朝、おにぎり、味噌汁、チキンナゲット、スクランブルエッグ。
朝イチで床屋。散歩がてら歩いていく。
前山の百合が開花。今年は花弁がやせている。雨が降らないせいか、木を切って日陰がなくなったせいなのだろうか。
朝、おにぎり、味噌汁、チキンナゲット、スクランブルエッグ。
朝イチで床屋。散歩がてら歩いていく。
前山の百合が開花。今年は花弁がやせている。雨が降らないせいか、木を切って日陰がなくなったせいなのだろうか。
梅雨が明けて暑い日が続く。この週末も猛暑日となった。
どこへ行こうとか、何をしようとかという気になれない。
で、この二日間、樋口一葉を読んでいた。
「にごりえ」「たけくらべ」「わかれ道」「うつせみ」「ゆく雲」「われから」。一葉の描く女は哀しい。女が「ひとりの人間」として認められなかった時代。そこで女は子を生す器械か性的快楽を提供するものでしかなかった。その中で一葉の女は「ひとりの人間」であろうとしてもがく。それはほとんど悲劇として終わるのだが、それでもこの社会の歪みをはっきりと可視化する。それは明治の昔の話ではなく、今日的な問題として迫ってくる。
貧困の中で、自らを性の市場に差し出す女。何不自由ないはずの富裕層の女でも、夫のモラハラに苦しんだり、人ととして大切にされない苦痛に身もだえる。
一葉のヒロインは多くは美貌の持ち主だ。しかし、その美貌ゆえに男の欲望の対象にされ、否応なしに市場に提供されてしまう。一葉自身、『閨秀小説』という女性作家特集号で肖像写真が掲載されて注目を集めた。私が読んでいる、ちくま文庫の『樋口一葉小説集』の解説で菅聡子は「世間の評判の背景には、自分の女性であるという性に対する好奇心があることに気づいていた」と書いている。
だからこそ「たけくらべ」の美登利の「いやいや、大人になるは厭なこと」という台詞は痛切に響く。美登利が花魁として店に出されるのは必定のことだったからだ(美登利がこのように言ったのは、初潮を迎えたことによるという説と「水揚げ」説とがある)。
歴史的仮名遣い、文語文、会話は口語だがカギカッコがない、など読みづらく敷居は高いかもしれない。しかし、文章のリズムといい、品がありながら洒落た文体といい、下手に現代語訳などせず、原文で読むべきものである。ただ、現代仮名遣いにして、カギカッコをつけ、改行を多くするのはありだと思う。そういう監修があってもいいんじゃないかな。
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百合が満開 |
この前まで宇能鴻一郎の『アルマジロの手』を読んでいた。
朝、パン、コーンスープ、ウィンナーソーセージ入りスクランブルエッグ。
朝一で床屋。散歩がてら歩いて行く。ずいぶん緑が濃くなった。
昼は釜揚げうどん、ちくわの磯辺揚げ。旨し。
午後は妻とスーツを買いに行く。20年もののスーツがいよいよ駄目になり、新調することにした。まだまだ仕事をしないとねえ。
おやつにシュークリームを食べる。
妻と夕方ビール。
夕食はホットプレートで焼いた自家製餃子、厚揚げでビール、酒。食後にウィスキー。
物置にあった坂口尚『石の花』を持って来て読む。第二次世界大戦のユーゴを描く。大きな物語も小さな物語も、どちらもすごい。坂口は少年、少女を描くのが上手いな。『三月の風は3ノット』は傑作だと思う。大学時代、彼の作品を夢中で読んだ。『魚の少年』『たつまきを売る老人』『十二色物語』。実験的な難解な作品もあったが、虫プロ出身らしいやわらかな線が魅力的だった。
『石の花』の絵は硬質だ。どこか大友克洋を思わせる。当時、坂口はベテランだったが、得意とする短編から長編へ、虫プロ風の流れるような線からニューウェーブ風のハードボイルドな画風へ、と変化することを厭わなかった。いや、どんな絵でも描けるんだな。職人としてもすごい。
1995年12月22日、坂口尚は自宅の浴室で倒れて死んだ。享年49。新聞に小さく載っていたことを覚えている。
私が持っている『石の花』は初版本。その後、大幅に加筆された新版が刊行されたという。これは読まないとなあ。
彦六で死んだ八代目林家正蔵の、昭和16年(1941年)12月から昭和20年(1945年)8月までの日記である。(当時、彼は五代目蝶花楼馬楽を名乗っていたが、ここでは正蔵と呼んでおく)私は平成26年の青蛙房版を持っているが、この度、中公文庫で文庫化されたという。いい機会だと思い、再読してみた。
太平洋戦争中の庶民の暮らしや落語界の動向を教えてくれる第一級の資料なのは間違いないが、読めば読むほど立ち上がってくるのは、強烈な個性を持つ八代目林家正蔵という落語家、その人の姿である。
日記というのは、極めて意識的な文章である。書かなければそれで済む。日記を書く人は、日記を書く必要があるから日記を書くのである。
『吉原花魁日記』の森光子は、文学少女である自分が、苦界に身を沈め、体を売って暮らすという地獄のような日々の中で、正気を保つために日記を綴った。
永井荷風の『断腸亭日乗』(「日乗」とは日記のことである)は、読者を意識して書かれており、その意味では文学作品と呼ぶべきものだった。庄野潤三の後期の連作も、日記のような小説である。彼らにとって日々の生活を書くことは、文学的行為そのものであった。
では、正蔵にとっての日記とは何だったのか。
正蔵は偉そうな奴が嫌いで、セコく立ち回る奴が嫌いだ。しかし、そんな人間にいちいち腹を立て摩擦を引き起こす自分もよしとしない。正蔵には一日のうちに一度、自分を振り返って客体化させ、見つめ直す時間が必要だったのだろう。
自分の行動や周囲の人々の言動、寄席のワリ、収入も自分への評価として克明に記録する。それに対して揺れ動く自分の感情もつぶさに書き留める。その上で自分を戒める。
「平常心」という言葉が多用されるのも、自分への扱いや下される評価に揺れ動く心への戒めなのだと思う。つまり、正蔵にとって日記とは、自分を映す鏡であり、自分を磨く砥石だったのではないか。
そう思えば「便所の汲み取り」の記事が繰り返されるのも納得がいく。あれはまさに「聖なる行為」なのだ。
八代目林家正蔵といえば、不遇のイメージがつきまとう。しかし、この日記を読めば、この時期、彼がまずまず売れていて、まずまず評価されていたことが分かる。昭和16年に落語協会幹部に就任、寄席でもトリをとり、慰問や巡業にも頻繁にお呼びがかかり、ラジオにも出演していた(前書きでも、娘の藤沢多加子が「この時代の日記は、売れ始めた頃だった」と言っている)。
当時の落語協会での正蔵の位置が分かる記述があるので以下に引用する。
右女助君大幹部に成り、上のトリ。馬風。さん馬も共に給金三〇になり、柳枝三三、円生と私三五、円歌四〇、志ん生四五、あと据え置きと改正される。(昭和19年3月1日)
当時の落語協会は、講談の一龍齋貞山が会長。落語家は、四代目柳家小さん、八代目桂文治、八代目桂文楽、それに続くのがここに出てくる人たちだ。文楽の次が五代目古今亭志ん生。その次に二代目三遊亭円歌。六代目三遊亭圓生と五代目蝶花楼馬楽(八代目林家正蔵)が同格で続く。そして前年「柳枝」を襲名した八代目春風亭柳枝。この年には桂右女助(六代目三升家小勝)、鈴々舎馬風、翁家さん馬(九代目桂文治)が新たに幹部に加わる。正蔵は協会において本当のトップとは言えないまでも、まあ順当な位置にいたのではないかと思う。
もちろん、正蔵といえども時代の渦には巻き込まれざるを得ない。次第に戦局は悪化し、空襲の記述が増える。警報続きで寄席には客が来ない。その中で、彼は警防団員としての務めを忠実に果たし、落語協会幹部として奔走する。娘や息子たちのために心を砕く。正蔵は国が滅びの道をひた走る中にあって、正面から現実に立ち向かっている。
だからといって、聖人君子でもなければ、石部金吉金右衛門のような四角四面の堅物だったわけでもない。配給や貰い物の酒に酔い、愛人のもとに通う。「少し風邪引きの気味が。房事過度も手伝ふか。」(昭和19年3月22日)などという、どきっとするようなことも書いている。
再読して、改めて思う。八代目林家正蔵という人は何と魅力的な人物なのだろう(彼が在日コリアンに対し、当時一般的だった「鮮人」という蔑称を用いず「半島の人」と呼んでいることも付記しておく)。
後書きによると、編者は正蔵の遺族から数十冊に及ぶ日記を預かったという。そこから、特に太平洋戦争開戦から終戦にかけての部分にスポットを当てたのが本書である。寄席演芸、歌舞伎、相撲などを含めた芸能全般及びそれに携わる人々について、当時の世相や庶民の暮らしについて、様々に読み取ることができる優れたテクストだ。それを世に出してくれた編者には感謝しかない。
でも、本書で公表されたのは5冊分(〈本文凡例〉による)に過ぎない。預かったのが「数十冊に及ぶ日記」というからには、その大部分が未発表のままだ(ああもったいない)。
『戦中日記』だけで満足せず、どんどん続編を出してほしいなあ。
W・P・キンセラの小説で『シューレス・ジョー』というのがある。ケビン・コスナーの主演で『フィールド・オブ・ドリームス』という映画にもなった。
主人公はアイオアで農業をしている。ある日彼は「それを作れば、彼はやってくる」という声を聞く。そしてその声に従うようにトウモロコシ畑をつぶして野球場を作ると、ある夜、そこに現れたのは、伝説の名選手、シューレス・ジョー・ジャクソンだった。というのが、この話の発端である。
もし私がその声を聞いて野球場を作るとしたら、そこに現れてほしい野球選手が一人いる。大下弘である。
大下弘。1922年12月15日生まれ。1979年5月23日没。享年56歳。第二次世界大戦後、プロ野球の復活とともに彗星の如く現れ、軽々とホームランを量産してファンの度肝を抜いた。天衣無縫で底抜けに明るい人柄は多くの人に愛された。東急フライヤーズ(現日本ハムファイターズ)、西鉄ライオンズ(現西武ライオンズ)に在籍し、実働14年間、1547試合に出場して、1687安打、201本塁打、861打点、生涯打率3割3厘の成績を残した。
私は大下の現役時代を知らない。彼の引退試合は、私が生まれるちょうど1年前に行われた。
それでも、名前は知っていた。「赤バットの川上、青バットの大下」は、あまりにも有名だった。
私が大下の生涯について知ったのは、『青バットのポンちゃん 大下弘』(桑原稲敏・ライブ出版・1989年刊)を読んでだった。この本で、ほぼ大下の生涯は網羅されている。ぽんぽんと弾むような軽快な文章で、それがいかにも大下を語るにふさわしかった。私は大下の破天荒な生き様に魅了された。試合が終われば若手を引き連れ一晩中飲み歩く。一試合7打席7安打の日本記録は、翌日が雨で中止だと思い込んで朝5時まで飲み歩いた末の、ひどい二日酔いでのものだった。スター選手で高給取りだったが、そのような生活に加え、母親の薬物依存症の治療も重なり借金まみれ。引退後はプロ野球界でコーチ、監督を務めるも、いずれも失敗。晩年は少年少女野球の指導に生きがいを見いだすが、脳血栓に倒れ失意のうちに死んだ。まさに破滅型の天才だった。
もう一冊、『大下弘・虹の生涯』(辺見じゅん・新潮社・1992年刊)では、綿密な取材のもと、前出の「ポンちゃん」では明かされていなかった事実が記されている。大下が復員後、世話になっていた明治大学の同級生は実名で出てくる。「ポンちゃん」ではその妹と結婚したことになっているが、実はそれは婚約しただけで解消になり、「ポンちゃん」でいう最初の妻、登志子は、その妹とは別人であった。また、大下とともにプロ野球に身を投じた明大の同輩、清水喜一郎が自殺したこと、大下が東急を退団する際、大下の代理人となり大騒動を引き起こした加藤正志が、後に自殺したことなども書かれていた。そして、何よりも衝撃だったのは、大下自身が睡眠薬自殺を遂げていたことである。その様子はエピローグでひっそりと綴られている。天才大下が放つ光が強烈であればこそ、くっきりと濃い影が落ちる。
大下弘の打撃フォームを映像で見たことがある。右足を高く上げ、バットをヒッチさせてすくい上げるように振りぬく。流れるような美しいフォームだった。右と左の違いはあるが、田淵幸一がそれに近い。そこから放たれた打球は大きな弧を描きどこまでも飛んで行った。それはまるで虹のようだったという。
二冊の本に同じ言葉が出てくる。大下の西鉄時代の監督、知将、三原侑の言葉だ。辺見じゅんは、これで『虹の生涯』の最後を飾った。
「日本の打撃人を五人あげるとすれば、川上、大下、中西、長島、王。三人にしぼるとすれば、大下、中西、長島。そして、たった一人選ぶとすれば、大下弘」
さあ夢の野球場のスタンドに座り、大下が描く虹を見よう。
先日、仕事の合間に職場で宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の話になった。
ふと、この人たちの読んだ『銀河鉄道の夜』と私の読んだそれとは違うのだろうな、と思いついた。
『銀河鉄道の夜』は宮沢賢治の代表作である、とは誰もが認めるところだろう。マンガにもなったし映画にもなった。ジョバンニという少年が、親友のカムパネルラと銀河を走る列車に乗って旅をする。壮大なスケールと幻想的な描写、「ほんとうのさいわい」をひたむきに求める少年たちの姿が胸を打つ、日本文学の金字塔の一つと言ってもいい作品だと思う。
しかし、この作品は作者の死後に発見され、しかも晩年まで繰り返し推敲が続けられていた未完成作品である。決定稿というのは、正確な意味では存在しない。流通しているテクストも、時代によって大きく変遷を遂げている。
ちくま文庫の『宮沢賢治全集7』には、第一次稿、第二次稿、第三次稿、第四次稿の四つのバージョンが収められている。稿が重なるにしたがって、大幅に加筆され物語も厚みを増してゆく。もちろん、流通しているテクストは、もっとも新しい第四次稿をベースにしている。
私が読んだのは、昭和53年(1978年)版の新潮文庫。第四次稿で付け加えられた「カムパネルラの死に遭う」場面の前に、第三次稿のラストシーン、銀河鉄道の旅がブルカロニ博士のジョバンニを使った実験であったことが明かされる場面が残されたバージョンである。高校生の私はこの中の「信仰も化学と同じになる」という台詞に心臓を撃ち抜かれたような感動を覚えた。
やがて研究が進み、ブルカロニ博士の場面をばっさり削除したのが、作者宮沢賢治が最終的に意図したものだということが分かる。昭和55年(1980年)の『新修宮沢賢治全集』(筑摩書房)に収められた『銀河鉄道の夜』ではブルカロニ博士が登場する場面は完全に消え、それが現在流通しているものの底本になっている。
宇宙の「石炭袋」(ブラックホールのことか)を見ているうちにカムパネルラが姿を消し、ジョバンニが悲痛な叫びをあげるシーンから、ジョバンニが目を覚まして町に戻りカムパネルラの死を知る、というラストへつながるのが、現在のバージョンである。「銀河鉄道の旅が博士の実験だった」という博士の手のひらの上で踊らされていた感がある話から、もうひとつ物語は大きく深くなった。
職場の三十代と二十代の同僚は、予想した通り、この改編を知らなかった。この人たちは中高生の頃に読んだというが、口々にこう言った。
「カムパネルラがいきなり消えて、謎が謎のままいきなり放り出された感じがしたんですよね」
「『銀河鉄道の夜』は何だか訳のわからない物語だという印象があります」
そして、私が持っているバージョンを読んで、「やっと腑に落ちました」と言った。
翌日、二十代の同僚が「こんなバージョンがありました」と言って、古い本を持って来た。この人の祖父が息子(つまりこの人の父上ね)のために買ったという『新日本少年少女文学全集38・続宮沢賢治集』(ポプラ社)である。奥付を見ると「昭和40年(1965年)5月10日刊」とある。
これが珍品。読むと、ジョバンニが銀河鉄道に乗る直前の「天気綸の柱」の巻の末尾に第四次稿のラスト「カムパネルラの死に遭う」話が挿入されているのである。しかもその後に読んだことのない文章が付け加えられている。ちくま文庫の全集を見たが、見つけられなかった。それは、ジョバンニが町から再び天気綸の柱の所に戻って来て、汽車の音を聞き、と同時にセロのような声(ブルカロニ博士の声であろう)が歌う星めぐりの歌にうっとりと聞き入るという場面であった。
つまり、ジョバンニは町でザネリたちに「ジョバンニ、お父さんからラッコの上着が来るよ」とからかわれて丘の上の天気綸の柱の所へ行き、いつの間にか眠ってしまい、目を覚まして町へ戻る途中、川原でカムパネルラの死を知り町へと帰るが、再び天気綸の柱に戻って銀河鉄道に乗る、という筋立てになるのだ。この構成の意図は何だろう。読者にカムパネルラが死んだことを知らせた上で銀河鉄道の旅を始めることにより、この列車が死者を乗せる列車だということを明示しようというのだろうか。
ちなみにこのバージョンは第三次稿のラストシーンで終わる。
もやもやしながら、もう一度、私が持っている新潮文庫を読んでいたら、この辺りの経緯について、巽聖歌の「解説」に書いてあった。
昭和53年の新潮文庫版は、昭和43年(1968年)版で改訂されたもので、「天気綸の柱」の末尾にあった「カムパネルラの死に遭う」場面をラストに移し、その後に続いていたジョバンニが再び天気綸の柱に行く場面を削除したというのである。(なお、この改編には賢治の実弟清六も加わっている)
ということは、昭和43年までは、あのポプラ社刊のバージョンが一般に流通していた『銀河鉄道の夜』のテクストだったということになる。それから私が読んだバージョンに移り、1980年代からは現在のバージョンなったということか。
それにしても、昭和43年までの、あのつじつまの合わないストーリーはどうして生まれたのだろう。ちくま文庫の「宮沢賢治全集7」を読んでいたら、あっさり答えは出た。
天沢退次郎が「後記」の「本文について」でこう書いている。
なお、昭和三一年筑摩版全集まで、「天気綸の柱」の章のあとに誤って嵌め込まれていた“カムパネルラの死に遭う”黒インク稿五枚のあとに、次の文が付け加えられていた。
(※前述のジョバンニが再び天気綸の柱に向かう場面の文章、略す)
右の箇所の原稿は現在所在不明であるが、宮沢清六氏の記憶によれば作者により削除の意志を示す斜線が付されていたという。
なるほど、あのシーンは誤って挿入されていたのか。膨大な未整理の原稿をまとめていく過程で起こったことだから、それも仕方のないことだったろう。
しかし、読む年代によってこれほど印象が違う文学作品も他にはないだろうな。これだけ多様なバージョンが存在するのも、『銀河鉄道の夜』が未完成作品だからこそ。現在バージョンが最も多様な読みができるテクストになっているけれど、私の世代が読んだひとつ前のバージョンも捨てがたい。興味がある若い方はこちらも是非読んでいただきたい。(ウィキペディアによると岩波文庫で読めるそうです)
朝、パン、ハムステーキ、スクランブルエッグ、紅茶。
昨日、鳥取の落研の先輩、小柳流家元から梨が届く。新甘泉という品種。爽やかな甘み。旨しであります。
早速、お返しに土浦の小松屋さんから佃煮を送らせていただく。
長男と古本屋に寄る。
妻がBSで昔の朝ドラの「あぐり」を観ている。ヒロイン、あぐりの長男のモデルが吉行淳之介。あまり朝ドラ向きのキャラクターではないと思うが、ドラマでは好青年に描かれている。
それに影響され、吉行の本を二冊購入。『湿った空乾いた空』、『鼠小僧次郎吉』。『鼠小僧次郎吉』は高校の頃買った。どこかに行ってしまったので買いなおし。高校生には刺激が強かった。
『落語界・昭和51年2月号』も買う。五代目柳家つばめの追悼記事が2本、掲載されている。つばめの著書『落語の世界』『創作落語論』はお勧めです。
昼はスパゲティミートソース。
昨日、物置から持って来た、村上龍『限りなく透明に近いブルー』、読了。
甥が福生に住んでいるが、そう聞いて、まず思い浮かんだのがこの小説。1970年代半ばの、ドラッグ、セックス、ロックンロールの時代を体現するようなお話。まあ、内容は、ほぼドラッグとセックスだけどね。現在進行形が多用され、地の文と会話文が溶け合う文体の疾走感がすごい。どこにも行けない、行きつく先は死しかない。1970年代ってすごい時代だったんだな。何しろ1975年までベトナム戦争やってたんだ。ここで見られる、米兵の壊れっぷりもむべなるかな、と思わないでもない。
大学受験真っただ中で、ふと本屋で見つけて読んでしまった本だ。これじゃ、ろくな結果にはならないよなあ。
夕食は、春巻、春雨サラダ、枝豆でビール、酒。食後に妻と白ワイン。
秋も近くなって朝顔が盛んに花を咲かせている。
図書館で借りてきた。ドイツ文学者池内紀が「『ドイツ文学者』を名乗るかぎり、『ヒトラーの時代』を考え、自分なりに答えを出しておくのは課せられた義務ではないのか」(「あとがき」より)という思いに駆られ著した本。1930年代、ヒトラーが権力を掌握するまでの過程を鮮やかに分析し、分かりやすく解説してくれる。
ヒトラーは武力を用い強引に権力の座に就いたわけではない。選挙や国民投票など、極めて民主的な手続きを経て独裁者となった。
そのプロセスを、池内は以下のようにまとめる。
(ドイツには)第一次世界大戦終了後、狂乱の二〇年代があった。古今未曽有のインフレで、ドイツ・マルクが紙クズになり、預金が一挙にかぎりなくゼロに近くなった。失業者がうなぎのぼりで、総数六〇〇万をこえ、ドイツ人の一〇人に一人は失業者だった。ワイマール憲法は史上もっとも優れた憲法といわれたが、三〇をこえる政党の足の引っぱり合いで、どの政権も半年ともたない。とめどない混乱を縫ってナチスがめざましく勢力をひろげ、ついに過激を売りものにする極右政治家に首班の座をあけわたした。
ヒトラーは内閣を組織した翌日のラジオ演説で、「われに四ヵ年の猶予を与えよ、しかるのち批判し審判せよ」と大ミエをきった。誰もがいつもの大ボラだと考えていた。数カ月もせぬうちに行き詰まり、すごすごと政権を投げ出すだろう。
ところが、そうはならなかった。「ドイツ国民への檄」に始まり、きびすを接して「経済四ヵ年計画」「フォルクスワーゲン(国民車)」構想、「自動車専用道路計画」・・・。人気とりの青写真と思われていたことが、一つまた一つと実現する。日ごとに膨大な雇用の場が生まれ、六〇〇万もの失業者が、めだって減っていく。約束の四年が過ぎたとき、全国民所得が一・五倍にふえ、失業者は一〇〇万台にまで減少していた。
(中略)
(1933年~38年は)ドイツ国民がやっと迎えた「平穏の時代」であり、安らぎの時期だった。経済が安定し、暮らしが目に見えて向上した。ナチス体制は多少とも窮屈であれ、体制に口出しさえしなければ平穏に暮らせる。ナチ党員のユダヤ人苛めは目にあまるが、われ関せずをきめこめばすむこと。ナチスの好きな式典の華麗さ、もどってきた戦車隊の大行進、強大な戦艦、短期間にヨーロッパ一に整備されたドイツの翼。第一次世界大戦後、打ちひしがれていた国民感情が誇りと自負をとりもどした。そのすべてがヒトラー総統の偉業によった—。
大衆は、ヒトラーを、ナチスを支持したのだ。確かにナチスは雇用を安定させ、地に落ちたドイツ経済を回復させた。しかし、それは個人の自由や多様性と引き換えにしたものだった。大衆は生活の安定と引き換えに個人の尊厳を差し出した。そして体制側につくことで、少数派を蔑み踏みつけにするサディスティックな快感を得るに至る。体制側からこぼれまいと強度な相互監視社会を生み出した。
もちろんドイツ国民の全てがナチスを支持したわけではない。ナチスが議会の第一党に躍り出た総選挙ですら得票率は43パーセント程度で、議席は過半数に満たなかった。だが議事堂放火事件を利用して共産党を排除し国会運営の実権を握ると、非常事態宣言から一気に全権委任まで突き進んだのである。ナチスに批判的な人々は、あれよあれよという間に少数派に追いやられ、体制側につかない限り冷遇されることとなった。
ナチスの得意技に「敵を設定して攻撃することで人々の不満を転嫁させる」という手法がある。ナチスの場合、その対象がユダヤ人だった。「ユダヤ人がドイツの経済界を支配し富を独占している」と繰り返し攻撃することで、インフレの苦しみをユダヤ人への憎悪に転嫁させたのである。
それは「日本社会は在日が支配している」としつこく繰り返す、我が国のある人々と見事に重なり合う。
池内はこうも書いている。
ヒトラーが呼びかけたのはつねにこの「国民の皆さま」だった。お得意の演説、ただ一つの標的を狙うように多数派市民に向けられていた。何かあれば、みんなといっしょでいたがる「よき市民たち」である。
そしてそれは「多数派でいないと不安でならない。他の誰かに利をさらわれそうで落ち着かない」人々である。それはまるで、少数の貧困者に対する援助に目くじらを立てて攻撃する、我が国のある人々に重ならないだろうか。
またこのような記述もある。
(マスコミは)多数派の市民に陰謀幻想を煽り立てた。政治家が大衆迎合的効果を図って、マスコミに便乗する。選挙戦のワンフレーズにして訴える。誇張して注目させ、おどしをかけて燃え上がらせる。
これは我が国のある種のマスコミと政権を言ったものとしても充分に通用するのではないか。
明らかに池内は現在の我が国を意識してこの本を書いている。
この本が出たのは2019年7月。前政権現政権やある種の人々のやり方は、ここ1、2年でかなり可視化され「みえみえ」となったが、油断はできない。ヒトラーやナチスのやり方もかなり「みえみえ」だったのであり、その「みえみえ」のやり方で彼らはああいうことをしでかしてしまったのだ。それに「過激を売りものにする極右政治家」など、我が国にも掃いて捨てるほどいるのである。
池内は2019年8月30日に亡くなった。ということは、ここに書かれていたのは彼の遺言のようなものか。そう思って心に刻んでおきたい。
朝、御飯、味噌汁、ハムステーキ、納豆。
常会のゴミ拾い。
昨日の夕方、物置から持って来たマンガを読む。
大友克洋の単行本デビュー作『ショートホープ』。1979年3月発表。主な収録作は、さえない若者のドタバタ喜劇だ。後の『AKIRA』を思うと、大友もずいぶん遠くまで行ったものだな、と感慨を新たにする。乾いたユーモア、身もふたもないリアリズムがすごい。1980年代、多くのフォロワーを生んだ影響力の原点がここにある。
安西水丸『黄色チューリップ』。1988年、角川書店刊。水丸の、こういう作風のマンガとしては後期に入るかな。1985年から1年間、『月刊カドカワ』で連載されたもの。1980年代のお洒落な雰囲気だが、マンガというより詩画集といってもいい叙情性は健在だ。登場する女性一人一人の、ぞっとするほど美しいことよ。
滝田ゆうの『銃後の花ちゃん』は1978年に出た小学館文庫。価格は感動の260円。「下町人情ギャグ」とくくるにはあまりに哀しい色街の女たちをめぐるお話。「カツ丼怨歌」の女房に体を売らせる夫などは、落語『お直し』がモデルなんだろうなあ。細かい線で描かれる終戦直後の東京の情景が素晴らしい。
萩尾望都の『トーマの心臓』はこれからのお楽しみ。
昼は無印のレトルトカレーでカレパ。ホットプレートでナンを焼く。
午後は皆でケーズデンキへ行く。
帰って図書館で借りた『ビートルズ・サウンドを創った男ー耳こそはすべてー』(ジョージ・マーティン/吉成伸幸・一色真由美訳)を読む。
妻と夕方ビール。昨日息子とベイシアに行った時、ついでに買って来た。旨し。
夕食は鍋、厚揚げで酒。酒はいただきものの「会津ほまれ純米大吟醸」。これもまた旨し。
食後は妻は白ワイン、私はウィスキーを飲む。食後のウィスキーは旨い。
『評伝 山口武秀と山口一門 戦後茨城農業の「後進性」との闘い』(先﨑千尋著・日本経済評論社刊)を読む。茨城県の戦後農業史に名を遺す二人の巨人の評伝である。
第1部は山口武秀。
1915年新宮村(現鉾田市)生まれ。旧制鉾田中学校を4年で中退して上京し、左翼活動家となる。治安維持法違反で懲役3年の刑を受け、水戸刑務所に1937年から1940年まで服役した。
秀武の家は廻船問屋で高利貸し。借金のかたに土地を取り上げることで地主となった。彼はその罪の意識から左翼思想にのめり込んでいったという。
ほぼ10歳年上の太宰治も同じように同時期、左翼活動に手を染めた。太宰も津軽の地主の息子。動機は武秀と同じだが、彼はその弱さからひたすら下向して行く。しまいにはカフェの女給との心中事件を引き起こし、自分だけ生き残った。
武秀は違う。終戦後、常東農民運動を展開し、農地解放などで激烈な闘争を繰り返した。私は最近、太宰の『東京八景』を読んだばかり。この本を読むと、武秀の強さに圧倒される。
しかし、様々な闘争も所詮は一回性のものだった。同志は次第に武秀から離れ、孤立していく。その後も三里塚闘争、高浜入干拓反対運動などで存在感を示すが、武秀は孤立したまま1992年、77歳で死ぬ。
今は山口武秀の名は忘れられつつある。しかし彼の活動によって地主の土地は農民のものになった。鹿行地区に現在の園芸王国が生まれたのは、武秀が触媒のような働きをしたからに他ならない。
第2部は山口一門である。
一門は1918年台北生まれ。玉川村(玉里村を経て現小美玉市)で農民活動を始め、戦後、玉川農協を設立した。
米作+αという作付改革、田園都市構想などの農村の環境改善を推進。玉里村を有数のレンコン産地にし、養豚団地、ミルクプラント、産直など次々と新機軸を打ち出して、玉川農協は一躍トップランナーに躍り出た。「農協牛乳」や「タマゴプリン」などのヒット商品は、私もよく覚えている。
武秀は一回性の権利闘争に明け暮れたが、一門はあくまで農民主体の、農村の後進性を排し農民を豊かにするための活動を、行政側と協力しながら粘り強く展開した。
一門は玉川農協組合長、日本文化厚生農業組合連合会会長、茨城県農協中央会副会長などを歴任したが、1972年に全ての役職を退任し農業に従事する。その後、彼は1979年に農協問題研究会長に就任、1987年には日本文化厚生農業組合連合会会長に復帰した。まだまだ一門の手腕は求められていたのだ。
2002年、一門が手塩にかけた玉川農協が激震に見舞われる。ミートセンターでの16年に渡る産地偽装が発覚したのだ。産直の契約の仕方に無理があり不幸な部分はあったが、それで免罪はされない。この打撃を取り戻す術もなく、2006年、玉川農協はひたち野農協に吸収されて消滅した。
2011年、92歳で死去。
山口武秀、山口一門、二人の手法は対照的だが、二人とも茨城県の後進性と闘い、大きな功績を残した。
筆者、先﨑千尋はそれを資料に基づきながら丹念に辿って行く。手放しで賛美するのではない。問題点や失敗をきちんと指摘していく、冷徹な目を常に持ち続けている。手堅い、誠実な文章。農業や農民運動に対する愛がしっかり伝わってくる。
部数が少ないためか、3200円という価格となっている。いささか高く感じるかもしれないが、それでも読んで損はない。名著だと思う。
十三夜のお月見の晩、夕食の席で親父が「片月見がよくない、というのは樋口一葉の『十三夜』に出ているんだ」と言った。「もっとも俺は浪曲で知ったんだけどな」
なるほどと思い、『十三夜』を読み返してみたら、「今宵は旧暦の十三夜、旧弊なれどお月見の真似事に団子(いしいし)をこしらへてお月様にお備へ申せし、(中略)十五夜にあげなんだから片月見に成っても悪し、(後略)」と、ちゃんと書いてあった。
身分違いの家に嫁した女が、夫の苛めに耐えかねて実家に逃げ帰ってくるが、父親に諭されて婚家に戻る。その帰り、車夫に零落した初恋の男と再会するというお話。
一葉の描く女性は悲しい。
主人公お関は、向こうから見染められ原田家の奥方として嫁に入る。やがて男の子を生むが、その時から夫は人が変わったようにお関を苛めるようになる。今は外に女をこしらえたのか、家を空けることも多くなったという。
夫がお関に対する態度を変えたのは「跡取りが確保された」ことと無関係ではあるまい。そうなってみると、身分違いの妻が、いかにも無教養で同僚たちの妻のような洗練されたところがないことに気づき、蔑みの感情が生まれたのだと思う。
原田はお関を一目見て妻にしようとした。つまり、彼女の美貌のみに惹かれたといってよい。半ば強引に妻にし、飽きたら苛め抜く。女を鑑賞物か子どもを生む機械としか思っていない。
しかし、その原田家にお関の実家は恩恵を受けている。お関の弟(跡取り息子)は、原田家のおかげで出世の糸口をつかみかけているのだ。父親が娘の諄々と諭すのも、こういう事情があってのことである。
お関は家のために耐え抜くことを父親に誓う。いや、誓わざるを得なかった。
お関は覚悟を決めて婚家に帰る車に乗る。その車を引く車夫が、お関の初恋の相手、録之助だった。
録之助はれっきとした煙草屋の一人息子だったが、お関の結婚で自暴自棄になり、放蕩の末身代を潰して、今は浅草の木賃宿暮らしだという。
二人は広小路で別れる。録之助が暮らす木賃宿の二階も、お関が帰る原田の屋敷も、「憂きはお互ひの世におもふ事多し」と、同じこの世の地獄であることを暗示して、この小説は終わる。
一葉もまた悲しい女性であったのだろう。彼女の登場人物へのまなざしは優しい。
この『十三夜』をもとに、益田太郎冠者が落語にしたのが、八代目桂文楽が得意にしていた『かんしゃく』である。
ここでは、夫の癇癪に耐えかねて帰って来た娘に、父親は「何でも自分でやろうとせず、人を使っておやりなさい」と教え諭す。娘は父の助言通り、準備万端整えて夫を迎えるが、夫は「これでは俺が怒ることができんではないか!」と癇癪を起す、というお話。
ただ怒鳴ってストレスを発散させたいだけの夫を、文楽は無邪気で稚気あふれる人物に描き、からっと笑わせてくれた。文楽がこの噺をすると、客席で顔を見合わせて笑う夫婦がよくいたという。
そうか、『十三夜』は浪曲にもなっていたのか。そういえば、この間、『夢二の女』という、竹久夢二と彦乃を題材にした浪曲を聴いた。浪曲には、文芸ものというジャンルもあるんだね。『十三夜』もいつか聴いてみたいもんであります。
物置で『戦争論妄想論』という本を見つけて読んでいる。小林よしのり『新ゴーマニズム宣言special戦争論』のカウンター本として、1999年夏に出た。装丁も『戦争論』を想起させるデザインになっている。
『戦争論』が出たのは1998年夏。文字通り大ヒットになった。新聞の下半分にでかでかと広告が打たれ、売れに売れた。
実は私も買った。思想的には相容れないが、読まずに批判するのもまずいと思って買って読んだ。読んでいるうちに吐き気を催した。右翼トンデモ本の焼き直しのような主張が延々と繰り返され、しかもマンガだからそれが強烈にインプットされる。これがベストセラーとなることに、改めておぞましさを感じた。そして、その売り上げに自分も貢献してしまったことを心底後悔した。だから、以後私はこの手の本を買わないことにした。
さて『戦争論妄想論』についてである。
この本のあとがきでは「本書は『戦争論』と対決するという試みの構想としてスタートした」と書かれている。『戦争論』が大きな支持を集めることへの危機感がこの本を生んだと言っていい。宮台真司、姜尚中、水木しげる、石坂啓、中西新太郎、若桑みどり、沢田竜夫、梅野正信という豪華執筆陣が、「「国家と個人」「戦争と平和」の論争に答え、『戦争論』を根底から撃つ!」と帯にはある。
しかし、この試みは成功したとは言い難い。
『戦争論』で勢いづいた歴史修正主義はネット右翼を生み、果てはヘイトスピーカーをも生み出した。(事実、「『戦争論』で目覚めた」というヘイトスピーカーも少なくない。)
また、この流れは憲法改正を目論む大日本帝国復権主義者にも力を与えた。今や現政権の中枢や、その取り巻きは、大日本帝国復権主義者で席巻されている。しかも、巧妙に人事を利用し、マスコミ、司法、行政も服従させる。もはや「関東大震災直後における朝鮮人虐殺」も「南京事件」も「慰安婦問題」も「諸説あり」とされ、正面切って取り上げれば攻撃を食うので、何となく口にするのも憚る雰囲気になってしまった。(何しろ原爆の悲惨さを伝える展示でさえ「政治的だ」として退けられるのである。)
こうした奔流に、『戦争論』批判は、あえなく飲み込まれてしまった。「飲み込まれてしまった」という表現がそぐわなければ、『戦争論』に目覚めた者たちの大多数には届かなかった、と言い換えてもいい。
『戦争論妄想論』、改めて読むといわゆる総花的である。それぞれ得意分野での論評で、ひとつひとつはしっかり読ませる内容になっているが、全体的に気迫に欠け、攻めあぐねている感じが拭えない。「それぞれの立場は異なるが、方向性は鮮明に出せた」というが、それは対立軸に旗を立てたにすぎなかったのではないか。むしろ私は当初の構想にあった「『戦争論』で描かれている中身に沿って、一つひとつに反論する方法」に似た、『戦争論』で描かれた虚偽やごまかしを徹底的に暴き反証するといったやり方の方が有効だったと思う。
振り返ってみれば、美しい物語、力強い語り口、誇りの回復といったものに身を委ねる快感が用意され、それに国家権力が味方する(特にここ7、8年はそれが顕著だった)。どう考えても負け戦にならざるを得ない状況だったな。
小林よしのりは『戦争論』に先立つ1996年『新ゴーマニズム宣言special脱正義論』の中でこう言っている。
「はっきり言ってわしのやったことは世論捜査のための言論暴力ですよ。(中略)正義もクソもないの。世間に正義と思わせるようやっただけ。そういう意味じゃファシズムかもしれんよ。どうぞわしをファシストとののしってくださいという気持ちだよ」
こういうやり方をしている相手である。同じ土俵に立って戦おうとしても、噛み合うはずがない。論点をずらし、隠し持った凶器で襲い掛かかってくるだろう。(今やあっち側はそんな手合いばかりである。)
現在小林はネット右翼については批判しているが、マッチョな体質に変わりはない。
また『戦争論』的なアジテーションが金になることが分かったからか、ビジネス右翼がわらわらと沸き上がった。これらがこぞって隣国攻撃や現政権擁護に走る。本屋に行けばこの手の出版物が山と積まれていて、ある意味壮観だが、その末世感たるや半端ない。
では現状を嘆くだけでいいのか。そうではあるまい。
『トリック 「朝鮮人虐殺」をなかったことにしたい人たち』(加藤直樹)、『歴史戦と思想戦 歴史問題の読み解き方』(山崎雅弘)、『「南京事件」を調査せよ』(清水潔)などは、確かな論証で歴史修正主義を正している。ツイッターでもそういったものが数多く発信されるようになった。
歴史を捻じ曲げ、隣国憎悪を煽り、大日本帝国的価値観を復権しようとするものは、やっぱり粘り強く潰していくべきなんだよな。
その意味では、あの当時『戦争論妄想論』が出たのには、やはり大きな意義があったのだと思う。