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2024年12月13日金曜日

後輩の訃報を知る

八海くんからLINEがきて、落研の後輩、小酒家呂利今くんの訃報を知った。 

五里んくんのFBに出ているというので、早速見にいった。

呂利今くんが亡くなったのは昨年の10月。還暦を迎える直前だったという。

彼は、私が4年の時の1年生だった。私は彼を「きたいち」と呼んでいた。私の高校の同級生に(他人の空似だろうが)そっくりで、その同級生のニックネームで呼んでいたのである。

温和で明るい人柄で、「イツモシズカニワラッテイル」印象がある。「サインはV」を歌って踊るのを持ち芸にしていたっけ。

私の高校の卒業アルバムの「きたいち」の写真を見て、「なるほど似てますねえ」と言っていた覚えがあるから、私のアパートに来たことがあったのだろう。そういえば、五里んくんと卒業論文の清書を手伝わせたのだったか。

長男が生まれたばかりの頃に、呂利今くんが幹事でOB会をやったことがあった。それがきっかけだったと思うが、彼は、彼の1年上の風°鈴さんと結ばれた。後から、呂利今くんは彼女のことがずっと好きだったのだと、誰かから聞いた。

五里んくんはFBで、風°鈴さんからの喪中欠礼葉書をアップしていた。そこでは、突然の別れをなかなか受け容れられず、報せが遅れたということが書かれていた。風°鈴さんの心痛を思うと言葉にならない。

「最愛の夫であり父である」という文面もあったよ。亭主冥利、親父冥利に尽きるじゃないか。君は本当にいい家庭を築いたんだなあ。さぞ無念だったろう。

後輩の死はつらい。ご冥福を心より祈る。祈るしか私にはできない。

2023年10月18日水曜日

山登り

今頃の季節だったと思う。大学1年の頃、落研のメンバーで山登りに行ったことがあった。

リーダーは4年の小柳さん。二つ目時代の高座名は雀志(じゃんし)。いい名前だ。名人二代目金瓶梅さんの前名である。真打昇進に伴い初代小柳を襲名され、小柳流家元を名乗られた。だから、私にとって「家元」といえば談志ではない。小柳さんなのである。そして、3年の風扇さん、同級生の酒合丈くんと夕姫さん、私、弥っ太くんもいたような気がする。多分、小柳さんが「山登りに行こうぜえ」と言ってメンバーを集めたのだと思う。

「目指すは奥多摩の棒ヶ峰だ」と小柳さんは言った。「昼飯は何とかするから、水だけは用意しろ」

その日、私はアパートにあったコカ・コーラの1リットル瓶に水を入れて愛用のUSアーミーのショルダーバッグに詰め、南武線に乗って集合場所の登戸に行った。

空は秋晴れ。絶好の行楽日和である。

皆は小田急線でやって来た。南武線で終点の立川まで行く。私のアパートは南武線の起点、川崎駅にほど近い(最寄り駅は隣の尻手だったが)。この日、私は南武線ほぼ全駅制覇を果たしたことになる。我々は、立川から青梅線に乗り換えた。

二俣尾という駅があった。ここは後に村上春樹の『1Q84』で「ふかえり」が暮らす家の最寄り駅として登場する。私はずっとここで降りたと記憶していたのだが、ネットで調べてみると、どうやらその隣、軍畑駅かその先の川井駅だったかもしれない。

リーダーの小柳さんを先頭に山に入る。木漏れ日が美しかったのと、沢を渡る橋の所で、金田一耕助の物真似をしてウケを取ったのぐらいしか覚えていない。

棒ヶ峰は一般的には棒ノ折山というらしい。標高は958m。ネットで調べると、軍畑駅を8時に出ると、頂上には13時過ぎに着く。頂上で昼飯を食ったから、大体、このルートを通ったか。

頂上は原っぱみたいになっていて、見晴らしがよかった。小柳さんがお湯を沸かしたのを覚えている。カップラーメンでも食べたか、コーヒーを淹れてパンでも食べたか、どちらかだったのだろう。

下山途中、暗くなりかけた頃に道に迷いかけてビビったが、何とか無事に駅にたどり着いた。下りの方がきつかったような気がする。

行きと同じように電車を乗り継いで、登戸に降り立った。

「せっかくだから、飲んで帰ろうぜえ」と小柳さんが言う。

登戸駅前の、大田屋という店に入る。そこで私たちはおでんで熱燗を飲んだ。身体の芯から温まった。山登りの疲れがいい具合にほぐれた。いかにも昭和のおでん屋という佇まいで気持ちが落ち着いた。楽しい酒が飲めた。好みの店だったが、学生の身だ。一人で飲みに行くことはない。南武線で通っていたのは私だけだったから、この店の暖簾をくぐる機会は、それ以降なかった。

卒業後、登戸駅は建て替えられた。ずいぶんきれいになったが、この一角はしばらく昔のままだった。写真は2012年のもの。「携帯の王子様」という店の隣がそれである。



その日はいい気分で再び南武線に乗り川崎のアパートに帰った。

ただ、私は山登りにはハマらなかった。山登りは疲れるから嫌だ。散歩ならいくらでもいける。途中でコーヒー飲んだりビール飲んだりできるからね。山登りはこうはいかない。ただ、あの頂上からの景色はいい。つらい思いをしたからこそいい。それは分かるが、でも、私は散歩の方がいい。


曖昧な記憶をもとに書いたが、書くことであの頃に気持ちを飛ばすことができたよ。奥多摩の空気。南武線から見た景色。登戸のおでん屋。そんなものの中に、身をあずけることができたような気がしたな。山登りの話が、いつの間にかおでん屋の話になっちゃったけど。


付記。

風扇さんからメッセージをいただいた。降りた駅は川井、昼飯はラーメンを食べたとのことだった。他に3年の雀窓と私の同期の楓さんも参加したようだ。雀窓さんはウィスキーを持って来て頂上で飲んだという。

人の記憶というのはそれぞれ残っている所が違っていて面白い。風扇さんは登戸で飲んだ記憶が欠落していた。こういう話はひとりの記憶をたどるだけでは限界があるんだなあ。

2022年11月9日水曜日

風柳の持ちネタ 『小言念仏』

落研時代、一度だけ高座にかけて、それっきりになってしまった噺がいくつかある。

そのうちのひとつが『小言念仏』だ。

私たちの年代では、何と言っても柳家小三治にとどめをさす。

私自身、あの放送演芸大賞受賞の高座以来、何度も何度も小三治の『小言念仏』を聴いた。いつもひっくり返って笑った。

そうなると、自分でもやってみたくなるではありませんか。

やりましたよ、私も。覚えるのは簡単だったな。覚えてすぐ、ゼミのコンパでやってみた。これが惨敗。ゼミで落語をやると、だいたいはバカ受けするのだが、その時はびくともしなかった。

でも、今にして思う。それも当然だ。『小言念仏』は全編、一人語りの落語だ。たったひとりの台詞で情景を描かなければならない。しかもその唯一の登場人物も老人であろう。とても21歳の若造が手を出せるシロモノではない。

それ以後、私の持ちネタからは封印した。怖くて怖くて、とても人前ではやれなかった。


その『小言念仏』を、最近やってみた。私も60歳を過ぎたし、そろそろやってみてもいいだろう、と思ったのだ。

さらってみると、40年振りだが、台詞は体に入っていた。

もう小三治の噺が体に染みついているから、どうしても、あのテンポになってしまう。私には小三治のようなフラがないので、面白くならないのではないか、という危惧はあったのだが、とりあえず稽古に出す。目の前にマッチ棒が突っ込まれたお線香立てや、這ってくる赤ん坊などを眼前に浮かべながら、あまり力を入れずやってみた。新聞を読むくだりを遊びで入れてみる。仲間の反応は悪くない。

本番、演者の都合で私が二席やることになり、最初に予定になかった『小言念仏』をかけることになった。陰陽のマクラでは、陽で「栄冠は君に輝く」を、陰で「チューリップのアップリケ」を歌う。お客様はよく聴いて下さったな。軽く気持ちよく演じることができた。こういうネタをやれると、噺に幅ができる。色んな所でやってみたいなあ。


私の若い頃、『小言念仏』は寄席では小三治の独壇場だったが、やる人も出てきたね。亡くなった小三治の弟子、喜多八のも楽しかった。小三治とはテンポを変えていた。幾分早めだったな。古今亭寿輔のは皮肉っぽいキャラがよく合って面白かった。客席もバカ受けだったよ。

それにしても、小三治はあのシブい噺を30代にして得意ネタにしていたんだから、本当にすごい人だったんだなあ。 

2022年9月27日火曜日

大学対抗小咄合戦

落研の1年後輩、大福さんからDVDが届く。

私たちが4年の時、NHK「昼のプレゼント」という番組の「大学対抗小咄合戦」という企画に呼ばれた際の映像である。当時、ビデオデッキを持っていた、やはり1年後輩の牛丼さんが録画をしておいたのを、この度DVDに焼いてくれたのだという。それをもらい受けた大福さんがコピーして我々に送ってくれたというわけだ。しかも、最初のディスクが再生できなかったことを伝えると、わざわざもう1枚送ってくれた。本当にすまない。

早速見たよ。懐かしかった。

月曜から木曜までの4日間、2校4人ずつ小咄を披露して勝敗を決め、勝ち進んだ4校で金曜日に準決勝・決勝を戦う。このディスクでは月曜日に明治大学と戦った模様が収められていた。

うちのメンバーは、松竹亭五里ん(2年)、松竹亭松時(3年)、夢三亭夕姫(4年)、松竹亭梅王(4年)というラインナップ。ちなみに「松時」は「ショータイム」、「梅王」は「バイキング」と読む。我が校は3勝1敗で明治を下し、見事、準決勝へ駒を進めた。

ディスクには収められていなかったが、私たちは金曜日の準決勝で敗れ、決勝進出はならなかった。決勝要員だった私は着物姿でひな壇に座り、その放送をたまたま昼休みで見ていた役場の職員が、実家に「息子がテレビに出ているぞ」と電話をかけてきたという。

先日の「みほ落語会」では、決勝で演る予定だった小咄を披露させていただいた。ささやかなリベンジである。

それにしても記憶というものはあてにならない。初日に4人出たのはすっかり忘れていた。細部でもけっこう記憶が改変されていたな。やはり、こういう記録を残しておいてくれるとありがたい。牛丼さん、大福さん、ありがとう。

しかし皆若いな。ゲストの八代亜紀も、審査委員長の三遊亭円右も、レポーターの金原亭伯楽も。今は亡き松竹亭松弥も元気だった。いいものを見せてもらった。大福さんには重ねて感謝する。ありがとう。






2022年1月26日水曜日

マジック研究会との共演

大学の落研の時、同じ大学のマジック研究会と共演したことが、一度だけあった。

あれは老人ホームの慰問だった。うちの落研が慰問をやるのは対外発表会の練習を兼ねてなので、多分、私が3年の6月前だったろう。

マジック研究会には、高校の同級生のAくんがいた。Aくんは法学部で私とはキャンパスが違ったので、そう会う機会はなかった。Aくんは高校の時は私の隣のクラスだった。彼は生徒会長をしていて、私は役員ではなかったものの、それに近い所にいたので、まあ顔見知りだった。

私としては、昔の友だちと会えてうれしいと思いながら、共演だからね、ウケでは負けないぞ、という思いもあった。

ただ、扇子一本、舌先三寸よりも、マジックの方が見栄えがするよなあ。寄席でも、落語より色物の方がウケがいい時があるもんなあ。この時も落語の時と、マジックの時とではウケが違ったよ。

Aくんの芸も見事だったな。彼は元生徒会長、柄は大きいし押し出しも強い。堂々としたステージだった。

マジック研究会の芸には浮ついたところが一つもなかった。皆、真面目に一生懸命、練習してきた芸だ。これは見れば分かる。私たちの落研もそうだったから。

うれしかったな。おれたちも頑張らなきゃな、と思ったよ。


Aくんの先輩に、マジックコンビのナポレオンズがいる。私たちより約10年先輩。もちろん大学ではかぶっていない。プロデビューは1977年のことだという。私たちが学生の頃、売れてきたんじゃないかな。

2021年10月26日、メンバーのバルト小石さんが亡くなった。69歳。

その時に、この記事を書こうと思ったのだが、時宜を逸してしまった。でも、書いておきたかった。バルト小石さん、ずいぶん長いこと楽しませていただき、ありがとうございました。合掌

2021年12月15日水曜日

松竹亭松弥くんを悼む

 大学の落研の2年下、松竹亭松弥くんが亡くなった。それを知ったのは、彼と同期の五里んくんのFBでだった。


彼の落語は面白かった。口調や仕草が独特だった。私の得意ネタ『豆や』を引き継いでくれたが、その高座姿が今でも目に浮かぶ。

宴会では先頭に立って盛り上げた。まるで昔の柳家の若手のように裸芸をいとわなかった。皆、ひっくり返って笑った。

統率力があり、よく同輩や後輩を引き連れて遊んでいた。

小田急線喜多見駅近くのアパートに住んでいた。私は同じ喜多見にいた高山T君のアパートで話し込んだ後、よく松弥くんのアパートに泊まった。部屋に裸電球がぶら下がっていたのを覚えている。私はいつかここで、ちょっとした深い話をしたことがあった。彼は私のために怒ってくれた。それがうれしかった。


松弥くんといえば、野球の話は避けて通れない。

実は、私は野球がわりかし得意で、1年から落研チームの四番なんか打っていたのだ。当時はリクレーションというと、ソフトボールをよくやっていて、派手にホームランをかっとばしたりしてもいたのだ。

ところが、松弥くんのソフトボールのデビュー戦のことだ。彼は、初打席で圧巻のレフトオーバーのホームランを放った。打球は、サードを守っていた私の頭上をはるかに越え、レフト奥の土手に突き刺さった。今でも目に焼き付いている。それを見て、私の同期の悟空くんは、いみじくも「伝助の時代も終わったな」と言ったものだ。

卒業後は埼玉県の高校の教員になり、以来ずっと高校野球の指導者の道を歩いた。

埼玉県の古豪の野球部長や、確か母校の監督も務めたのではなかったか。ご子息も高校球児だったと記憶している。

彼が古豪の部長だった時、部室が盗難に遭って、その犯人を部員とつきとめたことがあった。それが新聞に載り、それを私は大福さんのブログで知った。いかにも松弥くんらしいエピソードだった。そんな青春ドラマみたいなことをやってのけたのも、彼の真っ直ぐな正義感と行動力の賜物だったように思う。松竹亭松弥は熱い男だった。


最後に松弥くんに会ったのは、2012年11月のOB会だった。学生時代まんまでうれしかったな。

2017年7月のOB会は、全国高校野球選手権埼玉県大会の開会式の日で、松弥くんは欠席した。まあ当然だよな。でももう会えないと思うと悔やまれる。


59歳の死はあまりに早い。元気な人だったから、うまく現実に結びつかない。ただ茫然としている。

心よりご冥福を祈る。


2021年6月2日水曜日

風柳の持ちネタ⑫ 『もう半分』

 大学に入る前、2度父に寄席に連れて行ってもらった。どちらも上野鈴本演芸場、どちらも芸術協会の興行だった。

最初はNHK「お好み演芸会」の収録があった時。トリは六代目春風亭柳橋。柳橋は『山号寺号』を軽く演じた。最後は柳家小三治司会の「はなしか横丁」という大喜利だった。

2回目のトリは五代目古今亭今輔。私は当時の芸術協会のツートップの噺を体験することができたのだ。

今輔はこの時十八番の『もう半分』を演じた。すごかった。今輔はお婆さんものの新作で売れていたが、私は子ども心に、こっちの方がずっといい、と思ったものだ。

 

『もう半分』を持ちネタにしたのは、大学を卒業してからだ。冬合宿に遊びに行って、そこでネタおろししたのだった。場所は伊豆長岡の東屋旅館。大広間を暗くして口演したのだった。嫌なOBだね。

その時は柳家小三治のテープで覚えた。今輔の型だろう。じいさんが飲む居酒屋は永代橋のたもとだった。

 

今回、金原亭馬生の型で覚えなおした。馬生の『もう半分』は千住が舞台である。千住も千住大橋の南側、現在の南千住だ。

南千住はブログの読者であるmoonpapaさんの地元、私も案内していただいて街歩きをしたことがある。やはりその空気を吸った街は違う。噺の中に入り込んでいける。

また、馬生の『もう半分』がいいのだ。滋味深い。居酒屋の亭主が、八百屋の爺さんに蕗の煮たのを出す場面なんかいいんだよなあ。

 

『もう半分』とはこんな噺である。

 

「もう半分」「もう半分」と酒を飲んでいるうちに娘を売った金を置き忘れてしまった八百屋の爺さん。慌てて戻るが、居酒屋夫婦にそのまま猫ばばされてしまう。失意の爺さんは身を投げて死ぬ。

その金で居酒屋夫婦は店を買い、商売は繁盛する。やがておかみさんは妊娠。ところが、爺さんの祟りからか、あの爺さんそっくりの赤ん坊が生まれた。母親は狂い死に。乳母を雇っても赤ん坊怖さにすぐ暇を取ってしまう。

赤ん坊は夜な夜な行燈の油を飲んでいたのだ。自分の目でそれを確かめた亭主は、思わず赤ん坊に向かって叫ぶ。「おやじ、迷ったな!」

赤ん坊は振り向いて亭主にこう言った。「・・・もう半分」

 

出てくるのは弱い人間ばかり。八百屋の爺さんは酒に負け、居酒屋の亭主は人はいいが女房に負ける。女房は冷酷だが、赤ん坊を一目見るとあっけなく死んでしまう。

 

それにしても救いのない噺だ。

この赤ん坊はこれからどうなるんだろう。身を売った爺さんの娘はこれからどうなるんだろう。そんなことは誰も教えてくれない。演者ですら分からない。「もう半分」でおしまい。ストーリーは投げ出されたまま回収されない。これが落語なんだ。改めて思う。落語はすごい。

2020年9月9日水曜日

川崎のアパートで飲む

酒を飲み始めた頃は、「一人で飲む」という選択はなかった。酒を飲むのは「ハレ」、つまり非日常のことだったからだ。

私が酒を一人で飲むようになったのは、大学の3年も最後の頃になってからだと思う。

今考えてみれば、あの辺りから酒を飲むのが、私にとって日常になったのだろう。

きっかけは、自分のアパートで飲むのが楽しいということに気づいたのである。

自分の好きな本があり、落語や音楽のテープがあり、それを自分のペースで思う存分楽しめる。しかもそこが、川崎の路地裏の四畳半という、私にとってはこの上ない空間だった。ここで飲むのは、確かに至上の時間だったのだ。

部屋の真ん中に炬燵やぐらがあり、そこには中学校卒業記念の笠間焼の湯飲みが置いてあった。万年床の敷布団を座布団代わりにして座っていた。手の届く範囲に、本やらカセットテープやらが積んであった。

当時は日本酒の二級酒が1200円ぐらい、サントリーホワイトも同じぐらいだった。日常的に酒を飲み始めた頃はそういうのを飲んでいたが、そのうち金が続かなくなって、サントリーレッドに替えた。レッドは800円だったと記憶している。

だいたいは学校帰りに麻雀打って、近くで晩飯を食べて電車に乗ってアパートに帰る。そこから腰を据えて飲み始めるのだ。

まずはビールの500ml缶を飲んで喉を湿し、笠間焼の湯飲みにサントリーレッドを注ぎ、氷を入れる。つまみは赤ウィンナーを炒めたのや、塩胡椒とガーリックパウダーで味をつけたスクランブルエッグや、でん六豆を好んだ。

飲みながら、手当たり次第に本を読み、落語を聴き、音楽を聴いた。酔えば酔うほど、どんどん神経が鋭敏になっていくような気がした。

太宰治、坂口安吾の小説。中原中也の詩。マンガは、つげ義春、高野文子、近藤ようこ、いしかわじゅん、吾妻ひでお、大友克洋。音楽は友川カズキ、三上寛、友部正人、泉谷しげる、宇崎竜童。落語では、黒門町、晩年の『つるつる』、志ん朝の『三枚起請』、小さんの『らくだ』、馬生の『うどんや』、談志や小三治の『芝浜』。・・・こんなところが、あの部屋では胸に沁みたなあ。

一回だけ一人で吐くまで飲んだことがあり、さすがにこれは自分でもまずいと思ったよ。

思い出すときりがない。改めて振り返ると馬鹿だったなあ。でも、あれが楽しかったんだ。あれが私の青春だったのか。随分暗い青春だが。

何度か載せているが、路地裏のアパートであります。
これも何度も書いていますが、この近くにはフォーク歌手の友川カズキが住んでいました。


この豆腐屋さんの脇の路地を入るとアパートがあった。豆腐屋さんも今はない。


2020年3月25日水曜日

圓蔵師匠の教え

新型コロナウィルス感染拡大防止のため、鶯春亭梅八さんの主宰する「なんじゃもんじゃ江戸や亭」は休席。それでも稽古会はやっている。
昨夜は久々の参加。子どもたちの受験で落ち着かなかったので、お休みしておりました。
それぞれに一席演じて、梅八さんに批評をもらう。これが楽しみなのだ。自分以外の批評にも、色々気づかされることが多い。
梅八さんは、落研の大先輩。よく「圓蔵師匠にはこう教わった」とおっしゃる。
「圓蔵師匠」というのは、先代の七代目橘家圓蔵。私たちの大学の落研の創設当時から1980年(昭和55年)に亡くなるまで、技術顧問を務めてくださった。
その教えのひとつひとつが、具体的で的確なのである。
以前、私が『うどんや』を稽古していた時、屋台の主と客の上下で迷った時があった。ネットの動画で確認してみると、柳家は客が上にいて主が下、三遊亭はその逆だった。どちらが正しいのでしょうと質問してみると、梅八さんはこう答えた。
「一般的には柳家の方でやる。だけど、圓蔵師匠は『どっちでもいい』と教えてくれた。なぜなら、屋台は道の両側にあるからな」
なるほど、屋台は道の片側にあると決まったものではない。だとしたら、上下どちらでもいいわけだ。すとんと腑に落ちた。
「早く言いたいところは、ゆっくり喋ること」
「女を描く時は襟元をなおす仕草をするが、それは下々の女がやることで、武家の奥方は胸元を押さえる。で、反身になって顎を引くんだ」
それらのアドバイスの源流は、七代目橘家圓蔵師匠である。プロの教えはやはりすごい。そして、その教えを実際の高座で血肉にしてきた梅八さんもすごい。
圓蔵師匠は楽屋では「小言の圓蔵」として恐れられた。しかし、その小言は理に適ったものだったのだと思う。柳家小三治も『大工調べ』でのアドバイスは心に残ったと言っている。(「七代目橘家圓蔵 その2」参照)
私は圓蔵師匠に間に合った世代だが、師匠は私が大学2年の時に亡くなった。今になれば、もっともっと教えを受けたかったと悔やまれてならない。
梅八さんが現役の頃、圓蔵門下の売れっ子、林家三平と月の家圓鏡(後の八代目圓蔵)がうちの学祭に出演してくれた。その時、梅八さんは安く仕入れたコーラを客に売り、その売り上げを元手にして、圓蔵師匠とうちの落研でハワイに行って寄席をやったという。すげえなあ。その写真は私も現役の頃部室で見た覚えがある。ああ羨ましい。
梅八さんの向こうに圓蔵師匠がいて、さらにその向こうには、圓蔵師匠の師匠である、私の永遠のアイドル八代目桂文楽がいる、と思えば、とんでもなく幸福な時間を私は過ごしていると言えるのではないか。
それにしても、大学時代橘右近に寄席文字を習い、本牧亭でアルバイトをし、卒業後も現在に至るまで落語にどっぷりつかった梅八さんと、こうしていっしょに落語をやらせていただいていることに、深く感謝したい。こういう巡り合わせを大切にしたいと思う。

ここ数日で一気に桜が見頃を迎えた。


夕食は鳥の唐揚げ、マカロニサラダ、ポテトフライで赤ワインを飲む。

2019年11月6日水曜日

風柳の根多帳⑪『棒鱈』

落研の頃の持ちネタに『棒鱈』がある。こんな噺だ。

料理屋で兄貴分と飲んでいた酒癖の悪い江戸っ子が、隣の座敷で田舎侍がドジな料理の頼み方をしたり唄を歌ったりするのに腹を立てて絡む。やがて始まる大喧嘩。折しも「鱈もどき」という料理を作るのに胡椒の粉を振っていた板前が駆けつけ二人を止める。ところが胡椒の粉を振り撒いてしまい、皆、くしゃみが止まらなくなって喧嘩はうやむやになる。サゲは「二階の喧嘩、どうなった?」「今、胡椒(故障)が入った」

「棒鱈」とは干鱈のこと。俗語で「まぬけ、酔っ払い、野暮天」のことをいう。
サゲの「故障」は「物事が滞る」という意味。

私の学生時代、柳家さん喬が得意にしていた。当時、彼は二つ目だったが、その上手さは際立っており、この『棒鱈』はべらぼうに面白かった。
この間、柳家さん喬・喬太郎共著の本を立ち読みしていたら、喬太郎が「師匠(さん喬)の『棒鱈』と大師匠(五代目小さん)の『猫の災難』は聖域」と言っていた。両方持ちネタにしてしまったのは申し訳ないが、とても共感できた。

私はさん喬のテープで覚えた。しかし、耳で聞いただけでは限界があったなあ。特に田舎侍が歌う唄。最後のは「利休」だとばっかり思っていた。歌詞もよく分からず、いい加減にやった。自信が持てなかったからか、校内寄席で一回かけた切りだった。
卒業後、後輩の女の子から「『棒鱈』を稽古してるんですけど、歌の文句がよく分からないんです。教えてください」という電話がかかってきた。
ちゃんと答えてあげられなかったのを、今も後悔している。

ところが、何年か前、『近代はやり唄集』(岩波文庫)を買ったら、あの唄があったのである。タイトルは『琉球節(りきゅうぶし)』。田舎侍が歌っていた部分はこんな歌詞だった。
「琉球へおじゃるなら/草鞋はいておじゃれ/琉球は石原こいし原」
これで長年の胸のつかえがとれた。
そこからいろいろ考えた。
『琉球節』を歌うところをみると、この侍は薩摩の者か。
この唄の出典、『古今流行音曲惣まくり』は明治24年刊。ということはこの噺の成立は明治時代。官憲(特に薩摩士族)が権勢をふるう中、江戸っ子の憂さ晴らしのためにできたとも考えられる。官憲そのままではまずいので、江戸時代の侍にした。訛りも、もろ薩摩弁というのではなく、ほのかに九州弁をにおわせる落語国の言葉にした。
酒癖の悪い江戸っ子の絡みに田舎者蔑視を感じるのがこの噺の難だが、そう考えれば江戸っ子の気持ちも分からないではない。敗者のやっかみならば共感できる。
おっ、これはできるかな。
サゲが分かりづらいので、マクラで仕込むか。サゲを言ってお客がもにょっとするのも気の毒だ。野暮かもしれないがそうしよう。
で、きのこ寄席で演っちゃった。けっこうウケたよ。学生の頃より、色々考えた分よくなったんじゃないかなあ。年を取るのも悪くない、とまた思った。

十年以上前、ラジオで柳家さん喬の『棒鱈』を久し振りに聴いた。(この音はテープに録ってある。)何とまあこれが鹿児島での公開録音。もし意識してこのネタを出したのだとしたら、さん喬、意外とブラックか?

2019年8月12日月曜日

おれの、『締め込み』

ちょっと前、鶯春亭梅八さんが主宰する寄席で、『締め込み』をやってきた。

このネタは学生時代、八代目桂文楽に憧れてやったものだ。
何と言っても黒門町との出会いの噺である。思い入れは強かった。

2008年12月7日の記事

しかし、やればやるほど面白くならず、対外発表会で一回かけただけで封印してしまった。
八海君には『芝浜』をやる時に、「『締め込み』みたいに小っちゃくまとまって、つまらなくなるんじゃないか?」と危惧されたほどだ。
でも、この噺はずっと好きだった。最近、また落語を喋り始めて、いつか機会があれば挑戦してみようと思っていたのだった。
学生時代失敗したのは、桂文楽の型をそのままやっていたということだ。それでは私がやる意味はない。しかも、「でこでこに火を起こして」とか、「前尻」とか、自分の言葉になっていない言葉を使ったって、お客伝わるはずもない。

2013年1月22日の記事

今回、噺を再構築してみた。
基本的には学生の時覚えた文楽の型を踏襲。加えて、古今亭志ん朝の口演を参考にする。文楽はいきなり「こんにちはー」と声を掛けるが、志ん朝の方には導入部で間抜け泥のくだりが入る。私はこれから空き巣をするということを独白で説明しながら噺に入った。文楽だからいきなり家に入るところからでも説得力を持つのである。私の場合、やはり説明的な言葉が必要になる。(だからといって、ここで私が間抜け泥をやれば、冗長になってしまうだろう。)
文楽も志ん朝も、その噺はサゲまでやっていない。泥棒が「これからちょくちょくうかがいます」言うのに対し、亭主が「冗談言っちゃいけねえ」と返すところで下りている。文楽も志ん朝も、ここでわっと受けるから切ることができる。私の腕では最後までやった方がお客が納得できるのではないかと考え、サゲまでやることにした。
亭主と泥棒が酒を飲むプロセス、本来は亭主の方から「厄落としで一杯やろうじゃねえか」と誘うのだが、泥棒の方から「おかみさんがお酒の用意ができていると言ってましたが、どうです? お祝いに一杯やりませんか?」と持ち掛けることにした。
その後、泥棒が酔っ払うにつれて、亭主と女房の馴れ初めをいじり出す。やってて楽しかったな。きちんと泥棒を主役にできたと思う。
亭主の八五郎は「気持ちがまっすぐで思い込んだら突っ走ってしまう人」、女房のお福は「そんな八五郎に惚れているが、自分の言いたいことはきちんと言える人」、泥棒は「調子のいい善人」という解釈で、噺の中で自由に暴れてもらった。
志ん朝は女房のおみつが馴れ初めについて言い立てる場面で、八五郎がどじで、一人でしくじっては皆にいじめられているのがかわいそうだから優しくしたところ、自分に気があると思い込んだ、ということにしている。
私は八五郎を「腕のいい職人」にした。お福の父親が「あいつはあんな乱暴な奴だが、腕はいいし気性もまっすぐだ。お父っつあんはいいと思うが、大事なのはお前の気持ちだ。お前はどうなんだ?」と言ったということにする。そのことで、お福が八五郎に惚れることにリアリティーが増すと思ったのである。
目新しいギャグはいらないと思った。本で読んだ、柳家小さんの「人物が出りゃ、噺は面白くなるんだ」という言葉に勇気をもらった。また、啖呵はゆっくりでいい、と教えも参考になった。色んなことを知ったり経験したりして、それを噺の中に生かせるようになったか。年を取るのも悪くない。
客前で演じて、聴いてもらえているという感覚も得たし、ちゃんと笑いも取れた。。やっと、「おれの『締め込み』」ができたかな。噺を作るのが楽しくなってきた。



2019年5月1日水曜日

平成最後の夜、約40年ぶりの『道灌』、そして令和へ

平成最後の夜、私は落語を演っていた。
先月、大学の大先輩、鶯春亭梅八さんの主宰する「きのこ寄席」を見に行ったところ、あれよあれよという間に稽古会に参加し、あれよあれよという間に出演の運びと相成った。
大学を卒業する時、もう落語をやることはないと思い、後輩に襦袢をあげた。落語に対しては一ファンとして関わっていこうと決めたし、演じる機会もそうそうなかった。そうして35年余りが経った。
しかし、この間の「きのこ寄席」を見て、正直、落語の血が騒いだのである。二つ上の風扇さんが参加していたのも刺激になった。それに、メンバーの方々が実に楽しそうに、それでいて真剣に落語に取り組んでいる。好きな落語を一生懸命やって、お客さんに聞いてもらう。これでいいんだと思った。自分の気持ちに素直になってみてもいいじゃないか、俺は落語を喋るのが好きなのだ、という気持ちにもなったのだ。
学生時代覚えた、何本かの落語をさらってみると何とか出来る。稽古会では『道灌』と『牛褒め』の二席をやってみた。梅八さんからは『牛褒め』の「秋葉さま」のイントネーションを直された。
「次の『きのこ寄席』で『道灌』をやってみなよ」と梅八さんに勧められる。ここはひとつ流れに乗ってみようと、「はい」と返事をした。
で、昨夜である。今回は大先輩、初代松風亭風柳の、たちばな家半志楼さんが出演される。久方ぶりの再会を果たす。半志楼さんからは、「落語は聴くのもいいけど、演るのも楽しいよ」と言っていただいた。
『道灌』というのはウケの少ない前座噺だが、演ってて楽しかったな。八五郎は隠居に色んなことを教えてもらって嬉しいんだよ。教えてもらったことを早く試したくて我慢できないんだ。隠居さんもそんな八五郎が可愛くてたまらないし、提灯借りに来た友だちもそんな八五郎が面白くってしょうがないんだ。若いうちはそんなこと思ってもみなかったな。どちらかというと、訳の分からないことをいう八五郎に対し、周囲がキレ気味になっているような演出をしていたような気がする。
また、私はもともとリズムとテンポでもっていくタイプ。今は体の中にあるテンポに、口がついていかない。中高年の駆けっこみたいに転びそうになる感じ。でも、おかげで走りすぎないように意識することができた。そう思えば、齢を取るのも悪くない。
『道灌』という噺は、落研の1年生の夏合宿で、先輩の雀窓さんから教えてもらった。好きな噺であちこちで喋り、一時は「道灌小僧」と呼ばれたこともあった。そんな噺で再スタートを切ったと思えば、それも感慨深い。
これから、時間をやりくりして落語に向き合ってみよう。今の自分に、どんな噺が出来るのだろうか、ちょっと楽しみになって来た。

明けて今日は令和元年。テレビは一日中ずーっとそれでもちきり。ま、それもいいけどね。
長男が熱を出して、妻が仕事に行って、そういうわけで一日中まったり過ごす。
夕方、ハートランドビール。
夕食は、鯖の塩焼き、まいたけとベーコンの炒め物、そら豆で酒。
寝しなにボウモア。


2019年3月27日水曜日

きのこ寄席

昨日、仕事帰りに稲敷市まで足を延ばす。
角崎の幸楽苑で味噌ネギラーメンを食べ、古民家ギャラリー「木鋸(きのこ)」へ。
この日は、大学の大先輩がやっている月例の落語会があるのである。
開演40分前に入って、まずはご挨拶。二つ上の風扇(ふうせん)さんも、昨年この会に加入されている。メンバーの方々を紹介していただき、しばし歓談。
やがてお客さんも集まって、午後7時に開演。
サラは、福の家さいくるさん、「代書屋」。誠実で丁寧な語り口。当て込みのない、折目正しい高座。噺にはやはり人柄が出るんだなと思う。
お次は、福の家印居(いんきょ)さん。いかにもご隠居さんといった風貌。ネタは「垂乳根」。洒脱な口調。一聴して落語をやってらした方だと分かる。風扇さんが「KG大の落研OB」と教えてくれる。
ここで風扇さんが登場。落研時代は松風亭だったが、ここでは福の家一門の一員、福の家風扇として高座に上がる。たっぷりマクラを振って「大師の杵」に入った。学生時代は聴いたことがないネタだな。新たに覚えたんだろうか。風扇さんのニンに合った噺だと思う。面白い。60歳になった風扇さんの落語が聴けるとは思わなかった。感慨深い。
福の家ともちゃんさんが「寿限無」を演じる。初高座らしいが堂々としている。声もいいし間もいい。演劇でもやってたのかなと思っていたら、読み聞かせをやっていたとのこと。
トリは落研の大先輩、鶯春亭梅八さん。新進気鋭の浪曲師、国本はる乃のお父さん。浅草木馬亭に出演し、ギャラまでもらっているというから、もはやアマチュア落語家とは言い難い。「三井の大黒」をみっちり40分間。私が現役の頃にはもう卒業されていたが、三代目松竹亭金瓶梅として伝説の名人になっていた方。今もあちこちで場数を踏んでるし、やっぱ上手いなあ。大満足の一席でした。
和気藹々とした中に、落語に対する真摯な態度がうかがえる、いい会だった。好きな落語を一生懸命お客さんの前で演じて、お客さんも楽しんでくれる。それが一番だよな、と素直に思う。
終演後も居残り、大家さんにラオスコーヒーをご馳走になる。私は人見知りをする質(たち)だが、皆さん気さくな優しい方々で、楽しいひと時が過ごせました。
ああ、また落語がやりたくなったなあ。


2019年2月8日金曜日

追い出しコンパ

落研では今の時期、追い出しコンパがあった。
「追いコン」で4年生は卒業。たとえ学校は卒業できなくても、落研は晴れて卒業ということになる。会場は例年、新宿。渉外係が予約を取り、広報係が卒業証書を書いて、写真係が卒業記念パネルを作った。
一次会が終わると、後輩たちは好きな先輩の後をついて二次会に行く。二次会はすべて4年生の奢り。だから、4年生はこの日のために金を貯めなければならず、そのためにアルバイトをする人もいた。一方、普段の麻雀は「追いコン払い」、この日に清算となるので、後輩から勝ち分を取り、二次会の資金とする人もいた。
私は1年の時は、小文治さんのグループについて行った。行ったところはディスコ。私がディスコに行ったのは、この時が最初で最後だった。
2年の時は歌ん朝さんのグループだったと思う。この時はしたたかに飲んだ。明け方、川崎のアパートに帰り、布団に倒れ込んだ。目を覚ますと、ひどい二日酔い。気分を変えようと、カセットでジョン・レノンの『平和の祈りをこめて』を聴くが、「コールド・ターキー」でオノ・ヨーコの奇声を聞いているうち気持ちが悪くなった。吐きはしなかったが、ひどい下痢に見舞われる。しまいには便に血が混じるようになって、びびった。おそるべし、オノ・ヨーコ。
3年の時は、4年生が二人しかいなかった。どうなったのだろう、記憶にない。
自分が4年になると、「二次会は好きな先輩について行く」というシステムの恐ろしいことに気づく。「誰一人ついて来ない」ということもあり得るのだ。一次会が終わり、「さあ行くぞ」と言っても誰もいず、ひとり川崎に帰るというのも、相当にきつい。寂しがり屋で僻みっぽい私は、そういう事態を深く恐れた。
そこで私は酔梅くんと夕姫さんと組むことにした。そういえば、先輩方も何人かのグループを組んでいたっけ。
二次会は酔梅くんの発案でボーリング。新宿コマ劇場近くのボーリング場で健全に遊んだ。その後、飲みなおしたかどうかは憶えていない。

2018年5月28日月曜日

世之助くん来訪

この前の週末、落研の同輩、世之助くんが遊びに来た。
世之助くんは数日前、長野県の二代目風柳さんの家を襲撃したばかり。今回は三代目風柳である私の所だ。これで彼はこの数日間に、二代目、三代目の風柳を相次いで制覇したことになる。
午後2時過ぎ来着。聞けば、家に来る前、石岡の総社宮と小川の素鵞神社で御朱印をもらってきたという。そうか世之助くん、寺社巡りが好きなのか。では、せっかくだから石岡を案内しよう、ということで、金比羅神社や国分寺、看板建築を紹介した。金比羅神社境内の正岡子規の句碑、国分寺の都々一坊扇歌堂など喜んでくれたようだ。
カスミストアで買い出しをして帰り、明るいうちから飲み始める。
父がカラオケ部屋に使っているプレハブを借りたので、気兼ねなく酒を酌み交わす。
酒は、ヱビスの大瓶、郷の誉「山桜桃(ゆすら)」、府中誉「渡舟」の豪華ラインナップである。
美酒を片手に話に花が咲く。世之助くんはアクティブで物怖じしない。落研の大先輩とも進んで交流し様々なイベントでも存分に力を発揮している。現役たちやOBの方々の様子を楽しく教えてくれた。
実は世之助くんとは卒業後、疎遠になっていた時期があったのだが、その頃のことも話してくれた。早くに父上を亡くし、色々苦労したんだな。それでも泣き言一つ言うでもなく、力強く現在を語る彼を、私は「偉いやつだな」と思った。
酒宴は日付が変わる頃まで続いた。

翌日、世之助くんが鹿島神宮に行ったことがないと言うので、連れて行く。
鹿島神宮をじっくりと見て、東国三社のひとつ息栖神社に行った時に、世之助くんの電話が鳴る。仕事が入ったそうだ。残念だが、東国三社巡りはお預け。小川で蕎麦を食べて帰る。
「またな」と言って世之助くんは帰って行った。世之助くん、香取神宮はこの次に取っておこう。それとも商売繁盛の神様、笠間稲荷の方がいいか。いずれにしても、また来ないとな。次も茨城の旨い酒を用意して待っているよ。

写真は鹿島神宮と息栖神社です。









2018年5月13日日曜日

月見家春”短(つきみや・ばるたん)のこと

大学1年の時、落研の同輩で、月見家春”短(つきみや・ばるたん)というのがいた。栃木県の、確か鹿沼の辺りの出身だった。
温和な人柄で、私は彼が好きだった。狛江の材木屋の真新しいアパートに住んでいて、私は3日に明けず彼のアパートを訪問しては酒を飲んでいた。(同じアパートの高知県出身の男も飲み友達になり、そいつも落研に入った。左門という芸名をもらったが、すぐに辞めた。)
私も若かった。いささか度を過ごしたのだろう。半年ぐらいで春”短は落研を辞めた。辞める時、誰かが「伝助が泊りに行き過ぎたか?」と訊くと、否定も肯定もしなかった。私は悪いことをした、と反省した。

あれは1982年の2月のことだった。私は狛江を歩いていて、偶然、春”短に遇った。
「よう伝助、久し振りだな」と彼は屈託なく笑った。「全然遊びに来ないじゃないか」
「行っていいのか?」と私が訊くと、「当たり前だろ」と彼は言った。
「実は俺、1年間休学するんだ」と春”短が言う。
「どうして?」
「シベリア鉄道に乗ってくる。大滝詠一の『さらばシベリア鉄道』に憧れてな」
また思い切ったことを。春”短には、こういうぶっとんだところがあった。
「もうしばらく会えないだろう。俺の方から送別会といっちゃ何だが、アパートで飲もうや」
それから酒やつまみを買い込んで、材木屋の敷地の中にある春”短のアパートへ行った。
私たちは1年の時のように酒を飲み、話をした。楽しい宴会だった。テレビは、ホテルニューオータニの火災でもちきりだった。
翌日、昼近くなって私たちは起きた。昼飯を食いに出たとは思うが、ずるずるべったり、その日も私は春”短のアパートで酒を飲み、泊まってしまった。
翌朝も昼近くに起き出したのだと思う。朝刊にはでかでかと、全日空機が羽田沖で墜落した記事の見出しが躍っていた。二日も続けて大事件が起きるとは、と私たちは驚き合った。
その日、私たちは昼飯を食って別れた。
春”短は「ゆっくりしていけよ」と言ったが、「二泊もしたんだ。十分ゆっくりしたよ」と私は答えた。
「じゃあ元気でな」と私が言うと、春”短は「ああ」と言って、屈託なく笑った。
あれから春”短には会っていない。結局、シベリア鉄道の土産話も聞けなかった。

2018年2月21日水曜日

初めて煙草を買った夜

小室等の『一匹のカニ』という歌を聴くと、ケンジを思い出す。
ケンジはこの曲が好きだと言っていた。

ケンジとは高校で、3年間一緒のクラスだった。
仲良くなったのは、2年の時だった。
その頃私は、好きな授業以外は、こそこそと教師や友人の似顔絵やイラストを描いているような、いけ好かない生徒だった。たまたまケンジと近くの席になった時、私の描いた絵がケンジの目に留まる。ケンジも絵を描くのが好きだったのだ。
授業が始まると、ケンジはB5の計算用紙を半分に切って私にくれた。その紙で、お互いにイラストを描く。授業が終わると、同好の士、4人ほどで、作品を見せ合った。(作品と言うほどのものではないけど)私が描いた絵は、全てケンジにあげた。
卒業間近のある朝、ケンジが私に1枚の絵をくれた。それはいつもの半分に切った紙ではなく、B5全部を使っていた。前の晩描いたのだという。そこには、彼の自画像と思われる男の横顔と、比較的長い文章が書いてあった。「君は今生きていることが、実は長い夢を見ているのだと考えたことはないか」というフレーズが印象的だった。
卒業後、私は東京の私大に進み、ケンジは地元の電電公社に就職した。

大学1年の秋だと記憶している。
世之助くんとあと誰かいたな、新宿で夜明かしして飲んだことがあった。夜明け前の喫茶店で始発を待ちながら、私は世之助くんから貰って、初めて煙草を吸った。
それから、川崎のアパートに帰って、その晩、家から大家さんの所に電話が来た。呼び出されて電話口に出た私の耳に、ケンジが事故で死んだという知らせが届いた。
明日が葬式だという。朝に帰ると返事をした。
その日には校内寄席があり、私は前座で出る予定だった。誰かに連絡しなければならない。部屋に戻って部員名簿を持って、大通りの公衆電話に走った。同輩の酒合丈くんにかけたが留守だった。楓さんとようやくつながり、明日はこういう事情で欠席しなければならない旨を伝えた。
部屋に戻ったが落ち着かない。小銭をつかんで表に出た。大通りにある煙草屋の自動販売機で、生まれて初めて煙草を買った。マイルドセブン、150円。そうすることで、私はケンジの死を記憶に刻みつけたかったのかもしれない。
部屋で一人、鯖の缶詰の空き缶を灰皿代わりにして、私は煙草を吸った。煙草を吸いながら私は多分、あのケンジから貰った絵を取り出して眺めたのだと思う。

葬式にはほとんどのクラスメイトが集まった。
ケンジの家は和菓子屋だった。ケンジは、店の売り上げだか商品だかを盗んだ泥棒を車で追いかけ、田圃に突っ込んで死んのだ、と誰かが言っていた。
私はその日のうちにアパートに戻った。

翌日、部室に行くと、先輩は「大変だったな」と言ってくれた。
しかし、活動の最後、幹部の先輩は私を起立させ、こう告げた。
「楽家伝助、無断休席につき1カ月の出演停止とする」
そうしてその後で、その先輩は優しく言ってくれた。「トリの方に直接連絡しないと、無断ということになっちゃうんだ。決まりだから仕方がない」

新盆だったか、一周忌の頃か、一緒にイラストを描いていたSと、ケンジの家を訪ねた。
ケンジの妹が、私たちが描いた絵を見せてくれた。
ケンジはあの絵を全部、取っておいてくれたのだ。懐かしさで胸がいっぱいになった。

ケンジがくれた絵は、それを挟んでいたノートごと、いつの間にかどこかへ行ってしまった。

2018年2月17日土曜日

千倉の海

落研の合宿は年に3回、春と夏と冬にあった。
そのうち、夏は伊豆河津の「いわたに旅館」、冬は伊豆長岡の「東屋旅館」と決まっていた。
春だけは、その年ごとに違っていて、その場所の選定は、2年生の渉外係の腕にかかっていた。
私たちが1年の時は草津だった。春合宿は、GW期間中に行われ、落研入門合宿といった意味合いがあり、私にとっても、思い出深い合宿であった。

さて、1年の2月頃だったか。祖師ヶ谷大蔵の、小柳さんが住んでいたアパートに、同輩の八海くんが引っ越して間もない時のことだ。私は例によって、あちらこちらを泊まり歩いていたのだが、その時も、八海くんのアパートで酒を飲んでいた。
その時、八海くんがいきなり言った。
「悟空と合宿の下見に行ってくれ」
当時、八海くんは悟空くんと共に渉外係をやっていた。春合宿の予約を入れなければならない時期に来ていたのだ。
「実は下見の予定を入れておいたのだが、どうも単位が取れないらしい。その日に親が呼ばれてることになった。もう先方には話がついているし、日程は変更できない。悪いけどお前、悟空と一緒に行ってくれないか」
もちろん、異存はない。広報係であった私は、こうして合宿の下見に行くという、レアな経験をすることができたのだ。

場所は千葉県の千倉。房総半島の突端、白浜の外房側に隣接した小さな町だった。
民宿だったが、発表会ができる広間があり、海岸が近いので発声練習をするのにも適していた。何より、海の幸を中心とした食事が旨かった。悟空くんは好物の鯖の味噌煮に舌鼓を打ち、私は刺身で酒を大いに飲んだ。

翌朝、悟空くんと浜に出た。
目の前にどーんと広がる太平洋に向かって、私は、当時流行っていた、「ゴーイング・バック・トゥー・チャイナ」を口ずさんだ。

合宿本番、春の千倉も素晴らしかった。(あの頃のGWは、初夏というより、まだ晩春の趣だった)
菜の花が咲き乱れ、沖では春の海がのたりのたりと波を浮かべていた。
そうだった、この合宿で、私は「牛ほめ」を得意ネタにしたのだったな。
何でもない海辺の小さな町だったが、私の心に「千倉」の名は深く刻まれた。

先年亡くなった、イラストレーターの安西水丸は、千倉の出身で、この町をモチーフにした絵やマンガを多く残している。
彼のマンガ、『東京エレジー』や『春はやて』を私も持っているが、コマのひとつひとつに完成された一枚の絵という趣がある。私はマンガというより詩画集として楽しんでいる。水丸の、シンプルな線と少し歪んだ造形を持つ絵に、何より詩情を感じるのだ。

妻と結婚したばかりの頃、春には房総へ旅行した。暖かく花がいっぱいで、魚も旨い。妻も春の房総が好きだった。
千倉に老夫婦がやっていた花畑があって、何度かそこで花を買った。ずいぶんおまけをしてくれて、両手に抱えきれないほど持たせてくれた。

しばらく房総にも行っていない。
この間買った安西水丸の画集をめくっていると、久し振りに千倉の海を見たくなった。

では、20年ぐらい前、妻と房総に行った時の写真です。

千倉、高家神社の包丁塚にお参りする妻。
「高家音頭」の歌詞。





2017年8月1日火曜日

八海くんちのマンガ

以前、大福さんが、「落語のテープを借りるなら八海さん」とブログに書いていた。
八海くんは当時、ダブルカセットを持っていて、ばんばんダビングしていたのに加え、ラジオの落語番組をかたっぱしから録音していたので、そのコレクションは瞬く間に増えていった。新ネタを仕込むために、皆、八海くんのコレクションのお世話になった。

ふと私が八海くんで思い出したのは、「マンガを読むなら八海の所」であった。
彼は凝り性で、マンガ雑誌もばんばん買っていた。少年誌では、「ジャンプ」「マガジン」「サンデー」は毎週。当時は青年誌が若者向けに新雑誌を売り出した頃で、「ビッグコミック スピリッツ」とか「ヤングジャンプ」なんてところも、八海くんはカバーしていたし、もちろん「ビッグコミック オリジナル」も「ビッグコミック」も毎号買っていた。まあその頃主だったマンガ雑誌のほとんどが、八海くんのアパートにそろっていたと言っていい。
そして、私たちが大学生活を送っていた1980年代初頭と言えば、マンガが一番元気な頃だった。
ジャンプでは江口寿史が主戦場として活躍していたし(だいぶ壊れかけていたけれど)、ちばあきおの『プレイボール』も面白かった。鳥山あきらが『Dr.スランプ』をひっさげて登場してきたのは衝撃的だったな。
マガジンでは何と言っても小林まこと。『1、2の三四郎』は柔道編も読みごたえはあったが、プロレス編になると、超ど級の面白さだった。私が4年の時に1年生につけた芸名「牛車(うっしゃー)」と「乱頭(らんとう)」はここから取っている。
サンデーは高橋留美子の『うる星やつら』が看板だったな。村上もとかの剣道マンガで、『修羅の剣』という読みきりの後、修羅と六三四のライバル物語、『六三四(むさし)の剣』の連載が始まった時は鳥肌が立った。こんな画期的な連載の始め方を、私たちはそれまでに体験したことがなかった。
「ビッグコミック スピリッツ」では高橋留美子の『めぞん一刻』が大ヒットした。私としては、いしかわじゅんの『約束の地』の面白さに度肝を抜かれたな。ただ一般的な人気はなかったようだ。この後、いしかわの活躍の場はマイナー誌へと戻っていく。
「ヤングジャンプ」は『キャンパスクロッキー』とか『ネコじゃないもん』とか『いとしのエリー』とか、今思えばイタい話が多かったなあ。その中では『キャンパスクロッキー』が等身大で切なくてよかった。八海くんもこれが好きで単行本をそろえていたと思う。
「ビッグコミック オリジナル」は、西岸良平『三丁目の夕日』、水島新司『あぶさん』、ジョージ秋山『浮浪雲』の三枚看板。『あぶさん』も『浮浪雲』も、後年主人公がどんどん偉くなっていっちゃったけど、この頃はまだまだ元気で楽しかったな。私は弘兼憲史の『人間交差点』が好きだったんだけど、あれはビッグコミック オリジナル」だっけ?「ビッグコミック」だっけ?
こうして作品名を挙げていくと、八海くんのアパートで、熱心にマンガを読みふけった日々を思い出す。

当時、私が買っていたマンガ雑誌は「マンガ奇想天外』。吾妻ひでおやいしかわじゅん、高野文子、近藤ようこ、なんてところに熱狂していた。そして何と言っても好きだったのは、巨匠つげ義春。こう並べてみると、ぐっとマイナーに傾いていくなあ。



2017年7月22日土曜日

夕姫さんと楓さん

落研には女子部員もいる。
私たちの代には、夕姫さんと楓さんと2人いた。2人とも途中でやめることなく、無事落研部員として卒業した。

女子部員ということでいえば、私たちが1年の時の4年生こそ3人の女性の先輩がいたものの、2代上は女子部員はゼロ。(実は1人Tさんという方がいて、写真を見せていただいたが、アグネス・チャンに似た美人だった。彼女は私たちが入学する前にやめていた。)1つ上の代は美恋さんだけ。(この代は男子部員も風神さん1人。2人はお雛様コンビと呼ばれていた。)
下の代も同様で、1つ下は2人いたが、結局、露漫さんだけが残った。2つ下は風°鈴(プリン)さん1人しか入らなかったし、その下は4人入ったが、やはり1人しか残らなかったと記憶している。

そんなわけで、私たちの代は、夕姫さんと楓さんが2大アイドルとして君臨していたのだ。
そして、この2人の個性が対照的だったのも面白い。明るく太陽のような夕姫さんと、クールで繊細な楓さんは、当時の2大アイドル、松田聖子と中森明菜のようだった。(先日、知ったことだが、初め楓さんは真打名を「あき菜」にするつもりでいたが、中森明菜の登場で、「わか菜」にしたのだという。)
落語でいえば、夕姫さんは『饅頭怖い』や『松竹梅』を得意とし、はじけた面白さがあったし、楓さんは『初天神』や『金明竹』で、いかにもかわいらしい子供や与太郎を描き出した。2人とも、とても楽しそうに落語を演じていた。よく稽古して上手かったと思う。
この2人が、共に最後までやめなかったのは大きい。2人の絆が、私たちが想像できないほどのものであったことに間違いはない。

この前のOB会の日は、昼間2人で上野の美術館を観、会の後は楓さんは夕姫さんの家に泊まったという。あの濃い4年間を過ごした女同士、積もる話でいくら時間があっても足りなかっただろう。そういう機会が持てたことが、お節介なようだが、私としても嬉しい。

また会いましょう。皆、お互い時を重ねていい具合に大人になった。こんなふうに齢を取るのも悪くないな。

ちなみに夕姫さんと楓さん、生年月日も同じ。しかも元日。すごいよねえ。