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2025年9月13日土曜日

三連休の初日

朝、御飯、味噌汁、チキンナゲット、スクランブルエッグ、鶏そぼろ。

次男をアルバイトに送る。妻は仕事。

帰って、コーヒーを淹れて長男と「チコちゃん」を見ながら飲む。

キース・ジャレット 『ソロコンサート』のレコードを聴きながら、絵を描く。

昼はじゃじゃ麵を作って、長男と食べる。旨し。

おやつにアイスを食べる。パナップのいちご味。顔みたいになる。

夕方、PCデポに、メンテナンスに出していた息子たちのパソコンを取りに行く。

次男のお迎え。

夕食は、煮込みハンバーグ、鶏の唐揚げ、はんぺんサラダでビール、酒。長男は昨日まで学会で広島、それと、あと3年、大学院に通うことが決まったので、ご苦労さん会とお祝いを兼ねて、彼のリクエストに応えたのだ。あと3年かあ。おれも頑張らないとなあ。

寝しなにカティサーク。

これは昨日の写真。

長男は、原爆ドームと原爆資料館を見てきたという。彼が買ってきた『観光コースでない広島/被害と加害の歴史の現場を歩く』という本を借りて読んでいる。彼なりに思うところがあったのだろう。それはそれで、父としてうれしい。

虫の声がさかんに聞こえる。暑いけど秋、か。


2025年9月9日火曜日

下館をスマホで撮る

最近撮った、シブい建物の写真。

下館でスマホで撮ったのを、まとめて載せてみます。






スマホもけっこう画質がいいんだよね。昔は「ケータイのカメラなんて」と思っていたけど、今は便利に使っています。

2025年9月7日日曜日

神崎楽々亭

朝、御飯、味噌汁、ハムエッグ、那須土産の栃木牛のふりかけ。

茨城県知事選挙の投票に行く。

そのまま、神崎町楽々亭に向かう。

「こうざき道の駅」でお昼を買って、会場のふれあい文化センター へ。

11時に着くが、誰もいない。LINEを確認すると、イベントの楽々亭に12時30分という時刻がある。そうか、集合は12時30分だったのか。あと、1時間半、どうしよう。

しょうがないので、とりあえず昼飯を食おう。利根川の堤防道で食べることにする。路肩に車を止められる所を探して、香取市の境まで行く。

車を路肩に止め、道の駅で買った、焼きそばと赤飯のおにぎりを食べる。すぐ脇を、車がびゅんびゅん通って行く。

その後、ゆっくり神崎に戻る。


コスモスが咲く。秋の兆し。


まだ、時間があるので、久し振りに神崎神社にお参りする。


御神木のなんじゃもんじゃの木。

頃合いもよし、ふれあい文化センターに向かう。駐車場に入ると、もうメンバーの車がある。慌てて会場に入ると、集合は11時30分とのこと。もうすっかり準備はできていた。

後で手帳を確認したら、前回も11時30分集合だった。思い込みは恐ろしい。

楽々亭は13時30分開演。私は3番目に出て、『青菜』を演る。喜んでいただけたようだ。

15時30分終演。16時解散。17時10分頃帰宅。

妻と夕方ビール。ぼんやりテレビを見ていたら、石破首相が辞任するという。

前は軍事オタクにしか見えなかったが、首相になってからの言動から、極めてまともな歴史観を持ち、弱者に思いを致すことができる人だと思えるようになった。どうせ短命内閣なんだから、もっと思い切りやってもよかったのに。せめて、戦後80年の首相談話は出してほしかった。

自民党には「アベ政治」への郷愁が根強くあるからなあ。揺り戻しがくるんだろうな。

夕食は、豚の角煮、コブサラダ、冷凍たこ焼きでビール、酒。梨、ぶどうも食べる。旨し。

食後にカティサーク。


今月のみほ落語会は、9月27日(土)、13時開演です。私は出演いたします。

なお10月は会場の関係で、第3土曜日、10月18日。出演予定です。

2025年9月6日土曜日

今日の日記

朝、トースト、牛乳、ウィンナーソーセージ、スクランブルエッグ。トーストには那須土産のミルクジャムをつけて食べる。旨し。

朝イチで医者に行き、血圧の薬を出してもらう。

米ができたというので、父と取りに行く。今年は50袋と少し。去年は52袋だった。50袋を収納。1袋30㎏、年々この作業がつらくなる。

昼は妻が作った和風パスタ。大根おろしとツナ、それにレモン果汁、醤油をまぜて食べる。さっぱりして旨い。


 午後はPCデポ。息子二人のパソコンをメンテナンスに出す。

夕方、猫の蚤取りの薬を買いに行く。妻は仕事に行った。

夕食は、冷凍唐揚げ、冷奴、昨夜の残りのジャガイモと豚肉の炒め物、シューマイでビール、酒。

この頃、たまにYouTubeで「ソング・アラウンド・ザ・ワールド」を聴く。世界各地で、様々なミュージシャンが一つの曲を演奏し歌うというものだ。

まず、はまったのが『ザ・ウェイト』。元ザ・バンドのロビー・ロバートソンのボーカルとギター、そして、ドラムがリンゴ・スター。チャーもギターで参加している。もちろん、ロビーはシブい。それでも、ビートルズファンの私としては、リンゴのドラムにとどめを刺す。いやあ、カッコいい。

そして、ボブ・マーリーの『リデンプション・ソング』。ボブの息子、スティーブン・マーリーのボーカルが圧巻。途中、ボブのライヴ映像も挿入される。奴隷船で売られてきた黒人の歌。この歌を聴いて差別できる者がいたら教えてほしい。「歌ってくれないか、自由の歌を。おれたちが歌ってきたのは、すべて救いの歌だ。救いの歌なんだ」。まさに絶唱。

寝しなにカティサークを飲みながら視聴する。ついつい友部正人の『六月の雨の夜チルチルミチルは』も聴いてしまう。

YouTubeは怖いな。際限がない。私は自制して落語か音楽にとどめている。

台風一過、よく晴れた。まだ暑い日が続くという。猛暑日はもういいにゃあ。



2025年9月4日木曜日

旅の昼飯

 旅の昼飯。

まずは燕市のソウルフード、背脂ラーメン。燕市は金属洋食器産業が盛んな所。夜遅くまで働く職人さんのために「のびにくい麺、冷めにくい濃厚なスープの背脂ラーメン」が考案されたという。

地元の人気店、大むら食堂。背脂ラーメン元祖の杭州飯店と人気を二分する店である。

なるほど、開店前、既に行列ができている。私たちも並び、30分程待って、二階に案内された。

待望の背脂醬油ラーメンと御対面。850円ぐらいだったかな。



お勧めの中太麵を食す。見た目ほどしつこくない。中太麺がスープに絡み、旨いねえ。

行列に慣れているのか、客さばきがうまい。インカムなんか使っている。注文もタブレットだし、待つストレスがそれほどない。

もともとは地元密着の町中華なんだな。定食や丼物も充実していた。カツ丼なんか旨そうだったよ。できれば、夜に飲みに来たいものだ。



二日目は、長岡市のソウルフード、洋風カツ丼。

昭和の御代、「小松パーラー」(1931年創業、2006年閉店)の店主が考案したメニュー。ケチャップベースにとろみをつけた「ファミリーソース」がかかっている。

私たちが行ったのは、「レストラン・ナカタ」。1975年創業。洋風カツ丼の始祖、「小松パーラー」の流れをくむ店だ。


入店時には早くも満席。15分程で座れたが、後から行列ができていた。

もちろん、洋風カツ丼をオーダー。ケチャップベースソースとデミグラスソースのハーフ&ハーフ、値段は1000円ちょっと。




ケチャップベースソースは、小松パーラーでいうファミリーソース。酸味があって、どちらかと言えば、こちらの方が好みかな。

この店はカレーも看板メニューらしい。激辛「50倍」を完食すると写真を撮って飾ってくれる。昔、向ケ丘遊園にあった「インドール」の「100倍カレー」を思い出した。


2025年9月3日水曜日

谷田部、阿見を歩く

新潟から帰って翌々日。

この日はお休み。息子二人をつくばに送って行く。前々からそういう予定だった。せっかくだから半日ぐらいぶらぶらしようと思っていた。久々に結城の方にでも、と企んでいたのだが、本日の結城地方の予想最高気温が37度であるということを知り、一気にくじけた。

そこで、谷田部に行くことにした。

つくば市谷田部。つくば市が誕生したときは、ここに市役所が置かれた。古くは谷田部藩があり、海軍の飛行場があり、土浦から水海道へ向かう街道の中継地として、かつてこの町は筑波郡の中心的存在だった。

商店街の中ほどに駐車場があったので、そこに車を止めて歩き出す。早くも気温は30度を超えている。時間が早いので、店はほとんど開いていない。




元は豆腐屋さん。

元は材木屋さんらしい。

歴史的遺跡発見。五角堂。内部には江戸時代後期の発明家、飯塚伊豆七製作の和時計があるという。

この辺で折り返す。一本手前の細い道を行く。






谷田川を渡る。
搦手橋。ということは、この辺りに城があったのだろう。





再び橋を渡って駐車場に向かう。

道が鍵の手になっている。

八坂神社。



1時間ほどぶらついて、まだ9時。

では、もう1ヶ所行こうと思い、阿見へと向かう。

予科練平和記念公園に車を止め、歩き始める。手始めに、海軍道路と呼ばれる、坂道を上る。上り切った所に、配水塔のようなものがある。

それがこれ。


多分、海軍の遺構だと思うけど、何の解説もない。

坂をだらだらと下りると、突き当りは陸上自衛隊武器学校。坂上にある土浦駐屯地とともに、かつて海軍霞ケ浦航空隊があった所だ。



坂下辺りをぶらつく。







かつては飲み屋が軒を連ねていたような匂いがする。

武器学校の敷地内にある雄翔館を見学。ここには予科練出身戦没者の遺影と遺品が展示されている。遺影の数のあまりの多さにたじろぐ。沖縄のひめゆり平和祈念資料館でも似たような感情を覚えた。


入り口にあるのは山本五十六元帥の銅像。


山本五十六は1924年(大正13年)から翌年まで霞ケ浦航空隊副長を務めた。五十六がここにいたのは、わずか1年半。だが、土浦にとっても彼は偉人だ。人間的に魅力はあったのだろうが、その後の神格化が大きく影響していると思う。

戦没者の中には特攻隊員が多い。特攻命令を連発し、敗戦後、自決した大西瀧治郎や特攻に出て死んだ宇垣纒の展示もあり、色々考えさせられた。そのことについては、いつか書いてみたい。

かすみがうら市のだい食堂で、ちょっと奮発してトンテキ定食を食べて帰った。

谷田部には海軍の航空隊があった。阿見は予科練があった所だ。奇しくも海軍ゆかりの地を歩き回ったことになる。昔、若い頃、阿見に住んでいた上司が、「若い兵隊さんが、それこそ失禁脱糞しながら走らされているのを見ました。本当に気の毒で。軍隊は嫌だなあ、と子ども心に思いました」と言っていたのを思い出した

この日も暑かった。また、歩き回ってしまったか。おれも業が深いなあ。