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2025年5月5日月曜日

上野鈴本演芸場5月上席昼の部

上野鈴本演芸場、5月上席昼の部。主任は林家正蔵。

開演5分前に入ると、もう客席は9割ほど埋まっている。正蔵、けっこう集客力、あるんだなあ。

前座なし。いきなり二つ目の林家たま平が登場する。正蔵の長男。ネタは「竹の子」。口調、リズム、テンポ、間、落語の身体能力が高いな。親父の若い頃より上手い。ネットで調べたら、「幼い頃から芸事に親しんだ」という。舞台度胸もある。恵まれた環境ですくすく育ってきた感じ。大きくなって欲しい。

お次は、林家たけ平。早くも真打登場。漫談で客席を沸かせる。私の先輩、扇乃丞さんの鉄板ネタの元ネタは、ここにあったか。

ここで古今亭文菊が登場。何となく、黒門町八代目文楽に風貌が似ている。というか意識して寄せているようにも、私には思えるのだ。この日は「つる」を軽妙に演じる。上手いよね。気持ちよく聞ける。

そして、綾小路きみまろの漫談。昔、やはりゴールデンウィークの浅草演芸ホールに、きみまろが出演した。あの時は、柳家小三治のトリだったな。客いじりと中高年ネタは健在。よく聴いていると、客いじりにも細やかな配慮があるんだよね、「ごめんね」とか「こういう流れだから気にしないでね」とか。たっぷり。爆笑が渦を巻く。

三遊亭圓歌、「やかん」の改作。談志の「やかん」のようにとんがってはいない。その分、大衆的だ。基本的にフレーズで笑わせる。それが、きみまろと同じ方向性。よく笑いは取っているが、その分、笑いのボルテージは下がっているような気がしたな。

隅田川馬石は「金明竹」。上方弁のくだりのみ。松公とおかみさんがかわいい。言葉よりも人間で笑わせる。きれいな高座だ。

立花家橘之助の浮世節が入る。黒門町八代目文楽の出囃子「野崎」、矢来町志ん朝の「老松」、目白五代目小さんの「序の舞」を弾いてくれる。いいなあ。

仲トリは古今亭菊之丞。黒紋付の高座姿が美しい。彼も黒門町を意識しているように思えるのだが、どうだろう。ネタは「替り目」。色気もあるし、男っぽい。お客が思わず「上手いねえ」と言っていたよ。52歳か。脂がのってきたねえ。

クイツキは翁家勝丸の太神楽。寄席の楽しさを堪能する。

売れっ子、蝶花楼桃花が高座に上がる。かわいい。華がある。男の真似をしない、女性が自然に女性の落語を演っている、ようやく女流落語もこういう所へやって来たのだな。ネタは「桃太郎」。子どもはアニメ声だ。ナウでファンシーな演出に、小朝のDNAを強く感じる。

入船亭扇遊が「一目上がり」を演じる。オールドファンとしては、こういう高座にほっとする。「つる」とちょっとネタがかぶるな。扇遊も70歳を越えたか。噺はまだまだ若々しいぞ。

膝代わりは江戸家猫八。父である先代は、小猫時代はスーツ姿の立ち高座、猫八襲名後は黒紋付に袴で高座を務めた。当代はスーツでの立ち高座で通す。軽さがいい。話術も巧み、芸も確か。先代は早世が惜しまれただけに、当代には健康に気をつけて、長い間、活躍してもらいたい。

いよいよトリのお出まし。林家正蔵が「あやめ浴衣」の出囃子にのって高座に現れる。黒紋付のいでたち。白髪頭にでっぷり肥えて、柄が大きくなった。父、初代三平の齢をとうに超えて、今年63歳になるのか。長く落語協会の副会長を務め、林家一門の総帥としての風格もにじむ。

五街道雲助と春風亭一朝と自分との楽屋での出来事をマクラでひとくさり。敬愛する先輩とのやり取りが微笑ましい。

ネタは「ねずみ」。個人的には、先代入船亭扇橋の口演が耳に残っている。扇橋の朴訥とした左甚五郎がよかった。噺の骨格はほぼ同じ。甚五郎の造形も、どこかとぼけた感じが扇橋に通じる。もっともこの噺は「黄金の大黒」の続編にあたり、甚五郎は、その主人公「ポンシュウ」に通じていなければならない。この辺りも文脈を踏まえた演出をしている。

締めた口調だが、笑いもあって、楽しかった。正蔵の描く子どもはかわいいいな。

少しだけ違和感があったのは、「ねずみ屋」の主人の告白の場面。しみじみしていてよかったのだが、主人の告白の中で、子どもの声を作ることはないのではないか、と思う。何だか主人が演じているようで、いささか不自然に感じた。

とはいえ、いい噺が聴けたことに間違いはない。追い出しの太鼓を背に、いい気分で上野の街に出る。やっぱり、寄席はいいなあ。


2024年6月7日金曜日

桂小文治十八番創りの会

先日、「桂小文治十八番創りの会」に行って来た。小文治さんは私の落研の先輩である。ちょうど土曜出勤の代休がもらえたので、いそいそと新橋へ向かう。

18時30分、開場。開口一番で桂しゅう治が上がる。ネタは『権助魚』。はっきりと明るい口調。

お次は桂小右治、『牛褒め』。とんとんとリズムテンポでもっていくわけではない。とぼけた感じが持ち味。十代目文治の型の『牛褒め』、懐かしいなあ。私が覚えた『牛褒め』だ。しかも亭治時代の小文治さんのテープで覚えたのだった。

ここで、小文治さん登場。『死神』をたっぷり。後半では照明を落とし、三味線のはめものが入る。演出はもちろんだが、何と言ってもその話芸が素晴らしい。きっちりした型が見事。人物の造形、仕草、ひとつひとつが行き届いている。

中入り後は小すみさんの三味線漫談。玉川スミの思い出話、プッチーニの『蝶々夫人』に、『越後獅子』などの邦楽のメロディーが入ってくる経緯を熱く語る。この人は本当に邦楽が好きなんだなあ。シメに『奴さん』を賑やかに踊る。

トリは小文治さんで『船徳』。きれいな高座だなあ。丁寧な人物描写。しっかりとした台詞回しに、表情での演じ分け、仕草の美しさはもう今さら言うまでもあるまい。小文治さんの芸は明快だ。三代目金馬に通じる。ただ金馬の豪放さはない。しかし繊細で緻密だ。六十代後半を迎え、円熟の境に入りつつある。まさに今が聴き時である。

小文治一門には我らがボス、梅八さんの娘、浪曲師の国本はる乃が加入した。層が厚くなったな。「十八番創りの会」でも、はる乃さんの浪曲が聴けることを楽しみにしていようと思う。

では、一門の繁栄と、小文治さんの益々のご活躍を祈って、今日もウィスキーで乾杯、といこうかね。

2024年4月25日木曜日

落語協会歴代会長について

雑誌『東京人』3月号を読む。今年は落語協会創立100年ということで、その特集号「どっぷり、落語!」。

中に落語協会歴代会長の表があった。三代目柳家小さん、五代目三升家小勝、六代目一龍齋貞山に続いて、八代目桂文楽の名前があって「ん?」となった。

1939年(昭和14年)から会長を務めたのが講談の一龍齋貞山。貞山は、1945年(昭和20年)3月11日の東京大空襲の犠牲となった。戦後、現在の落語協会が結成され、四代目柳家小さんが会長に就いたから、貞山死後につなぎの会長がいたものと思われる。それが、黒門町だったということなんだろう。

ここに私は疑義を呈したいと思う。

当時の落語界を知るための第一級の資料『八代目林家正蔵戦中日記』の記述を見てみよう。以下、関係する部分を引用する。なお正蔵は当時の名前、馬楽で登場する。

三月十四日(水)
放送局へ用達に行って帰宅すると山春さんが来てゐた。偶然貞山先生の死体を見つけたからと報せに来て下すったのだ。文治、文楽の諸先輩と訪れて、みなみな現場へ駈けつけた。隅田川に在ったとかで満足な仏様になってをられた。

三月十五日(木)
警報発令中を貞山先生の死体を引取る工作をなす。貞丈金壱千円を持参して諸払いをする。まづ棺桶が壱百十円。公園課の係りに壱百円献上した。納棺して上野鈴本亭主人が引ぱって来て下すった荷車に安置して、貞丈、上原、馬楽で奉仕し、文楽、文治其他の諸氏ならびに遺族がつき添い、落語協会事務所桐廼家の焼跡へ一時納めてくる。

三月十六日(金)
貞丈、山春さん、馬楽の三人で鈴本の荷車へ貞山先生を乗せて日暮里の火葬場へ運び、特等で焼くべく万事好都合に行く。

貞山会長の死に際し、正蔵がよく働いている。記述からは正蔵の上にいるのが、文楽と文治だということが分かる。ちなみに「上原」というのは、協会の事務員、上原六三郎。元は落語家で二代目柳家小せんを名乗っていた。

当時、正蔵の馬楽は協会の幹部として雑事に奔走していた。正蔵が足しげく通っていたのは、根岸の文治宅だ。「旧落語協会を落語部第一班と正称し、再建の会議を文治師宅に開催す。(中略)円歌会計係、馬楽営業係に選ばる。(4月4日)」、「営業係の打合せに文治師宅に赴く。(4月18日)」、「根岸(文治宅)へも顔出しをして第一班再建の方針を基に働く決心をなす。(5月22日)」などの記述が見える。

そして、その中に正蔵の文治評がある。

七月三十日(土)
文治師匠を訪ひ営業上の話をきく。上原に対する態度などどうもスケールの小さいやうな気がする。この人を首班としての会は無事だが非常時には不適当だ。尤も誰が代ってもさう急速には良くはならないのだが安心が得られる。

協会の会合が文治宅で行われていること、正蔵が文治を「首班」と呼んでいることを考えると、「つなぎの会長」は八代目桂文治であろう。正式な会長就任なのか、会長代行のようなものだったのかは分からない。

正蔵によると、文治はリーダーとしては狭量だったらしい。それが、戦後新体制となった時、四代目小さんが会長に就いた要因になったのだろう。

戦後の落語協会会長は、小さんの後が文治、そしてその後になってやっと文楽に回ってくるのだから、つなぎとはいえ小さんの前に文楽が会長というのは無理がある。

ここはやはり、貞山死後、八代目桂文治が会長を務めたと言っていいだろうと思うのだが、いかがでしょうか。



付記。落語協会の公式ホームページで、八代目桂文楽が貞山亡き後の暫定会長だったことが明記されていた。協会内で記録や口伝もあってのことだと思うので、「つなぎの会長」は文楽だったに間違いはなかろう。ただ、そこまでに至るには「やっぱり文治師匠より文楽さんだな」という経緯があったのではないか、と私は思う。

2024年1月26日金曜日

三代目林家正楽を悼む

三代目林家正楽の訃報を知る。

21日、自宅で倒れているところを家族が発見し、死亡が確認されたという。前々日まで寄席に出演していた。

当代一の紙切りの名人である。

白紙にハサミ一本で様々な形を切り抜く。下書きなし。その場で注文を受けて切る。切る形も人物や風景など多岐にわたる。

師匠先代正楽は埼玉県春日部の出身で訛りが強く噺家を諦め紙切りとなった。それだけに土の匂いのする素朴な味の高座だった。

それに対して当代は洒脱だった。飄々と高座に現れ、体を揺らしながら鮮やかに紙を切った。切った作品は黒い台紙に載せて見せるのがお約束だったが、正楽はオーバーヘッドプロジェクターで高座背面の板戸に映し出して見せるという新機軸を開発した。

「どうして体を揺らしているかというと、・・・揺らさずに切ると・・・暗くなります」

「何でも切ります。この間、何でも切りますと言うと、お客様が立って、ここまでお出でになって、おせんべいの袋を差し出し、『ここを切ってくれ』と言われたことがありました」

定番のギャグが懐かしい。 

注文の中には難題も多い(特に池袋演芸場・・・)。それでも紙切りの芸人さんは断ることはない。いつか、朝ドラのタイトルを注文した客がいた。正楽はこのドラマを知らなかったようで、思案した挙句、テレビを見る家族の姿を切った。こういう引き出しを持っているのも、毎日寄席に出て様々な客と丁々発止の勝負をしているからなんだろう。

五代目小さんが存命中だったか、「柳家小さん」という注文が入った。正楽は小さんの横顔を切った。それは輪郭だけであったにもかかわらず誰が見ても小さんそのものであった。客席からため息が漏れ、私もすげえなと思った。

師匠の二代目が落語家からの転向であったのに対し、三代目は紙切り一筋の高座人生だった。小正楽から三代目正楽を襲名した時は、東京の定席4軒で披露目を行いトリをとった。色物の芸人が定席でトリをとるのは異例のことで、まして紙切りでは後にも先にもこの三代目林家正楽しかいない。

紙切りの第一人者として数々の賞を受けたが、一貫して寄席をホームグラウンドにしてきた。高座では矢継ぎ早に注文が殺到し、私なんか注文する隙などなかった。一枚も彼の作品はもらっていない。それでもいいや。あの高座姿はありありと目に浮かぶ。長い間楽しませていただいたことを感謝したい。

享年76歳。あまりにも急だった。合掌。ご冥福をお祈り申し上げます。


2023年12月16日土曜日

橘左近の訃報に接して

新聞に橘左近の訃報がでていた。

昭和9年(1934年)、長野県飯田市の生まれ。小学校の入学祝に父親から落語全集をもらったことがきっかけで落語にのめり込む。高校生の頃は日曜になると片道8時間半かけて新宿末広亭に通い詰めた。明治大学進学後は、志ん生、文楽、圓生などの名人芸に耽溺、特に志ん生は追っかけをするほどのファンだった。結核を病み、一時故郷で静養するが、治癒後は再び上京。昭和36年(1961年)、寄席文字の橘右近に入門、3年後に左近の名前をもらい、正式に寄席文字書きとなる。右近の後継者として、寄席文字、演芸研究の両方面で活躍した。

私が学生の時分は右近が存命中で、左近はその一番弟子、というイメージが強かった。何しろ寄席文字橘流創始者の右近の存在感は大きかった。

落語雑誌の寄席文字教室などは左近がやっていた。他に「圓生代々」とか「正蔵代々」のような名跡に関するコラムも連載していたと記憶している。

寄席文字というのは縁起物で、右肩上がりで、できるだけ隙間なく書くという決まりがある。かちっとした様式があるので、上手い字ほど誰が書いたのだか区別がつかなくなる。

私の当時の印象では、右近の字はのびやかでスケールが大きく、左近の字は几帳面で律儀な感じがした。あくまでイメージだが。

私は落研時代、広報企画部の仕事を担当し、寄席文字を書いていた。うちの落研は寄席文字もレベルが高く、2年上の雀窓さん、1年上の三代目紫雀さん、1年下ののん平くんはプロはだしの上手さだった。私は間に挟まれて、可もなく不可もなくというところだったな。

今の私の落語のボス、梅八さんは学生時代、橘右近に師事した。社会人になって寄席文字をアレンジした江戸文字梅八流を立ち上げ、江戸文字職人として活躍中である。橘流は基本的に直線を基調としているが、梅八流は曲線に味がある。橘流に学びながら、独自のものを生み出した。すごいと思う。

いささか脇道にずれた。左近の話に戻そう。

寄席文字の素晴らしさはもちろんだが、研究者としての功績も大きい。私が常に手元に置いている『古今東西落語家事典』、この記事の多くを左近が書いている。実証に裏打ちされたその記述に、私はたくさんのことを学んだ。共著者の都家歌六の落語家としての視点とは違う程のよい距離感もよかった。

左近の誕生日は1月2日、「書初め」の日だ。書家になる星の下に生まれたのかもしれない。

落語を好きになったきっかけが父から買ってもらった落語全集。落語にのめり込みながらも落語家にはならなかった。僭越な言い方だが、何となく親近感を覚えてしまう。私にとっては偉大なる先達であった。

令和5年12月12日、橘左近永眠。89歳。その日は師右近に橘流創設を勧めた八代目桂文楽の命日でもあった。


左近さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。


橘左近筆(「CDブック八代目桂文楽落語全集より)

同じく


橘右近筆・新宿末広亭のビラ

2023年8月9日水曜日

『風呂敷』について

この前の稽古では『風呂敷』をかけた。初演である。学生の頃、古今亭志ん朝のをよく聴いた。

『風呂敷』は古今亭のお家芸。志ん生の十八番だった。「だって寒いんだもの」とか「シャツの三つ目のボタン」とか「船を見送るような声」とか、楽しいフレーズが満載だ。志ん朝も、ほぼ父の演出を踏襲し、客をひっくり返して笑わせた。

今回、噺を覚えるのに、ネットで検索した。いやあ便利な世の中になったなあ。志ん朝の新宿末広亭の高座をYouTubeで見ることができた。30代後半か40代にかけての志ん朝。若いな。リズム、テンポ、勢い、まさに完璧。私たちが学生時代酔った志ん朝がそこにいた。

ただ、今の時代には共感を得られないだろうな、という演出もあった。例えば、「女三界に家なし」や「お前は文句を言わないでおれの用をしていればいいんだ」というようなところ。落語は確かに「男のつぶやき」なのだが、あまりに男の身勝手さが目立つ。男女の関係の非対称さが浮き彫りにされる。というか、あんなに一方的に女房を罵倒する男を、私には演じられない。

それから、「瓜田に履を納れず李下に冠を正さず」をもじったギャグも理解してもらうのは難しいだろうなあ。

そんなことを考えながら演ってみた。調子は志ん朝が体に染みついているが、言葉は大分違うものに出来上がった。多分、爆笑ものにはならないと思う。

それでも、演っていて楽しい。登場人物が、皆、好きなんだよなあ。知ったかぶりの兄いも、そのおかみさんもかわいい。相談にきたおかみさんも押し入れの前でくだをまく亭主もかわいい。何なら押し入れに入っている若い者もかわいい。

お仲間に「前と違って、軽く楽しんで演っているような気がする」みたいなことを後で言われて、うれしかったな。お客の前でどうできるか、分かんないけど。


今日は、長崎に原子爆弾が投下された日。

既に『黒い雨』は読了した。

広島から長崎まで、本当に何日でもなかったのだな。

こんなになるまで戦争を継続させ、本気で上陸してくる米兵に竹槍で立ち向かわせようとしたんだよな、大日本帝国は。それは覚えておく。

それと、大国アメリカの非情さも。

 

2023年6月16日金曜日

「桂小文治十八番創りの会」

「桂小文治十八番創りの会」のご報告。

トップバッターは、小文治門下、桂しゅう治。パンフレットでは『手紙無筆』だったが、当日変更で『金明竹』。すっきりとした口調、端正な佇まい、いかにも小文治さんの弟子らしい。着実に基礎を固めてきたという感じ。二つ目になったらいかに自分の個性を出していくか、ということになるのだろうが、個性は勝手に出てくるものでもある。自分の信じる道を堂々と歩んで行ってもらいたい。

二つ目は春風亭柳橋門下、春風亭弁橋。住吉踊りのメンバーだという。小文治さんもメンバーだった。古今亭志ん朝が浅草演芸ホールでお盆の興行をしていた時、見に行った。小文治さんの所作がきれいなのは、踊りをやっているからだと思う。彼にも、踊りは大切にしてもらいたい。ネタは『堀の内』。明るく軽い。ふわふわしてる。でも、上手いと思うよ。今の若い人は達者だ。芸術協会のHPを見ると、落語が好きで好きで落語家になったことが分かる。落語を終えて「なすかぼ」を踊った。

ここで真打登場。小文治さんの『たがや』。やっぱり高座の空気が変わるなあ。丁寧に枕を振り始める。「た~まや~」のロングトーンボイスはさすが。小文治さんの『たがや』は、お侍が斬り殺されない。供侍は川に放り投げられ、殿様は馬に蹴り上げられる。殿様の体が宙天高く舞い上がって、そこで、サゲ。首が飛ばない『たがや』を初めて聴いた。お客様に陰惨な場面を見せない配慮がそこにある。

ここで中入り。ロビーでOBの集合写真を撮る。

中入り後は、桂小すみの音曲。彼女もまた小文治門下。喋りが面白い。また、三味線が好きで好きでたまらない、というのが伝わってくる。ピュアな人なんだな。令和4年度花形演芸大賞の大賞を受賞した実力者。最後は尺八で「アメージンググレイス」。多才な人だね。

そしてお待ちかねのトリ。桂小文治さん『鰻の幇間』。型は志ん朝だな。きれいで程がいい。それでいて、独自の工夫が随所に見える。酒の銘柄と掛け軸のクスグリには爆笑。鰻屋の女中が、その家のおかみさんという設定だ。東京での落語をたっぷり堪能した。


終演は21時15分。新橋から21時35分発の電車に乗れた。これならいけるな。また、時間が合えば行こうと思う。

 

2023年5月28日日曜日

十代目金原亭馬生と大西信行

 『対談・落語芸談4』の中で、編者の川戸貞吉は十代目金原亭馬生についてこんなエピソードを紹介している。

馬生は「落語評論家は絶対に信用しない」と言う。それは「金原亭馬生の悲劇は、五代目古今亭志ん生の長男に生まれたことからはじまった」という論評に憤慨したからだ。「そんなことをいったって生まれちゃったものはしょうがないでしょ」「あたしだって生まれたくはなかった」と馬生は抗弁していたという。

対談の相手は立川談志。その時談志は「その言葉通り取れば、たしかにいった奴は暴言だけど、しかしそういう会話もわからないことはない。だけど、もういまさらねェ“天才の子に生まれた”とか“親父の子に生まれた”というのは、そんなことまで論じる奴は馬鹿だね。それよりも馬生師匠の出来不出来、または彼の功績を判断すべきではないかと思いますよ」と至極真っ当なことを言っている。

 

この落語評論家は大西信行、この論評は『落語無頼語録』という本に収められている。

その部分を、いくつか以下に引用する。

 

・いまぼくの目に浮かぶ馬生は、一席終って、立ち上がり、キザなシナをつけて踊るその姿・・・どうにも好きになれない芸人だった。なぜだろうと考えてみる。

 考えてみて、馬生という人が、いくつもの不幸を背負った芸人だと思い到った。不幸の第一は志ん生の子であるということ。

 

・志ん生がいつ帰るとも知れないことを理由に、それぞれ新しい師匠を選んで去って行って、置き去りにされた馬生はあたかも浮浪児と呼ばれた戦災孤児のごとき淋しい境遇になった。孤児の淋しさを正直に涙にでもして見せたなら、楽屋の同情も集められたかも知れないものを、馬生は可愛げのないいじめられっ子の顔で、周囲を睨み、すねて暮らした。馬生にすればそれは志ん生の子の意地だったろうけれど、ことさらに胸を張って、言うことなすこと、生意気だネ、キザでいけねェとそしられる結果だけを生んだ。この周囲の白い目をはね返すためには・・・うまくならなきゃ、と、若い馬生に思い込ませた。うまく聞かせようと、わざと声をひそめ加減の低調子、どうにも陰気な高座になった。大ネタと称される人情ばなしのような演題ばかり演じて、いっそう先輩の糾弾を受けた。まずいと言われて次々にネタを変えて・・・現在円生についでネタの多い落語家であると言われるのは、この頃の馬生のあがきがもたらしたものであった。

 

・志ん生の子でいながら、馬生は志ん生の子であることの不幸にいじめ抜かれて、志ん生のうまさを自分のものにはなし得なかった。いやむしろ、志ん生とはべつの、うまいはなし家になろうと馬生は苦労したのだとも言える。つまり円右円喬流の・・・。

 

志ん生の子。落語家としてのデビューは二つ目から。若くして金原亭馬生を襲名。やっかみを受ける要素はそろっている。しかも志ん生がわがままな人であったから、その意趣返しが馬生に降りかかった。確かに馬生がいじめられたのは、志ん生の子であったがゆえだろう。また、その悔しさをばねに、馬生が志ん生とは違うタイプの芸を追求したことも間違いではない。

論理としては正しい。しかし、改めて読むと、ずいぶんひどいことを書いているなあ。馬生の苦闘に対し、あまりに手厳しい。

大西は、また、こんなことも書いている。

 

 現代人の癖に、いかにも江戸前ということばの似合う、キリッとした顔に愛くるしい微笑みを浮かべて言った。志ん朝の幸せは志ん生の子であるということ—。

 

対比という技法はある。対照的なものを並べて、その差を際立たせ自分の主張をはっきりさせるやり方だ。とはいえ、兄弟を比較し、弟志ん朝の素晴らしさを示すために兄馬生を引き合いに出すのは、あまりに酷ではないだろうか。

「あとがき」の中で、大西は、永六輔に「ぼくは、大西さんがなにかに対して怒っている時が好きだな」と言われたことで、「精いっぱい怒りながら書く」という基本姿勢を得たと書いている。

大西には、当時東京の実力派と言われる落語家が、芸の本質よりも論理や技巧を重んじ、偏った名人志向に走っているという現状認識があったようだ。「うまいと呼ばれたい落語家」の代表として、大西は馬生と立川談志を挙げ、痛烈に批判している。

私が持っているのは角川文庫版だが、その「解説」で永井啓夫は次のように書いている。

 

 現代落語の質的解明には、江國滋・三田純市・矢野誠一・山本益博らのような見巧者の愛情にみちた指摘も多い。しかし、かんじんのはなし家たちは、落語ばかりでなく伝統芸能の世界ではいずれも共通のことだが〈批評〉をいっさい受け入れようとしないのである。それが見え透いた追従であっても〈賛辞〉は正しく、その反対に〈批判〉はすべて悪意と曲解によるものとして耳を貸さない。これは現代の伝統芸能が抱えている最大の不幸であろう。

 大西信行の『落語無頼語録』は、こうした固陋なはなし家に向かって堂々と所信をぶっつけた壮挙ともいうべき評論である。

 

大西の鋭い筆致は、当時高く評価され、昭和50年度「日本ノンフィクション賞」佳作を受賞した。翌年には文庫化もされたので、よく売れたのだろう。私も高校の時、この文庫版を買ったし、落研の部室にはハードカバー版が置いてあった。

一方で、芸人たちには評判が悪かった。後年、この馬生への論評は、評論家の暴論のサンプルとして、多くの人が取り上げた。

私は「附 桂文楽の死」を読むのがつらかった。そこには、文楽の落語家としての限界が極めて明晰に論じられていた。つらかったが、何度も何度も読み返した。

私はこの本を読む度に、落語とは何か、落語を、落語家を論じるとはどういうことか、について深く考えさせられる。私はこういう書き方はしない。しかし、この本が私の落語観に大きく影響を与えていることは否定できない。

 

永井啓夫はこうも書いている。

 

(大西信行は)落語を愛するあまり、怒り狂ってさんざんに斬りまくるものの、実はそのことによって一番傷ついているのが大西自身であることを知る人は少ない。

 

十代目金原亭馬生は、志ん生から離れようともがき苦しみ、必死になってネタを増やして芸の幅をひろげた。長い道程を経て、馬生がたどり着いたのは「志ん生」だった。

晩年の馬生は志ん生に似ていた。「一丁入り」で飄々と高座に現れ、さらっと一筆書きのような行書の芸を見せた。時折入る長い間も、きちんと芸になっていた。しかし、それは志ん生のコピーなどでは断じてない、馬生だけの世界だった。テクニックや論理を越えた所に馬生はいた。

馬生は昭和57年(1982年)、54歳で死んだ。誰もが馬生の早過ぎる死を惜しんだ。その時大西は、馬生について何を書いたか、その後何を書いたか、残念ながら私は知らない。



2023年5月7日日曜日

ChatGPTに落語の演目を聞いてみた

この前の「みほ落語会」で、梅八さんは『権助魚』、私は『猫の災難』をかけた。

その後、お仲間とグループLINEで会話をしていて、ChatGPTの話題になった。こいつに落語について聞いてみたらどうなるだろう、ということになり、お仲間の一人がやってみた。

で、その回答が、これ。まずは『権助魚』から。

権助魚とは、食べた魚のあとに現れるとされる幽霊のような存在で、魚を食べたことで死んだ人間が成仏できない怨念が込められたものとされています。落語の「権助捕物帳」では、権助魚のことが面白おかしく語られます。

お次は『猫の災難』。

「猫の災難」という落語は、猫を飼っている男性が、猫が魚を盗むのを防ぐために小判を鈴で鳴らしていたところ、誤って猫を殺してしまうというお話です。その後、猫の葬儀をすることになりますが、そこで猫屋敷という場所で葬式を行うことになってしまい、そこには実は「猫」という名前の男がいて、混乱が生じるという展開が続きます。落語の名作の一つで、多くの人が親しんでいるお話です。

すごいねえ。AIってのは「知りません」って言えないのかね。まるで『千早振る』のような珍解釈をしてくれた。まあ、これからどんどん学習して進化していくのでありましょうが、やっぱりネットの情報を鵜呑みにしちゃあいけないな、と改めて思いましたよ。


 

2023年2月23日木曜日

圓馬を慰める会

三代目三遊亭圓馬。八代目桂文楽が「芸の師」として終生敬愛した名人である。

明治15年(1882年)大阪生まれ。月亭都勇という落語家の父を持ち、7歳で初高座。笑福亭木鶴の弟子となって都木松を名乗る。12歳で立花家橘之助の弟子になり東京に出て、立花家橘松と改名する。立花家左近と改名後、初代三遊亭圓左の薫陶を受け、落語研究会の準幹部に抜擢される。明治42年(1909年)七代目朝寝坊むらくを襲名して真打昇進。しかし大正4年(1915年)、四代目橘家圓蔵とトラブルを起こし、橋本川柳と改名して東京を去り、旅回りを経て大阪に帰った。大阪で三代目圓馬を襲名。東京弁、大阪弁、京都弁を自在に操るスケールの大きな話芸で東西の観客を魅了し、多くの落語家に大きな影響を与えたが、晩年中風に倒れ、落語を喋れなくなった。

正岡容は一時、作家を辞めて圓馬の下で噺家修業をしたことがある。彼は「三遊亭圓馬研究」という文章の中でこう書いている。(以下、引用は旧字を新字に置き換えてある)

 

私が文学を放棄し、はなしかの真似事をしてゐたときの「噺」の恩師である。この人に私は親しく「寿限無」を教はった。さうして、一と言一と言を世にもきびしく叱正された。どんなに「小説」の勉強の上にも役立ってゐるであらうことよ—

 

ちなみに永井荷風は一時、五代目むらくの弟子になって夢之助を名乗った。荷風、容という異能の作家二人が、五代目、六代目の朝寝坊むらくの弟子になったというのは興味深い。

正岡の「三遊亭圓馬研究」は、『随筆寄席囃子』という本に収められている。この本は、初め昭和19年(1944年)、私家版として刊行された。私が持っているのは昭和42年(1967年)に復刻された限定800部のものである。私はこれを浅草の古本屋で見つけ、大枚5000円を払って買い求めた(今ではとても手が出ない)。後に河出文庫『寄席囃子 正岡容寄席随筆集』の中に一部が収録されたが、「三遊亭圓馬研究」は、その中に入っていない。

「三遊亭圓馬研究」はこのようにして書き出される。

 

けふ昭和十七年三月十日、中風に倒れて久しい三遊亭圓馬を慰める『明治大正昭和三代名作落語集の夕』を、桂文楽と私主催にて今夕上野鈴本に催す。幸ひに文壇画壇趣味界の人々の絶対侠援を得て前売切符はのこらずもうはけてしまった。これから鈴本へでかけるまでの時間を利用して、かねての懸案だった『圓馬研究』を起草する(後略)

 

昭和17年(1942年)310日、上野鈴本において、正岡容、桂文楽共催の落語会が行われた。病床にある二人の師、三代目三遊亭圓馬を慰めるための会であることが、この文章から分かる。

そして、この会のことが『八代目正蔵戦中日記』にも書かれているのだ。以下に引用する。

 

三月十日(火)

 上鈴に円馬を慰める会を正岡君主催でやる。『大正の思ひ出』を一席漫談で演る。楽屋に今輔がゐたが実に不愉快きはまる存在だ。

 会、終ってのち、ぴん助夫婦と正岡君と、文楽師は欠席で酒宴を催す。

 

馬楽時代の正蔵も、この会で高座を務めた。落語ではなく『大正の思い出』という漫談を喋ったようだ。彼の「随談」とでも呼ぶべきこういう噺は、しみじみと味わい深い。どんなものか聴いてみたかったな。

「楽屋に今輔がゐたが実に不愉快きはまる存在だ」とある。随分手厳しい。正蔵と今輔は、かつて改革派を立ち上げて頓挫した経緯がある。両人とも頑固一徹で知られた人物。その時の確執が尾を引いていたものとみられる。

正蔵も打ち上げに参加しているところを見ると、この会の手伝いをしていたのだろう。この頃正蔵と正岡は仲良しだったからな。文楽は打ち上げに参加しなかったんだ。

会は盛況のうちに終ったようだ。「圓馬研究」の末尾で正岡は言う。

 

以上を十日の会の日から書き出して、十四日のけふまで、休んでは書き、休んでは書きして来た。十日の会は上野鈴本お正月以来の盛況で戸障子までみなはづしてしまった。四百二十円と云ふお金が圓馬あて、おくれた。

 

また、次のような文章からも、当日、今輔が楽屋にいたことが分かる。

 

それから春錦亭柳桜の「与三郎」や「ざんぎりお瀧」の圓馬に伝はったのは、大看板柳桜一ところ柳派全体と疎隔し、三遊派に加盟してゐたことがあると、このほど当代古今亭今輔から聞かされた。

 

この辺りのことを、今輔は楽屋で正岡相手に滔々と語っていたのだろうな。

また、この「圓馬研究」には、圓馬の芸について、八代目文楽・三代目金馬をからめて次のように書かれている。文楽・金馬、二人の芸についての優れた批評にもなっていて興味深い。

 

一と口に圓馬の「芸」とは—と訊かれるなら、共に圓馬の教へを仰いだ今日の文楽と金馬とを一しょにして、もっともっと豪放な線にしたものと答へたら、やや、適確にちかい表現であらうか。文楽は「馬のす」「しびん」も写してもらひ、最も圓馬写しの噺の多い今日では第一流の名人肌の落語家であるが、圓馬の豪放な点は少しもつたはってゐない。豪放の中に、一字一画をもゆるがせにしない圓馬。そのきびしく掘り下げてゐる「面」の方が文楽へやや神経質につたはってゐるとおもふ。此は団十郎の精神が、蒼白い近代調となって吉右衛門の上に跡を垂れてゐるがごときであらうか。豪放の点は、むしろ金馬にのこってゐる。しかし、金馬には、人として圓馬ほど俗気を離れたところがない。云ひ換へると、いいイミの「バカ」なところがない。もっとあの人の全人格が簡単に、文化的にしまってゐる。それが圓馬までゆけてゐない所以とおもふ。

 

結局、圓馬は回復しないまま昭和20年(1945年)1月13日に亡くなった。正蔵の日記に、このことについての記載はない。 

2023年2月19日日曜日

続七代目橘家圓太郎襲名に関するあれこれ(『正蔵一代』から)

前回載せた七代目橘家圓太郎について、『正蔵一代』の方にも書いてあった。

こちらの方が分かりやすいので、それを基にまとめておこう。

もともと圓太郎は橘ノ圓の弟子で百圓といっていたが、師匠が京都で水害に遭って亡くなり東京に戻って馬楽時代の正蔵の内輪になった。

百圓は「弟子にしてくれ」と言ったらしいが、正蔵が「おれは弟子はとらないから、兄弟でもっていこうじゃねえか」と答えて、「内輪」ということになったという。

一方百圓は、作家、正岡容と親しくなる。正蔵は圓太郎襲名のいきさつについて、「正岡さんは、だれでも弟子だ弟子だって言ってた人だけれど、これもおれンとこの弟子だって、そう言って、それでまァ圓太郎を継がせた」と書いている。

正岡は1941年(昭和16年)、「ラッパの圓太郎」と呼ばれた四代目圓太郎をモデルにした『圓太郎馬車』という小説を上梓している。これは古川ロッパの一座で芝居にもなったというから評判もとったのだろう。「橘家圓太郎」という名前を正岡が差配できたのは、そういうところからだったんだろうな。

圓太郎の文楽入門について、正蔵は次のように書いている。


 そんなわけで、あたしのとこの内輪みたいなかっこうでいたわけですが、いつだったか、

「文楽さんのところィ行きてえ」

 じゃァてんで、一ぺん文楽さんのところへ行きましたよ。そしたら、あんまりやかましいんで、彼奴ァノイローゼみたいになっちまいやがって、それからずゥッと変なままなんだけど・・・また、うちィ引きとることになって、今日に至ってるんです。


そうか、圓太郎が自分から「文楽の弟子になりたい」と言ったのか。

前回の日記を見ても、正蔵は、圓太郎が文楽の身内になれるよう、実に親身になって働いている。おかげで正岡容といさかいを起こすことになってしまってもだ。

そうまでしてやって文楽の所に行かせた圓太郎は、あっさりと正蔵のもとへ舞い戻った。そして、それを何のこだわりもなく迎え入れる。正蔵という人は、本当に懐が深いなあ。


付記。

正岡容の『寄席囃子 正岡容寄席随筆集』(河出文庫)を見たら、「圓太郎代々」という文章の中に、以下のような一節があった。


 私に

南瓜咲くや圓太郎いまだ病みしまま

 の句がある。去年昭和十七年の春、七代目橘家圓太郎を私たちが襲名させ、たった二へん高座から喇叭を吹かせたままでいまだ患いついてしまっている壮年の落語家を思っての詠である。


これは前回の正蔵の日記のこの部分を指してのものではないか。


一日から出番があるのに円太郎が出演しないので不思議に思ってゐると、正岡さんの打った電報の返電にアタマガオカシイ。としてあったそうだ。原因はなんだか。どんな様子だか目下のところ私の所では皆無わからない。(S1854


とすれば、圓太郎はその後1年ぐらい復帰できなかったことになる。ただ、これは昭和18年の記事だ。でも正岡は「去年昭和十七年」と書いている。正蔵の昭和17年の日記を読み返しても、それらしいことは書いていない。正岡さん、年号間違えたかな。(私もよく間違うけれど)

2023年2月16日木曜日

七代目橘家圓太郎襲名に関するあれこれ

七代目橘家圓太郎という音曲を得意とする噺家がいた。明治35年(1902年)生まれ、昭和52年(1977年)76歳で没。昭和52年というと私は高校生になっていて落語ファンではあったが、圓太郎は知らなかったなあ。

大正14年(1925年)、初代橘ノ圓(浮世節の大看板、立花家橘之助の夫である)に入門するも、昭和10年(1935年)師匠夫婦が京都の水害で死去。巡業に来ていた蝶花楼馬楽時代の八代目正蔵の内輪になった。

『古今東西落語家事典』には、「前職が代用教員という変わり種」「学芸肌のところもあり、創作が縁で作家正岡容との交流もあり、その尽力もあって、昭和十八年四月、七代目橘家圓太郎を襲名した。ひところ桂文楽の門に列したが、しつけの厳しさに耐えかね、居心地すこぶる悪しとノイローゼ気味、再び林家正蔵門に戻って自在な地位を確保した」という記述がある。この辺りのいきさつが、八代目正蔵戦中日記』に出てくるのだ。

まず、昭和18123日の記事。

 

夜、正岡氏の宅を訪ね円太郎の件を談合したが、彼は私の家へ来ないから弟子にはしないなんて事を云はずに、弟子は持たぬ主義だからと弁明したのは宜かったと思った。

昼間からいやきのうから気のふさいでゐたような気分がこれで一掃された。

 

この時点で早くも「円太郎」と呼んでいる。前年の記事では「百円」で登場していて、内輪として働いたり独演会に出演したりしているが、圓太郎襲名に関する記述はない。その年(昭和17年)、正蔵は9月半ばから12月まで南支慰問に参加しており、その間に正岡の尽力があったのかもしれない。

この記事は圓太郎襲名が決まった頃か。この記述から詳細は分からないが、推察するに、圓太郎襲名に際し、内輪という曖昧な処遇にしておくのではなく、正式に弟子にしてはどうか、と持ち掛けられた正蔵が、「私は弟子は持たぬ主義だから」と辞退したのではないかと私は解釈した。ただ、正岡容が圓太郎を自分の弟子にすることを辞退して、正蔵に預けたようにも読める。編者は「円太郎を弟子にする件」としてあるから、正岡が辞退したということにしている。この直前の何日かをカットしているので、その辺りに何かそれを裏付けることが書いてあったのかもしれない。

結局、「雑務の方面では百円の円太郎を文楽師内輪にしてやる話。(S1834)」とあるように、圓太郎を八代目桂文楽門下にする案が浮上する。

そして3月8日、正蔵は正岡容と文楽の家に赴く。

 

正岡君と御徒町駅で落合ひ、文楽師宅を訪ひ正式に百円改め円太郎を弟子にして貰ふ話をすゝめ承諾してもらった。

 

3月17日には圓太郎を連れて黒門町へ。

 

御徒町の駅で百円。正岡。私と三人で落合って文楽師の家へ行く。正式に百円を入門させる事に話を進めてあるので今日はその当日だ。文楽会なので連れ立って本郷の志久本へ皆で歩いて行った。のんびりと。

文楽会で寄席へ出抜けになるまで遊んで了った。対談会へワリ出したりなどして!

 

「百円」と呼んでいるから、この時点ではまだ襲名前なのだろう。この日は「文楽会」の日で、正蔵は飛び入りで対談会に出演した。

順調に進むかと見えた百円の圓太郎襲名、文楽への入門に暗雲が立ち込める。どうやら協会に話を通す前に新聞にスクープされたらしい。3月15日の記事だ。

 

百円あらため円太郎のニュースが東京新聞へ出た。文楽さんが非常に気にしてゐるから根岸と貞山先生へ釈明して歩いた。

 

「根岸」は八代目桂文治、貞山は当時の落語協会の会長である。正蔵は文楽の意向もあり、この二人の所へ釈明に行く。ところが、これが正岡容の怒りを買ってしまう。

3月29日の記事。

 

二十八日、雨の中を新円太郎を連れて上鈴から予定順のとほり廻って歩く。

(中略)

正岡君から電話なので四谷の家を切り上げて娘を連れて訪れた。当人は病床に在って会はなかったが要件はメモになってゐて、文治さんの所へ強制的に容さんを連行しようとした事は怪しからんといふ意味ともう一ツは私独りが附いて廻った事は僭越と思ってゐるらしい。

 

「上鈴」とは上野鈴本のこと。正蔵はこの日、圓太郎とともに席亭への挨拶回りをしたものと思われる。

翌日、正岡に電話で呼び出され家に行くが、当人は病気で会えないという。その代わりにメモで、315日の行動についてなじられた。帰宅後、正蔵は正岡に当てて釈明の手紙を書いたが、この記事の末尾には「私を呼びつけての態度は病人とは謂へ愉快なものではなかったことは事実だ」と書いている。

3日後の41日、正蔵は圓太郎の挨拶回りのために正岡宅へ行き、当人に会うことができた。この日正蔵は「先方の云ふ事にも一理ある。殊に私に対する愛着は非常なものでこの点感謝する」と日記に書いた。

ところが2日後の4月3日はこんな調子だ。

 

正岡君の所へ行ってみたら、歌子さんは針しごとをしてゐるし、当人は三十八度二分の熱があるとかで会ってはくれなかった。

万事は明日うち合せをするとの事で帰ってきた。私は少なくも愉快ではない。

これが文楽さんならこんなにカルクは扱はないだろうと思ふと心外だ。

 

それまで、正蔵と正岡との仲は親密だった。『八代目正蔵戦中日記』の前半部分、二人はしょっちゅうお互いに行き来し、大いに飲み大いに語り合っている。しかし、圓太郎襲名の辺りで、どうもおかしな方向に向かっていく。

4月4日にはこんなふうに心情を吐露している。

 

正岡君、近頃の態度は、あまり親しすぎて却ってお互ひが敬愛出来ないのか。

私の方が崇敬しないのが悪いのか。

ほんとに暫く遠ざかった方がいゝのだと思ふ。

 

それでも圓太郎襲名披露の会の準備は進む。

 

二十二日、八王子に円太郎の会がある。

その打合せを文楽さんと相談して皆に通達した。(S18420

 

そして八王子の会は盛況に終った。

 

八王子の円太郎の会、晴天にて盛会裡に終る。扇遊さんと右女助君に口上を手伝って貰ったが旨く喋れなかった。こんな事にも修業が入る。

五打目の師匠左楽師のうまさが思ひ出された。(S18422

 

正蔵は口上を述べた。さぞ、ほっとしたことだろう(ちなみに五代目左楽は口上の名人として知られている)。しかし、そのまま順調にはいかない。

 

文楽さんの所でのはなし。

一日から出番があるのに円太郎が出演しないので不思議に思ってゐると、正岡さんの打った電報の返電にアタマガオカシイ。としてあったそうだ。原因はなんだか。どんな様子だか目下のところ私の所では皆無わからない。(S1854

 

今度は圓太郎本人がノイローゼになってしまったようだ。その原因は、この襲名にかかるごたごたにあったらしい。5月17日の日記に、正蔵は以下のように書いている。

 

文楽さんのお骨折で、新宿の高座済んだのち連れだって、正岡氏を訪ね、文治さんの宅同道云々の事に就いて謝罪してくる。

円太郎もこの事については一ト方ならず心痛して病気になって了った由だから、私が謝って正岡氏も快よくなり、円太郎も安心し。文楽会も無事に続けられゝばこんな結構なことはないのだ。(中略)但し私はどんなに偉くなっても決して他人は謝罪なんかさせないつもりだ。

 

この日、正蔵は文楽の仲立ちで正岡に謝罪し、一応和解した。とはいえ、彼の心の中のわだかまりは消えていない。それが、前回の記事にある文楽会での正岡の暴言で爆発することになるのである。

 

結局、正蔵と正岡の和解は昭和20年を待たねばならなかった。1月26日の日記から。

 

林伯猿氏の骨折りで、正岡氏と仲直りの会を若よしさんで催す。お立合に四代目と文楽さん。どっちも先輩だから私が東道の役(主)をつとめる。(中略)たいして言葉も交へずに、もうお互ひの気持ちはうちとけて一緒の路を帰り乍ら、旧友の二人になれてゐたうれしさは感謝していゝ事だった。林伯猿氏に御礼を申し上げる。

 

一方圓太郎はその後、「(文楽の)しつけの厳しさに耐えかね、居心地すこぶる悪しとノイローゼ気味、再び林家正蔵門に戻って自在な地位を確保した」という。

七代目橘家圓太郎について『古今東西落語家事典』はこう結んでいる。

 

賢人林家正蔵の懐ろの大きさにはつねに敬服しており、「正蔵トンガリ座」の主軸として柳家小半治、土橋亭里う馬という錚々たる野武士集団の一翼を担って、つねに楽しい噺家であった。人柄は至って温厚、「八王子の師匠」と若手にも人気があり、懇切丁寧なることこの上なかった。

 

デグチプロの出口一雄は、圓太郎に10万円の仕事を世話した時、本来はマネジメント料1割の1万円を取るところを、「圓太郎から1万取れるか」と言って、10万そのまま圓太郎にやったという。しかも、ギャラの支払いは銀行振り込みだったため、ポケットマネーから現金で手渡した。そういうことをさせる魅力が圓太郎にもあったのだと思う。

 

それにしても、稲荷町の人間の大きさはどうだ。落語協会分裂騒動の際、師匠圓生に捨てられた三遊亭好生に手を差し伸べたのも、八代目林家正蔵であった。

2023年2月13日月曜日

正岡容の暴言

高校の時に買った、『柳家小さん 芸談・食談・粋談』(興津要編・大和書房・1975年刊)という本があって、その中で、五代目小さんがこんな話をしている。

 

そうそう志ん生さんでおもいだしたことがある。まあ、いまだからはなすけれども、まだ小きん時代で、ちょうど召集のくる日だったかな、なんかの落語会で志ん生さんのつごうがわるくて、うちの師匠がいった。そしたら、その会の世話をしていた正岡容さんが、「小さんがきても、志ん生のかわりにならねえ」って、そういったって。それを、師匠の親戚の入谷の鳶頭が聞いて、「こういうことをいった。とんでもねえ野郎だ!」ってんだね。「あ、そうですか。どうして小さんが、志ん生のかわりにならねえんだ。そういう野郎、おれが張り倒してくる!」(笑)っていうと、鳶頭がおだてやがってね、「そうだ、そうだ」「おれ、あした、市川までいって張りたおしてくる!」(笑)そしたら、その日に召集令状がきた。あしたのお昼までに習志野へはいれ、って秘密召集。よかったね。バカだから、ほんとに乗りこんだかもしれない。()

 

後に川戸貞吉が『対談落語芸談』(1984年刊)の中で、その鳶の頭、小林貞治に確認すると、彼はこのように答えている。

 

それつァね。盛ちゃん(五代目小さん)思い違いです。盛ちゃんはこれから伸びる人だから、正岡容と喧嘩しちゃァ損だからッて、とめたんです、あたしは。むこう(正岡容)が偉いからじゃァないですよ。もうその前に新石町のお婆さんが、「五代目ンなるのァ盛夫だ」ッていってたんですから。

 

いずれにせよ、「小さん(四代目)は志ん生の代わりにならない」というようなことを正岡容が言い、騒ぎになったことがあったのである。

実はこの一件のことではないかという記事が『八代目正蔵戦中日記』にあった。それは昭和18627日のものだ。

 

文楽の会御本尊は欠席のまゝ四代目に助演一席。右女助に代演一席。お神楽も代演させて開演と相談まとまる(二十五日)。

正岡容さんが挨拶に上った頃から私の気分は俄然重ッくらくなって、遂に憤懣の極致まで行って了った。

文楽さんは菊五郎だ。それの病気は吉右衛門の志ん生に『らくだ』か何か長く演らせたかったといふのが挨拶の主意だったのだ。

四代目に代演を頼んだ私の立場は実に情けないものになってしまったし、第一小さん師に対して申し訳がない。

この場合お神楽など提案して準備した事などさらに下らないものになって了った。

大体この場合、文楽さん休演を機会に、中止してしまへば問題はなかったかもしれない。併しいろんな事情もあってさう簡単には決定出来なかったのだ。

どうにも我慢出来なくなった私は甚だ大人気ない事だが、血が逆流して前后の見さかひを無くしてとうとう高座へ上ってこの激情をブチまけてしまった。

私は自分のこの態度を良しとするものでは毛頭ない。商売上の高座以外には特殊の会から一切身を退く覚悟である。偉い人との交遊など勿論やめる。

 

小さんの言う「なんかの落語会」というのは、昭和18627日に行われた八代目桂文楽の落語会。この会に文楽が休演し、その代演として四代目小さんが出演した。

文楽休演のいきさつも、正蔵は6月24日の記事で書いている。

 

文楽さんが昨夜花月の高座で喋れなくなったので休席すると云ひ出した。

で、私が代演する事になった。

文楽会も演れぬといふので黒門町の宅へ行って善后策を講じる。

結局四代目に一席スケてもらってあとは右女助と二人でおかぐらを演るといふ事に決定した。

 

文楽が「喋れなくなった」理由は書かれていない。喉の調子か、または精神的なものか。文楽は神経質な人だったから、こういうこともあったのだろう。

正蔵は、正岡とともにこの会の世話人をしていたようだ。

突然の文楽休演に正蔵は後処理に奔走し、四代目小さんに代演を頼んだ。前日に「相談がまとまった」というから、正岡もまるで知らなかったわけではあるまい。しかし、正岡は挨拶で、客を前にして「本当は志ん生に代演をさせたかった」と言ってしまったのである。それは正蔵の顔を潰し、四代目に恥をかかせることに等しかった。少なくとも正蔵はそう思った。

正蔵は憤慨し高座に上がって正岡に猛然と食って掛かった。そうして、会の世話人を辞め、正岡と絶交した。

 

五代目小さんは「小さん(四代目)は志ん生の代わりにならない」ということについて、「“価値がない”ッていうんじゃァないんだよ。“芸風が違うから代わりにならない”ッていったに違ェねえんだよ」と言っている。これは、興津要の「そういう意味(志ん生と四代目では芸風がちがう)なんでしょうね。悪意じゃないとおもうんです」というフォローを受けてのことだな。

でも、『八代目正蔵戦中日記』を読んだ印象だと大分違う。正岡さんの正直な気持ちかもしれないけど、ああいうことを、出演者を前にして、お客に言っちゃ駄目でしょ。四代目はそれを聞きながら、どんな気持ちでいたんだろう。

 

もうひとつ付け加えておけば、五代目はその日に召集されたのではない。正蔵の昭和18121日の日記に「小きんのところへ秘密召集の令状下る」と記してある。 

2022年12月28日水曜日

『真景累ヶ淵・お久殺し』

先日、父と常総に出掛け、『真景累ヶ淵』ゆかりのお寺を見てきた。

一つは『真景累ヶ淵』の下敷きとなった怪談の主人公、累の墓所がある法蔵寺、もう一つは累の祟りを鎮めた祐天上人がいた弘教寺である。

累が夫与右衛門に殺害されたのが、法蔵寺に程近い鬼怒川のほとり累ヶ淵。そして、私が持ちネタにしている「お久殺し」で、お久が新吉によって殺されるのが、やはり累ヶ淵付近なのである。

 

「お久殺し」は『真景累ヶ淵』の中では比較的地味な場面である。直前には名場面「豊志賀の死」がある。どうしても、その後日談としての扱いを受けることが多い。以前、あるベテランの落語家が鈴本で『真景累ヶ淵』の続き物を演じた時も、この「お久殺し」を「豊志賀」の付け足しのような感じ(実際、そんなことをマクラで喋っていたし)で、ごくあっさりとやっていた。

 

私はそれが不満だった。「お久殺し」は重要な部分だと思う。何と言っても、ここで新吉は初めて殺人を犯すのだ。この後彼は悪の道に転げ落ちていくのだが、この時点ではまだ、人間に甘い所はあるものの、基本的に善人だったと思う。『真景累ヶ淵』全体から見ても、一大転機となる場面なのだ。

 

それに、お久という娘が何とも哀れだった。継母からの虐待から逃れ、新吉とともに下総羽生村で新生活を始めようという道行の途中、愛する新吉の手で殺されてしまう。救いがない。全くない。

お久のためにも「お久殺し」を、きちんとした一席の噺にしようと、私は考えたのだ、大それたことに。

 

下敷きにしたのは、岩波文庫、三遊亭圓朝作『真景累ヶ淵』。あえて落語家の音源は聴かなかった。

豊志賀と新吉の馴れ初めから豊志賀の死までは、あっさりと地の語りで済ませた。豊志賀の死の直前、新吉とお久が池之端の寿司屋の二階で語り合う場面もいいのだが、後のことを考えて割愛した。

物語の幕開けは、豊志賀の墓前から。そこでお久は継母の虐待を打ち明け、新吉に下総へ連れて逃げて欲しいと懇願する。私はここで新吉に「お前さんのことは、あたしが守る」と言わせた。新吉は本気でお久を守ろうとしたのだ。

そこから二人は手に手を取って駆け落ちをする。その晩泊った松戸の宿で契り。翌日、水海道から羽生村を目指す頃には、もう夜になっていた。

・・・あの辺の鬼怒川には何度も行った。そこから見える筑波山の形まで分かる。

やがて、雷鳴がとどろき雨が降り出す。羽生村へと土手を下りる道で、お久は足を滑らせ、土地の者が置いていった鎌で膝を突き刺してしまう。応急措置をして歩き出すが、新吉は豊志賀の幻影を見て逆上し、その鎌でお久を殺してしまう。我に返った新吉が、土砂降りの中、呆然と立ち尽くす場面でエンディングとした。

本来はその後、新吉が土手下の甚蔵という土地のならず者に出会う場面で切れ場となる。圓朝自身もそこで切っているのだが、私はカットした。あくまでお久と新吉に焦点を当てたかったのである。

私は、雨に打たれる新吉にこう呟かせた。「何でこうなるんだ・・・。俺はお前を守りたかっただけなんだ・・・」。

 

お久が新吉を誘ったように演じる人もいる。新吉を不実に描く人もいる。だけど、新吉は豊志賀を懸命に看病していたし、豊志賀を置いて家を飛び出したのだって、彼女の嫉妬からくる執拗な責め事に対して感情を爆発させたのだ。新吉は、お久の境遇に心から同情し、お久の純愛に応え、新たな土地で再出発することで、豊志賀の死から立ち直ろうとしたのだ。私はそう解釈した。

甘いかな。でも、そうでなければ、お久がかわいそうじゃないか。そう思って、私はこのような噺にした。たとえ、その悲劇的な結末から逃れ得なかったとしても、である。

法蔵寺、累の墓所の案内板

累の墓所


2022年10月15日土曜日

三遊亭圓窓についての私論

 三遊亭圓窓のことが気になっている。

彼はアマチュア落語の指導に熱心に取り組んでいた。私の落語仲間にも彼の指導を受けた人は多い。圓窓の60代半ばから指導を受けていたという人もいる。

三遊亭圓窓は、特にその晩年、プロよりもアマチュア落語の方に居場所を求めていたような気がする。YouTubeでの発信はアマチュアの稽古用のように思えたし、YouTubeチャンネル「丈熱Bar」におけるロングインタビューも、相手は落語も演じる俳優であった。

なぜだろう。

 

私が最初に落語を覚えたのは中学生の頃だった。人前で初めて演じたのは中学3年の卒業式の前日、謝恩会でのことだった。圓窓のテープで覚えた「寿限無」を喋った。バカ受けだった。66名の同級生及び教職員は、腹を抱えて笑ってくれた。私は「寿限無」笑いをとれる噺だと思ったが、後に落研でこの噺を覚えて高座にかけた時はちっとも笑いが来なかった。

脇道にそれた。だから圓窓は私にとっては特別な人だった。上手いとずっと思っていた。いや、過去形ではなく今も上手いと思っている。でも、志ん朝や談志や小三治のように、熱くなれなかった。

なぜだろう。

 

圓窓は上手い。三遊亭圓生門下で先輩を飛び越して真打になったのは、圓楽、圓窓、圓弥、圓丈の4人である。あの芸に厳しい圓生の眼鏡にかなったのが、彼らだったと言ってよい。そして1978年の落語協会分裂騒動の時、圓生・圓楽が真意を明かし幹部として扱ったのが圓窓と圓弥であった。圓楽、圓窓、圓弥、圓丈と並べると、上手さだけで言えば、私は圓窓がいちばんだと思う。

 

圓窓に対する評価を、手持ちの落語雑誌を開いて調べてみた。

まずは1973年発行、『別冊落語界 現代落語家集大成』から。沢田一矢の「生きている落語と共に」という文章を引用しよう。

 

 稽古に埋没していた二ツ目の吉生が、多くの先輩を飛び超えて真打に昇進したとき、つづいてさん治が同じように小三治を襲ったとき、落語ファンはこの二人に瞠目し、古典のホープ誕生ともてはやし〈好敵手〉のイメージを冠した。その後も二人は、努力に裏打ちされた芸の〈過程〉を着実に歩んでいる。

 

当時の圓窓に対する高い評価が見て取れる。

そして圓窓は「ただ教えてもらった落語を上手く喋るだけの落語家」でもなかった。それは、次の記述から分かると思う。

 

「噺家に大切なことは、出演者であると同時に演出家であるという認識だ。なぜなら、つねにその時代に合った演出でなければ落語は古臭くなって滅びてしまうからだ」

 これが円窓の持論である。

 だからさげの改良という点でも、つまり落語を生きている状態に保たんがための考えから、現代人に解釈されにくいものや、より良くなるであろうと判断したものには意欲的に手直しの姿勢を見せている『唐茄子屋政談』『居残り』をはじめ、いわゆる忘れられかけていた“掘り出し物”と対するときなど、さげ一つで夜を徹するほどの腐心ぶりだという。そんな彼に、

「円窓はさげを改悪している」

 などという雑音もはいってきたことはあるらしいが、なに結果の良し悪しは聴く側の判断にまかせればよいのであって〈名作の悪さげ〉も少なくないこと、大いに前向きであってもらいたい。ただし、一人よがりは禁物。一人でも多くの意見を聴き、雑音にも耳を傾け、点数少なきときは勇気と謙譲心が必要であることはいうをまたない。

 

考えてみれば師匠の鋳型にはまった芸が売れるはずがない。圓生は認めなかったが、さん生(後の川柳川柳)も圓生の型からはみ出したからこそ売れた。似すぎて嫌われた好生(後の春風亭一柳)は悲劇だったな。圓窓は師圓生を敬愛しながらも、しっかりと自分を持った落語家だったと言える。

 

次は『落語1994年・32号』、平井知之という高校の先生の「円窓—おじさん面の少女」という文章から。

平井氏は、鈴本演芸場での圓窓のトリ席での演目を挙げてくれている。92年の二月中席では『叩き蟹』『匙加減』『竹の水仙』『甲府ぃ』『くしゃみ講釈』『戴き猫』『猫定』『鼓ヶ滝』、93年は『叩き蟹』『匙加減』『竹の水仙』『五月幟』『洒落小町』『蚊いくさ』『野田の宿帳』(新作)が演じられた。お馴染みの演目もあるが、なかなか耳にすることができない珍品も多い。「もう一度聴きたいな」と思っても、容易に巡り合えない、圓窓は移り気な少女のようだ、というので「おじさん面の少女」。

氏はこんなことも書いている。

 

例えば『子ほめ』では「半分(ただ)でございます」という通常のセコい下げは使わない。柳枝の型だそうだが、最後に当意即妙の下句付けをする主人公は、単なるお世辞猿真似間抜け男ではなく、言葉のずれを楽しむ洒脱な好人物に造形されている。

 

工夫の人、圓窓の面目躍如と言ったところか。

でも、私の本心を言えば、「子ほめ」が楽しいのは「お世辞の概念がない男」が本気で間違うところにあって、「言葉のずれを楽しむ洒脱な好人物」では面白くならない。

 

次は『落語1999年・35号』、「円窓に“かなしさ”をみる」(山本明子)より。

 

「伝統芸能保存革新一手引受所」の看板を出しているかのごとき八面六臂の活躍、高座での常にきちんと筋立った話しぶりは、「落語教育担当者」のような印象である。

(中略 「円窓五百席」「おもしろ落語図書館」『猫の定信』の宙乗り演出、野村万之丞との「落語狂言会」、パソコン通信による発信、「落語の日」設定準備など、圓窓の近年の業績が列挙される)

 が、それらはすべて「落語は伝統芸能である」「だから保存しなければならない、それには革新も必要である」という前提によってたった明瞭さがあって、どこかつらい。いつの時代も根っこで変わらない人間の普遍性でもって、落語はのらりくらりと生きていくような気がするからか。円窓は立派すぎる。

 

圓窓の活躍の数々が挙げられ、でも、しかし、筆者は「苦しい」「かなしい」と書く。どうしてだろう、私はそれにためらいながら共感してしまう。

 

最後は落語2003年・36号』、「花井伸夫版東京落語家名鑑」より。

 

噺家としては、こだわり派のマイペース型を“強いられた”苦労派の大家とも言えるだろう。78年春に故三遊亭円生が中心となって起こした落語協会分裂騒動によって、師・円生と行動を共にしたが、僅か数日にして円生一門だけの別派行動(落語三遊協会)へと卑小化。翌年に円生が急逝して、さらに一番弟子・円楽一門だけが現在の円楽一門会という形で動くこととなり、落語協会への復帰という経緯を辿った。

 当時は古今亭志ん朝、立川談志、三遊亭円楽、故春風亭柳朝、柳家小三治、月の家円鏡(現橘家円蔵)らと並んで、時に“「四天王”の一人に数えられたほど。テレビの人気番組「笑点」などへもレギュラー出演し、古典の本格派としても名を馳せていたが、自ら望んだのではない曲折以後は独自の地位、人気の中で“我が道”を広げてきたと言えようか。その意味では“落語一筋”にこだわって独自の境地を開拓してきた噺家である。

 

花井伸夫の筆は、これまでに挙げたものとは違い、どこか突き放したような感がある。あるいは客観的な記述というべきか。「こだわり派のマイペース型を“強いられた”苦労派の大家」「自ら望んだのではない曲折以後は独自の地位、人気の中で“我が道”を広げてきた」などの言葉が苦い。

 

そうだ。花井氏も触れているが、落語協会分裂騒動は圓窓にも深い傷を残した。圓丈が書いた『御乱心』の中で、圓窓は圓楽の下の鬼軍曹のような存在として描かれている。

圓生と圓楽は、一門が協会を離脱し、新協会を設立するということについて、弟子たちには黙って話を進めていた。知らされていたのは圓窓と圓弥。どちらも圓生の眼鏡にかなった芸の持ち主で、一門の幹部扱いだった。一門離脱、新協会設立を知らされ動揺する圓丈らに向かって、師と行動を共にするよう恫喝するのが圓楽と圓窓だった。(温厚な圓弥はそういうことはしなかった、いや、できなかったか。)

組織に例えれば、一般職から管理職へ登用されるとあって、圓窓も頑張ってしまったのだろう。この年になれば、そういう気持ちは分かる。しかし、それは他の弟子たちとの亀裂を生んだ。しかも圓生が死に、その後は圓楽一門のみが独自行動に走り、他の弟子たちは協会へ復帰することになる。圓窓も圓楽一門に入ることはせず、協会に復帰する。復帰にあたって出戻り組は香盤を下げられた。以前、小三治の上にいた圓窓は、馬風の下まで下げられた。圓丈らは圓弥を中心に一門としてまとまろうとしたが、それも協会によって禁じられた。この辺りの経緯を指して、花井は「自ら望んだのではない曲折」と呼ぶのだろう。

 

圓丈は『落語家の通信簿』の中で、圓窓について次のように書いている。

 

 圓窓師匠と言うと、若い落語ファンからは「知らない、誰その人?」って聞かれそうだが、円丈の兄弟子で、1960年代には小三治(当時、さん治)・圓窓(当時、吉生)と並び称され、師圓生に認められた抜擢真打だ。スゴイ師匠なのだ。

 (中略)

 圓窓師の今の評価は、小三治師と比べるとかなり低い。でも、普通の古典を演じると、けっこうスゴイ!

 

圓丈もまた、圓窓に対する評価が実力に見合わないことを認めている。

圓丈は、この文の最後でこう言う。


 それより、圓窓兄も七十代、最後に今一度、古典落語の王道ネタでパッとひと花咲かせて、圓窓ここにありと見せてほしい。そうなったら、いつでも「圓生」を継いでください。

 

私ももろ手を挙げて賛同する。しかし、もう圓丈も圓窓もこの世にはいない。

今になって悔いる。なぜ、私は圓窓が生きているうちに、もっと彼の落語を聴かなかったのだろう。なぜ、私はもっと彼を積極的に評価しなかったのだろう。圓窓については、「なぜ」ばかりが積み上がる。もちろん、そこには理由があるのだが、そこを越えての「なぜ」なのである。

 

20年以上前、池袋演芸場で圓窓がトリをとる芝居を見に行った。三升家小勝が代バネで、客を高座に上げて『桑名舟』を演っていた。私の圓窓について心に残っている思い出の中で、圓窓は落語を演っていない。なぜなんだろう。

2022年10月1日土曜日

北海道からの海の幸、円楽が逝った

昨日、北海道の海の幸が届いた。今回は秋刀魚をたくさんいただいた。

早速、八海くんに電話をする。

「いやあ、孫が生まれたんであれこれ選んでいる余裕がなくて、今回は秋刀魚だけだ」とのこと。6月に娘さんが出産したのだという。

「目の中に入れても痛くない、っていうけど本当だな。本当にかわいい」と、もはやおじいちゃんはメロメロだ。

いずれ引退をしたら娘さんの暮らす横浜に出てくるつもりだ、と言う。

「横浜に寄席があるんだって?」と八海くんが訊く。

「にぎわい座。小文治さんも出るらしいよ」

「そこでアルバイトをしながら余生を送るというのはどうだ」

「おっ、いいな、それ」

などという話をして、お互いの健康を祈って電話を切った。 


六代目三遊亭円楽師が亡くなった。72歳、肺がんだったという。

1981年、楽太郎のまま真打昇進。六代目三遊亭圓生一門が落語協会を脱退し、圓生死後、直弟子たちは協会に復帰したが、五代目圓楽一門はそのまま独自の道を歩いていた。だから、楽太郎の落語を寄席で聴くことはできなかった。しかし、その才気あふれる芸は、我々落研部員も注目をしていた。

当時聴いた噺では『道具や』が思い出深い。ここで楽太郎は「知的な与太郎」という新機軸を打ち出した。

「そこを行って、ぶつかって右だよ」「ぶつかって右、ぶつかって右、どしーん、ぶつかって右」「ほんとにぶつかりやがった」というギャグは秀逸だったな。

彼が笑点メンバーになったのは、1977年、二つ目で楽太郎を名乗っていた27歳の時だった。

「笑点メンバー」を落語家としてのステイタスシンボルにしたのは、この六代目円楽と桂歌丸だったように思う。彼らは「笑点」という看板をとても大切にした。それは一般的に知名度の低い芸術協会や、寄席に出演しない圓楽一門会の落語家にとっては、極めて有効なカードだった。笑点メンバーをセットにした落語会は全国で開かれ、それは彼らの落語家としての評価を、幅広い層の人々へ定着させるのに大いに貢献した。私が地元で彼の落語を聴いたのも、当時は木久蔵だった林家木久扇との二人会だった。

それから円楽は「博多・天神落語まつり」などのプロデューサーとしても活躍。異なる団体の落語家のつなぎ役として手腕を発揮した。これは特筆されるべき彼の功績だったと思う。

また、歌丸との信頼関係をもとに、圓楽一門会の落語家が芸術協会興行の寄席に出演できるようになったのも大きい。

落語界全体のために汗をかいた落語家、それが六代目三遊亭円楽だった。

晩年は七代目三遊亭圓生襲名に執念を見せた。圓生という名前をどうしてもまた世に出したい、という思いは、やはり三遊亭本流としての矜持がそうさせたのだろう。ただ、鳳楽・圓窓・圓丈の圓生襲名争いがあり、円楽が圓生襲名を目指せる状況になった頃には70歳近くになっていた。肺がん、脳腫瘍、脳梗塞と次々と病魔が襲い、その度に復帰を果たしたが、肺がんに倒れた。軽い肺炎を起こし入院したが、急に容態を悪化させたのだという。無念の死だったと思う。

先代のような押しの強さはなかったが、それがかえって私には好感が持てた。洗練されていて、それでいて男っぽい語り口。達者な人だった。

六代目三遊亭円楽師匠のご冥福を祈る。

自分が青春時代、若手だった人の死は、やはり寂しい。


ちょっと前の夕焼け。

2022年9月19日月曜日

台風接近、三遊亭圓窓の訃報

朝、グラノーラ、牛乳、魚肉ソーセージと卵の炒めもの。

台風接近中。さーっと雨が降ったり、かっと晴れて真夏のように暑くなったり、忙しい天気。

彼岸花がきれいに咲いているので、朝のうちに撮りに行く。



妻と買い物。石岡のサンキでソファーのカバーを買う。豆ちゃんが母屋のソファーを引っ搔いてぼろぼろにしてしまった。ソファーは買えないので、カバーで勘弁してください。

昼はピザトースト、冷製スープ。旨し。 

午後、荒れた天気になるが、それも長くは続かなかった。妻と夕方ビール。


夕食はたこ焼きでビール、酒。食後に妻と白ワイン。ワインは昨日買った檜山酒造のもの。地元産の巨峰を使っている。すっきりとした味わい。旨し。やはり昨日買ったブドウをつまむ。


朝刊に三遊亭圓窓の訃報が載った。「15日、心不全で死去、81歳」とある。

もうずいぶん前から寄席には出ていなかった。アマチュア落語の指導に熱心で、私の知り合いでも、梅八さんを筆頭に指導を受けた人は多い。

2010年には、七代目三遊亭圓生襲名騒動でマスコミを騒がせた。五代目圓楽が自らの惣領弟子、鳳楽に圓生を継がせると宣言したのに対抗し、圓窓が「遺族の意向は自分にある」と言って襲名に名乗りを上げたのである。(この辺りの事情は圓窓のブログに詳しい) 果ては「圓生の直弟子は自分だ」と圓丈も参戦。三つ巴の泥仕合になり、圓生襲名は沙汰止みになった。

私が最初に落語を覚えたのは中学生の時だった。圓窓の「寿限無」をテープで覚え、卒業式前日の謝恩会で体育館のステージで演じた。子供心に「圓窓は上手い」と思っていた。

圓窓といえば「五百噺」でも有名だ。意欲的に埋もれていた噺を掘り起こし、ネタを増やしていった。ただ、これには賛否両論あって、埋もれるには埋もれるだけの理由があり(面白くないとか現代の価値観に合わないとか)、それを手掛けることで、かえって芸の上達には遠回りになるのではないか、という声もあった。私も、寄席でさして面白くもない民話風の噺を聞きながら、「上手いんだから定番の落語を演ってくれないかなあ」と思ったことがある。

私の印象では、志ん朝、談志、圓楽らの少し下の世代、柳家小三治、入船亭扇橋、桂文朝らのグループにいた。この人たちも圓窓を最後に、皆、鬼籍に入ってしまったか。

小三治没後の『ユリイカ・特集柳家小三治』の中で、特集記事の巻頭を飾ったのが、圓窓の「小三治のこと」という追悼文だった。彼らの青春時代をしみじみと追想する、胸に迫る文章だった。

三遊亭圓窓師匠のご冥福を祈る。

2022年8月27日土曜日

三遊亭金翁(四代目三遊亭金馬)師匠を悼む

三遊亭金翁師匠が亡くなった。93歳。就寝中に呼吸が止まっていることに家族が気づき、死亡が確認されたという。まさに、眠るが如き大往生だった。

私としては四代目三遊亭金馬としてしか彼を認識していない。2020年、息子に金馬を譲り、自らは隠居名の金翁を名乗った。

師匠三代目金馬が文楽・志ん生に並ぶ名人で強烈な個性の持ち主であったものだから、ずっと「先代は上手かった」と言われ続けていた。

とはいえ、四代目も売れっ子だった。小金馬の時分にNHKの「お笑い三人組」で、一龍齋貞鳳、江戸家猫八とともに人気者になった。ドラマなんかにもよく出ていて、でも、そのことは落語の方にはマイナスに作用していたように思う。私は若い頃、この人の軽演劇的な匂いが、あまり好きではなかった。

所属していた落語協会では、あまり優遇はされていなかったようだ。三遊亭圓丈著の『落語家の通信簿』から引用してみる。


 しかし、どういうわけか、金馬師匠は落語仲間のウケが悪い。「やっぱり、金馬は先代に限るね」「ホント先代はうまかった」などと言われる。

 金馬師匠は落語協会に途中入会したために、ヨソ者扱いされる。途中入会と言っても、もう四〇年になるが・・・。落語家の世界は、極度にヨソ者を嫌う傾向があるんだ。

 気の強い談志師は、楽屋で金馬師が隣に座っているのに、マジで「おう、オレが金出すから、帰ってもらえ」と露骨に嫌味を言っていた。 


出口一雄が持っていた、昭和46年度(1971年)の『芸人重宝帳』には、落語協会の香盤順とは別に欄外に載っている。ここからも、金馬が「ヨソ者」だったということが分かる。

四代目金馬は、師匠が東宝名人会専属であったために、他の寄席で修業はしていない。小金馬としてテレビで売れ、真打に昇進してから昭和39年(1964年)、三代目金馬が死んだ年に落語協会に加入、四代目金馬を襲名した昭和42年(1967年)落語協会常任理事に就任した。(ウィキペディアによる)

こういう経歴を見ると、落語協会の同年代の落語家が「ヨソ者のくせに」と思うのも無理はないと思ってしまう。

それでも、四代目は黙々と落語に取り組み、寄席の高座に上がり続けた。私が学生時代、寄席でよく見た落語家の一人が、この四代目金馬であった。

大西信行の『落語無頼語録』には「じり足の、金馬」という文章が収められており、四代目を評価している。


私は年を取ってからこの人が好きになった。初席で『七草』を聴くと、本当に正月が来た気分になった。夏休みに鈴本で聴いた『唐茄子屋政談』はよかったなあ。

金馬をけなす気持ちは分かるが、でも金馬のよさが分からないのはまだまだ青いなあ、と私は思う。四代目金馬もまた、私にとっては大切な落語家だったのだ。


三遊亭金翁師匠の冥福をお祈り申し上げます。

2022年8月20日土曜日

「酢豆腐」雑談

 この前の「福の家一門会」では、私は「酢豆腐」をかけた。

学生時代は同期の世之助くんのネタだった。同期のネタはやらない。それは、我が落研の不文律であった。

先輩のネタはやってもよかった。むしろ、皆、先輩のネタを好んでやっていた。「酢豆腐」は二代目紫雀さんのネタだった。紫雀さんの噺は志ん朝そっくりの名調子。すごく面白かったから、世之助くんもやりたかったのだろう。世之助くんの「酢豆腐」も明るくって好きだったな。

私はヘソマガリだったから、先輩のネタもあまりやっていない。「豆や」ぐらいか。あれは圓漫さんのネタだったな。

ちなみに私が現役の頃の人気のネタは、「無精床」、「蜘蛛駕籠」、「寄合酒」、「つる」、「猫と金魚」、「千早振る」、「堀の内」など。それぞれの代で誰かやっていたと思う。


福の家に入って、同輩の持ちネタを解禁した。弥っ太くんの「長短」も覚えたし、今回は世之助くんの「酢豆腐」もやってみたのだ。(もういいだろ?)

「酢豆腐」といえば、我々の世代では古今亭志ん朝の名演が耳に残っている。クスグリもそんなに凝ったものじゃないんだけど、志ん朝がやると、文字通り客がひっくり返って笑うんだよな。私も上下の確認のため志ん朝のDVDを見たけど、見ててやんなっちゃった。あんまりすごくて、「おれがわざわざやんなくてもいいんじゃないか」と思ってしまったのだ。それでひと月ぐらい稽古も出来なかったよ。

でも、折に触れてぶつぶつやっているうちに、あの暑気払いに興じる有象無象を演じるのが、たまらく楽しくなった。そういや、おれたちも学生時代、たまり場のアパートに集まってはつまみを持ち寄って安酒を飲んで騒いだっけ。仲間同士、いたずらをしながら、くだらないことで盛り上がっていたっけ。ああいう気分でやってみたら、おれの「酢豆腐」ができるんじゃないか、と思ったりもしたのだ。

で、やってみたよ。やってて楽しかった。客前でやり慣れてくれば、何とかなりそうだ。


この間、八代目桂文楽の「酢豆腐」を、久し振りにCDで聴いた。

黒門町の最大の功績は、あの若旦那だろうな。あれは文楽が、実在の芸人、三遊亭円盛という人をモデルにして造形したものだ。三遊亭圓盛、通称「イカタチ」。「イカの立ち泳ぎ」からきている。奇人として知られ、それがぴたり「酢豆腐」の若旦那にはまった。以後、「酢豆腐」の若旦那は文楽のものが基本形になっている。


三遊亭圓盛について、『古今東西 落語家事典』(平凡社)には、次のように書いてある。

本名、堀善太郎。明治2年1月2日生まれ、初め梅松亭竹寿門人、梅の家小竹を名乗る。後、遊七(三代目圓橘)門に転じ七福。明治30年頃、二代目小圓朝門で圓盛となる。「イカタチ」というあだ名と奇人ぶりが有名。志ん生の最初の師といわれる。没年は未詳だが、大正前半まではいたらしい。


文楽もまた有象無象の若者たちを、実に楽しそうに演じているんだよなあ。実際、怒るべきところも笑ってさえいるのだ。

京須偕充が『志ん朝の落語6』の「酢豆腐」の解説で、志ん朝の方は「若い衆一同が職人らしい。全員が遊び人めく文楽より現実味がある。」と書いている。なるほど。

確かに文楽の方は、いちいち皆、末枯れている。素人じゃあない。

ここで私は、文楽が若手の頃、落語家仲間で「幸先組」という組合を結成していたことを思い出す。メンバーは春風亭柏枝(六代目柳橋)、柳家さん三(三代目つばめ)、寿司家弥輔、六代目柳家小三治、春風亭梅枝(柳窓)、そして翁家さん生から馬之助になる頃の文楽だった。当時、文楽は二十代半ば、いわば幸先組は、若者の有象無象の集団だった。とすれば、「酢豆腐」の若い衆を演じる時、文楽は彼らとの日々を思い出してはいなかったか。そうなると「全員が遊び人めく」のも無理はない。

中でも春風亭梅枝と文楽はウマが合ったという。梅枝も奇人であったようだ。もしかしたら、「あります、あります」「そりゃあ私は銭はない、銭はないけど刺身は食う」の男は梅枝だったのではないか、と想像すると楽しくなる。

2022年5月27日金曜日

三代目林家九蔵襲名騒動からの、彦六批判記事を読んだ

前回の記事を書くのに参考にしようと、ネットで「正蔵 襲名問題」で検索したら、林家九蔵襲名問題の記事が続々と出てきた。

笑点メンバーの三遊亭好楽は、もとは八代目正蔵門下で九蔵を名乗っていた。師匠の死後に五代目圓楽門に移り、三遊亭好楽となった。

好楽は、2018年、弟子、好の助の真打昇進に際し、思い入れのある林家九蔵を襲名させようとする。八代目正蔵門下で、同じ笑点メンバーの林家木久扇の了承を得、九蔵襲名を公表し、配り物も用意した。そこで当代正蔵から待ったがかかった。林家を名乗るからには、林家の止め名である正蔵の承認が必要である、ということだ。正蔵及び海老名家との話し合いの結果、結局この襲名は実現しなかった。

八代目正蔵は、自分の名跡が一代限りの借り物であるところから、弟子が真打になる時には林家以外の亭号にした。惣領弟子に五代目春風亭柳朝を襲名させた時には、春風亭の総本山、六代目柳橋にきちんと了解を得ている。そう考えれば、好楽のやり方はいかにも脇が甘い。

 

この騒動で、彦六の八代目正蔵について、とばっちりのようなとんでもない記事が書かれていたのを見つけた。さすがに落語ファンは相手にしなかっただろうが、これを見つけた若い人に真に受けられても嫌なので、ここできちんと批判させていただく。

 

これはリアルライブというサイトに載った、「三代目・林家九蔵襲名騒動で噴出した海老名家「積年の怨念」」(週刊実話 2018.3.24)という記事である。

まずは、この記事では、正蔵側が九蔵襲名を許さなかった理由として、次の証言を挙げている。

 

「好楽の師匠で八代目・林家正蔵を一代限りで襲名した彦六さんへのわだかまりがあるんです」(事情を知る演芸関係者)

 

ここで言う八代目正蔵襲名のいきさつはこうだ。

 

「権力志向が強かった彦六さんは、五代目・柳家小さんの名を弟弟子の九代目・柳家小三治に取られたことから、当時、空き名跡だった林家正蔵を一代限りの約束で海老名家から譲ってもらったとの話が伝わっています」(ラジオ落語番組関係者)

 

さらっと「権力志向が強かった彦六さん」と書いているが、私たちが知る彦六ほど「権力志向」と程遠い人はいなかったと思う。何しろ、六代目圓生に請われるまま、香盤順を譲ったくらい。共産党支持者であったこともよく知られている。

次のエピソードはもっとすごい。

 

「九代目・正蔵が、懇意にしているビートたけしに、彦六さんが根岸の海老名家に来て、日本刀を突き付けて名跡を迫ったというエピソードを語ったことがある。彦六さんは浅草の稲荷町に住んでいたことで“稲荷町の師匠”として親しまれていましたが、一方で喧嘩っ早いことから“トンガリの師匠”と呼ばれていましたからね。かなり強引だったことは間違いない」(落語雑誌編集者)

 

実名を出してまことしやかに語っているが、真偽のほどは疑わしい。五代目小さん襲名の話を進めていた、八代目桂文楽を、馬楽だった彦六を贔屓にしていた山春という親分が、日本刀だかピストルだかで脅したという噂はあったが、彦六が海老名家に日本刀持って行ったなどという話は聞いたことがない。

まさか、あの謙虚な九代目が、こんなことを言うとは、にわかには信じられない。

「トンガリ」の解釈も間違っている。あれは「正義感が強く頑固一徹で周囲との摩擦を生みやすい」ということで、ただの「喧嘩っ早い」とは違うのだ。

襲名のいきさつは、前回紹介した『笑伝 林家三平』の記述とまるで違う。同じ海老名家目線であるにも関わらず、である。

 

「三平さんはテレビで大ブレークして落語界に貢献しましたが、彦六さんは、名跡を返して三平に正蔵を継がせるべきだという周囲の声に耳を貸さず、返上したのは三平さんが亡くなった後だった。三平さんの妻、香葉子さんは、そんな彦六さんをいまだ許していないんです」(噺家関係者)

 

「彦六さんは、名跡を返して三平に正蔵を継がせるべきだという周囲の声に耳を貸さず、」はひどいよなあ。

山本進の『図説 落語の歴史』の中のコラムでは「律儀で知られた正蔵は、生前弟子が真打になるとき、必ず林家以外の名跡を継がせることにしていた。また、三平が売り出してからは、何度か正蔵の名前を返そうとしたこともあるらしい」と書いてある。三平は、芸風が違うから、と言ってその申し出を辞退したと言われている。

 

証言は、皆、見事に「関係者」。名前を出して証言している人は一人もいない。ちょっと、この記事を書いた人と、その関係者を名乗る人、一人一人に会って真偽を確かめたい。もし、これが事実なら、私の中の八代目正蔵、彦六像が根底から覆されてしまうなあ。