今年は八代目桂文楽没後50年。50年前の今日の朝日新聞朝刊の記事から当時を振り返ってみたい。
記事によると、文楽は、12月12日、日曜日、午前9時20分、肝硬変のため、東京都千代田区神田駿河台の日大医学部付属駿河台病院で亡くなった。79歳。
告別式は18日、落語協会葬を兼ねて台東区西浅草の東本願寺で行われる。喪主は長男、並河益太郎、葬儀委員長は落語協会会長、三遊亭圓生。
各落語家のコメントは次の通り。
柳家小さん「さびしいねえ。本当のはなし家らしい人が、いなくなっちゃった」
金原亭馬生「(9月に母親を亡くしたばかり)二つともこんなことが続いて、悪い夢見ているみたいで・・・。オヤジ(古今亭志ん生)は、だまったきり、なんにもいいません。こたえたんでしょう」
三遊亭圓生「戦後のころ、われわれの仲間も動揺しましてねえ。そん時も、あの人はごうも揺るがずってんですか、きちんとしたはなしを守った。それが、下にどれだけ力になったか」
同年8月31日、国立小劇場、落語研究会で「大仏餅」口演中に絶句した、その後について、記事ではこのように書いている。
「これが最後か」と、居合わせた人は思った。が、本人はやる気十分。「お客さまにすまない」を繰り返し、気分のいいときは「寝床」や「心眼」を口ずさんでいた。
これを見ると、文楽は復帰に意欲的だったと思われる。
川戸貞吉の『落語対談2』では、西野入医師が、周囲が高座復帰を勧めても「お気持ち、ありがとございます」と言って、文楽は頑として応じなかったと証言していた。
大西信行は『落語無頼語録』の中で、「でも、春ンなったら、ぽつぽつ新しいはなしもやるように心掛けているんだ」と語る文楽を描いている。
文楽自身、揺れ動いていたんだろうな。結局、文楽はその後、二度と高座には上がらずに逝った。
記事の最後はこう結ばれている。
夫のまくら元にすわった梅子夫人は、弔問客が来るたびに、顔の白布を取り、「ほら、〇〇さんですよ」。安らかそのもの、といった死顔だった。いまにも、長いまゆ毛の下の大きなまなこが開いて「こりゃどうも、あばらかべっそんで」といい出しそうな。
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