の師匠は面白い。軽くて明るくっていいんですよねえ。いい買い物をしたと思います。

落研時代のお話ができて楽しかったです。また、ぜひ当時のことを教えてください。

東志郎 さんのコメント...

華声でなく円蔵師のコトになっちゃいますが・・・。
ワタシたちが聴いているのは「アノネの円蔵」になってからの最晩年ですね。ワタシの卒業の年に逝去されました。手元に40席程ありますが、若い時のあの軽妙な語り口は円遊師にも通じる、幇間時代の賜物でしょうか。「蒟蒻問答」「女中志願」「締め込み」なんてのも面白い。晩年は黒門町のオマージュでしょうか、「明烏」なんかもやってました。本牧亭の独演会では其方の落研の皆さんがお手伝いに来ていらっしゃったのを記憶してます。独演会では「与三郎~大宮の殺し」なんていう珍品?、質問コーナーでは「伯龍師から教えて貰った」とか。そのコーナーである方が質問で「次の文楽は小満んさんが継ぐンでしょうか?」。場内はシーンとして、円蔵師はこの質問になんと答えたか・・・、又今度・・・。

densuke さんのコメント...

圓蔵師匠の音源を40席お持ちなんですか? すごいなあ。
それだけで膨大な数の音源をお持ちだということが分かります。
「締め込み」もいいですね。黒門町の香りがします。(黒門町ほど迫力はありませんが)
圓蔵師匠は私が2年の時亡くなりました。
師匠の会は一回しか経験がありません。合宿で「道灌」を見ていただいたのが、いい思い出になっています。

お話の続き、楽しみにしております。

東志郎 さんのコメント...

densukeさんはワタシより3つ下という事ですね。録音は皆MDです。オープン⇒カセット⇒MD ときて、この次はハードディスクという事で、もう良いかな、と止めました。キリがない・・・・。
ずっと書き込みでコメントしたかったのですが、何故か出来ませんでした。先日試したら可能でしたのでこの様に送らせて戴いております。
独演会は三回行ってます。全部本牧亭で最後の会では「幇間腹」を演じていらっしゃいましたが、densukeさんは行っていらっしゃったのでは? 院隠滅滅とした皮肉な一八が出て来て不思議な一席でした。志ん好さんが、「円蔵の幇間なんて勤まる訳が無い」なんて高座で言ってましたが。まあ全ての方の悪口言ってウケを取る芸風でしたから。さて、大胆な質問に対しての円蔵師のお答えであります。「アノネ」で始まったかは記憶しておりませんが、「アタシは小満んの噺を聴いた事が無いンで判らない」(そんな筈は無い)そして「ウチの師匠はネタは少ないが、全部十八番、そんな人は他にいません。だから文楽を継げる人はいない」というものでした。当時ワタシは自分の落研の機関誌にコレを克明に書いたもので、記憶があるのでした。後に小益師が九代目を継ぐ事になるとは、円蔵師も想像もしていなかったでしょうね。
華声さんの記事の場所ですので、ここでのお話はこれまでに致しましょう。又ワタシがコメント出来る記事の時に是非送らせて下さい。栗友亭の話などとても興味深く読ませていただきました。

densuke さんのコメント...

師匠の最後の会にはいました。トリネタの「藁人形」も大分陰気でしたね。
圓蔵師匠の回答も、いかにも師匠らしい。
楽しいお話、ありがとうございました。
また、色々とご教授いただければ幸いです。