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2025年5月21日水曜日

【雑談】文楽十八番『愛宕山』②

私たちの世代で『愛宕山』といえば、古今亭志ん朝であった。

志ん朝の『愛宕山』は、兄の十代目金原亭馬生から稽古してもらったものである。山登りの前の晩、旦那の制止も聞かず、一八が飲み過ぎる場面が幕開け。一八だけが山登りに悪戦苦闘する伏線にもなっている。「オオカミはヨイショが効かない」という珠玉のギャグも有名だ。明るくて華麗で、まさに志ん朝落語を代表する噺である。

文楽十八番は、後に多くの落語家が演じている。『明烏』は、志ん朝、談志、小三治が演じ、『船徳』は、志ん朝も小三治も演じている。しかし、『愛宕山』は、志ん朝の独壇場だった。春風亭小朝を始め、現在演じられている型は、ほとんど志ん朝のものだろう。

私は、文楽の『愛宕山』を先に聴いていたが、志ん朝のを聴いて、すげえなあと思ったよ。文楽に影響を受けながらも、しっかり自分だけのものになっていて、しかも、もう一回り大きな噺になっていた。

だからといって、「志ん朝は文楽を超えた」とは言わない。志ん朝の『愛宕山』は素晴らしい。そして、文楽の『愛宕山』もまた、素晴らしいのだ。

志ん朝の『愛宕山』は、約40分。それに対して、文楽は20分で駆け抜ける。この疾走感がたまらない。いきなり春の野山に連れて行ってくれるのも、文楽ならではの演出である。そして、大正の花柳界が濃厚に匂い立つ。これは、やはり時代のもので、文楽・志ん生の世代にしか出せない味わいだ。


先日、みほ落語会で『愛宕山』を演じた。学生の時も演ったことがない。ネタおろしだ。いやあ、60過ぎて覚える噺じゃないわな。終わった時には、膝ががくがくしていたよ。この噺のきつさを身をもって経験した。この噺は体力を使う。


文楽は晩年、狭心症の発作を起こした。血圧も190を超え、落語研究会を休席する。

主治医から「(体力を使う)『愛宕山』は、もう演らないように」と言われると、文楽は「『愛宕山』ができない文楽は文楽ではない」と言って、それを拒んだ。

「ではもう少し楽な演じ方をしてください」と医者が譲歩するも、文楽は「私にはこのやり方しかできない」と言い張った。

狭心症で休席したのは1970年1月の落語研究会。代演は金原亭馬生が務めた(文楽は『小言幸兵衛』を演じる予定だった)。

その次の会、1970年2月の落語研究会で、文楽は『愛宕山』を出す。医者の反対を押し切ってのネタ出しだった。演じた後、文楽は上半身裸のステテコ姿になって、楽屋で大の字に横たわった。息遣いは荒く、大きく腹を波立たせ、それはかなり長時間続いた。(DVD『落語研究会八代目文楽全集』川戸貞吉の解説より)

文楽は無器用であるがゆえに、芸の高みへと到達した。しかし、身体が衰えるにつれ、理想と現実のギャップは大きくなる。無器用な文楽にはモデルチェンジはできなかった。やがて、その名人芸は崩壊を迎える。『愛宕山』は、その過程を象徴する噺になってしまったのかもしれない。


1970年2月の『愛宕山』の映像を観た。やり方は以前のまま。1954年の録音で20分5秒の口演時間が、この時はマクラを除いて24分30秒(1966年の録音でも20分5秒だった)。口調や間は幾分延びていたのだろう。言葉に詰まる箇所が2つ、3つあったものの、後半の見せ場の迫力は全盛期と遜色ない。この後、楽屋で長い間身を横たえたことが信じられないほど、充実した高座だった。ものすごい執念。でも、鬼気迫るとか悲壮感あふれるとかいうのではないな。文楽らしい陽気でご機嫌な噺になっている。そこが、またすごい。

文楽の最後の高座は翌1971年8月31日の『大仏餅』。そこで文楽は絶句し、その後二度と高座には上がらなかった。

弟子の柳家小満んによると、最後の高座の後、文楽は『愛宕山』を演じた後のように、楽屋で長い間横になっていたという。



2025年5月19日月曜日

【雑談】文楽十八番『愛宕山』①

文楽は『愛宕山』をその他の多くの噺と同じく三代目三遊亭圓馬から受け継いだ。


三代目圓馬。大阪生まれ。父は落語家、月亭都勇。七歳の時、月亭小勇で初高座を踏む。

その後、浮世節の大家、立花家橘之助の身内になり、東京に出て立花家左近を名乗った。

七代目朝寝坊むらくを襲名して真打昇進。落語研究会に抜擢され、将来を嘱望された。

しかし、当時の大看板、四代目橘家圓蔵と諍いを起こし、むらくの名前を返上。橋本川柳を名乗って東京を離れた。この事件の背景には、立花家橘之助をめぐる三角関係があったと言われている。

旅回りをした後、結局、生まれ故郷の大阪に落ち着き、三代目三遊亭圓馬を襲名した。

東京落語の大看板、四代目柳家小さん、八代目桂文楽、三代目三遊亭金馬、五代目、六代目の三遊亭圓生などが若手時代に稽古に通い、大きな影響を与えた。『愛宕山』や『景清』といった上方落語を東京に移した功績もある。

ネイティブの上方弁に加え、江戸っ子弁でも啖呵が切れるほど堪能だった。まさに「落語バイリンガル」。『愛宕山』でも、大阪弁、京都弁、東京弁を見事に使い分けたという。


大正14年、圓馬は落語研究会出演のため上京した。東京では文楽が待ち構えていた。

早速「お稽古を」と願い出る。

「おい、東京まで来て稽古するのかい?」と圓馬が言うと、文楽はこう切り返した。

「そんなこと言わないで、金馬も四代目小さんも待っていますよ」

圓馬は、「お前たちのおかげで、おちおち東京見物もできゃしねえ。まとめて稽古するから立花においで」と、神田立花に彼らを呼んで稽古した。

その時教えたのが、四代目小さんに『提灯屋』、三代目金馬に『孝行糖』、そして八代目文楽に『愛宕山』だった。それぞれに合う噺を選んだんだな。『提灯屋』は後に柳家のお家芸になり、『孝行糖』は金馬の、『愛宕山』は文楽の、押しも押されもせぬ十八番になった。圓馬の慧眼と芸域の広さに恐れ入る。すごいなあ。


文楽の『愛宕山』は東京弁のみ。無器用な文楽はそういう選択をしたのだろう。

現代では古今亭菊之丞が、大阪弁、京都弁、東京弁を巧みに使い分けた『愛宕山』を披露している。テレビによって方言を全国化したのが、こういう演出をより可能にしていったのだろうな。

2025年3月15日土曜日

【雑談】文楽十八番『按摩の炬燵』

私の両親は、新制中学を卒業して社会に出た。祖母は、尋常小学校。要は、受けたのは義務教育のみだったということだ。義務教育というのは、子どもに教育を受ける義務があるということではない。親が子どもに教育を受けさせる義務がある、ということである。

かつて子どもは労働力だった。ところが、国家が「使える国民」を量産するために学校を作った。低所得層にとって、これは迷惑な制度だった。できることなら、学校になどにやらず、働かせたい。だからこそ、国家は親に、子どもに教育を受けさせる義務を課したのである。

多くの庶民は、学校は義務教育だけで十分で、それを終えれば、社会に出るのが当然だった。都市部の少年は、尋常小学校を卒業すると、商店の小僧や、職人の弟子となり、少女は女中奉公をするのが定番だった。

そして、我らが八代目桂文楽も例外ではない、

八代目桂文楽、並河益義は、青森県五所川原で税務署長の子として生まれた。

並河家は常陸国宍戸藩主松平家の家来筋にあたり、東京根岸の松平家江戸屋敷の近くに住居があった。父の任期が終わると、一家は根岸に帰る。並河の家は「根岸七不思議」に数えられるほど、立派な門を構えた大きな家だったという。

しかし、当主、益功が任地の台湾で客死すると、一家の命運は暗転する。収入を絶たれた並河家は、家の半分を間貸しして糊口をしのいだ。その結果、長男は中学までやらせてもらえたが、次男の益義少年は尋常小学校を三年で中退させられた。

その後。益義は、横浜住吉町の薄荷問屋、多勢商店に奉公に出される。それも、友だちを集めて、新派の芝居「五寸釘寅吉」の立ち廻りを真似して遊んでいたところを母親にめちゃくちゃに怒られた末、そのまま知らないおじさんに横浜に連れて行かれたという。

これは親に捨てられたと言ってもいい。寄る辺のなくなった益義は、自分を庇護してくれる者に、必死にくらいついていく。三代目圓馬や五代目左楽への献身ぶりには、この時の体験が大きく影響していると、私は思っている。

益義は主人にかわいがられたが、商人として真面目に勤め上げることはできなかった。15歳で多勢商店を辞め、米相場のノミヤからやくざの家に出入りするようになる。親分の娘に手を出し、制裁を受けて東京に舞い戻る。そして、四代目橘家圓喬の高座に感動し、義父のつてで初代桂小南に入門。落語家としてのスタートを切った。

並河益義が半端者であったればこそ、私たちは名人、桂文楽を得たのである。

文楽に『按摩の炬燵』という演目がある。按摩に酒を飲ませて炬燵の代わりにし、奉公人たちが暖をとって寝ようという、コンプライアンス上、非常に問題のある噺だ。この演目がラジオで放送された時には、「障碍者をあまりにも馬鹿にしている」という苦情が寄せられたそうだ。

この中に、こんな一場面(炬燵になった按摩が、小僧の寝言を聞く場面)がある。

「ヤーイ、活版屋の小僧・・・」
「オー吃驚(びっくり)した。突然(だしぬけ)に大きな聲を出して。アゝ夢を見て居るんだな。まだ十一だからなア活版屋の小僧と喧嘩でもして居る夢を見ているんだらう。成程前に活版屋があったっけな、可愛いものだ。・・・宜し〱(よしよし)俺が付いているから喧嘩をしろ、負けるな〱確り(しっかり)やれ〱」
「何を吐(ぬか)しやがるんだ間抜けめえ。マゴマゴしやァがると頭から小便を引掛けるぞ」(『名作落語全集』酒呑居候篇/山本益博『さよなら名人藝』より孫引き)

山本は「文楽がそこで小僧時代の自分自身と出会っているようにもおもえた」と書いている。

この噺は、寝言を言った小僧が寝小便をして結末を迎える。小僧の年齢が「十一」であること、小僧が寝小便をしたことを考えれば、この小僧に文楽自身が投影されていることは間違いない。文楽が小僧にやられたのは、まさに数えの11歳であり、文楽自身、小僧時代に時々寝小便をしていたというのだから。

一方で、この噺の中で文楽が同化しているのは按摩の方だ。噺の構造としては、盲人という障碍者を笑いものにしている。番頭が按摩に炬燵になってくれと頼むこと自体に、健常者の無意識な傲慢さが表れているだろう。しかし、按摩はそれを受け入れ、小僧を暖かく応援する。文楽は、按摩の自らの境遇に対する諦念と哀しみ、小さくて弱い者たちへの愛情を丁寧に描いてゆく。決して按摩を笑いものにはしていない。

さらに付け加えれば、按摩を炬燵にする奉公人たちも哀しい。朝から晩まで働き詰めで、夜は薄い夜具にくるまって寝る。寒くて熟睡できない。思案の末の「按摩の炬燵」なのである。文楽演じる按摩は、奉公人たちのこういう事情も飲みこんだうえで「炬燵」になることを同意するのだ。弱い者がより弱い者を搾取する。社会の縮図がそこにある。

ただ、その代償として按摩は酒をふるまわれている。その意味では、ウィンウィンの関係が成り立っているのかもしれない。しかし、それは弱い者同士の、哀しいリアリズムだ。

『按摩の炬燵』で色々考えた。それも、この噺が文楽の体験に裏打ちされた強固なものを持っているからこそなのだと思う。

文楽と同世代の落語家たち、志ん生も、三代目金馬も、彦六の正蔵も、また同じように奉公に出された経験を持っていた。彼らの演じる「お店もの」に、それぞれ特別な味わいがあるのも、当然のことかもしれない。(三代目金馬の『藪入り』が私たちの胸を打つのも、そういうことなのだ。)

2024年7月3日水曜日

桂文楽の「もう一人の師匠」

八代目桂文楽には、入門した師、初代桂小南、芸の上での師、三代目三遊亭圓馬、人生の師、五代目柳亭左楽がいるが、実はもう一人師匠がいる。

それは、八代目桂文治。本名、山路梅吉。明治16年(1883年)1月21日生まれ、昭和30年(1955年)5月20日没。享年72歳。

著書『あばらかべっそん』で八代目桂文楽は彼との縁をこう語っている。

「久し振りに東京へかえると、大阪から桂才賀改め翁家さん馬師がかえって来ていて、大した人気です。このさん馬師が先年なくなった八代目の文治師匠です。私はこの文治師の弟子になって、翁家さん生の名をもらいました。」

文楽がさん馬門下になったのは大正5年(1916年)、翌年には翁家馬之助の名で真打昇進が決まった。

しかし、その年、東京寄席演芸会社設立に伴い、反対派が睦会を結成、東京落語界は大きく二分されることになった。さん馬は睦会に参加することを約束しながら、それを反故にして会社に残留する。若かった文楽はそれを許せず、さん馬門下を飛び出し、睦会の副会長、五代目柳亭左楽の下に走った。左楽は文楽を睦会で翁家馬之助として真打に昇進させた。「翁家」のままで文楽を身内にしたところに、左楽の懐の深さが見て取れる。

文楽の、さん馬門下から左楽門下への移籍のいきさつは以上の通りだが、もともと文楽は、このさん馬とウマが合わなかったらしい。

文楽は『落語藝談』という本の中で暉峻康隆相手に「あたくしのほうで嫌いになったわけです」と断言している。

理由としていくつかエピソードが紹介されている。曰く、文楽が持っていった手土産を子どもにやらず独り占めしてしまう。曰く、噺の欠点(鼻をくしゃくしゃする癖、突然突拍子もない声を出す、かと思うとお客に聞こえないような声でしゃべる等)を指摘されると「そういうところがわからない人は落語を聞く資格がない」とつっぱねる。曰く、弟子相手のお遊びの博打でいかさまをする。文楽の言を信じれば、はっきり言って、ケチで偏屈でセコい人柄だったのだろう。

以後文楽は五代目左楽を終生「人生の師」と呼ぶことになる。

一方、さん馬は大正11年(1923年)、八代目桂文治を襲名、東京落語界を代表する一人となった。

五代目柳家小さんは、『芸談・食談・粋談』の中で「昭和の名人」として、まっ先にこの文治を挙げる。対談相手の興津要が「たいへんにくさかったけれども」と水を向けると、小さんは「だけど、あれだけくさくやれるってえことはたいへんですよ」と切り返している。

文楽は、前述の『落語藝談』で、「それで腕は立派なんです。それでね、その時分に独演会をすることになったら、あのくらい打ってつけの人はいなかったです。とにかくふつうの落語がいけて、人情咄がいけて、それから芝居咄がいける。この三席でもう立派なもんですよ。これがほんとうの独演会ですよ。その時分の」と言っている。文楽も文治の芸は認めていたのだ。芸の幅が広いとはいえない文楽の言葉に、ひどく説得力がある。

文治の芸をもっともよく伝えているのは、Super文庫『落語名人大全』収録の榎本滋民による解説だろう。次に全文を引用する。

 母親が連れ子をして六代目文治の後妻になった縁があるにしても、落語史上に輝く大名跡をつぎ、桂派の宗家となって家元と尊称を奉られ、昭和二十二年という終戦直後の複雑微妙な芸能界再編成期に、落語協会の会長に推された人物が、凡庸であるはずがない。

 枕から本題にかかるあたりで過度に音量を低め、登場人物の喜怒哀楽には奇声を発し、落ちを念入りに押すようにつける語り口に寄せられた、納まり返った名人きどりが鼻につく、あくと粘りが強くてもたれるといった批評は、全く不当とはいえないまでも、謙虚な姿勢と淡白な演出を過大評価した時代風潮の影響も、認めないわけには行かないだろう。

 祇園囃子をまじえて江戸・京都・大阪三都のことばを鮮やかに使い分ける『祇園会』の話術の確かさ、義太夫語りだった前身につちかわれた『夜桜(義太夫息子)』の風味の奥行きは、由緒ある桂文治の資格にかなう、まぎれもない大看板のものであった。

昭和26年に東京新聞社から出た『藝談』では、初代中村吉右衛門、徳川無声、長谷川一夫などの名優、スターが登場する中、落語界からは文楽と古今亭志ん生が選ばれている。この二人が当時の落語界の双璧だったことがうかがえる。電通の社員だった小山観翁は、当時文楽・志ん生が9000円のギャラをもらっていたのに対し、文治は若手だった小さんと同ランクの5000円だったと言う。『藝談』で文楽は「落語協会副会長」と紹介されている。

昭和22年(1947年)、四代目柳家小さん急死の後を受けて、落語協会会長に就任して以来、文治は、自らの死までの8年間、会長であり続けた。

晩年は寄席でも重用されず不遇だった。その文治よりも、文楽の方に力があったと見るのが自然であろう。協会運営における実権は副会長の文楽にあったのではないかと、私は思う。文治の死後、会長の座に就いたのは、八代目桂文楽であった。

八代目桂文治。本名から「山路の文治」と呼ばれた。住まいから「根岸の師匠」とも。四代目小さんがつけた「写真の原板」「茄子」というあだ名も残っている(文治は色黒で顔が長かった)。他に「会長」「家元」という尊称もあった。

こんなに多くの呼び名がある落語家を、私は他に知らない。

出囃子は「木賊刈り」。「家元」で「木賊刈り」と言えば、立川談志を思い出す。余談だが、談志も後輩落語家相手に麻雀でいかさまをやっていたと金原亭伯楽が書いていた。

談志が出した『談志絶倒・昭和落語家伝』という本の中に、田島勤之助が撮影した、死ぬ前の年の文治の写真が載っている。とても味わい深い、いい顔をしている。談志の文章も(余計な自慢めいたものが入るものの)愛情がこもっていてなかなかいい。

談志の『ゆめの寄席』というCD集に、文治の『夜桜』が入っている。何度聴いても私にはなじめない。だけど、貴重な音源を世に出してくれた談志には、深く感謝したいと思う。

2023年1月16日月曜日

八代目桂文楽の葬儀

八代目桂文楽の葬儀の画像が手に入った。

我々の大学落研OBのLINEに、初代風柳さんがアップしてくださったのである(私は現役時代、風柳の三代目を継がせていただいた)。

初代さんは、私にとっては雲の上の大先輩。今も「たちばな家半志樓」の名前で高座に上がっていらっしゃる。画像をブログに掲載することについて許可を申し出たところ、快諾してくださった。

以下、その画像を紹介する。まずは祭壇の写真。

遺影の向かって左側には秩父宮、右側には当時の落語協会会長、三遊亭圓生からの献花がある。秩父宮殿下は昭和28年に亡くなっており、これは宮家による献花であろう。殿下は文楽を贔屓にされており、その交流は『あばらかべっそん』に詳しい。



こちらは参列者の写真。左の写真には三遊亭圓生が写っている。彼は葬儀委員長を務めた。

右の写真は文楽一門。左から桂文平(現六代目柳亭左楽)、林家三平(文楽門下七代目橘家圓蔵の弟子)、桂小益(現九代目桂文楽)、橘家二三蔵(三平と同じく圓蔵の弟子)。小益と二三蔵の間から顔を覗かせているのは三遊亭さん生(後の川柳川柳)だろうか。


八代目桂文楽の葬儀は、昭和46年(1971年)12月18日午前11時から浅草・東本願寺において落語協会葬として執り行われた。当時の新聞記事によると約2000人が参列、会葬礼状には「いま更にあばらかべっそんの恥かしさ」という句が添えられていた。

葬儀では三遊亭圓生が弔辞を述べた。以前にもその一部をブログに載せたが、ここに全文を紹介しよう。(出典は『CDブック・完全版・八代目桂文楽落語全集』による)

  弔辞(桂文楽師匠へ)

 桂文楽文楽師匠・・・いや、そんな改まった言葉はよそう。文楽さん、貴方とは随分古いなじみでしたね。貴方が小莚の前座時代で、私は圓童といったまだジャリでした。あの当時三筋町のむらく師匠・・・後の圓馬師匠の所へ毎日噺の稽古に通いましたね。死んだ四代目の小さんさんも一緒で、八、九人がせまい二畳の座敷に肩を押し合っていた頃・・・思えば六十年前位になるでしょう。其の後お互いに、商売の関係で一緒になったり別れたり、いろいろな変遷はあったが、戦前お互いに落語協会に入ってからは、貴方とは一つ倉に入って、芸の上でも位置の上でも貴方は先輩として立っていられた。そして貴方は早くから売り出して、すでに馬之助時代から若手としての売れっ子になり、中堅となって貴方は益々芸は上達した。四代目小さんの無き跡は落語協会を背荷って立ち、外面内面ともに納めて行かれた事は並大ていのことではなかったろうとお察し致します。
 尚私が云いたいのは戦後、人心の動揺、人情、生活と、以前とは移り変わり行く世相で、勿論落語界も、世間のあおりを喰い、動揺をしたその中で、貴方の芸は少しも、くずれなかった。我れ人ともに時流に押し流されやすい時に貴方は少しもゆるがなかった。悪く云えば貴方の芸は、融通が利かない、無器用な芸だとも云える・・・ごめんなさいね・・・だがそれがよかったのだと思う。なぜならば、戦前の通りに少しも芸をくずさずに演った、それが立派な芸であれば客はよろこんで聞いてくれるのだ、これで行けるのだと、人々に勇気をあたえた。今日の落語界に対して貴方は大きな貢献をされた事を私は深く深く感謝しております。
 いつまでも生きて居てほしかったが、生あるものは一度は死なねばならぬ時が来る。貴方との長い別れになることは、思えば悲しい事である。だが貴方は芸ばかりでなく、人として人情の厚い方だった。私が満州から帰れなかった時にも、留守宅へ見舞ってくれたのは、貴方と、圓蔵君の二人だけだった。しかも二度までもたずねて私を心配してくれたという事を、家内から聞きました。人に対しての思いやりもある貴方の人格が、即ち芸に出て、丸味のある、ふっくらとした芸が生まれたのである。
 文楽さん、長い長い貴方との交際もこれで終わりになりました。いろいろと今までのことをお礼を申し上げます・・・では左様なら。
   昭和四十六年十二月十八日


もうひとつ、いただいた画像。


昭和46年の正月二之席、新宿末広亭のポスターである。夜の部主任は文楽。

柳家小満んの著書によると、昭和36年以降、文楽がトリをとるのは、人形町末廣、上野鈴本の初席、新宿末広亭の二之席、それから新宿末広亭のお盆興行(7月中席)だったという。その年の7月中席、文楽は生涯最後の寄席でのトリを務められたのだろうか。

2021年12月13日月曜日

八代目桂文楽訃報を伝える新聞記事

 今年は八代目桂文楽没後50年。50年前の今日の朝日新聞朝刊の記事から当時を振り返ってみたい。


記事によると、文楽は、12月12日、日曜日、午前9時20分、肝硬変のため、東京都千代田区神田駿河台の日大医学部付属駿河台病院で亡くなった。79歳。

告別式は18日、落語協会葬を兼ねて台東区西浅草の東本願寺で行われる。喪主は長男、並河益太郎、葬儀委員長は落語協会会長、三遊亭圓生。


各落語家のコメントは次の通り。

柳家小さん「さびしいねえ。本当のはなし家らしい人が、いなくなっちゃった」

金原亭馬生(9月に母親を亡くしたばかり)二つともこんなことが続いて、悪い夢見ているみたいで・・・。オヤジ(古今亭志ん生)は、だまったきり、なんにもいいません。こたえたんでしょう」

三遊亭圓生「戦後のころ、われわれの仲間も動揺しましてねえ。そん時も、あの人はごうも揺るがずってんですか、きちんとしたはなしを守った。それが、下にどれだけ力になったか」


同年8月31日、国立小劇場、落語研究会で「大仏餅」口演中に絶句した、その後について、記事ではこのように書いている。

「これが最後か」と、居合わせた人は思った。が、本人はやる気十分。「お客さまにすまない」を繰り返し、気分のいいときは「寝床」や「心眼」を口ずさんでいた。

これを見ると、文楽は復帰に意欲的だったと思われる。

川戸貞吉の『落語対談2』では、西野入医師が、周囲が高座復帰を勧めても「お気持ち、ありがとございます」と言って、文楽は頑として応じなかったと証言していた。

大西信行は『落語無頼語録』の中で、「でも、春ンなったら、ぽつぽつ新しいはなしもやるように心掛けているんだ」と語る文楽を描いている。

文楽自身、揺れ動いていたんだろうな。結局、文楽はその後、二度と高座には上がらずに逝った。


記事の最後はこう結ばれている。

夫のまくら元にすわった梅子夫人は、弔問客が来るたびに、顔の白布を取り、「ほら、〇〇さんですよ」。安らかそのもの、といった死顔だった。いまにも、長いまゆ毛の下の大きなまなこが開いて「こりゃどうも、あばらかべっそんで」といい出しそうな。

2021年9月19日日曜日

圓蔵師匠が語る 文楽の妻たち④

さて、今回は人呼んで「長屋の淀君」、寿江夫人である。

文楽は『あばらかべっそん』の中で、贔屓のヒーさんこと樋口由恵の仲人で神田明神で式を挙げ、講武所の花屋で披露宴をしたと言っている。年譜では、大正14年(1925年)ことである。

一方、圓蔵師匠は、昭和3年(1928年)頃、名古屋へ行って幇間になったが一向に売れず、岐阜、大阪と流れて東京に舞い戻った。それが昭和5年(1930年)頃。名古屋で知り合った芸者の家に転がり込んでいたが、その女も名古屋に戻ることになり宿なしとなった。


こっちはとたんに困っちゃった。寒いのに外套なしで、行く所がないので仕方なく、今の黒門町の師匠の家の前に立ったんです。そしておそるおそる、すみませんでした、もう一度おいて下さいと頼んだんですが、師匠は、駄目だ、おまえみたいな奴は家にはおけないという。そうしたら、おかみさんがそんなことをいわないでおいてあげなさい。もともとあんたの弟子なんだからと、とりなしてくれ、すぐはなし家として寄席へ出すのは無理だから、しばらく家においてもらえることになったんです。(『てんてん人生』)


この後、横浜、横須賀で幇間に出るがうまくいかず、結局、落語家、桂文雀に戻って、黒門町の家に住み込み、前座修業をやり直すことになった。以下は『聞書き七代目橘家圓蔵』からの引用である。


またぞろ女中業に逆戻りで、犬はいる、猫はいる、お神さんの親戚から貰った子供もいる。今度のお神さんは女ひと通りのことは不得手だが、それでいて、やかましい。博才があって、綽名は“長屋の淀君”。近所のお神さん達を引き込んで、花札賭博。多い時は日に五円稼ぐ。当時の寄席はどん底で、師匠の収入も少ないから、どうしても亭主を軽く見勝ちだから、弟子にしてみれば、お神さんの態度が気に入らない。寄席から帰って、遅い夕食の支度をする時、師匠はマメだから時々手伝ってくれる。嬉しくないことはないが、そんな事はしてもらいたくなかった。


このおかみさんは寿江夫人で間違いないだろう。まさに、九代目文楽の言う「苦み走った女」ですな。雷門福助の話では富士見町の待合の女。文楽の戦後に入門した弟子たちは、九段で芸者をやっていたと言っている。ちなみに富士見町は九段にある。

「お神さんの親戚から貰った子供」についての『聞書き・・・』の記述。


師匠が貰い子をしたのは横浜へ行く前だった。母親と一緒に来て、皆でちやほやしている隙に母親は帰ってしまった。親のいないのに気付いた子供は狭い家の中を探して歩いていたが、最後に便所の戸をあけ、中に親がいないのを知ると、忽ち大声で泣き出した。ねんねこで背負って外へ出たが、知らぬ他人の背中だから、子供は反っくり返って泣きじゃくる。

《まるで人攫いみたいでねえ、湯島の天神さまに連れて行って、ようやく泣き止んだけど、あン時は困ったよねえ、本当に》

  その子が少しも懐かない。それも道理で、子供が寝込んで畳の上に転がっていても、お神さんは花札に夢中だから、そのままにして、一向に構ってやらない。子供を返すことになった時は、実の親の所へ戻った方がいいと思っていたから、口にこそ出しては言わぬが、賛成だった。しかし、和菓子で有名な兎屋のそばにある高橋病院の所で、子供と三十円の金を親に渡して、それと引っ換えに、今後この子とは関係がないという証文を受け取った時には、自分が五歳で養子に出された経験があるだけに、ひどく嫌な気持ちがした。


高橋病院はこの前の地図にも載っている。


文楽の養子には戦争で行方不明になった敏夫がいるが、その前にも貰い子をしていたんだな。古今亭志ん生がやはりこの頃、次女を文楽の家に養女にやることを試みている。

圓蔵師匠は寿江夫人と反りが合わなかったようだ。文楽夫婦が喧嘩をして、おかみさんが出て行く、と言った時、運送屋を呼んで、さっさとトラックにおかみさんの荷物を積んでしまった。


《そんでね、最後に鏡台を運ばせた時、(ここの家にはこんな物はねえだろう)って顔しやがった。わたしも癪にさわったから、並木亭で引退の演芸会をする時に飾る予定でいた、小田原の芸者から貰った箱根細工の立派な鏡台を二階から持ってきて、今まで鏡台があった場所へ据えたら、お神さんがジロッと人の顔を見て、

「馬鹿! 何してンだい。犬だって三日飼やァ恩を忘れないじゃないか。一年でも、二年でも一緒にいたんだよ。まして弟子じゃないか。人が「出てくッ」たら、止めンのが当たり前だろ。それを何ンだい。運送屋を手伝って、人の荷物を自動車に積み込む奴があるかい」って怒ったけど、あン時は別れた方がいいと思って一所懸命だったからねえ・・・。あとではいいお神さんになりましたけどね》


このエピソードについては、六代目柳亭左楽が『内儀さんだけはしくじるな』という本の中でこう言っている。


 これは聞いた話でけど、先代の圓蔵師匠が文雀の頃、師匠とお内儀さんが大喧嘩した時に師匠が、
「出て行けっ。おいっ。文雀っ、荷物をこしらえて。寿江っ。出て行けっ」
 って言ったら、圓蔵師匠は、
「へいへい」
 って荷物をこさえちゃってね、後で仲良くなったら、師匠が圓蔵師匠に、
「こいつがいけねえ」
 だから、大喧嘩しても夫婦だからね、荷物なんかこさえちゃいけないんです。


圓蔵師匠は二年間前座修業をした後、再び名古屋に下り幇間となる。師匠が落語家として本格的に復帰するのは、戦争で幇間ができなくなり、昭和16年(1941年)に東京に戻ってからである。


Wikipediaでは寿江夫人との結婚は、昭和15年(1940年)としてあるが、こうして辿って行くと、昭和のヒトケタの頃には寿江夫人の時代だったと考えるのが自然だと思うがなあ。Wikipediaの年代の根拠がよく分からない。

2021年9月13日月曜日

圓蔵師匠が語る 文楽の妻たち③

次は三番目の妻、しんについて。

丸勘の女主人とその前の女房については『あばらかべっそん』の中に出てくるが、この人については一切の言及がない。関東大震災から、「長屋の淀君」こと寿江夫人と結婚するまで、文楽の婚姻関係は混沌としている。

では、『聞き書き七代目橘家圓蔵』の記述を引用する。


三番目のお神さんは横浜で芸者屋をしていた人で、金語楼師の妻女の養母に当たる人だった。浮気症で、東西の芸人を軒並み撫で斬りにしたので有名な人で、しかも文楽師より十歳(とお)も上だったから、自分でも気になるのか、文楽師を舐めるように大事にした。御当人もすっかりのぼせているから、楽屋で自分の女房の評判の悪いことなぞは知る由もない。しかし、弟子の耳には、よくまァ、あんな女とねえ」というような噂が次々と飛び込んでくる。

《ここが忠義の見せどこだと思ってね、お神さんのことを洗いざらい話したら、師匠は夢中ンなってるとこだから、「出てけェー」って言われちゃった。だけど。弟子がそんなこと言やァ、怒ンのが当たり前ですよ》


こうして圓蔵師匠は破門になる。この後、鈴々舎馬風の紹介で柳家小三治(後の七代目林家正蔵、初代三平の父である)の弟子になり、柳家治助と改名するものの、吉原の花魁に入れあげて楽屋の金をくすねるようになり、噺家を辞める。それから、吉原の若い衆から牛太郎(客引き)、それも続かない。とうとう名古屋で幇間をすることになる。


文楽、三番目の妻に関しては、これがいちばんまとまった証言ではないかな。

他に雷門福助の話があるが、時系列がごちゃごちゃしていて、よく分からない。震災後、雑司ヶ谷で新しくできた女と寺の離れを借りて暮らす。文の家かしくが死んだ後、そのかみさんと関係を持って黒門町のかしくの家で所帯を持つ。そのかみさんも死んで寿江夫人と関係を持つ。という流れらしい。

私としては文楽の直弟子として常に傍にいた圓蔵師匠の証言を取りたい。でも、もしかしたら全て同時進行というのも、文楽師匠ならありそうで怖い。 

2021年9月9日木曜日

圓蔵師匠が語る 文楽の妻たち②

文楽の二人目の妻は、日本橋近くの江戸橋にあった丸勘という土蔵造りの旅館の女主人だった。名前を鵜飼富貴といい、文楽はこの家に婿に入り、鵜飼益義となった。大正8年(1919年)のことである。

結婚の経緯は前回述べた通り。

圓蔵師匠は弟子入りをする時、この丸勘に行った。入門が許され、桂文雀の名前をもらう。圓蔵師匠は、このおかみさんについて、このように語っている。

《太ったお神さんでねェ、芸人が惚れるようなタイプじゃないね、あれは。真打昇進で金が要るんで一緒になったんでね、もうその頃は横浜の芸者屋の姐さんとできてたんだから》 

雷門福助はこう言う。

おかみさんが、スッスースッスー前を歩いているやつを、文楽師匠がうしろからついていってねェ、「おい福ちゃん、見ろよ、あのレキを俺がうかがうんだが、お前たいへんだよ」ッていったほど、こんなに太ったおかみさん。

愛はなかったんだろうね。『あばらかべっそん』には、この時期の、何人もの女との「色ざんげ」が書かれている。

そんな風だから、いずれ別れが来る。

大正12年9月1日、いよいよ別れ話になって関係者が集まるというので、文雀(圓蔵師匠)は「今日は忙しいから、寄席に行くまで芝居でも観ておいで」と言われて浅草に行った。

芝居を観ている最中に大地震が襲った。関東大震災である。やっとのことで二日後に丸勘にたどり着くと、旅館は丸焼けになっていた。焼け跡に木の札が立っていて、「文雀に告ぐ。富岳に居る 文楽」と書いてあった。富岳は青山にあった三流の寄席。そこで文楽一家が避難していた。

そこからおかみさんの親戚を頼って新宿の柏木へ移る。東中野の隣。小満んが「中野」と言っているのはここだろう。近くの川で師匠の体を洗う。圓蔵師匠はこの時の印象をこう語る。

《石の上に腰掛けてもらって、師匠の背中を流したんです。若い頃の家の師匠ッてもンは綺麗な身体ァしてましたね》

寄席も焼けたし旅館も焼けた。そこでおかみさんの発案で、半蔵門の前ですいとんを売った。おかみさんとしては、芸人を辞めて堅気になれば文楽の浮気もやむだろう、という思いがあったらしい。次いでこわ飯を売ろうというので、千住の先まで仕入れに行かされた文雀は、「こんなことをやるために噺家になったのではない」と思い、実家の様子を見に行きたいと師匠に申し出た。するとこんなやり取りがあった。

家を出る時、師匠が「お前さん半纏は来てるが、手拭も持ってお行きよ」と言って、笑って見せた。(こりゃア近い内に旅に飛び出すんだな)と察しがついたから、「へえ、御心配なく。両方ともちゃんとあります」と答えた。

東京に戻ると、予想通り師匠文楽は北海道の巡業に出ていた。文雀は神田白梅亭の席亭が経営している道灌山の白梅園という全室離れの連れ込み旅館に身を寄せた。大師匠五代目左楽一門がここに避難していたのである。

《ここへお神さんが会いに来ましたよ。浴衣ァ着て、蛇の目の傘さして、左楽さんから「北海道へ行ってると言っちゃいけない」って言われてたから、「知らない」って返辞をしたんですが、うしろ姿を見ると、肩ァ落としちゃって、本当に淋しそうでしたね。師匠も罪作りなことをしたもんですよ》

こうして文楽は鵜飼富貴と別れた。文楽自身は「丸勘の家も一年ももたないだろう、なんて云われてね、それで五年も辛抱したんですよ」と柳家小満んに言っているが、小満んが、「それでは師匠、そのおかみさんとは、結局どうなったんでしょうか・・・」と聞くと、いつも「その時ですよ、お前、グラグラッ! ときたのは」とはぐらかされたという。文楽としても語りたくない過去だったのだろう。

五年辛抱したとはいえ金目当ての結婚だ。どう考えても酷い男だよね。いかにファンでも弁護できない。文楽には稀代のエゴイストという一面がある。

2021年9月7日火曜日

圓蔵師匠が語る 文楽の妻たち①

柳家小満ん著『べけんや』の中の「おかみさん」は、七代目橘家圓蔵の話をもとに書かれたという。それならば、圓蔵師匠(当ブログでは基本的に敬称を省略しているが、この方は私の大学時代の技術顧問、「師匠」なのです)の本を見れば、文楽の妻について詳しく書かれているかもしれない。そこで、物置から『てんてん人生』、本棚の奥から『聞書き七代目橘家圓蔵』を取り出して来た。

期待通りだった。『聞書き・・・』の方が詳細に書かれているので、そこから引用してみよう。

まずは、最初の妻おえんについて。著者の山口正二が師匠の話を基にまとめた文章を、以下に記す。


 最初のお神さんは大阪の紅梅亭(後の花月)でお茶子をしていた。文楽師匠は大正五年、七代目翁家さん馬(後の八代目桂文治)の所で翁家さん生で二ツ目になったが、東京で売れないので、大阪へ行った。この時に何くれとなく世話をしてくれたのが此のお茶子さんで、これが縁でいい仲になった。亭主は船乗りで留守勝ちだったから、紅梅亭で働いていたのだ。

 どこでどう知ったかはわからないが、二人のいる所へ亭主が来て、郵便貯金の通帳を前へ置くと、「これはこいつの為にわたしがこつこつ貯めた金だ。だから、これを持って、二人で東京へ行って、どうかこいつを幸せにしてやってくれ」と言った。

 東京の御徒町の長屋の二階を借りて、二人は新婚生活に入った。お神さんは立花亭へお茶子に出たが、文楽師が足を悪くした時には、車で通院できるような身分でもなかったので、病院まで背負って往復したりして、本当に良い世話女房だった。 


文楽の最初の妻について、もっともまとまった文章がこれではないか。

しかし、文楽はこの妻と3年ほどで別れてしまった。圓蔵師匠は次のように証言している。


《真打になって売れてくると、長屋の女房みたいなお神さんは鼻につくんだね。で、今度は文楽になるんで金が要る。丁度その時、芳町に金語楼さんを可愛がっていた年増芸者で菊弥ッてえのがいて、そこへみんなが寄った時に、その女が「宿屋をしている後家さんがいるんだけど、どうだろう」って師匠に話したんだ。つまり、丸勘のお神さんですよ。師匠は前のお神さんに手切れェ渡して、入り婿したわけ。手切れ金だって丸勘から出てるんでしょう。それからねェ、「これはどっかに書いておくれ」と師匠に言われたから話すけど、震災で困った時、その金を前のお神さんからまた借りたってンだから、師匠もいい役者だよ。最初のお神さんはそン時は洋食屋なんかしていたらしいですね》


文楽の『あばらかべっそん』には次のようなエピソードが紹介されている。

① 最初の妻は阿波の徳島の出身だった。彼女が用事で実家に帰った時、留守に文楽の女が次々とやって来る。とうとう隣の裁縫の先生に「いくら芸人とはいえ、留守にとっかえひっかえ知らない女がやって来ては、台所で働いているとは何事です」と怒られてしまった。

② 当時の親友、春風亭梅枝が文楽の家に遊びに来ると、おえんが行水をしていた。梅枝は連れて来た仲間に向かって、「ただでのぞいてはいけませんよ。入場料を頂きますよ」と言って切符を作り十銭ずつとってのぞかせた。文楽自身も十銭払ってのぞいた。

文楽がこの妻のことを語る時(それほど多くは語っていないが)、どこか青春の一コマを振り返って懐かしんでいるような感じがする。私には文楽の『厩火事』のお崎さんの中に、彼女が生きているように思えるのだ。

『聞書き・・・』の著者山口正二も「僅か四年に足らぬ縁だったが、文楽師にとっては一番良いお神さんだったのではなかろうか」と書いている。




2021年9月4日土曜日

桂文楽の住まい

この前、八代目桂文楽の『あばらかべっそん』を読み返した。

ここで、文楽が住んだ所を辿ってみたい。

まず、並河益義少年が住んだ根岸の家。『あばらかべっそん』の中で、文楽は「根岸の家というのはちょうどいまの花柳界のまん中あたりでしたが」と言っている。

国土地理院の地図の博物館で買って来た「地形社編 昭和十六年 大東京三十五區内 下谷區詳細図」で見ると、この辺りですな。(その後、益義少年は10歳で横浜住吉町一丁目十一番地の多勢商店に奉公に出された)

三業組合の辺りは「松平様」のお屋敷があった所だ。
 

2020年2月、根岸を歩いた時の写真。花柳界があった柳通。

明治41年(1908年)、並河益義は初代桂小南に入門し、桂小莚の名前をもらう。そして浅草瓦町28番地の小南の家に住み込む。後に小南は浅草須賀町に引っ越し、大阪から両親を呼び寄せた。小南は父親に汁粉屋をやらせたが、その汁粉屋の二階に小莚は暮らした。そして、浅草三筋町の朝寝坊むらく(後の三代目三遊亭圓馬)のもとに稽古に通った。

これも国土地理院の地図の博物館で買って来た「明治40年東京市15区番地界入 浅草区全区」を見てみた。

青で囲ったのが、瓦町28番地。赤で囲ったのが須賀町である。

「いまこんな町名、みんな蔵前何丁目と一括されてしまったんでしょう」と文楽は言う。「昭和三十三年大東京立体地圖」(これも国土地理院の地図の博物館で買って来た)ではこの辺りか。


明治44年(1911年)、師匠小南は三遊派から別派を作ろうと画策して失敗。大阪に引き上げる。小莚は師匠をなくしたため、旅回りに出る。

旅から帰ったのは大正5年(1916年)。翁家さん馬(後の八代目桂文治)門下となり、翁家さん生と改名する。ところが、さん馬が睦会参加の約束を反故にして演芸会社に加入するのに憤慨し、睦会副会長五代目柳亭左楽のもとに身を寄せる。左楽に相談に行ったのが、「私がまださん生でこの黒門町のお化け横丁—箭弓稲荷の横に二階借りをしていたじぶんです」とのことだった。

黒門町箭弓稲荷は、「下谷區詳細図」では下図の赤で囲った所である。(地図では「箭矢稲荷」になっている)


箭弓稲荷。

奉納額には桂文楽の名前が見える。

同年、さん生は大阪で知り合った紅梅亭のお茶子、おえんと御徒町で所帯を持った。翌年には翁家馬之助で真打ちに昇進する。




しかし大正8年(1919年)、馬之助は江戸橋の旅館丸勘の女主人鵜飼富貴と結婚、婿に入る。おえんには手切れ金を渡して別れたという。翌年は八代目桂文楽を襲名する。(文楽襲名にかかる費用は丸勘から出た)

青で囲んだ所が江戸橋。

「昭和三十三年大東京立体地圖」より。
丸勘は昭和通りの辺りにあったという。

丸勘は大正12年(1923年)の関東大震災で全壊。文楽は弟子文雀(後の七代目橘家圓蔵)と中野に疎開し一時すいとん屋をやったが、間もなく鵜飼富貴から逃れるために北海道へ巡業に出る。

翌大正13年(1924年)、横浜の芸者、しんと結婚。西黒門町に所帯を持つ。が、このしんともすぐに別れ、長く連れ添う寿江夫人と結婚する。「贔屓のひーさん」樋口由恵の仲人で神田明神で式を挙げ、講武所の花屋で披露宴をした。

なお、丸勘から焼け出された後の話は『あばらかべっそん』には書いていない。柳家小満んが七代目圓蔵から聞いた話をもとに書いた『べけんや』の記述に拠った。

また、名古屋を拠点とした落語家、雷門福助によると、西黒門町の家は元は音曲師の文の家かしくの家で、かしくの死後、文楽がかしくのかみさんと関係を持ち入り込んだのだという。とすれば、それはしんとの結婚前、北海道巡業から帰った後のことか。

ちなみに、文雀はしんの悪い噂を文楽の耳に入れ、かえって逆鱗に触れて破門になってしまった。ここから大戦後まで、圓蔵師匠の不遇の「てんてん人生」は続く。

赤点の所が文楽宅。
地図は昭和12年当時のもの。

黒門町の文楽宅跡地。

この路地の左側。

住居も妻も転々と変えた文楽は、寿江夫人との結婚を機に黒門町に腰を落ち着けた。そうして「黒門町の師匠」と呼ばれるようになるのである。

2021年6月25日金曜日

桂文楽と四代目小さんの妹

前回した四代目小さんの妹の話、もう少し続けてみる。

『あばらかべっそん』と宇野信夫の「桂文楽と塙保己一」を比較してみよう。

 

『あばらかべっそん』

〇1回目(戦前)

・場所:新宿の花園神社のすぐわき。

・きっかけ:四代目小さんに勧められて。

・お告げ:「あなたは病気だというが悪い所はひとつもない。これから多くの人を指導する立場になるだろう」「戦争はこれからひどくなるからこれこれこういうふうにしておけ」

最後に「両国橋の盲人が・・・」と繰り返すが、詳しいことは不明。

 

実は小さんは妹から「今年は落語界にとって大切な人が大変なことになる」と言われていたたので、当時、神経衰弱で苦しんでいた文楽のことだと思い、心配になって見てもらおうとした。

しかし、五代目圓生がその直後に死んで、小さんは「ああこれだったのか」と思う。

 

〇2回目(戦後)

・場所:高畑不動尊近く。

・きっかけ:四代目の未亡人がひょっこり文楽宅に訪ねて来たので、戦争で行方不明になった息子のことを見てもらいたいと申し出た。

・お告げ:「息子は金魚になっている」 

その後「両国橋の盲人が・・・」と言い出す。「これは塙保己一先生の霊である」

 

新宿末広亭の高座を務め神田立花へ車で向かおうとすると、同乗していた金原亭馬の助(当時はむかし家今松)が「その墓なら、生家の近くなので知っている」というので、後日、五代目小さん、馬の助などを連れて墓参りに行く。住職が系図を見せてくれたが、今の当主は小さんが軍隊にいた時の上官だった。

 

宇野信夫の「桂文楽と塙保己一」

〇1回目(戦前)

・場所:雑司ヶ谷

・きっかけ:戦地に赴いた息子のことを見てもらおうとして。

・お告げ:「もくずとでました」

 

お告げの半年後、息子が乗った船が撃沈され、全員が戦死を遂げたという知らせが届く。

 

〇2回目(戦後)

・場所:雑司ヶ谷

・きっかけ:文楽が胸を患い心細くなったから。

・お告げ:「塙保己一が出てきて桂文楽は大丈夫だと言っている」

 

新宿末広亭から上野に向かう車に同乗した金原亭馬の助が、子どもの頃、保己一の墓のそばにいて場所を知っているという。そこで上野の高座を務めた後、五代目小さんと馬の助を連れて墓参りをする。住職から過去帳を見せてもらうと、子孫は小さんが軍隊にいた頃の上官だったことが判明する。

 

『あばらかべっそん』は正岡容による聞き書き。1957年(昭和32年)の刊行。当時文楽は62歳だった。

「桂文楽と塙保己一」は『今はむかしの噺家のはなし』に収められている。1986年(昭和61年)刊だから文楽の死から約15年後である。この話は文楽が亡くなる10年ほど前に「ぜひ聞いてもらいたい話がある」と言って、宇野の家まで出向いてしたものだという。宇野もまた文楽から直に聞いたのだろう。それがどうしてこうも違うのか。

人の記憶は面白い。

2021年6月22日火曜日

桂文楽の息子

1969年(昭和44年)終戦記念日の朝日新聞に、戦時未帰還者の記事が載っている。この時点で、消息不明の未帰還者が2万2千人おり、そのうちの2千人の家族が「戦時死亡宣告」を拒んでいるという。

その中に、八代目桂文楽がいた。 記事の一部を引用する。


 あと継ぎの期待をかけた長男並河敏男さんが敗戦直前、大陸に渡ったまま、まだ帰らない。「ウチの坊主といっしょに遊んだお隣の坊ちゃんが立派な店主になられて、みかけるたびに思いますよ。あれも無事でいれば三十九歳。明るい子でした。踊りも三味線もスジがよくって、ひとかどの芸人にゃなれましたよ」と文楽師匠(七六)は東京・上野の自宅で、アルバムを手に語る。


文楽は長年連れ添った寿江夫人との間に子を生すことができなかった。親戚から養子をもらい後継ぎとしたのが、この敏男である。


 敏男さんは二十年七月初め、内地を離れた。十五歳だった。電波探知機関係の軍属を志願、採用されたのだ。門司港から船出する前、敏男さんから便りが届いた。なにがしかのお金が添えてあった。「うれしいのなんのって、初めて息子が送ってきた“おあし”でしょ。家中大騒ぎで、神だなにあげて・・・」。

 それきり消息は途絶えた。二十一年帰還した同僚の話では、敏男さんは、栄養失調のため、奉天駅から列車からおり、近くの病院に収容されたという。厚生省の調査では、この病院の退院者名簿に敏男さんの名がない。調査資料の最後のページに「死亡確実」の朱印がある。

 が、文楽さんは「最期をみとった人でも現れない限り」と、戦時死亡宣告の手続きを拒む。「坊主を親が殺せますか」。生きていると信じることが親の生きがいなのだという。


戦後24年経ったこの日も、文楽は敏男が技術者だったことで現地に残され「かみさんももらって、子どもでもつくって、親のあたしに顔向けができないってんで、手紙もよこさない」と半ば自分に強いるように信じていた。いや信じようとしていた。


文楽は戦後になって行者をしている四代目小さんの妹に見てもらった。すると彼女は神がかりになってこう言ったという。『あばらかべっそん』からその場面を引用する。


「息子さんのことは申し上げたくない。泡沫(うたかた)のようなもので、まだはっきりとはしないが—」

といっているうち、今度は倅の霊が来まして、

「いま私は金魚になっています。しかし幸せでいるから心配しないでください」

と奇妙なことを申しました。


宇野信夫は「塙保己一と桂文楽」という文章の中で、同じ場面を戦争中のこととしてこんな風に書いている。

 

 四代目小さんの妹が雑司ヶ谷で、戦前から拝み屋をして相当にさかっている。

 戦争中、文楽は見てもらったことがある。というのは、文楽の養子が、志願して出征した。安否を気づかっていると、誰かが、四代目小さんの妹の話をしてくれたので、雑司ヶ谷へ行ってみた。小さんの妹は、ややしばらく拝んだあと、

「もくず(※傍点あり)と出ました」という。

 もくず—もくずというのは、なんのことだろうと思っていると、やがて養子の船が沈没して戦死したという知らせがきた。成程、海の藻屑となり果てたのである。


『あばらかべっそん』の文楽の話とは、かなりの相違がある。時期も違うし、場所も違う(『あばらかべっそん』では戦前は新宿、戦後は高幡不動尊そばとしてある)。また、この話だと敏男の戦死公報が届いたことになって、先の新聞記事とは事実の根底が違っている。船が沈んだことも『あばらかべっそん』の中で「私の船は機雷にかかって沈みましたが、幸いにして私は助かりました」という手紙が来たと書いている。同じネタでこれほど違うのはなぜなんだろう。


文楽は最晩年になって敏男の名を自分の家の墓石に刻み供養をした。自らの死を覚悟してのものだったと思う。

あの新聞記事から2年後のことであった。

2020年12月12日土曜日

今日は黒門町の命日

朝、御飯、味噌汁、ハム、鮭フレーク。

午前中はずっと大掃除。

昼はハムときゅうりのサンドイッチ。若い頃はきゅうりが苦手だったが、最近、かっぱ巻きとサンドイッチは食べられるようになった。むしろ旨いと思う。年を取れば変わってくるんだね。

午後、タイヤの履き替えに行く。

夕食は、芋煮で「男女川初しぼり」。つくば市沼田のお酒。妻の実家に行った時、頂いて来た。旨し。


今日、12月12日は、八代目桂文楽の命日。黒門町が亡くなったのが1971年だから、来年は没後50年か。

私が文楽と出会ったのが、中学2年。ラジオで聴いた『締め込み』だった。 

ということは、あれは文楽の死後3年のことであったか。

だから、私は文楽の生前の高座を知らない。かつてはそれを悔しく思っていたが、なまじ晩年の衰えた高座を知っていたら、私はここまで文楽のファンになっていなかったのかもしれない。

文楽の最期については以前記事にしてあるので、詳しくはそちらをご覧ください。

「桂文楽の死」


私がいちばん好きな酒。ボウモアと神亀。




2020年10月13日火曜日

『名作落語全集』、黒門町の噺

先日、私が買った『名人落語全集』のネタ本、『名作落語全集』から、「黒門町」八代目桂文楽の噺を拾ってみる。(HP「落語はろー」より)


第一巻/開運長者篇:『芝浜』、『初音の鼓』(八代目林家正蔵が得意とした)  

第二巻/頓智頓才篇:『羽織の幇間』(上方種で、上方では『裏の裏』『乞食茶屋』という。『林家正蔵(八代目)全集』にある)  

第三巻/探偵白波篇:『花色木綿』、『薙刀傷』(十代目金原亭馬生が立川談志に教えたという噺)  

第四巻/滑稽会談篇:『たちきり』(河出書房『文藝別冊八代目桂文楽』の中に収録されている)  

第五巻/芝居音曲篇:『なめる』(六代目三遊亭圓生の得意ネタ)、『役者息子』  

第六巻/滑稽道中篇:『法華豆腐』(『甲府ぃ』)、『富士詣り』(五代目桂文楽の得意ネタだったという)  

第七巻/恋愛人情篇:『心眼』、『夢の瀬川』(別名『雪の瀬川』。四代目桂文楽の得意ネタだった。現在は柳家さん喬が演っている。この噺を初代三遊亭円遊が改作したのが、黒門町晩年の持ちネタ『夢の酒』である)  

第八巻/剣侠武勇篇:『写真の仇討』(明治時代二代目五明楼玉輔が得意とした。『林家正蔵(八代目)全集』にある)、『提灯屋角力』(『花筏』) 

第九巻/変人奇人篇:『ひねりや』(明治の『百花園』にも収録されている。サゲは『唖の釣』と同じ)  

第十巻/粗忽者と与太郎篇:『やかん泥』、『無筆』  

第十一巻/酒呑居候篇:『按摩の炬燵』『鰻屋のたいこ』(『鰻の幇間』)  

第十二巻/花柳廓噺篇:『明烏』、『萬歳』(『萬歳の遊び』)


全12巻の全てに文楽は登場している。ちなみに文楽のライバル、五代目古今亭志ん生は一席も入っていない。この本が刊行された昭和初期での二人の立場の違いが見て取れる。

それよりも文楽のネタだ。収録された26席中、晩年まで持ちネタにしているのは、太字で示した、わずか4席しかない。

ちょっとだけ思うのは、これらを全て文楽が演じていたのだろうか、ということだ。とても彼の人に合わない噺も随分含まれている。もしかしたら、文楽といっても八代目だけでなく、「桂やまと」になった五代目や、名人「でこでこの文楽」(四代目)の速記なんかも混じっているのではないか。(特に『富士詣り』『夢の瀬川』はそんな気がする)

ここで思い出すのが、文楽が弟子の柳家小満んに語った言葉である。

桂小勇だった頃の小満んに、本当のネタ数を訊かれた時、文楽はとても困った顔をしたが、

「そりゃあ、あたしだって三百ぐらいは稽古をしてますよ」と答えたという。

そしてそれに続けて「富士山も裾があって高いんですよ」と言ったというのである。

文楽は最終的に持ちネタを30席足らずに絞った。自分の主題に沿わない噺を惜し気もなく捨てて行った結果であろう。してみると、この『名作落語全集』に収められているネタは、その絞り込みのプロセスをも示しているのではないか。

一部は「青空文庫」で読める。いつか全編読んでみたいなあ。


追記

初出の記事で、今村信雄と宇野信夫と混同している部分がありましたので、その部分を削除しました。すみませんでした。

2020年9月23日水曜日

黒門町の『芝浜』

 以前、「文楽の『芝浜』」という記事を書いた。

川戸貞吉と雷門福助の対談で、文楽が『芝浜』を持ちネタにしていたということが語られており、しかもそれは、あの三代目桂三木助の『芝浜』の原型だったというのだ。

その辺りのことを、もう少し詳しく書いてみたい。では、『対談落語芸談2』より引用する。

 

福助 (※文楽が人情噺をやらなかった)それのひとつの証拠が『芝浜』ですよ。三木助が『芝浜』を演って賞をもらったのは、文楽さんの『芝浜』なんですよ。

川戸 ほう。

福助 文楽さんが咄家を呼んで、三日間『芝浜』を演った。そいで、「どうだい?」ッていったら、みんなが「結構ですね」ッて。

川戸 ええ。

福助 三日目に、ひとりいた奴が目ェ真っ赤にして泣いたんですね。それェ見て、「どうしたんだお前?」「へえ、どうもすいません」「お前泣けたのかい?」「すいません」「ああそうかい。お前が泣けるならお客は泣くから、俺ァもう『芝浜』はやめた」ッていって、そいでやめちゃうんですよ。

川戸 へえェ・・・。

福助 それで『芝浜』は演らなかったン。あたしァそれを、「兄弟こうなんだよ」ッて三木助から聞いたン。

川戸 ええ。それで三木助が「『芝浜』を師匠」ッていったら、「俺ァ稽古ァ嫌いだ」ッて、それをあいつがくどいようにいって、とうとう文楽さんが敗けて、『芝浜』を五日間稽古してもらったン。それで、あいつが賞をもらったんですよ。これァ三木助があたしにいったんですから。

(中略)

川戸 あのねェ、三木助の『芝浜』については、これは嘘か本当かわからないんですが、たしかこういった伝説が残ってんですねェ。

福助 どんな伝説ですか?

川戸 文楽師匠が『芝浜』を演ったと。

福助 うん。

川戸 したら「師匠の噺はセコだ」ッて、三木助がいったと。

福助 うんうんうん。

川戸 それで文楽さんは『芝浜』をやめちゃったと。

福助 あははは、たいへんな間違い・・・そらァあいつが家ィ来ていったんですから、三木助が。

川戸 はあ。

福助 「お前賞をもらっておい、タロんなったのかい?」ッたら、「いや、タロにはならない」「『芝浜』だって?」「いや、あれは黒門町のネタだよ」ッていって、いまの話をあたしにしたんですよ。

 

福助の話は今までの定説をひっくり返すようなものが多く、「本当かよ」と思うことも間々あるが、この話は印象的だった。

ただ、この『芝浜』については、文楽自身の口からこんなエピソードが披露されている。では『落語藝談』(暉峻康隆)より引用する。

 

 それから「芝浜」です。うちで稽古している時分です。いまの円生や正蔵がみんな家へ集まって、これからやりたい咄をみんなでやるんです。あたくしが「芝浜」を研究していて、どうしてもできないんです。きょうこそはひとつ、ちゃんとやろうと思っていると、三木助が聞いていていましてね、

「どうだい、おい。これ、ものになると思うかい」

「師匠、だめだ」()

「だめかい」

「うん。肝心なところがいけねえ」

「それはどういうわけだ、教えてくれよ」

と言ったら、「一例がこういうことがありました」というんで話してくれました。

「あたしが商売人のばくち打のやくざの仲間へはいって暮らしている時分に、一文無しになっちゃって、次の二畳かなにかの座敷にこうやって寝てると、『おい、どうしたい』と言って、くすぶり同士が、『おれもうだめなんだよ』『おまえ、いくらかねえか』『五十銭しかねえ』『五十銭貸してくれ』『おめえに貸しゃ、おれ湯へへえることもできねえ』『まあいいから貸してくれ』というんで、その五十銭張ったために、夜中から朝までに、側中の銭をそっくり取っちゃったという話。そのときのうれしさが、あたしには忘れられない。だから、あんたがいまやった『芝浜』の、あのお金を拾ったときのうれしさ、そこのうれしさが足らない」と言うんです。その気持ちが足らないと。

 

川戸の言う「伝説」は、実は文楽自身から出た話だったのだ。

福助はさらに「だから、文楽さんは、いっぺんも高座にかけてませんよ、『芝浜』は」と言っているが、都家歌六は雑誌『落語界』の「桂文楽レコード・ガイド」という文章の中でこう書いている。

 

 これ以外かつてレコード化されなかったものには、「小言幸兵衛」「鶴満寺」「品川心中」などがあり、録音されてはいないが「芝浜」も上演されているし、私の前座当時の記憶として「野ざらし」「お若伊之助」はたしかに聞いている。

 

歌六は文楽が『芝浜』を口演したことを明言している。ただ、いつどこで口演したのかは示してはいない。

では、文楽の『芝浜』とはどのようなものだったのだろうか。

それを、実は最近手に入れたのだ。

土浦の古本屋にそれはあった。昭和231015日、清教社という出版社から発行された『名人落語全集』という本の中に、桂文楽の『芝浜』が収められていたのである。

それがこれ。

なんと巻頭を飾っているのではないの。

3000円、すかさず買っちゃいました。

内容については、次の機会に譲ります。

2020年6月17日水曜日

柳家小三治の文楽論

柳家小三治の自伝『どこからお話ししましょうか』が面白い。
この中でふれられている「昭和の名人」の中で、師五代目小さんに次いで、小三治が多く紙幅を割いているのが、黒門町、八代目桂文楽である。
小三治の文楽論を見てみよう。

私は必ずしも、八代目桂文楽という人に憧れてたわけではなかったんです。でも、こないだラジオで久しぶりに聞いたら、聞き慣れているはずなのに、すごく新鮮に感じた。素晴らしかった。今のやつは自分も含めて、余計なことを言い過ぎる。文楽師匠の噺は「削ぎ落した」って当時から言われてましたけど、当人は削ぎ落したとは思えない。ふつうのことをふつうに言ってるだけなんだけど、その世界や心が伝わってくる。素晴らしいなあと思いました。今になって桂文楽って名人じゃねえかって、改めて思うんです。いや、こないだまで思わなかったわけじゃない。こうじゃなきゃなあって、今の落語界を見てもそう思うんですけど、受けたい、受けたいっていう受けたいは、「こうしたい」んじゃなくて、「人からこう思われたい」っていうもので、評判ばかり気にしてる。そういうことじゃないんです。人が生きていくうえでの心はこういうことだって、噺はちゃんと持ってるんだから、それをまず伝えてもらいたいよ。そのうえでちょっとお飾りに、こんなこと言ってみたり、あんなこと言ってみたりってそれは構わないけど、なくったっていいんです、そんなものは。

一時、小三治が傾倒した六代目三遊亭圓生については、「うまいなと思うし、すごいなと思うところはあるんですが、心をゆさぶられない。『牡丹灯籠』やほかの人情噺を聞いても、その噺に心をゆさぶられたりはするけど、その奥にいる演者に心動かされることはなかった」と述べているから、文楽への評価がいかに高いかが分かる。
似たようなことをどこかで読んだな、と思って本棚を漁ってみると、『CDブック・八代目桂文楽』(1998年刊)にあった。
山本文郎が司会を務めた五代目小さんとの鼎談「生きることがすべてが〝芸〟だと教えてくれた師匠」での小三治の意見である。

ただ私はね、世間の方と違うのは「文楽師匠はいつでもきっちり同じにやって、いつ聴いても同じだ」っていわれるでしょう、その「いつ聴いても同じだ」っていう言葉に非常に抵抗を感じるんです。私はね、こんなに違う師匠はいないだろうと思ってます。それはね「いつ聴いても同じだ」っていうのは私からするとまだ聴き方が素人だな、と思うんです。生身の人間だから、同じわけはないんです。同じだったら、一回録音すればあとは要らない。そのね、せりふも同じ、てをにはも同じ、その心意気も同じ。すべて同じに見える中に、いつも何か師匠自身の噺との対話がありましたね。私はそう思ってます。だから、同じなのにすごく感動するときと感動しないときとあります。乗る乗らないって言葉で一言で片づけてもいいですけど、その差ってのはことばがきっちり決まってるだけにとても大きかったです。

私は後年文楽ファンになりましたから、ファンになってからその差はすごく感じましたね。ファンになる前はね、いつ聴いても同じだと思ってましたよ。だから、物書きの人たちでも「いつも同じ」という表現しかしないけども、私は志ん生師匠のほうがもっと同じなんじゃないかと思います。心としてはね。ただ、演技で表へ出てくるものが二人は違いましたからね。ぞろっぺい(おおまか、いい加減)な部分を言葉でごまかしてましたから、志ん生師匠は。そういう点では、噺のたびごとの心の揺れ動きってものとは、文楽師匠の方が真剣に戦ってましたね。

小三治は、世間での文楽の「いつも同じ」という評価に強く反論している。これは文楽をリアルタイムで聴いていた人だからこそ言えることだろう。
録音でしか聴いていない私には正確には分からない。ただ、「文楽はアドリブが得意ではなく台詞を固めざるを得なかったものの、台詞が変わらないというだけで、噺自体は躍動していた」という私の持論に通じている。
「いつも言うことは同じ」の向こうにあるものを見る、小三治の目は確かだ。
文楽はただの「精密機械」ではないのである。

小三治は、文楽の噺を自分が演じることの困難さについても語っているので、それも紹介しよう。

この『癇癪』という噺は、亡くなりました文楽師匠が得意にしてた噺で、初めて文楽師匠の噺を聴いたときには、ああ面白い噺だなぁ、いつかああいう噺ができたらいいなぁ、落語らしくない噺だな、というような、そんな感じがありまして、で、おぼえまして、しばらくやってたんです。ところが、どうしてもうまくいかない。
 どうもその、文楽師匠、いわゆる黒門町といっていた昭和の名人とも言われる人ですね、志ん生と並んで天下を二分したという、その桂文楽という師匠の噺が頭からついて離れない。
(中略)
 志ん生師匠の噺はね、けっこう、あの、直しやすいんですよ。
 第一、本人が何ゆってっかわかんないんですから(笑)。(志ん生師匠の真似で)「ンェ~でやんしたァ、ン~、そうです」なんて、何がそうだか、ちっともわからない(笑)。
 そこへいくってえと、文楽師匠のほうはまことに理路整然として、何が何どうなったって、どうなってもこうなるからこうなる、って、なるほどそれは納得させられます。話術も、見事なもんでございました。あまり見事にやられますってえと、そこから離れるということが難しくなります。(『もひとつ ま・く・ら』より「黒門町の『癇癪』」)

文楽師匠の『船徳』。特に若旦那の姿に鮮烈な印象を受けた。この「黒門町の呪縛」から抜け出す為にもがき苦しんだ。あの『船徳』を聞いていない人がうらやましいとさえ思う。(『落語の友・創刊号』より「印象に残る『船徳』」という質問に対して)

小三治の言葉を通して、文楽落語のすごみが立ち上がる。目利きとしての小三治も、またすごい。

2020年2月6日木曜日

八代目桂文楽 根岸の家

森まゆみが書いた、正岡子規の評伝『子規の音』(新潮文庫刊)を読んだ。
東京根岸が子規の終の棲家になるのだが、彼が根岸に越してきたのが明治25年(1892年)だったということを知る。
明治25年といえば、八代目桂文楽が生まれた年ではないか。
八代目桂文楽こと並河益義は、明治25年11月3日、青森県五所川原に生まれた。父が五所川原の税務署長をしており、その赴任先で生まれたのである。
並河の家は、常陸国宍戸藩松平家の家来筋にあたり、もともと根岸の松平屋敷の近くに住んでいた。益義、2歳の時、父が転勤となり、並河家は根岸に戻った。
正岡子規死去が明治35年(1902年)。そして、益義少年が尋常小学校3年で退学し、横浜の薄荷問屋、多勢商店に奉公に出されるのが、その明治35年、子規の死とともに、文楽も故郷根岸を離れることになるのである。この符合は少なからず私を興奮させた。(そんなんで興奮するのも私ぐらいか)
『子規の音』の巻末には、明治33年(1900年)当時の根岸の地図が付いている。早速、文楽の根岸の家が何処にあったのか、探してみることにした。
まず『日本の芸談8寄席芸』(九藝出版)での小池章太郎の語注から見てみる。

『新撰東京名所図会』下谷区之部(明治41年2月刊)の下谷上根岸町、「今昔の景況」の条に、「当町現住者は華族には五十五番地に子爵松平頼安(中略)実業家には八番地に並河靖之(勲章師)」云々の記事が見られる。

小池はこの辺りを並河の家と推察しているようだ。
だが、松平頼安、55番地の敷地はそれほど広くなく、文楽の母が行儀見習いに上がるような感じではない。
ぱっと目につくのは、中根岸町にある松平家。これが宍戸藩松平家の屋敷なのではないか。
文楽は『あばらかべっそん』の中で、「根岸の家というのはちょうどいまの花柳界のまん中でしたが」と言っている。では、根岸の花柳界はどこにあったのか。ネットで調べてみたら、見番が中根岸町106番地にあったとのこと。これが「松平家」の西南の隅にあたる。松平家の東隣には、益義少年の遊び場だった安楽寺もある。これで、文楽の根岸の家は中根岸のこの付近にあったことに間違いない。「なにしろ大きい家で庭も広く」とあるので、松平家の西隣、71番地か? 
まあこれから先は資料がないので分からない。でも、ここまで分かっただけでも嬉しい。

下は『子規の音』巻末にあった根岸の地図。



子規庵は上根岸町82番地、前田家敷地内。地図左、青で囲った所。左隣は陸羯南宅、緑で囲っている。さらにその左側は子規が根岸で最初に住んだ家。子規庵の向かいには、洋画家中村不折の家がある(現在の書道博物館)。不折は、漱石の『吾輩は猫である』の挿絵を画いた人である。
中央やや左、55番地(赤で囲っている)が松平頼安の家だという。その右下の8番地、赤で囲った所が並河靖之。
そして、右上端、赤で囲った所が松平家。その左下106番地が見番である。

地図をつまみにあれこれ想像するのは楽しい。
それにしても、色んな所に、色んなことを知るチャンスは転がっているんだなあ。

2019年11月29日金曜日

桂文楽、芸術祭賞受賞(昭和29年)

八代目桂文楽が初の芸術祭賞をもらった時のインタビュー記事を見つけた。
記録の意味も込めて、記事にしておく。
昭和29年(1954年)12月13日付の朝日新聞である。

「文楽の話術のおかげで、世の〝知識人〟といわれる連中が落語を鑑賞し、認識するようになった」という書き出し。当時、吉田茂、歌人の吉井勇、早大教授の暉峻康隆などという面々がこぞって文楽を讃え、それが文楽のブランドイメージを高めた。また、記事からも、余計なクスグリやギャグを入れず、いちいち説明しなくても噺の中に時代や情景がきちんと描写される「本当の落語」、「落語話術の最高」という評価が既に定着していたことが見て取れる。

戦時中の言論統制の時代が終わり、思う存分自分の芸ができるようになった。名人と言われた、五代目三遊亭圓生、四代目柳家小さんはもう亡く、八代目桂文治に往年の輝きはない。斯界きっての大物、五代目柳亭左楽も、この年、鬼籍に入った。加えて文楽は当時63歳、落語家として脂の乗り切った時期で、その迫力は他の追随を許さなかった。事実、八代目橘家圓蔵は「その時(昭和29年当時)の黒門町の芸はすごかったなんてもんじゃない」と言っている。彼が落語界のトップに君臨したのは当然だったと言っていい。

興味深いのは経歴。記事では「下谷根岸の花柳界の真ん中で生まれた江戸ッ子」とある。実際には父の任地、青森県五所川原で生まれている。母は江戸詰めの常陸国宍戸藩士の娘、婿養子に入った父は一橋家御典医の家の生まれ、両親ともに東京者で、文楽自身も3歳の時に東京に戻っているが、正確に言えば「青森県出身」である。後に自叙伝『あばらかべっそん』に書かれていることだが、この時点ではそういうことになっていたんだな。

「三木助、小さんなどと門外不出の研究会を作って〝死ぬまで修業〟を実践している」との記述もある。小さんは四代目の死後、預かり弟子として一門に入っている。三木助は春風亭柳橋門下だったが、文楽に憧れ、晩年、文楽門下に入った。他のメンバーは不明だが、いずれにしても弟子筋との勉強会をしていたのか。そういえば、文楽は新しい噺を高座にかける前は、弟子を集めて演じて見せたという。

一方で「余計なものをはぶきすぎて〝純文学のような落語〟という声もあり、それが欠点だとみるむきもある。」という指摘があり、文楽自身、「私の芸は今まで一つところばかりみがいてきたようなもの。これを機会に幅をひろげる勉強をしたい」と言っている。
その後、文楽はモデルチェンジすることもなく、確立されたスタイルにやがて体力がついて行かなくなり、絶句という「名人芸の崩壊」を迎えることになる。
八代目桂文楽の訃報が載るのは、17年後。この記事と同じ12月13日付であったことを思うと、感慨深いものがある。




2019年9月20日金曜日

黒門町の言葉


大分前に日暮里を歩いた時、学習塾の前に出ていた格言。
「器用じ(ゃ)だめなんです」。黒門町の師匠、八代目桂文楽の名言である。

文楽は自他ともに認める無器用な人だった。お笑い芸人にとって大きな武器になる、とっさのアドリブが苦手。そこで、台詞を固め、言葉を磨いた。出来上がった噺の完成度は高かったが、おいそれと変更がきくものではなくなった。
大西信行は『落語無頼語録』の「桂文楽の死」という文章の中で、次のように語っている。

 文楽を無器用な落語家だといい融通のきかない芸だという。たとえ放送でも二十分の話を十五分には出来ないし、十五分の落語は二十分には出来ない。それが文楽の芸の尊さでもあるのだと評価されて来た。たしかに無器用でもあったろうけれど、その無器用さには落語家としての主張があったのだと信じたい。そのことの批判とは別にそう思ってあげたい。

器用にできる者はある程度まではすぐにできるが、それ以上に行く努力を怠りがちだ。文楽は無器用に努力を重ねることで、常人には到達しえない高みに上った。文楽は、自分が無器用であるがゆえにそこまで行けたことを自覚していたし、そんな自分に誇りを持っていたのだろう。

六代目三遊亭圓生は、文楽の葬儀の弔辞でこう述べている。

 尚私が云いたいのは戦後、人心の動揺、人情、生活と、以前とは移り変わり行く世相で、勿論落語界も、世間のあおりを喰い、動揺をしたその中で、貴方の芸は少しも、くずれなかった。我れ人ともに時流に押し流されやすい時に貴方は少しもゆるがなかった。悪く云えば貴方の芸は、融通が利かない、無器用な芸だとも云える・・・ごめんなさいね・・・だがそれがよかったのだと思う。なぜならば、戦前の通りに少しも芸をくずさずに演った、それが立派な芸であれば客はよろこんで聞いてくれるのだ、これで行けるのだと、人々に勇気をあたえた。今日の落語界に対して貴方は大きな貢献をされた事を私は深く深く感謝しております。

どちらかといえば文楽に批判的だった圓生の言葉だけに胸を打つ。

最近、器用にその場の空気を読み、ぺらぺらとそれらしい言葉を連ね、存在感を示す者が目立つ。頭がいい、などと言われ、もてはやされているが、よく聞くと、言っていることは見事に空っぽ。しかもそういう奴に限って器用に立ち回れないものを、あからさまに見下すんだな。
薄っぺらい器用ものなんかになるな。無器用にひとつひとつのことを重ねていくことの方が尊いぞ。
改めて見ると、そんなふうに文楽師匠から言われているような気がします。