落研のOB会が東京であった。
こういう時は早めに出掛け、学生時代ゆかりの地を歩くことにしている。
10時過ぎ、川崎駅西口に立つ。私は大学の4年間、この街に住んだ。
昔は、繁華な東口に対し、文字通りの裏口だった。かつての工場の跡地に大型商業施設ができて、昔日の面影は、もはやない。
私が住んでいたアパートのあった方に向かって歩き出す。
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当時もあった狸小路飯店。入ったことはない。 |
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よく買い物に行った南河原町銀座。 |
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アパートがあった路地。 |
新しいマンションがばんばか建って、ほとんど昔の面影はない。
今回はあえて道はいつもの反対側を歩いた。この辺りは山口瞳の『家族』の舞台でもあるのだ。彼は昭和57年、幼少期自分が住んだ家があった所を探しに行く。それが、川崎市幸区柳町付近。私が住んでいた南幸町とは大通りを挟んだ向こう側にあたる。
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突き当りに変電所がある。 |
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東電の変電所。 |
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山口瞳と同じように変電所の塀沿いに歩いた。 |
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突き当りに南武線の土手が見える。 |
ある日、山口瞳の母は幼い彼を連れて南武線の土手を上った。我が子を道連れに電車に飛び込んで死のうと思ったのである。山口家が川崎に移り住んだのは父の事業が失敗したからだ。夜逃げ同然に彼らはこの町にやって来た。1年間の夫の不在や借金取りの来襲など、彼の母はそこまで追い詰められていたのだろう。結局、この親子心中は未遂に終わった。
山口瞳が昭和57年当時、訪れた商店も付近にあった蕎麦屋も今はない。彼が住んでいた頃は、川が流れ、ため池が至る所にあったという。旧町名である河原町というのが、それを物語っていた。もちろん、今はそんな気配は微塵も感じられない。
尻手駅から南武線に乗る。尻手の駅はほとんど変わらない。少しだけほっとする。
大学へは南武線で通った。尻手から、矢向、鹿島田、平間、向河原、武蔵小杉、武蔵中原、武蔵新城、武蔵溝ノ口、津田山、久地、宿河原、そして登戸まで。途中駅は今でもそらで言える。
登戸で降りる。『虎に翼』で戦中から戦後と、猪爪家が暮らした町だ。
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登戸駅も立派になった。 |
駅前は再開発をしているらしく、わずかに残っていた昔の建物もすっかり取り壊され更地になっていた。
小田急向ヶ丘遊園駅まで歩く。南口の駅舎は、北口のを模したかわいらしいものになっていた。
ここらで昼にしたい。カレーのインドールはすでにない。ダイエーの方に蕎麦屋があったはずだと行ってみたら、ラーメン屋になっていた。
家系はちょっと今日はきついなあと思い、また引き返す。
喫茶店のランチを見つけ、そこに入る。
ベーコンピラフのセット、800円。炒めるタイプ。旨かったよ。夜はスナックになるみたい。コーヒーはサイフォンで淹れるやつ。旨し。静かで落ち着けるいい店だった。
かつての通学路をぶらぶら歩く。この辺はあまり変わらないなあ。
大学までの坂道を上る元気はちょっとない。昔、民衆というレストランがあった踏切を渡る。
落研御用達、雀荘みどりがあった小道に入る。カルーセル麻紀似の美人のおばちゃんが切り盛りしていて、きさくで優しかった。私が居眠りしていると、「伝助っ、ここは宿屋じゃないよっ!」と叱られたものだった。もちろん、もうおばちゃんはこの世にいない。みどりもなくなってしまった。
ところが奥に進んで行くとけっこう昔の家並が残っている。
あの町中華は、みどりで出前を取っていた店ではないだろうか。あの卵チャーハンは旨かったなあ。
それから府中街道を渡り、向ヶ丘遊園駅北口に出る。
さて、これからのんびり各駅停車で新宿に向かおう。向ケ丘遊園、登戸、和泉多摩川、狛江、喜多見、成城学園前、祖師ヶ谷大蔵、千歳船橋、経堂、豪徳寺、梅が丘、世田谷代田、下北沢、東北沢、代々木上原、代々木八幡、参宮橋、南新宿、新宿。これも(ちょっと順番を間違えたが)ほぼそらで言えた。