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2022年2月1日火曜日

木下華声のこと

ロスアンゼルスのSUZIさんから、メールをいただく。古い写真が見つかったので送るとのこと。SUZIさんは、八代目桂文楽のマネージャー、出口一雄の姪御さんである。

写真は出口一雄夫婦と、出口の弟であるSUZIさんの父君一家の写真。「私の祖父十三回忌の時の写真です。1957年頃で、私が15才くらいだと思います。撮影者は私です」とのことであった。

SUZIさんの祖父、つまり出口一雄の父策一は、貿易商として一代で財を成したが、信頼していた部下に裏切られ会社を乗っ取られた。老後はSUZIさんの父君の家に同居することになった。

「これは、伯父が何度も何度も結婚、離婚の人で、女出入りの激しい人でしたからねえ。到底祖父母が一緒に住める状態の生活ではなかったからです」SUZIさん談)

その写真はこちら。

 詳細は以下の通りである。

 向かって右奥は叔母(末っ子で伯父、父の妹)。叔母の後ろで笑っているのが、伯母の母(出口一雄の義母)。手を口に当てている男の子は叔母の息子。飲み過ぎで肝臓やられ、47で亡くなりました。横向きの子は私の弟。右父(横向きの男性)の横にいるのが私の妹。伯父(墓石の前でシャツをはだけている男性・出口一雄)の左となりは伯母(一雄の妻)。母が居ないのは、きっとお寺さんと話しているのでしょう。

可笑しなご縁で、伯母の家のお墓も同じこのお寺で、お墓もすぐそば、と言うおかしな縁です。この寺には芸者で、歌手の市丸さんのお墓もありますよ。

 

ここに「二代目江戸家猫八」こと木下華声が写っているという。後方左に写っている人物がそれである。

「なぜ、彼が写っているんですか?」と聞いたところ、「 古い、古い付き合いの仲で、伯父、父の独身時代、ポリドール時代からです。亡くなった祖父母もの事も知っているからじゃないでしょうかねえ??」という答えが返って来た。

 

 

木下華声の本を持っていたことに気づいて、物置を探してみたら、あった。昭和52年(1977年)に大陸書房から出た『芸人紙風船』という本だ。私はこれを随分前に古本屋で買った。「田園書房 新丸子店・元住吉店」の札が付いている所を見ると学生時代に買ったのだろう。




では、『芸人紙風船』を基に、華声についてまとめてみる。

 

木下華声は明治44年(1911年)、東京御徒町に生まれた。


父親は大物五厘の春風亭大輿枝(だいよし)。「五厘」について『図説・落語の歴史』(山本進・河出書房新社)がこう解説をしている。

 

“五厘”というのは各興業ごとの芸人の顔ぶれの決定や、給金ほか、契約上の問題など、落語家と席亭の間の周旋を業とする者のことで、五厘(5パーセント)の手数料をとったので、その名がある。

 

大輿枝という人は敏腕プロデューサーという側面もあって、三代目柳家小さんを真打にして世に出し、大道芸人の初代江戸家猫八を見出した。(とすれば、昭和のプロデューサー出口一雄を彷彿とさせるではないか)


しかし、五厘という存在には、前述の『図説・落語の歴史』にも、「阿諛、専横の振る舞いがあって、席亭、芸人の両方から恨まれたらしい」とあるように色々と問題があったらしい。大正の頃には排斥されるようになり、大輿枝も大正6年〈1917年〉伊藤痴遊との衝突をきっかけに職を失った。


華声は、大正8年(1919年)、三代目小さんの配慮で、落語と手踊りで初高座を踏み、その後(大正14年頃か)初代猫八の旅興行について行った。小さんも猫八も、父大輿枝への恩返しだったのだろう。華声は猫八の下で小猫八を名乗り、物真似の修業をした。


芸歴としては、大正10年(1921年)、二代目三遊亭金馬に入門し金時、大正14年(1923年)には三升家小勝門に転じて勝頼を名乗る。そして昭和6年(1931年)、二代目江戸家猫八を襲名して真打の看板を上げた。口上には初代猫八、三代目小さん(※華声の記述に拠ったが、小さんは前年に亡くなっており、これは記憶違いだろう)、談洲楼燕枝、五代目左楽、八代目文治などの超大物がずらりと並んだという。かつての大物、大輿枝の息子だからこその豪華メンバーだった。


昭和10年には漫談に転向。大阪吉本でボーイズをやったり、東京に戻って俳優をやったり、多才な人だったのだろう。昭和26年(1951年)に初代猫八の息子、岡田六郎に三代目猫八を襲名させ、自らは木下華声となった。


木下華声という名前は、昭和8年(1933年)に、東宝名人会に出演した時から名乗っていた。「猫八」というのが元大道芸人の名だから東宝には出せない、と言われたので、久保田万太郎に付けてもらったのである。由来はこうだ。漫談の大家は「徳川」(徳川夢声のことか)、それに対抗して「豊臣」といきたいが、まだその域には達していないから木下藤吉郎からとって「木下」、声帯模写で色々な声を出すから「華声」、それに貧乏で始終「貸せい貸せい」と言っているからちょうどいい、というわけだ。万太郎は「猫八が木下華声となる師走かな」という句まで添えてくれた。ボーイズや俳優、司会など、寄席芸以外をやる時には木下華声で出ていたようだ。


戦後は物真似、漫談で寄席、テレビ、ラジオに出演、また巷談・作家としても活躍した。

 

木下華声についてのSUZIさんのコメントを以下に記す。


 戦後はヒロポンやって頭髪が急になくなったりして、物まねの質も落ちたりしました。

よく父の所へも来ていましたねえ。


奥さんは看護婦さんのとっても人のできた、大人でした。


戦後はとにかく芸人社会にヒロポンが流行り、楽屋で打っているのを、子供の私も見た覚えがあります。母親が打って子供におっぱいを飲ませると子供もその気配が出るんです。


父に「今言っても難しいかもしれないけど、この姿をよ~~く見て覚えて置けよ」と言われ、それが妙に重く、父の真剣さが子供ながら覚えています。


私は育った環境もあり、戦後傷病兵として帰還した人が、モルヒネ中毒となり、大暴れして診療所に担ぎ込まれ、それを抑えるのに、ティーンの私も手伝わされた記憶があります。


でもなぜ、この時代になって、父の所に飛び込んできたかは不明です。父は麻薬扱いの資格は持っていましたから、それかな?とも思いますが。


そして父は、私が中学生くらいの時、その資格はもう要らん、と返上していたのを覚えています。

 

ヒロポンは戦後、大流行した。先代の鈴々舎馬風や柳家三亀松などがその愛好者としては有名だ。プロ野球の伝説の名選手「青バット」の大下弘の母親はヒロポン中毒で、彼の年俸の多くがその薬代に費やされたという。小説家の坂口安吾や太宰治も薬物依存症だったな。

 

SUZIさんはさらにこう続けた。

 

ヒロポンは今の麻薬ほど強烈ではなかったようです。

芸人さんはとにかくたくさんやっていましたよ。もう鬼籍に入った人たちばかりですがねえ。時効ですよ。

あの戦後のどさくさから這い上がった、高度成長期の前章時代です。

笑いを振りまいている人だって、多くの残酷を見てきています。戦争で人を殺しているかもしれません。

今もアメリカではベトナム戦争帰りの70-75歳前後の人達の内底の心は、この時代の人達に似ています。私はものすごくそれを感じます。

だから東京ブギウギが流行り、美空ひばりの歌にみんな吸い寄せられたのです。

嫌なことを忘れたい。焦土と化した日本を見たくない面と、立ち上がろうとする気力と、落胆。

そんな内に秘めた火山があったから、ヒロポンにも走り、笑いを売り、笑いを、気力を民衆は求めたのです。

三亀松のことは聞いたことありますが、何せ私は小学生になるかならないかの年、よくわかりません

伯父にしたってたった一度だけ試しに打ったって言ってました。

我が家は麻薬についてはものすごい厳格な家です。女、ギャンブルはまだしも、麻薬をやったら一生がダメになる、と育てられました。

ヒロポンは今のヤクのように、1回でダメ、なんてものではなく、抜け出すのも楽()でしたが、伯父も「馬鹿よなあ」といっていたそうです。

私は薬に関しては異常なまでに警戒心と、恐怖心を持っており、昔、まだ独り者の頃、友人がマリワナを見せると言って、ポケットから出した途端に、「出て行け!」っと追い出したほどです。

麻薬は手を出したら、人生オシマイです。見ても、触ってもいけないものなのです。それ以外答えも方法もありません。親からもらった命、人生は大事に全うすべきです。

あの麻薬の切れた錯乱状態の患者を見た時には、中学生でしたが、恐ろしい!そう体も心も感じました。

薬の事は本当は話すのも書くのも私は嫌いです。(でも、話さなければ、書かなければいけないと思えば書きます・・・正直、ま、あまり気乗りのしない、腹にしまっておきたいことです)

 

でも、100に1ではなく、1ヒロポンは大したことない、とは言え、軽い好奇心でフラッと始め、それがとっかかりとなり、次、次・・・、ともっと強いものにはまっていく。蟻地獄へ落ちて行く、それが麻薬なのです。

何人もダメになった。才能ある芸人さんがそうなっていったんです。

麻薬は「怖い」です。怖い、触れてはいけない。そう肝に命じなければいけません。

メキシコも、コロンビアにも麻薬王はいます。政府も手が出ません。

麻薬王はいっさい麻薬には手を出しません。やくざの大親分は薬には触れません。その怖さを知っているからです。

麻薬にやられた人間は、廃人です。「灰人」とでもいえるでしょう。

風が吹けば飛ばされ、雨が降れば流され、ソレッきりの人生です。何の存在でもありませんよ。

麻薬には絶対に触れてはいけない、私の人生の大鉄則です。


もちろん、麻薬から抜け出せる人だっています。廃人から、真っ当になれる人だっています。1000に1、いいえ、万に1人だと私は思います。


一生涯1分、1秒、四六時中、飲みたい、吸いたいという欲求、欲望と戦い続けなければならない時間の継続です。だから薬は一度やったら、まともに戻れる人がホンの僅かなんです。


廃人=灰人と書いてしまいましたが、抜け出した人だっている訳です。


そういう人達には拍手を心から送りたいと思います。人生生きてりゃ失敗はつきもの、その失敗のどん底から立ち直った人の努力は認め、社会は受け入れてあげるべきだと私は思います。

 

木下華声が亡くなったのは、昭和61年(1986年)、享年75だった。戦後の混乱から生き延び長く活躍した。落語家として出発し、物真似、声帯模写、ボーイズ、漫談、役者、文筆業・・・、その道一筋というわけではないが、ともかくも芸能界を泳ぎ切った。久保田万太郎、安藤鶴夫、高見順、徳川夢声らにかわいがられ、幸せな芸人人生だったと言えるのではないだろうか。 

2021年10月7日木曜日

三遊亭圓生と出口一雄

三遊亭圓生の『寄席楽屋帳』という本の中に、出口一雄が関わった「放送専属」についての記述があるので、紹介したい。

 

戦前から放送局はNHKだけだったが、戦後になって民間放送局ができた。その先駆けのひとつが、出口が勤めたKR(ラジオ東京)だった。そこに落語家も出演することになるのだが、民放はスポンサーがつくので、NHKよりも放送料がよけい取れることになる。当時、落語一席四千円で多くの落語家が出演した。

しかし、圓生は「はじめに安い給金で出てしまえば、今にちゃんとしたことになっても、先ィ行ってなかなか、倍にしてくれったってそうはいかない」との考えから、しばらく出演は見合わせた。合理主義者、圓生の面目躍如といったところだ。同じように出なかったのが、黒門町、八代目桂文楽。後に文楽はTBSのことを「うちの会社」と言うことになるのだから面白い。

そのうちに民放がさかんになり、あちこちで局ができる。圓生もラジオ東京に出演するようになった。

 

 これはまァ、出口さんという人との、いろいろ相談づくで、

「放送料は、このくらいでいかがでしょう」

 というようなことで、ちゃんと話を決めて、出たわけでございます。

 

専属の話が出たのは昭和二十八年の六月ごろ。圓生はその理由を、「落語ではありませんが、なにかでNHKのほうが、だれそれを専属にしたというようなことがありまして、これと対抗上、KRでもって、落語家の専属ってことを考えたんでしょう」と推測している。

メンバーは桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭圓生、柳家小さん、昔々亭桃太郎の五人。圓生が桃太郎を指して「妙なとりあわせですね」と言ったところ、出口は「桃太郎という人は、噺は新作だし、色あいが全く違うが、このなかで、司会者というような役目をさせる便宜上、この人も入れて、五人を専属にしたいから、あなたも是非なってくれろ」と答えたという。

そして、七月に契約を結ぶからそれまでは他局には秘密にしてもらいたいが、それまでは他の仕事を受けてもいい、ということになった。調印は「七月の、五、六日のころ」。華々しく発表をしたわけではない。これ以降、NHKなどで圓生や小さんから出演を断られ、五人の専属契約が発覚した。当然、NHKを始め他局には衝撃が走った。

 

 だけども、出口さんの言うには、当時はまだ、金馬という人があり、柳橋とか、圓歌という人もいた。ここいらは押さえなかったてえのは、そうまでして、詰めちまうと、ほかのところも困っちまって、気の毒だから、この五人だけにしたんだというわけで・・・。

 

 その後、NHKは春風亭柳橋、桂三木助、文化放送は三笑亭可楽、三遊亭百生などを専属にする。ニッポン放送は古今亭志ん生を引き抜いた。

出口はその補充に、春風亭柳好、林家正蔵、三枡家小勝を入れ、柳好の死後は三遊亭圓遊を入れた。

専属契約後も圓生にはNHKから何度も出演依頼が来た。圓生にもNHKに出たいという気持ちがある。そこで圓生は出口と専属契約について話をした。

圓生は解約を申し出たが、出口は「専属は続けてほしい」と言う。「専属のままでNHKにも出演してもいい」とまで言った。しかし、圓生は、他の契約者と不公平になってはいけないので、重ねて解約を主張した。結局、専属料を減額し、その代わりNHKだけは出てもいい、ということになった。そこで、圓生のみ、昭和三十四年六月から、NHKTBSと両方に出演することができるようになった。

 

 KRとのはじめの契約では、この契約は永久にずッと継続していくんだという約束でしたけれども、そんなこといったって、上の人がいなくなったりして、だんだん内容も変わってきまして、とうとう昭和四十三年六月には、TBSの専属というのも、なくなってしまいました。

 

昭和四十三年当時、出口一雄、六十一歳。すでに定年退職し、デグチプロ社長として芸人たちのマネジメントをしていた。圓生の言う「上の人がいなくなったりして」というのは出口のことを指すのだろう。あの専属契約はやはり出口とともにあったのだ。

 

圓生について、出口の姪、Suziさんはこう言っている。

 

「伯父は、圓生さんとは深く話す間柄だったのかなあ? って感じです。

伯父とは生き方の違う人だったし。

圓生さんは、背の高いすらりとした色男で、若い時はさぞ美男子だったと想像しますね。

背広の日は、靴はコードバンのピカピカに磨いたのを履いていて、

「コードバンだよ。¥***だよ。気を付けて扱ってよ」なんて弟子に言ってましたね。

金額までを言うので、「みみっちいよなあ」なんて伯父は笑って言ってました。

「圓生さんの長女は、美人だぞ~~、親父の圓生がいい男だからなあ」そんな言葉を思い出します。

圓生さんはきれい好きで、少々神経質。

常日頃から、高座で話をしていても、

襟をいつも気にして、片手でいつも何となく整える癖のあったのだけはよく覚えています。

残っている録画をよく見てください。

ま、とっさに気の付いたのはこれくらいです。

子供でしたからねえ、そう覚えちゃいません」

 

ちょっとした挿話だが、圓生という人が出ていて面白い。

 

2019年12月11日水曜日

TBS、大看板の珍芸番組


昭和41年(1966年)927日付、朝日新聞夕刊に「寄席番組で巻き返しへ」という見出しの記事がある。翌月からTBSテレビが新企画を打つというものだ。
少し引用してみる。
TBSテレビは古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭円生、柳家小さん、三遊亭円遊、林家正蔵と六人の大看板を専属にかかえ、他局でうらやましがられていたが、かえってこの存在が他局を刺激し、他局にヒット番組を作らせた傾きもあった。NETテレビの『日曜演芸会』、『テレビ寄席』、フジテレビの『お笑いタッグ・マッチ』などがそうで、大看板をもたない局が、若手タレントをフルに使い、寄席に現代的な動きをとり入れたので、TBSのほうが宝の持ちぐされの感もあった。」

TBSと落語家といえば、昭和28年(1953年)にラジオ東京(後のTBS)の名プロデューサー出口一雄が、桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭円生、柳家小さん、昔々亭桃太郎の五人と専属契約を結び、業界を震撼させたことが有名である。翌年、志ん生がニッポン放送に引き抜かられるが、出口はすぐさま春風亭柳好、林家正蔵、三遊亭円遊、春風亭小柳枝と契約を結び、さらにその翌年には文楽の弟子、三升家小勝を専属にした。NHKの春風亭柳橋、桂三木助、文化放送の三笑亭可楽、古今亭今輔、ニッポン放送の古今亭志ん生、三遊亭円歌と比しても、質量ともに圧倒している。(後に三遊亭円生がNHKに出演するなど、この専属制も有名無実化していくのだが。)
一方、出口がラジオ東京五人衆と専属契約を結んだ昭和28年、テレビ放送が始まった。ラジオ東京も昭和30年(1955年)、テレビ放送に進出し、ラジオ東京テレビ(KR)を開局。出口も芸能課長に就任した。その頃に出口は「新人落語会」という番組の司会に林家三平を抜擢する。三平はテレビという媒体で瞬く間に売れた。この昭和の爆笑王誕生のきっかけを作ったのは、出口一雄だったと言っていい。
そして、テレビは若手落語家をタレントとして売り出していく。春風亭柳昇、三遊亭小円馬、三笑亭夢楽、桂伸治(十代目桂文治)、金原亭馬の助、柳家小せん、春風亭柳好(四代目)などは、こうして世に出てきた。大看板を抱えていなかった他局が、テレビの特性を生かし、若さを武器に大衆の心をつかんで、大看板中心のTBSの牙城を脅かすという図式は、大正期の東京演芸会社に対する睦会の健闘を見るようで、興味深い。

ここでTBSが巻き返しを図る、というのが、この新聞記事である。
TBSは当時の若者のお笑いのメッカ、東急文化会館に目を付け、ここで「お笑い大合戦」を上演し、それを中継放送しようというのである。その内容を引用しよう。
「その内容は『爆笑寄席』(水)『お笑い昼席』(金)。その中で水曜の『お笑い裁判』は大看板六人に、ゲストのはなし家一人を加える豪華版。ゲストを被告に仕立て、一席落語をさせて有罪(?)の場合は、歌や珍芸を披露させる、この間大看板たちのおしゃべりや珍芸もはいる趣向だ。すでに第一回のゲストには、売れっ子の桂伸治が起用され、TBSテレビはこの新番組に期待をかけているが、大看板たちが若い人にどう受けるか。興味のあるところ。」
記事を読んだだけでも、受けるとは思えない。大看板よりも若いゲストに芸を披露させ、有罪無罪を判定し、有罪だったら罰ゲームをさせる、その〝上から目線〟は若者に受け入れられるだろうか。大看板たちの珍芸に、果たして需要はあったのだろうか。この時、TBSは、いささか迷走していたように見える。
昭和41年当時、出口さんは59歳。60歳定年を企業への努力義務になったのが昭和61年(1986年)だったということを考えると、その頃は55歳定年が一般的だったと思う。とすれば、出口さんは既にTBSを退社し、デグチプロを立ち上げていたか。この辺り、出口の姪、SUZIさんは憶えていらっしゃるだろうか。

SUZIさんの回答は次の通り。
私の記憶する限りでは、伯父は確か芸能部長(次長かなあ?)で引退したんだと思います。
その後重役職だかなんだかの椅子があるのに、人事は嫌い、と言うので辞めて、デグチプロを立ち上げた気がします。
伯父は『俺は人を会社の組織の中で使いこなせることの出来る人間じゃないんだよ』と言っていました。
引退が何年かなんてナーーンニモ私は覚えていません。退職と同時にデグチプロは興したんだと思います。
芸人さんの誰がいつどうだとかこうだとか、契約とか、引抜きとかナーーンニモ知らないし、私には興味もなかったですね。
私は社会人になってからは、日野という東京の郊外暮らし、仕事に夢中だったし、六本木まで行く機会も減り、伯父の世界からは遠のいてしまいましたね。」

そういえば、DVD『落語研究会 八代目桂文楽全集』に、文楽の歌と踊りが入っていたことを思い出し、取り出してみた。解説では「落語裁判」について、川戸貞吉が書いていた。
川戸がTBSに入社した頃は、珍芸ブームの真っ最中、演芸と言えば「大喜利」といった状況だった。そこで新聞記事にもあったように、TBSも「専属の落語家を起用した大喜利番組をやる」ということになった。担当になった川戸は、専属の大看板たちに大喜利をやらせることに困り果て、出口一雄に相談する。そのくだりを以下に引用してみよう。
「頭を抱えながら大プロデューサーの出口一雄さんに相談に行った。そこで出てきたのが〝落語裁判〟だった。昔から寄席で演じられてきた〝落語相撲〟を裁判に置き換えたお遊びなのである。噺かが演じた噺の穴・矛盾点を観察側が突き、それを弁護側が弁解、最後に裁判長が判決を下し、負けた方が懲罰を受けるという大喜利だ。裁判員風の衣装を身に着けた大看板達が、マジメな顔して出演してくれたことは、いま考えても不思議でならない。」
このDVDには、文楽の歌う「有明」と踊り「深川」が収められている。「深川」について川戸はこのように書いている。
「さて、〝落語裁判〟もいよいよ最終回を迎えることになった。是非とも文樂師匠の踊りが見たかった。毎度のことながら出口さんに相談をすると、『お前が直接頼みにいってこい』という。恐る恐る黒門町のお宅にうかがったところ、「君ィ、シャレですよ、シャレ」と承知してくれた。これが何十年ぶりに踊った、ご愛嬌の『深川』である。」

「大プロデューサーの出口一雄さん」ということは、当時出口さんは現役だったのだろうか。いや、出口さんは川戸氏にとって、いつまで経っても「大プロデューサーの出口一雄さん」だったのかもしれない。(私は出口さんが現役だったら、こんな企画は考えなかったと思う。)いずれにしても「大看板達を使った大喜利番組」などという破天荒な企画は、出口一雄の存在なしには実現できなかったのだろう。
〝落語相撲〟は、文楽の著書『あばらかべっそん』にも出てくる。これを下敷きにするなんざ、いかにも出口さん、明治生まれらしいな、と思う。
しかし、〝落語裁判〟最終回の「深川」が、1966年(昭和41年)収録ということは、この番組、半年ももたなかったということになる。
やっぱり当たらなかったんだねえ。

ちなみに、六代目三遊亭圓生『寄席楽屋帳』(青蛙房)によると、昭和43年(1968年)6月に専属制は解消されたということである。

2019年8月7日水曜日

デグチプロと吉本


ジャニーズ事務所、吉本興業と、立て続けに芸能事務所と芸人・芸能人との関係が取りざたされている。
こういうニュースに接するにつけ、私は出口一雄のことを思い出す。
出口一雄。戦後の民放ラジオ草創期に、演芸部門で辣腕を発揮した名プロデューサーである。当時、昭和の名人、八代目桂文楽・五代目古今亭志ん生・六代目三遊亭圓生・五代目柳家小さんらと専属契約を結び、業界を震撼させた。TBS退社後はデグチプロを立ち上げ、芸人のマネジメントをした。
私は、出口の姪御さんとひょんなことでお知り合いになり、このブログで記事を連載した。


特にデグチプロにおける彼の仕事は、見事に芸人に寄り添うものであった。


出口一雄の姪、Suziさんは、私へのメールでこう言っている。

当時(今から55年くらい前になりますが)伯父が、
「吉本はデカクテて古いところだけど、いつか何か起きるぞ。俺ン所は俺がやってるチイチャイこんな所で、俺は開けっ広げで10%取ってるだけだけど、芸人を大事にしない所は、いつかいつの時か何か起こる」
そういった伯父の言葉を思い出します。

 デグチプロでは、事務所:芸人のギャラの配分は何と1:9だった。確かにジャニーズや吉本のような巨大事務所と、社長の他には従業員が二人しかいないデグチプロと単純な比較はできない。しかし、この、芸人に対するまなざしの違いはいったい何なのだろう。芸人というプレイヤーがいなければ、マネジメントなどは成り立たないはずなのに。
出口一雄には芸人に対するリスペクトがある。

そういえば、三代目三遊亭金馬についての文章の中で、吉本興業が出てくるのがあったな、と思い出す。探してみたら、大西信行の『落語無頼語録』に収められた「忘れられぬ金馬の居酒屋」という文章だった。以下に引用する。

山崎豊子の『花のれん』の吉本興業が、売れっ子の金馬を自分のところの専属にしたくて、金馬がそのころ惚れて通っていた吉原の遊女を、
「どうぞ身請けしてお妾さんになさいまし、費用はいっさい手前どのでナニしますから」
 と、言葉たくみにささやきかけて来た。色と金で芸人を縛りつける。これは吉本の常套手段だった。多くの芸人が、この手にはまって吉本の専属になっていた。東京の芸人でも講談の神田伯竜だの柳家金語楼だの・・・。
 しかし金馬は、時に傲慢さえ見えたあの意地っ張りのつよい顔で、ふふんとせせら笑って吉本の申し出をあっさりとはねつけて断った。
「金語楼にゃァなりたくねェ―」
 と言って。

このエビソードは「惚れた女との甘い生活と吉本興業専属の芸人になることを天秤にかけて断ることの出来た」「金馬の怜悧さ」を示すものだが、吉本のあざとさも同時に示している。
というようなことを思っていたら、今度は吉本興業が「NSCの夏合宿」で、「死亡しても一切責任負いません」という誓約書を提出させていたという報道があった。会社側は「引継ぎがうまくいかず、修正前の規約を渡してしまった」とコメントをしているが、5年前に顧問弁護士の指摘を受け、修正していたというのだが、要はそのような「思想」を吉本は持っていたということだ。
最近吉本のベテランがこぞって、声を上げ始めた若手をたしなめるようなコメントを出しているけれど、それは年寄の奴隷が若者の奴隷を恫喝しているように見えてならない。
吉本が変わろうと変わるまいとどちらでもいいのだが、「そういう思想」を私は断じて受け入れることはできない。

最後にSuziさんがこのように総括してくれた。以下に記す。

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10%を取るという事は、その芸人さんが人気が出て、一席1万円が10万円になれば?
馬鹿でも分かる計算です。それで何人も伯父の所に集まったんです。
しかし、他の芸能プロは、何もかも面倒を見てくれます。住まいも宣伝も何もかもです。だからプロダクションはその芸人さんには、人気が出るまでには沢山の投資をしています。だから人気が出てギャラが上がった時も、しばらくは(?)最初の契約金でズーーーッと働く(働かされる?)わけです。そうしないと商売が成り立ちません。かけた投資の返却期間で、当然のことです。しかしその期間が問題ですよね。時には飼い殺し、とも思えない期間吸い上げられ、働かされます。だから契約書は必要なのです。一般企業と芸人社会の構成や、構造とは違いますが、700名の社員、6000人芸人さんの会社で、政府から金も出ている大企業(?)が芸人さん(言うなれば大事な社員であり、商品)と契約書を交わしていない、其処へ今回の、《怪我しても、死んでも文句言うな》の一筆あり、が判明。何とまあズサンで人権無視で、奴隷社会のような経営の骨組み実態。これは法に訴えることも出来る文書です。お粗末、そのものです。
しかし、芸人の生活は天国と地獄が現存の社会です。何かあれば、ベンツに乗っていた、ヨットを持っていた生活が、いっぺんにホームレスになるような、そんな社会が芸人社会です。
一般社会の人間からは想像もできない、すさまじい現実がある。芸人を軽い気持ちで目指す若者達には是非知ってもらいたい、と心より願います。そして最近では、裸だったり、ただのギャグだけで人を笑わせる芸人が増えていることも嘆きです。人気取りのためにそういうことをする期間があっても仕方ありませんが、どうか、《芸人》を目指すなら、「芸」を「笑い」の「本質」を学び、自分の物として身につけてほしいと願います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

確かに吉本所属の芸人6000人には驚いた。
ちなみに東京の落語家の数を調べたら次の通りだった。
【落語協会】 真打203 二つ目69 前座29 合計301(HPから)
【落語芸術協会】 真打95 二つ目45 前座27 合計167(HPから)
【圓楽一門会】 真打36 二つ目16 前座6 合計58(ウィキペディアから)
【落語立川流】 真打28 二つ目17 前座13 合計58(ウィキペディアから)
昭和53年当時は以下の通り。
【落語協会】 真打47 二つ目61 前座14 合計122
【落語芸術協会】 真打41 二つ目30 前座11 合計82
【落語三遊協会】 真打6 二つ目5 前座4 合計15
(『別冊落語界 現代落語家集成』より)
41年前に219人だったのが現在は584人。実に2.7倍に増えている。
芸人になる垣根も大分低くなっているのかもしれないなあ。


2018年8月21日火曜日

立川談志と出口一雄

『立川談志遺言大全集14 芸人論二 早めの遺言』を読んでいたら、出口一雄について書かれた箇所があった。
民放の誕生とともに、落語を含めた寄席演芸番組がゴールデンタイムのトップに躍り出る、特に東京では、後のTBSであるラジオ東京、関西では朝日放送が特に力を入れていた、という記述に続いて、談志はこんなことを書いている。 

「東の方には出口一雄という辣腕な、ポリドールレコードから引き抜かれた演芸部長がデンと座り、関西には出口氏の無二の親友であり、よく似た気性、芸に対する価値基準が似ていた松本昇三氏。この二人にどういうわけだか柳家小ゑん(二つ目時代の談志)は愛された。生意気だからだったからかもしれない。」 

そして、出口、松本の二人は東西交流を考える。その第一回目の東京からの派遣落語家が柳家小ゑんであったというのである。 
談志は出口一雄について何度か語っているが、自身との交流を述べている文章は、私が読んだ限りでは、これしかない。

早速、出口は談志についてはどう思っていたのか、出口一雄の姪、Suziさんにメールで訊いてみた。
その返信に言う。 

「私の知る限りでは、東京中学〔今はない〕の後輩で、あのキザさを根っから嫌っていました。
『あいつは中学の後輩だけどナ、江戸っ子なんかじゃねえ。キザな野郎だ。江戸っ子がキザ?、見られたもんじゃねえよ。だけど頭の回転はいいよ。凄い』
それしかワカリマセン。
だから『絶対に俺のプロにゃ入れねえし、頼まれたってゴメンこうむる』って言ってました。
波長がなんとも合わない相手だったようです。
それしかありません。
私自身は、彼のあの話し方が嫌いでした。口先でちょぼちょぼ話すのが嫌い。江戸っ子のあの歯に衣着せぬ、ポンポン言うのでなくちゃ嫌です。
しかし、彼はこれを武器にしたんではないでしょうか? ネタはあちこち行って多くを吸収し、落語学〔?〕もきちんと勉強し、基礎も知識も持っていました。若者にはこれが受けたんでしょうねえ。そんな気がします。
今となっては古い記憶。もう詳細は思い出せません。」 

相変わらず「歯に衣着せぬ」見事な論評である。
後の四天王では、出口さんの好みで言えば、一に、その才能と人柄をこよなく愛した古今亭志ん朝であり、二に、デグチプロを引き継いだ八代目橘家圓蔵(当時の月の家圓鏡)だったろう。小賢しい印象を与える、五代目三遊亭圓楽や立川談志は、あまり好きではなかったかもしれない。
しかし、その彼を、東西若手落語家交流において、第一回目の派遣落語家に抜擢するのだから、好き嫌いで仕事をしない出口一雄の、面目躍如といったところではないか。
内海桂子が「当時の若手で、出口さんの世話になっていない者はいない」と言っていたけど、本当だったのだなあ、と今更ながらに思う。



2016年8月20日土曜日

出口一雄の死

そろそろ出口一雄の死について語らなければならない。
出口の最期については、京須偕充もほとんど書いていない。
『鬼の眼に涙』では最後に「昭和51年2月の寒い朝、出口さんは事務所で斃れたのである。」とあるだけだ。
『落語名人会夢の勢揃い』ではもう少し長い。「出口一雄は桂文楽没後5年足らずの1976(昭和51)年初めに急死した。下谷の寺で営まれた通夜の席には多くのはなし家が集って陽気に酒を飲んで騒いだ。葬儀には六代目春風亭柳橋も圓生も参列していたが、思えばこの人たちに残された月日も短いものだった。」と書いている。

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出口一雄は、昭和51年2月15日、68歳で亡くなった。(この日付を、私は出口の姪、Suziさんに教えてもらった) 亡くなった時のことをSuziさんに訊いた。
Suziさんは次のように語った。

「死亡時の話なのですが本当にチョコッとしか知らないんです。誰か落語家サンに仕事のスケジュールの事で電話をしているうちに倒れたんです。突然応答がなくなり、その芸人さんはビックリして、・・・。倒れてから救急段階まではちょっと間はかかったと思います。(電話の相手の芸人さんは、私は知りません。) 『倒れた』と連絡が入り、父は飛んでいきました。
帰宅するなり、『あいつは死ぬぞ。持たん』怒ったような調子で父は言いました。 そして、私は次の日父に連れられて病院へいきました。弟や母は自宅に居ていきませんでした。妹はもう結婚していましたので子供の世話で忙しい生活でした。
父の言葉通り、2日後(3日目だったかな)、ぐうぐう高いびきで寝て、そのまま逝きました。
叔母はショックで、どうしてよいか分からずうろたえていました。
叔母の妹の旦那さんが細々とした用事に走り回り、叔母の姉や一番下の妹達が彼女を支えていました。
前々から父は『兄貴、少し飲むのも食うのも考えろ』と言ってはいましたが、聞く耳など持たぬ伯父でした。(医者の父は伯父に会うときは、必ず聴診器と血圧計を持って会いに行っていました。喧嘩ばっかりするそう仲の良い兄弟ではなかったですが、其処は兄弟、伯父も『こいつは医者としちゃ兄貴の俺が言うにゃなんだけど、腕はいい。だけど金儲けはゼロ』と言って信頼していました。だから多くの芸人さんを父のところに送ったんだと思います。親父の自慢をするなら、オセイジは言わない、金の事より、喧嘩しても患者にはズバリとモノを言っていた良き親父で、医者でした)
『何言ったって文楽さんが逝っちゃってからは聞こうとしなかったからなあ』そんなことも父は言っていました。全くのメチャクチャでした。そしてこんな結末を迎えたのです。」

本当に突然、出口一雄は逝った。状況を見ると脳溢血らしい。血圧はもともと高かったのだろう。しかも出口は文楽の死後、昼から酒を飲むようになった。それが寿命を縮めたのは明白である。Suziさんの父上の「何言ったって文楽さんが逝っちゃってからは聞こうとしなかったからなあ」という言葉は重い。
大西信行は、最後の高座で絶句し、その半年後に死んだ文楽にことを「あれは自殺だったのではないか」と書いている。表面上は病死でも、既に生きる意志を失っていたという意味において、大西は「自殺」という言葉を使った。ならば出口の死も同様ではなかったか。出口一雄は、文楽の後を追ったのだ。

 Suziさんは出口の葬儀についても話してくれた。

「浅草の遠縁の善照寺で執り行いました。300人だか500人だかの方々が来てくださったと聞いていますが、よく解りません。
兎に角花輪だらけで、それで大変なことが起きました。当時牧伸二は人気絶頂期でした。泉ピン子は彼の弟子でした。彼女はウイークエンダーのレポーターの一人で、あの話しっぷりで、少しずつ知られるようになってきた頃でした。しかし、牧伸二は彼女の師匠で人気も格も雲泥の差。そのピン子の花輪がとんでもない上段に置いてある。これから葬儀の読経って時に見つかったんです。それがドカンと上段も上段に飾られてあるんです。芸人社会ってのは、上下の差は天と地の差。大変だーー!!と降ろすことに。しかし、花輪、花輪のスタンド、花束、本堂の階段、周囲も花輪だらけでびっしりの飾り付けです。はずすだけで一苦労。それを又降ろすのに一大作業。若い二つ目サンくらいの落語家連中が必死の作業で頑張りました。そして何分か予定より遅れて、やっとこ読経が始まったのを覚えています。
親戚は控え室からあまり出ないように、なんて言われていましたから、控え室の障子を開けて、ちょっとのぞき、私は怒られました。何にでも興味がある子でしたから、それも30を超えていた私でしたが、しきたりなんて全く眼中に無く、思うがままに興味本位で見てしまう。それは70を超えたこの歳の今も、恥ずかしながら変わっていません。
そのときの記憶では、本堂の階段は全く見えず、花の壁だけだったしか記憶がありません。それほど大きな葬儀でした。まさに、【デグチ天皇】、って怖がられもしたけど芸人に沿った江戸っ子らしいぶっきらぼうな温かさを持った伯父の葬儀でした。」 

京須は「下谷の寺」と書いているが、Suziさんの記述が正しいだろう。何といっても浅草の善照寺は出口家の菩提寺である。
TBSの大物プロデューサーとして演芸界に大きな影響力を持ち、退社後はデグチプロ代表として芸人のマネジメントに尽くした人だ。その葬儀がいかに盛大だったかは容易に想像できる。ばたばたした葬儀直前のエピソードも、いかにも芸能界らしい。 

「亡くなってからの話の方が面白いのでそれを書くことにします。
叔母が言うんです。
伯父も正式に結婚したのだけで3回。その間に何人もの女の人が入れ替わり立ち代り、でした。 まともな結婚式の写真は過去に於いてお送りした最初の奥さん(柳橋の芸者)とのだけじゃないでしょうか。いつも『こいつだ』と紹介したら、それは結婚していること、でした。
『デグチプロの事だけど・・・これはまあいいんだけど・・・即刻何かもらうのはやめて、しばらく待とうと思うのよ・・・』という、叔母も心得ていての提案でした。
『三亀松さんは亡くなったら、9人子供が出てきたのよ』と話が続きます。
父も『義姉さん、それもそうだなあ・・・と答えるしかなかったよ、あの時は・・・』と後になって父が教えてくれました。
それから6ヶ月くらい何の手続きもとらず待ちました。誰一人として、伯父の子だと名乗り出るとか、『この子が出口一雄の子です』と連れて現れるとかということはありませんでした。
父は冗談交じりに言いました。
『全く兄貴は何人女と遊んだか知れねえが、下手糞な鉄砲打ちだよなあ。一人も出て来ねえじゃねえか!』
母も、『あらまあ!伯父さんは当たりが悪かったんですねえ、ホホホ』と手を口に当てて笑ったのを覚えています。」 

出口の隠し子が現れるのを見越して、遺産の整理を待つ話。
出口夫人も腹が据わってるし、Suziさんのご両親の言も面白い。さばさばしていい。

出口一雄は明治40年4月8日に生まれ、昭和51年2月15日に亡くなった。お釈迦様と同じ日に生まれ、同じ日に死んだ。
それについて、Suziさんはこんなエピソードを紹介してくれた。

「住職の厚さん(親戚だからもうそう呼んでます)がこう言い出したんです。葬式の段取りの日だったと思うんです。だから葬式より何日か前の話です。いつも私達は親戚ということもあり、お寺の自宅のほうで話をします。
厚さんが言うんです。
『大きい兄さん(伯父の事)の事って、親戚だから気にもしなかったけどねえ、小さい兄さん(私の父)。驚きだよ。4月8日生まれだろ。(花祭りの日、つまりお釈迦様の誕生日と一緒)あのね、2月15日ってのは釈迦の涅槃の日だよ』
『本当か?あんな女遊びして勝手なことしてきた兄貴がか?お釈迦さんも計算違いの日にあっちに逝かせたもんだ』と父も驚いています。
私とて30の女です。
『伯父さんてサア、運がいいというか・・・お釈迦様でも手に余る、か?ちょっと羨ましかったんじゃないの、お釈迦さんも男だもん』
こんな話を住職と話しちゃう。
考えてみりゃ型破りな環境で私は育ちました。今思うととっても幸せな環境に育ったと思います。母は山の手の近衛兵の娘。父は浅草生まれのべらんめえ医者。叔母は商人の家に嫁ぎ、伯父は芸能関係。これだけ多くの生活社会を子供のときから見られて来たのは、ラッキーとしか言いようがありません。」

強面で無愛想な人柄から、彼は一部の人から「鬼の出口」と呼ばれたという。しかし、こうして彼の生涯を辿ってみると、実はその誕生日、命日にふさわしい「仏の出口」だったのではないかと思う。
 出口は若い才能を見出し世に出すことはしても、「干す」ことはしなかった。昨今の芸能プロダクションのあれやこれやを目にするにつけ、出口の仕事ぶりがいかに芸人たちに寄り添うものだったかが分かる。 

出口自身は自分のことについて何も世に残さず、あっさりと去って行った。ここで、ささやかではあるが、出口一雄の人となりを紹介できたことを誇りに思う。これも出口の姪Suziさんとの出会いのおかげである。彼女には貴重なお話に加え、写真等様々な資料をご提供いただいた。心より感謝します。ありがとうございました。

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ではSuziさんから。
「私からもdensuke様にそしてこれを読んでくださった方々に、心より感謝いたします。私もナントカ書きたかったからです。 でもあの世の伯父は言うでしょう。 『ばかやろう。言わねえでもイイコト言いがって』ってね。」

2016年6月25日土曜日

昭和46年度 芸能人重宝帳


ロサンゼルスのSuziさんが『昭和46年度 芸能人重宝帳』という小冊子を送ってくださった。 Suziさんは落語史にその名を残す出口一雄の姪御さんに当たる。
出口一雄といえば、TBSのプロデューサーとして落語家専属制度の先鞭を切った人とである。TBS退社後は、デグチプロを設立。八代目桂文楽を始め、様々な芸人のマネジメントをした。その仕事は、芸人たちからは「仏のデグチ」と呼ばれるほど、芸人に寄り添ったものだったという。(手前味噌だが、詳しくはこのブログの「桂文楽と出口一雄」のシリーズをご覧いただきたい。)

で、この『芸能人重宝帳』。芸能関係の住所・電話番号が記載されているのだが、芸術協会、落語協会、講談協会に所属する全ての芸人から、寄席、ホール、放送局、芸能プロダクション、お囃子さんから幇間の師匠方に至るまで、東京で演芸に関わる者のほとんどが網羅されている。芸人の手配、劇場の手配、取材等、これ1冊あれば事足りるのではないかと思われるスグレモノだ。
実際に出口も使用したらしく、古今亭志ん馬の電話番号には手書きの訂正が施されている。

何せ45年前のものだ。様々な発見があって面白い。
まず、落語の団体が、「芸術協会‐落語協会」の順になっている。私が持っている出版物では、どれも「落語協会‐芸術協会」の順だ。いくら順不同だとはいえ、そこには必ず意味がある。戦後しばらくは人気において芸術協会が落語協会を凌駕していたと聞く。この順列は、いささかそれを偲ばせるものではないだろうか。

ページをめくると、昭和の名人上手がずらりと並ぶ。(残念ながら、三代目金馬、三代目柳好、八代目可楽、三代目三木助等の名前は既にない)
さすがに芸人全ての家に電話が引かれている。その中で自宅に2本引いているのが、春風亭柳橋、三遊亭圓生、林家三平。柳橋・圓生は大御所、三平は売れっ子、いずれにせよ電話を複数本引くのは、仕事の依頼が多いが故だろう。複数電話を引くのにも、それなりに金もかかるだろう。ある意味それはステイタスにもなり得る。そして、黒門町桂文楽は何と3本引いているのだ。まさに別格といっていい。 

また、今のベテランが前座に名を連ねているのも興味深い。
芸術協会では、三笑亭夢九(夢之助)、三遊亭右詩夫(古今亭寿輔)、三遊亭遊吉(小遊三)等、落語協会では、三遊亭楽松(鳳楽)、林家九蔵(三遊亭好楽)、古今亭高助(故古今亭志ん五)、柳家そう助(さん八)、柳家マコト(小袁治)、柳家小稲(さん喬)、金原亭駒七(五街道雲助)、立川談十(朝寝坊のらく)、春風亭朝太郎(一朝)等の名前が見える。
前座には、ほとんど電話番号が記載されていない。記載されているのは、多分実家からの通いなのだと思う。住所で師匠方になっているのは内弟子である。芸術協会では現小遊三の遊吉(遊三方)と、二つ目になっているが桂米助(米丸方)がそうだった。落語協会では現月の家圓鏡の杵助(圓鏡方)、現柳家さん枝の桂文吉(文楽方)、現春風亭一朝の朝太郎(柳朝方)。ちなみに現柳家小満んの桂小勇も二つ目だが、師匠文楽方になっていた。
寄席文字の方には橘右朝の名前も見える。(彼は後に古今亭志ん朝門下で落語家になる。将来を嘱望されていたが、2001年、惜しまれつつ52歳で没した。)

芸能プロダクションでは「鬼の暁」(二代目円歌の子息が経営していた)に並んで、出口一雄の事務所が載っている。社名は『デグチ』。出口さんらしく、あっさりしてますな。住所は夫人の実家の新富町。電話を2本引いているところを見ると、繁盛していたのがうかがえる。今を時めくマセキ芸能社も名を連ねていた。

ところで、裏表紙を見て驚いた。発行が昭和46年8月31日。ということは黒門町桂文楽の、伝説の最後の高座、まさにその日ではないか。この小冊子を受け取った時の出口さんの心境はどのようなものだったのだろう。色々思いを巡らせてしまったよ。 

いやあほんと、1日眺めてても飽きないな。Suziさん、いいものを送ってくださり、ありがとうございます。以後宝物にさせていただきます。

2016年6月9日木曜日

伸治の話

さて、お次は「伸治の話」である。
桂伸治は後の十代目桂文治。父親は三代目柳家小さん門下の柳家蝠丸。新作落語「女給の文」の作者である。初代小文治に入門して、前座名を小よし、二つ目になって伸治と改名した。伸治のまま昭和33年に真打昇進。芸術協会ではこの年、春風亭柳昇、三遊亭小圓馬、桂小南、春風亭柳好、三笑亭夢楽が真打に同時昇進し、皆、売れっ子となった。以後彼らは後の芸術協会の屋台骨を支えていくことになる。伸治は、昭和54年には桂派の止め名である文治を襲名。江戸前の滑稽噺の名手として、「親子酒」「あわてもの」「湯屋番」「豆屋」「牛ほめ」などで寄席の客席をぐわんぐわん沸かせた。晩年は桂米丸の後を承け、四代目の芸術協会会長を務めた。

ではSuziさんに語っていただこう。
「伸治の面白いところ・・・というか、エエーー!!考えられないーー!って事なんですが、伯父から聞いた話ですのでホントかどうか・・・?
『伸治の家ってのはナ、不思議な家だよ、全く。あのナ一、敷地内にナ、家のほうに本妻がいてナ、離れの方には妾のほうが居てね、この二人が又仲がいいんだよ。おかしな構成なんだよなあ。それでな、伸治が悪さするとナ、妾と本妻が組んで伸治をやっつける』
中学生の私だってそのくらいは解るんで、
『伯父さんウッソー』
『馬鹿、ホントの事だ』
そんな話を覚えています。」 

出口一雄がそう言っているということは、出口が亡くなった昭和51年より前のことだな。文治は大正13年生まれだから、彼が50歳前後の頃だろうか。
妻妾同居(正確に言えば別棟だが)というのは、いわば男の理想なのかもしれない。でも、私は御免こうむる。

「さ、もう一つホントの話をしましょう。今はどうなったか知りませんが、昔は赤坂辺りにはクラブが多かったんですよ。そのクラブには外国から来た凄い芸人や踊り子も出る。その合間の幕間に落語家の下ッ端や、漫才師、ボードビリアンなどが余興に出ます。殊に新年は稼ぎ時。私は伯父のところにお正月で遊びに行っていました。そこへ伸治から電話がかかって来たんです。
『社長、今日の場所の名前忘れちゃって・・・、なんだか横文字ってのは、難しいですねえ』
『お!伸治か。あのナ、あれナ、キャンセルになったんだ。ありがとうよ』
『そうすか、ありがとうゴザイマス』ってんで電話を切って・・・、新年の楽しい時間が過ぎていきました。
確か、お正月も3日は過ぎていたと思います。」 

なぜ3日以降ということを覚えているのか。Suziさんはこう続ける。
「元旦は9時10時頃から、ひっきりなしに来客。毎年50人以上は来ましたね。さっと引き上げてくれる人(嬉しい!ありがたい!)。長ッ尻の人。酔っ払うとクセの悪い人(父が追ン出す)。酔いつぶれて寝てしまう人。大きくもない我が家の、確か8畳と6畳を通した部屋はもうゴチャゴチャ、戦場さながらでした。
午前中は父が来客相手に飲んでいますから、私は配膳とか片付け、ま、お燗係です。 午後、『俺はもう駄目だ!』と言って、親父さんは酔っ払って寝てしまいます。妹や弟はスキーに行ったりしていないことが多い。そもそも未成年(弟はまだまだ子供)ですし、妹はお客相手が大嫌いなので。こういうとき、父と私は、のん兵衛同士の戦友仲間意識が出る。母はお手伝いさんと台所で料理作りと、洗いもので奮戦中。それを知っているのでクリスマスや正月休暇でスキーに行く、ってのは気の毒で出来ませんでしたね。長女の損な立場です。
サア、午後は私がお客と飲む相手をします。チョビチョビ酔わないように飲みます。時には着物を着ていますので、乱れてもまずい。ま、途中からはラフな服に着替えましたが・・・。嫌な役回りでした。嫌なお客も居ますし、21、22の娘にはつらい付き合いです。でも、こういうことがあって、人との会話や様々なことを覚えられました。ちょっと話がそれますが、それに我が家はいつも来客のある家で、家族だけだと『あれ!?今日は誰も来ないの?』そんな会話が出る家でした。
母は料理の上手な人で、誰の話もおとなしく、そうですねエ、と優しく受け答える。父が若者を怒っていればトイレに行った隙に『気にしないでいいんですよ』なんて言って。診療所のレントゲン技師の人、看護婦さんも時々来ていましたし、兎に角近所の若者がよく来ていて夕飯食べて帰っていました。母は「我が家の出費は食費がNo.1!エンゲル係数高い家!」なんて冗談言っていたのを思い出します(当時エンゲル係数なるものが問題視された時代でもありましたから)。近所でも有名な、夕餉時はいつも笑い声のある家でした。
父の冗談、母の受け、私も妹も、そして弟も皆冗談や駄洒落好きの家でした。母も時々チョロット冗談を言っていましたね。
2日は父が2、3軒新年参りに出かける。我が家に親戚の来る日となります。
だから3日以降しか私は動けなかったんです。」
出口家の賑やかな様子を目の当たりに見るようだ。飾らないSuziさんの人柄は、こんな雰囲気で育まれたのだろう。出口一雄も、Suziさんの母君の手料理が好きで、よくこの家に立ち寄っていたという。

伸治の話を続けよう。Suziさんが出口一雄のマンションに遊びに行っている時のことである。
「さて・・・話も弾んでしばらく経った頃伸治から又電話が入ったんです。
『お、伸治か、どうした?』
『社長、3時間くらい【キャンセル】ってクラブ探してんですがね。ドーーーッコもそんな名前のナイトクラブありませんぜ。何処なんですかーー?』
『バッカヤロウ、おめえ、キャンセル・・・ってのはなあ、無くなった、中止、って事だよ!』
『ハア、そうすか・・・』
『今日はもう何にもねえんだろう、此処に来い!いっぱい飲め!』・・・って言うことのおかしなウソのような本当の話です。
電話を置いて伯父が言いました。『アンちくしょう、全く!怒るに怒れねえ!』
私は伸治の来る前に家に帰ったのでその後の事は・・知りません。」 

彼の得意ネタ『あわてもの』を彷彿させるエピソードである。愛嬌があって罪がない。いいねえ。
文治は80歳まで生きた。 十代目桂文治の大名跡を継ぎ、芸術協会の会長を務めた。白髪で黒紋付きの高座姿は、昭和の名人の風格を漂わせた。特に五代目柳家小さん亡き後は、数少ない江戸前の滑稽噺の名手として存在感を示した。また、頑固だが邪気のない人柄は、多くの人に愛された。彼が寄席に通勤するために利用した西武新宿線では、女子高生たちから「ラッキーおじいさん」と呼ばれ、彼の姿を見るとその日1日幸せに過ごせると噂されたという。
七代目春風亭小柳枝とはまさに対照的、「長生きするも芸の内」を、身を以て示したと言っていい。

2016年6月5日日曜日

小柳枝の話

Suziさんが、いずれ「伸治と小柳枝の面白い話」をしてくれるというので楽しみにしていた。
この小柳枝は何代目であろうか。
Suziさんはこう言う。

「私の知っている小柳枝は確か千葉の人です。青白いうらなりの瓢箪みたいな顔していた記憶があります(口の悪いのは生まれつきでして、スミマセン)。この人もオッチョコチョイの人でしたね。少し変人的なところもありました。」

まず七代目で間違いない。色川武大のいう「しょぼしょぼの小柳枝」である。
千葉県野田の出身。はじめ七代目林家正蔵(初代三平の父、九代目正蔵の祖父にあたる)門下で正太郎といった。その頃の彼について色川は「老練の味を出そうとして、なんの話をやってもしょぼしょぼしており、聴くのにかなりの努力を要する。(中略)当時、内心で、駄目な若手というといつも正太郎をまっさきに思い出した。」(『寄席放浪記』より)と書いている。
その後、六代目春風亭柳橋門に移り、昭和24年には小柳枝を襲名した。奇人として知られ、その粗忽さを示すエピソードは数多あるという。
その「しょぼしょぼの小柳枝」が化けたのだ。「化ける」というのは停滞していた芸ががらっと変わり、一気に開花することをいう。立川談志はCD集「ゆめの寄席」の中に小柳枝の『子別れ(上)』を入れて、「三代目柳好を思わせる歌い調子」と評した。色川は、その「化けた」後の小柳枝を、前述の『寄席放浪記』の中でこう言っている。「正太郎時代とは打ってかわって、華やいだテンポがあり、洒脱で、上ッ調子で、いったん転がり出すと限度知らずにハメをはずしてしまいそうなおもしろさを含んでおり、甲高い哀しい、いい声で話の中にはさむ音曲もいい。」
しかし、活躍の時期は短かった。やがて小柳枝は、糖尿病と結核を患う。糖尿病は栄養を摂ってはいけない病、結核は栄養を摂らくてはならない病である。それじゃどうするんだ、といって同僚から笑われたらしい。 

「糖尿病になって父のところに来たので知っているだけで、高座も何も見ていません。」
Suziさんの父君は、出口一雄の弟。 日本医科大を出て医者になった。長男の一雄に代わって両親と同居し出口家の後を継ぐ。彼もまた兄一雄の関係で芸界と深いかかわりを持っていた。 

「可笑しな話というのは、父が何度言ってもなかなか食べものに合点がいかない人で、『でんぷん質=ご飯とかパン』という感覚は全くない人で、品物一つ一つ言わないとダメでした。
『小柳枝さん、糖尿病はね、パンとかうどん、ご飯はダメだよ。お芋とかジャガイモもダメ。兎に角野菜や魚、脂肪の少ない肉をとりなさいね』
『へい!わかりました』 と帰っていきました。
そして1、2週間後の再診の日、
『先生!今日は絶対、絶対糖は少ないですよ。言われた通りにやってきました!』
『そうかい、すごいなあ。俺も糖尿病だけどね。俺は飯より飲みたいんで、飯なんて1日にピンポン玉1個分くらいなんだよ』
『へエーー、先生も大変ですねえ』なんて会話になりました。
『先生、自分は自信持ってるんですよ。うどんでしょ、ご飯でしょ、パンでしょ。みーーんな食べないね、今回はソバをずーーーっと食ってましたから』
『エ!なんだって?小柳枝さん、ソバをうんと食ったのかい?』
『だって先生、うどん、飯、パンは。ダメなんでしょう。だからね、ソバをバッチリ食べて腹持たせました!』
・・・・・・・・・・・・・・・・
『俺はポカンとしちゃたぜ』 と夕飯の時に話してくれたことがありました。こんな人でした。
今と違って落語界には本当に全く違うプラネットから来たような芸人さん、てのが居ました。それもわざとじゃないんです。これが地なんです。だから小柳枝さんの場合いくら食事療法を教えてもぜんぜん通じないんですよ。
『先生!無理、無理!腹減っちゃってねえ、食っちゃいました』
だから絶対に糖なんて下がらないんです。 そういえばこんなことも父は言っていました。
『俺がナ、あれもこれもダメ、こうこうこういう風にバランスをとって腹の減らないように・・・とかイロイロ言うだろう。そうするとナ、小柳枝は結構カッカと怒るんだよ。“先生。腹減っちゃ死んじまいます!”ってくってかかるんだ。こっちがいくらやり方を教えたってダメなんだよ。あれじゃ早死にすんだろうなあ』
何で亡くなったか正確には私は子供だったから知りませんが、『小柳枝は長生きは無理だろうなあ』と父はよく言っていました。」

Suziさんのお父上の予言通り、小柳枝は昭和37年に42歳で死んだ。 

立川談志が監修したCD集『ゆめの寄席』に収められている、小柳枝の『子別れ(上)』(別名『強飯の女郎買い』)を聴く。13分とコンパクトにまとめられたそれは、色川武大の言そのまま。華やかなテンポ、軽快なリズム、明るくて軽くて底抜けに楽しい。途中に入る端唄「夜桜」も粋なもんだ。何より「三代目柳好を思わせる歌い調子」が快い。近年の「一人演劇」「一人コント」の落語とは一線を画す、懐かしい落語である。
春風亭柳昇、桂小南の一つ下、柳亭痴楽とは同い年だった。芸術協会になくてはならない人になるはずだった。七代目春風亭小柳枝の早逝を惜しむ。
それにしても、「弁松の弁当」、旨そうだなあ。

2016年3月23日水曜日

三代目三遊亭小圓朝と出口一雄、そしてSuziさん②

Suziさんはさらに続ける。
「子供のいないご夫婦で家は古い家でしたが、いつもきれいできちんと掃除がされていて静かです。畳の目まできちんと掃除されている、という感じでした。でもきれい過ぎて冷たいんじゃないんです。暖かいお宅でした。谷中の、昼間でも静かなたたずまいの住宅地でした。私は隅田川の橋を撮りまくり、造形写真にのめりこんで落語家の顔写真撮影に気分を切り替えるのは大変でしたが、師匠のお宅に来るとホッとするんです。そんな気分にさせてくれるお宅でした。」 

明治生まれの芸人の家らしい、手入れの行き届いた様子を彷彿とさせる。
文楽の黒門町の家も、きれいに磨きぬかれていた。ある時弟子入り志願の若者が来て、文楽の居間に通され、そのあまりの掃除の行き届き具合に恐れをなし(弟子入りすればその掃除を自分がやることになる)、隙を見て逃げ出したという話がある。 

「小圓朝さんは派手さのある人ではなく、そういう点では落語家には全く向いてない人で、何か黙々と仕事に打ち込む無口な職人さんのような人でした。下町の伝統の小物細工の職人になったら良かったんじゃないのかなあ、なんて思ったくらいです。
文楽さんのような色男でも,金馬のような甲高い声でコマッシャクレた子供の声をやらせたらピカ一、って特徴もない。円生師匠のような、ちょっと神経質だけどスラッとした男前の着物が似合うという人では絶対にないタイプです。志ん生さんのような酔っ払って高座に上がるなんてハチャメチャなんかからは程遠い地味な地味な人です。
酒も飲まない人でした。一対一の座談ではおかしな事も言うし楽しい人なのですが、いつも笑っていて陽気な人、華のあるタイプではありません。絶対に目立たない人でした。だから彼の一番の当たりの噺は『あくび指南』。あのボーっとした、なんとはないモーッとした雰囲気が向いていたんです。
私はお弟子さん方が習いに来るその部屋で小圓朝さんをフラッシュをたかずに撮りまくりました。 タバコ好きな方でした。後方に唐紙の線の入るのがどうしても気になるのですが部屋の構造上どうにもならなくて取り除けず、写真選考5回の規定の4回目でやっとパスしました。」 

小圓朝の人柄をよく伝えてくれる。小圓朝が、その実力を認められながら売れなかった理由、そして、多くの人に慕われた理由が、このSuziさんの話からよく分かる。 

「卒業写真は違う分野から2点、と決まっています。もう一つの卒業写真は勿論造形写真で清洲の当時開発途中のあのだだっ広い地面の水溜りが干上がり割れ目の入った地面を写し、フィルムの反転処理を何回かして作り上げて、ハイコントラストの反転写真(ネガ仕上がり)を焼き付け、それを真っ赤な染め粉で染め上げて作りました。教授は発想と色合いにびっくりし、これは1回でパスしました。
何とも現実は皮肉なことです。少し説明しますと当時の東雲、清洲なんてところは今とは全く違います。行けども行けどもだだっ広い平地があるだけ。陽の光がまぶしく、人っ子一人いない、なんてことがよくありました。『東京の地の果て』みたいな広い広い場所でした。空は高く、東京にいてこんな開放感に浸れる場所はなかったですね。そんな記憶しか私にはありません。
今の清洲も東雲も私は知りません。帰国しても浦島花子。友人達は改札口で会うのではなく。車両の何処に乗り、下りたところで待て、と指示される私になっています。
ロスは広いです。でもだだっ広くて田舎です。東京はロスより狭いかもしれません。でも東京は上にも下にも広がり巨大な大都会なのです。そして美しく、清潔で治安は良く、世界一の町です。駅のスピーカーからこんな言葉が流れます。
『次の電車は予定より1分遅れて到着いたします。ご迷惑をおかけして申し訳ありません』
そんな国が世界中の何処にあるでしょうか?ありませんよ。
『タクシーに***百万円忘れた!』と青い顔して交番に飛び込む酔っ払った客。でも、すぐ運ちゃんが届けてくれる国。
夜遅く駅を降りて女が一人で家まで歩いて帰れる国。そんな国は何処にもありません。
日本は世界一の国です。私は日本に生まれ日本人として育ち、江戸っ子気質の親父と、山の手の軍人の娘として育った品良い母を持ったことを誇りに思います。そしてその運の良さに感謝します。私が米国市民権を取ったとき主人は本当に喜んでくれました。しかしこうも言われたのです。
『ミドルネームに出口と言う苗字を入れてくれたことに感謝するよ(主人は私のラストネームが妙に気に入っていました)。でもなあ、市民権を取ってアメリカンになったってSuzi はSuziなんだ。日本人の誇りは一生涯持ち続けていてほしい。俺にとってお前さんがナニ人だってそんなことはいいんだ。ただ俺が惚れた女、それで十分。それに義母さんは大好きな人だしね』
そういってアメリカンになったことの祝いの夕食をしました。今こんな事を書いているとあっちの上のほうから見ていてきっとこう言うでしょう。
『ずいぶん昔の話だなあ』
この間ふっと思い出して自分の年を考え、そして驚き、駄作川柳が浮かびました。
   気が付けば亡夫の年より上になり
私は今73才です。主人は19年前71歳で向こうの岸に逝きました。
また、こんな句も作りました。
   早く来い此処は静かで良いところ(亡夫)
私は答えます。
   まだ行かぬ土産話がちと足りぬ 
そのうちいつか向こう岸へ行けたなら、主人に、両親に、義両親に、伯父に、そして小圓朝さんにも奥さんにも会えることでしょう。そしたらこう言いたいですね。 『デジタルカメラの時代になりました。あの後ろに在った、消すのに困った唐紙の線も簡単に取り除き、あの時よりもっとマシな写真を作りますからね』ってね。」 

小圓朝のことを知る人も、今は少なくなった。今回は貴重なお話を伺う機会を持てて嬉しかった。Suziさんに改めて感謝申し上げたい。ありがとうございます。
前述のとおり、小圓朝は昭和42年、脳溢血で倒れた。青蛙房から『三遊亭小圓朝集』が出たのは、昭和44年。そこにSuziさん撮影の写真も掲載された。
小圓朝は、昭和48年7月11日、高座に復帰することなく没した。「小圓朝を撮って残しておいてやってくれ」と言った出口さん。撮影したSuziさん。お二人とも本当にいい仕事をしてくれたと思う。




「三代目三遊亭小圓朝と出口一雄、そしてSuziさん」の稿、終わり


2016年3月22日火曜日

三代目三遊亭小圓朝と出口一雄、そしてSuziさん①

以前、Suziさんが送ってくださった資料の中に、三遊亭小圓朝の写真があった。これは、青蛙房の『三遊亭小圓朝集』の口絵に掲載されたもので、Suziさんが撮影したものだという。 

三代目三遊亭小圓朝、本名芳村幸太郎。三遊派の頭取だった二代目小圓朝を父に持つ。祖父は名人三遊亭圓朝の兄弟子だった。三代の落語家である。明治25年生まれとあるから、八代目桂文楽と同い年だ。(文楽も同じ三遊派だったが、こちらは大阪から呼ばれた初代桂小南の弟子だから、落語家のスタートとしては、天と地との開きがあった。)
子どもの頃、名人圓朝から「この子は噺家に向いているね」と言われ、四代目橘家圓喬の未亡人からは「圓喬の名前をあげるよ」と言われたという逸話を持っている。『後生鰻』や『千早振る』などの音源を聞くと、なるほど、SPレコードに残された圓喬の語り口に似ている。
大正6年、橘家圓之助で真打昇進。大正11年には、三遊派でも由緒ある名跡、三遊亭圓橘の四代目を襲名、昭和2年には父の跡をついで三代目三遊亭小圓朝を襲名した。
本格派で、江戸前で、将来を嘱望されたが、売れなかった。多分、文楽・志ん生のような「新しさ」が小圓朝にはなかったのだろう。昭和42年に脳溢血で倒れ、以後高座に復帰することなく昭和48年に亡くなった。 東大落語研究会の技術顧問を長く務め、谷中初音町に住んだことから「初音町の師匠」と慕われた。 

Suziさんが撮影した小圓朝の写真は2枚。煙草を手に持って笑顔を見せているものと、小圓朝夫婦が自宅の縁側に腰を掛けているところ。いかにも明治生まれの芸人らしい、いい顔をしている。
 彼女は、これが大学の卒業制作だと言っていた。どのような経緯で撮影となったのか、興味深いところだ。(もしかしたら、彼女の伯父出口一雄も一枚噛んでいるかもしれない) 

Suziさんは次のように語ってくれた。
「伯父からある日話が来ました。
『お前なあ落語家の写真を撮る気はないか?』
いい案なのは百も承知。自分の置かれている素晴らしい環境もわかる。でもあまり乗り気ではなかったんです。理由は簡単、私はポートレートが苦手なんです。特に若い女性のなんて授業でやらされるけど大嫌いでした。
一方で落語家さんはやってみたいな、という気はありました。しかし当時の私は造形写真に凝っていて、夢中でした。これぞ写真アート!なんて夢中でしたので、これに時間を割いてしまって。今考えると、宝の山をみすみす捨てていたようなものです。だから撮っていないんです。馬鹿な事をしました。若かったんですねえ。
それでも卒業作品制作時期になり、俄かに撮ってみたくなりました。円生さんをちょっと考えたけど、何となく好きになれないムードの人で。そこで伯父に相談しました。
『お前なあ、小圓朝がいいぞ。売れてはいない地味な落語家だけど、あの顔はいいぞ。それになあ、撮って残してやってくれ』と言われました。」 

やはり出口一雄が絡んでいたか。それにしても小圓朝を「撮って残してやってくれ」というのはいい。いかにも芸人に寄り添う出口らしいもの言いだ。しかも小圓朝。選択に間違いがない。改めて出口一雄という人の眼の確かさに感じ入る。 

こうしてSuziさんは谷中初音町の小圓朝宅を訪れた。
「谷中の細い路地を入って行き、格子戸を開けると玄関。右側が縁側で小さな庭がありました。 小圓朝さんは小柄な目立たない本当に地味な人でした。いつも着物の人で、洋服を着たのを見たことはありません。奥さん手作りの巾着に扇子や手ぬぐいを入れて、飄々と谷中の路地を歩いていました。
奥さんも着物ばっかり。静かな声の太いしゃべり方で、その辺にいるおかみさん。人柄が本当にいいお二人なんです。なんだかホッとする雰囲気の、まさにお人好し夫婦でした。伺うと、お菓子とお茶を出して下さって。
でも、師匠は結構忙しいんです。ひっきりなしに次から次へと若手の落語家連中が来るんです。落語を習いに来るんです。小圓朝さんという方は、当時落語界では右に出る人がいない、というネタ持ちの人でした。あらゆる師匠の弟子さんが自分の師匠に言われて小圓朝さんのところに来る、そんな人でした。縁側に面した6畳か8畳間の部屋に入り習っている声が聞こえます。その間は撮影が出来ないので、奥さんとお菓子をいただきながら、お茶飲んで話します。話をしていてホッとする人でした。」 

平凡社から出た『古今東西落語家事典』の中に、小圓朝について次のような記述がある。
「骨格がしっかりしているだけに稽古台としてうってつけであり、多くの噺家が稽古に来たばかりでなく、東大落語研究会の学生の実技指導を長年行なって、プロよりも優先して稽古をつけてもらった東大生は百人にもなる。」
Suziさんの描くそのままである。



三代目小圓朝の実父、二代目小圓朝。
八代目桂文楽が初代桂小南に入門した当時、三遊派の頭取だった。
五代目古今亭志ん生の最初の師匠でもある。


2016年2月17日水曜日

出口一雄、交通事故に遭う

出口一雄と京須偕充が出会った昭和48年春、出口は既に昼間も酒を飲むようになっていた。
三遊亭圓生は京須との雑談の中で、
「どうもあの出口てェものは、以前はまことにテキパキと切れる男でしたが、この数年少々変わりました。交通事故がいけなかったのかな」
と前置きしながら、
「何年か前になりますかねえ、たしか神田の須田町のあたりだったと思いました。どういう事故か、あたくしはよく知らないが、頭を打ったとかで、一時は危ぶまれてあたくしどもも随分心配しました。まア、いい按配に治って仕事に戻ったんですが、その頃でしょうかねえ、昼間も飲むという話を聞くようになったのは。やはりどこか具合が悪くて酒で紛らそうとしているのかも知れませんねえ」
と語ったという。(圓生の台詞は、京須偕充著『みんな芸の虫』中「鬼の眼にも涙」から引用した) 

この交通事故について、Suziさんに訊いてみたら、こんな答えが返ってきた。 

「帰宅するのでタクシーに乗っていたら(もう夜中近く)、そのタクシーが交通事故に遭った。(運転手が悪いのではなく相手が横からものすごい勢いで当たってきた)どういう訳か運悪く伯父の座ってた側のドアが開いてしまい投げ出された。これも運悪く、頭のてっぺんを歩道の縁石にパッカーーっとぶっつけた。飲んでいるから本人はビックリもしなかったらしいけど、ひどくぶつけ、出血多く一時は危ない!!ってな状態でICU入りでしたが、助かったんです。伯母は驚いたーーー!、って言ってましたよ。(事故の時間帯とどんな状況だったか―縁石に当たった云々など―は事実です)
私も病院に行きましたが、包帯をぐるぐる頭に巻いていました。『わー、凄い』と思わず声を出しましたね。
芸人さんからの花束のお見舞いがメチャメチャに多く、香りと花粉でくしゃみが出ると圧がかかって出血が止まらないからと、医師から花束禁止令が出されたんです。そこで、カードだけは残して花束は他の病室行き。何をやっても何が起きても落語の世界です。
カードと言ったって日本はカードを書くなんてカッコイイカードはないし、ましてやその当時の落語家さんはそんなことには無縁の世界の人たち。花束に棒に刺さった小さな宛名書きの札がくっついてくるだけですからねえ。その紙っ切れがうず高く窓際に積まれていて、なんとも殺風景な病室でした。
そしてカード(?)を残した理由は、後になって伯母が礼状やお返しをする人たちへの記録でどうしても必要だったんです。
この頃は確か伯母の妹の御主人の水野さんが秘書をやっていたんじゃないかな、と記憶しています。」 

その後、出口の様子がどう変わったかは詳しくは分からない。仕事仲間からの印象では、事故からの復帰後、昼間でも酒を飲むようになったということらしい。(私は、桂文楽の死もそこに大きな影響を与えていると思うのだが) 

Suziさんの証言によると、やはり出口が昼酒をやるようになったのは事故後のことらしい。
さらに彼女はこう語る。 

「私の勝手な想像ですが、文楽師匠が亡くなったのが一番の原因だと思っています。それがたまたま事故の頃と重なり、事故の後遺症(首が思うように動かなくなったという)もあり、だと思います。人のバイオリズムってツキの良いときはいくらでも良い風が吹き、良くない時は良くない激しい嵐の風が吹く、のではないでしょうか。伯父は寂しくて仕方なかったのではないかと思いますね。私の父もそんなことを言っていました。
そしてもう一つ、事故後は急にお酒に弱くなったのも事実です。すぐに酔ってしまうんです。足元もふらつきが早くなりました。年齢と心の不安定、そんな要因が全て重なったのだと思います。姪の私と何気ない話をしていても少量のお酒で酔いの回るのが見えましたし、文楽さんが亡くなった後は急加速で涙もろくなりましたね。」 

この事故が、その後の昼酒の件も含め、結果的に出口の寿命を縮めることになったのだろう。
内海桂子は「出口さんは交通事故が元でお亡くなりになってしまいました。」と新聞社の取材に答えている。

内海桂子の記事。
Suziさん提供。

2016年1月29日金曜日

出口一雄 桂文楽との別れ

文楽・志ん生の最後の会談の2日後、昭和46年11月2日、文楽は駿河台の日大附属病院に入院する。少量の吐血を見たため、検査のためにというのがその理由だった。
経過もよく、12月18日に退院する日取りを決めた。前夫人である寿江の3回忌を済ませ、現夫人梅子と彼女との間に生まれた長男益太郎も籍に入れた。益太郎も嫁を迎え、退院した暁には、皆で揃って水入らず、快気祝いをしようという話になっていたという。
12月10日に文楽は人間ドックに入り健康診断を受けた。しかし、11日の夜、容体は急変する。その時、主治医西野入尚一は、医局の旅行で熱海にいた。知らせを受けて東京に戻ったのは12日の朝。その日は日曜日で人も手薄だった。西野入は器具をかき集め、懸命に処置したが、大量の吐血が繰り返される。そして、午前9時20分、八代目桂文楽はとうとう帰らぬ人となった。
川戸貞吉との対談で、西野入は「時間が全然足りなかった。もし、スムーズにやれたら、100%とは言わないけれど、とにかくあんなに急には逝かなかったろう。何日かはもたせられたはずだ」と悔やむ。
京須偕充がネットに発表している「落語みちの駅」によると、出口一雄は11日の夜、病院に駆け付け、まだ意識がはっきりしていた文楽の枕辺から離れることなく、翌日の臨終に立ち会ったという。だから、後に出口は文楽最後の日付を「12月11日」と言い続けた。「駆け付けた11日の深夜から何時間か出口一雄の心の時計は停止していた」と京須は書く。
退院する予定だった12月18日、浅草東本願寺において、落語協会葬を兼て告別式が執り行われた。喪主は長男益太郎、葬儀委員長は、当時の落語協会会長六代目三遊亭圓生だった。圓生は弔辞で、「戦後、人心の動揺、人情、生活と、依然とは移り変わり行く世相で、勿論落語界も、世間のあおりを食い、動揺したその中で、貴方の芸は少しも、くずれなかった。我れ人とともに時流に押し流されやすい時に、貴方は少しもゆるがなかった。」と述べ、「それが立派な芸であれば客はよろこんでくれるのだ、これでいけるのだ」と自分を含め人々に勇気を与えてくれた、と感謝した。実際には反りが合わなかったであろう二人だが、これは圓生の正直な気持ちなのだと思う。
告別式の前日、黒門町の自宅近くの黒門会館で通夜が営まれた。この席で、出口一雄は大西信行に、文楽最後の高座の様子を語ったという。『落語無頼語録』から引用する。 

「とても見ちゃいられなかった―」
  黒門会館のいちばん奥でコップの酒を顔をしかめて飲みながら出口マネージャーが言うのを、そうだろうな、さぞせつないことだったろうとぼくはうなずいていた。まだラジオ東京といっていたころのTBSで、文楽たちと契約を結び、民放の落語専属制度を確立させたのが出口マネージャーだった。定年でTBSを辞めてプロダクションを始めてからも、いまの世の親子との間ではとても見られぬこまやかな情愛で文楽の面倒を見続けて来た人だったから、いまもし文楽が命を終えていなかったら出口マネージャーの方がせつなさのあまり死んでしまったかもしれないと思った。
 (中略)
  「三代目になっちゃったよ・・・」  と、言った時に、我慢しきれずに泣いたのは文楽ではない。出口マネージャーだった。文楽自身は涙ひとつ人には見せていなかったのである。
  いつか自分が三代目小さんの悲惨さを味わうだろう日のあることを、文楽はすでに予知していたのではなかったか― 

この場面で大西は、「文楽は自殺をしたのではなかったか」という直感に襲われる。
このスリリングな展開は、どうか『落語無頼語録』中の「桂文楽の死」をお読みいただきたい。 

京須は『みんな芸の虫』に収められた「出口一雄 鬼の眼に涙」で、出口が文楽の最期について語る場面を、次のように書いている。場所は新富町の一角にある小さな洋食屋。出口はここでコロッケやカキフライをつつきながら、コップ酒を飲むのを好んだ。
以前にも載せた文章だが、再度引用してみる。

「黒門町の最期はかわいそうだった・・・。病院のベッドで血を吐いてな・・・」
  出口さんはプイと横を向いた。見られまいとしたのだろうが、涙は隠しようがなかった。小さなテーブルの差し向かいで、出口さんは老眼鏡を外していたから、大粒の涙がとめどなく頬を伝うのが見えた。
 「あれだけの名人だったんだ。あれだけいい噺家で、あんな品のいい綺麗な芸だった・・・。だから、せめて死ぬ時は・・・、高座であんなことになっただけに、せめて逝く時だけは、綺麗事にな・・・、わかるだろ、綺麗に往くところへ往かしてやりたかった。それが・・・。くやしいけれど、思うようにゃアいかねえ」 

文楽の死後、出口は酒を飲むと泣くようになる。これは出口を知る、誰もが言うことであった。
Suziさんも、「伯父は、文楽さん亡き後は『黒門町』って言葉が出てきたらもう泣き、って感じ、本当にガクーっときていました。父も『兄貴も涙もろくなったなあ』と言っていました」と証言している。

2016年1月11日月曜日

文楽・志ん生最後の会談

昭和46年10月31日、八代目桂文楽は、五代目古今亭志ん生宅を訪れる。これが、文楽・志ん生、最後の会談となる。
この会談は出口一雄がセッティングしたものだ。
この経緯について、出口と親交の深い、東京新聞記者、富田宏が次のように書いている。  

  もとTBSの演芸部長で、いま出口プロダクション社長の出口一雄さんから「そのうち黒門町(文楽さんの通称)と志ん生をあわせようよ。ここんとこ黒門町が元気ないんだ。半身不随の病気でも明るくやっている古今亭(志ん生)と話をさせたら、気が晴れるんじゃないかと思ってね」といって来た。十月半ばのことで、天気のいい日を見はからって、機会を待った。そして十月三十一日日曜日の午後、黒門町、いまは台東区上野一丁目とかわった文楽さんの家で落ち合って、日暮里の志ん生さん宅へ行った。 

この記事は、昭和46年12月13日、つまり、文楽死去の翌朝の朝刊に載った。
この後、弟子に自分が飲むウィスキーのボトルと、志ん生に飲ますつもりの日本酒の一升瓶を持たせて出かける場面が描かれる。
文楽は、お膳の上にあったクリせんべいを見つけ、「これを孝ちゃん(志ん生の本名は美濃部孝蔵という)に食べさせよう」と言って、その箱をポケットに入れた。
出口の言う「黒門町の元気がない」という件について、富田はさらに以下のように続ける。

  出口さんがいう「黒門町の元気がなくて―」というのは、実は私も気にしていたところだった。出口さんはTBS時代、専属落語家制をいち早く打って、ラジオ・テレビの落語ブームのきっかけを作った人だ。若いころから寄席演芸界を見ていて、芸人の気持ちをだれよりも理解してくれると、文楽さんはこの人を全面的に信頼し、実の親子のように気持ちが通い合っている。その出口さんが、文楽さんの高血圧や、手のリューマチや、糖尿など以上に気にしていたのはこの夏以来の気うつ症だ。
  原因はTBS主催で毎月末、国立小劇場で開いている落語研究会で七、八月と二回続けて高座でミスをしたことだろうという。「鰻の幇間」と「大仏餅」で、間違えたり、ことばがでなくなったりした。「大仏餅」では、客にわびて途中で高座をおりてしまった。
  それからあとは「高座ではしゃべらないよ」と宣言して、寄席も休み、公園めぐりをしたり、なつかしい人や場所をたずねたりした。そして親しい人には、三代目柳家小さんが、老衰してもなお高座を勤め、時に失敗したみじめな様子を語って、言外に「あたしは、ああはなりたくない」とにおわしていた。
  座持ちがうまくて、日常は明るい笑い声を絶やさない人だが、一面小心。ことに自分の芸には神経質なくらいで、書でいえば楷書の芸。一字一句をゆるがせにせず、みがきにみがきあげた芸が特徴だった。「やります」「勉強中」といっていながら、とうとう高座にかけなかっただしものも多い。だから、落語研究会のミスがひどいショックで、三代目・小さんのイメージと重なって、ノイローゼになったふうにもみえる、と出口さんはいうのだ。

この会談の様子は、最初11月15日付の東京新聞夕刊に掲載された。残念ながら、私はそのすべてを読んではいない。矢野誠一の『志ん生のいる風景』にその一部が紹介されているが、それによると、文楽はウィスキーのお茶割り、志ん生は日本酒の水割りを飲みながら話をしたという。
録音されたものを、山本益弘が聴いてまとめているので、その文章を紹介しよう。出典は『文藝別冊 八代目桂文楽』に収められた「あばらかべっそんの哀しさ」からである。

  久しぶりに向かいあったふたりは、あいさつを済ますと、これといって話すことがない様子で、
 「文治さん(九代目)はどうです」
  と、志ん生が口を開くと、
 「達者ですよ」
  と、文楽が答え、しばらく沈黙が続き、こんどは文楽のほうから、
「きょうは頭がきれいだね、何で刈ってるの。電気カミソリ?」
  と、尋ねれば、
「何で刈ってんのかね、知らねんだ」
  と、志ん生が言葉を返すような会話が続く。それでも、そこに居あわせた人たちを退屈させてはいけないという、持ち前の芸人根性が頭をもたげたらしく、文楽が懸命に話題をつくろうとする。
  文楽が庭先にそのキッカケを見つけたらしく、
 「あのね、ほら、蔦がね、むこうの家にからんでんだろ、蔦がからむことについては大へんだよ」
  と、高座の口調そのままに言うと、
 「蔦(下)にいろうなんて…いばるんだよ」
  と、志ん生がすかさずシャレで返した。
  (中略)
  二人に共通な話題ということで、文楽が食べものの話をしはじめた。
 「あたしは、神田川(神田明神下にある鰻屋)がひいきなんだけどね、こないだ、さる方に連れられてね、築地の竹葉亭に連れてかれましてね、そいでね、久かたぶりで白焼を食べました。うまいんだよ、また」
 「うまいんだよ、また」と、高ッ調子で早口に言うところなど、元気なときの高座の口調と少しも変わらない。この文楽のしかけに志ん生が乗って、自分の好物を唐突に言った。
 「刺身ね」
 「刺身いいね」
 「刺身はかたくって食えねえってことはないから…」
 「刺身がかたくっちゃしょうがない」 

他愛もない内容だが、そこはかとなく可笑しい。 文楽がしかけ、志ん生がすかし、さらに文楽がツッコむ。「これはもう漫才のボケとツッコミの会話のセンスだ」と山本も言う。 

この会談の記事はこのような言葉で結ばれている。では『志ん生のいる風景』から。

 〈婦人のおうわさとなる。お互い、いろいろあった勇者たちだ。志「したいことをして来たから、死ねばセコ(悪い)なとこへ行くだろう。イヌにケツッペタをくわれたりしてね」文「うん、この節、もう静かに、おむかえを待つ心境もわかってきたね」こんな話をしていても、人生を達観したふたりは陽気で、はなし家ならでは。帰りしなに、かたい握手をして、文「また来ます。このウィ(スキー)のビンはここへあずけとこう」志「ああ待ってるよ。今度は二人会の相談でもしようよ」〉 

出口一雄はこの会談に同席していたのだろうか。多分、していたんだろうな。していたとすれば、この二人をどんなふうに見ていたのだろう。
文楽は、久し振りに志ん生に会って、元気を取り戻したようにも見える。「次は二人会の相談でもしよう」という志ん生の誘いに、文楽が乗ってくれれば、と出口は思わなかっただろうか。
この時の握手の場面の写真が残っている。ダークスーツにネクタイを締めた文楽は、志ん生の右側に座り、右手で握手をしながら、左手で志ん生の肩を抱いている。紋付の羽織姿の志ん生は、体を右側にいる文楽の方に傾け(身を預けるようにして)握手をしている。そして、どこかぼんやりと、微かに口元に笑みを浮かべたような表情で、カメラの方を向いている。それに対し文楽は、唇をきゅっと引締めてレンズを見つめる。その眼はうるんでいるようにも見える。
もしかしたら、この時文楽は、この盟友と話すのはこれが最後だと、覚悟していたのかもしれない。
 会談の2日後、文楽は少量の吐血をし、日大附属病院に入院する。しかし、生きて彼が病院を出ることはなかった。

2015年12月12日土曜日

出口一雄の昭和46年8月31日

昭和46年8月31日、国立小劇場で行われた「落語研究会」において、八代目桂文楽は『大仏餅』の口演中に絶句して、「もう一度勉強し直してまいります」と客に詫び、高座を下りた。これが名人文楽の最後の高座であった。
その時のことは、ブログの「桂文楽 最後の高座」という記事で2回にわたって書いたので、詳しくはそれをご覧いただきたい。 

では、その時、出口一雄はどうしていたか。これも『対談落語芸談2』(川戸貞吉編)の中に詳しい。
 TBSのディレクターだった川戸は、その時、収録のために中継車にいた。文楽の絶句に衝撃を受けるも、次の立川談志の落語を収録しなければならない。焦る気持ちを抑えながら仕事を終え、楽屋に駆け付けた時には、もう文楽は帰った後だった。
偶然客席に居合わせ、文楽を診察した主治医西野入尚一は、川戸との対談でこんな証言をしている。 

西野入「出口さんはウロウロウロウロしてた。」
川戸「ウロウロというのは、そばを歩き廻っていたの?」
西野入「うん。周囲(まわり)をウロウロウロウロ。出口さんにしてみりゃァ、『これで黒門町が駄目ンなったらどうしようか』ッていうのが、頭にあったんだろうな。だから、『どうしよう先生?! 大丈夫?!』ッて訊いてくるのが、もつれちゃッてさァ、口が。」
川戸「ああ。私がね、談志さんを録り終えて、アタフタと楽屋のほうへ駆けつけてったときには、もうすでに文楽師匠はいなかった。」
西野入「そうでしょう。」
川戸「ただ、出口さんが呆然とねェ、魂の抜けたような顔をしていましたな。」
西野入「そうだろうなァ。」
川戸「ボーッとしちゃってねェ、立ってるだけ。『どうだったの出口ッあん、容態どうだったの?』ッたらねェ、首ィ振んですよね。口きかないの。『(黒門町は)“三代目ンなっちゃた”ッていってた』ッていうだけ。」 

「三代目」というのは、三代目柳家小さんのこと。大正から昭和初期にかけて名人といわれた人だ。夏目漱石は『三四郎』の中で、登場人物の与次郎の口を借りて「小さんは天才である」と激賞した。
それほどの名人が、晩年は耄碌して、噺が同じところをぐるぐる回ったりした。その度に前座が噺の途中で幕を下ろしたという。
文楽は若い時にその惨状を目の当たりにしていて、常々「三代目にだけはなりたくない」と言っていた。

口なれた『大仏餅』、しかも前日の東横落語会では同じ噺をそつなくこなしていたのだから、その衝撃は大きかったに違いない。 
しかし、その予兆がなかったわけではない。 前回の落語研究会で、文楽は『鰻の幇間』を演じたが、それは惨憺たるものであった。(その時の高座は現在DVDに残っている。私が見ても正直つらい。若い落語ファンはこれを見て「文楽なんてこんなもんか」などと、どうか思わないでほしい。)
だからこそ、文楽は、いずれ来るかもしれない「三代目になる日」のために、詫び口上の稽古をしていたのである。 
出口もまた、その日が来るのを恐れていたのかもしれない。
しかし、彼もまたそれが現実にやって来ようとは、思ってもみなかったのだろう。いや、思いたくなかったと言った方が正確なのか。 

大西信行は『落語無頼語録』に収められた「桂文楽の死」という文章の中で、文楽絶句の場面をこんなふうに綴っている。
      *       *       *
  話の途中で詫びを言って、まるい背中をいよいよまるくかがめて舞台を去ろうとする文楽にはいたわりの拍手が湧いた。文楽はその拍手をゆっくり体中で味わうように、しずかに舞台の袖に向かって歩き続けた。
  そこには出口マネージャーが顔をこわばらせて立っていた。文楽が袖幕の蔭へ体を運んで来るのが待ちきれない様子で、両手をさしのべて文楽を抱いた。
  「出口君、ぼくは三代目になっちゃったよ」
  文楽が言って、我慢しきれずに出口マネージャーは泣いてしまった。
     *       *       *
出口一雄の心中察するに余りある。言葉にならない。
ただ、文楽の容態はそれほど心配するほどでもなかった。普段の会話でも、ろれつが回らないといったことは見られなかった。
だから、周囲はいずれ高座に復帰するだろうと思っていたらしい。
しかし、これ以降文楽は、誰が勧めても頑として高座に上がろうとはしなかった。
至上の喜びだったろう、落語家桂文楽のマネージャーとしての仕事を、出口はこの日を最後に失ってしまったのである。

2015年10月26日月曜日

出口一雄と月の家圓鏡(八代目橘家圓蔵)

先日亡くなった八代目橘家圓蔵は、1953年(昭和28年)、七代目橘家圓蔵に入門した。竹蔵の名前を貰うが、当時、大師匠の八代目桂文楽に前座がいなかったため、内弟子のような格好で黒門町に預けられた。
1958年といえば、文楽がラジオ東京の専属になった年だ。後にデグチプロの稼ぎ頭になる月の家圓鏡(後の八代目橘家圓蔵)と出口一雄との関係は、文楽と出口が本格的にタッグを組んだのと同時期に始まったのである。
竹蔵は1955年(昭和30年)に升蔵と改名して二つ目に昇進。この升蔵時代からラジオで売れ出すことになる。(「ラジオ出演が売れ始め」ということは、ラジオ東京プロデューサー、出口一雄の影響がないとしたら不自然だろう。)
1965年(昭和40年)、師匠の前名である月の家圓鏡を襲名して真打昇進。その後は、ラジオ、テレビ各局総なめの売れっ子となる。 
京須偕充が、三遊亭圓生のレコード制作交渉のため、出口の事務所を初めて訪れるのが、1973年(昭和48年)のことである。その時に彼は月の家圓鏡と居合わせた。圓鏡は、二人いる出口の部下のうちの一人と、にぎやかにヘボ将棋に興じていたのである。
その時の様子を、京須はこんな風に書いている。(『落語名人会夢の勢揃い』より) 

 何かの都合で時間つぶしをしていたらしい圓鏡はまもなく立ち上がった。外へ出るとき、見知らぬ私と出口への挨拶をかねて、「デグチプロとどんどん仕事をしてください。モーカリマスヨ!」と大声で叫んだのを覚えている。口火を切ったばかりの地味な対話劇に突然予定外のCMスポットがぶち込まれたようで、私は一瞬あっけにとられ、出口は小さく苦笑した。 

人を食ったような、しかし人をそらさない圓鏡の人柄がよく出ている。
出口は圓鏡を買っていたようだ。 Suziさんはこう語る。
「『あんなバカ言ってるけど、こいつほど利口なヤツに会った事はない』伯父はそう言っていました。ド近眼で分厚いメガネかけていました。今こういう表現をして解ってもらえるかどうかですが、牛乳瓶の底みたいなあんなレンズでした。伯父の死んだ後は彼がデグチプロを買いました。当時人気の出だした毒蝮三太夫の向こうを張るために。
彼は一般の人には受けていたけど(利口だから立ち回りが上手い)、芸人仲間ではそれなりにマークされていた人です。(利口過ぎてソツなさ過ぎて嫌われていたと言うか、ちょっとねたまれたのかな。それくらい反応が早く相手の言うことをパッと先まで読める人でした)
圓鏡は一度円形脱毛症をやりました。芸能界を生き抜くってそれは大変な神経がいります。そういうストレスからなったんです。ある日朝起きたらとか髪の毛をとかした途端に突然パカッと2、3センチの円形禿げ出現なんですからね。びっくりしますよ。時々定期的に医者だった父のところに来て注射を打っていました。あまり世間に知れちゃまずいんですよね、こういうことで。芸人が生き延びていく、人気を保つ、ってことは並大抵の努力と神経じゃ勝ち抜けないんです。痛い注射だそうですよ。何ヶ月か続けてきていたようですが、どのくらいの期間だったかは覚えていません。
『あんな利口なやつでも神経がすり切れるんだなあ。禿げるのか』そんなことを伯父は言っていましたね。伯父がとっても信頼していた、若手の、気心の合う関係の人でした。」

出口の死後、圓鏡は二人の社員を引き取って、デグチプロを引き継いだ。そして、名前を「一八プロ」に改めた。落語ファンにはおなじみ、落語に登場する幇間の名前から取ったものである。
その後圓鏡は、決して本格派ではなかったものの、本業の落語の方でも評価を上げ、1980年代初頭には、志ん朝・談志・圓楽と並び「四天王」の一角を占めるようになる。
1982年(昭和57年)師匠の名を継いで、八代目橘家圓蔵を襲名。落語協会の重鎮として、また爆笑派の旗手として、長く寄席の高座に上がり続けた。細かい気配りで、他の一門の落語家にも人望は厚かったという。
もしあっちで再会したとしたら、出口さんはデグチプロを引き継いだ圓蔵さんに、どんな言葉を掛けるのだろうか。
Suziさんは言う。 「私の想像ですが、『お前よく引き受けてくれたよ。』それ以上のせりふは伯父にはないでしょうねエ。伯父は男同士では特に口下手の優等生でしたから。 今頃志ん生さん、文楽さん、そこに私の父も加わり〈くさやの干物〉で一杯じゃないでしょうか。 圓鏡さんは『アタシャそう飲めるほうじゃなくて。そんなに飲んじゃうちのセツ子に怒られ・・・』 『バカヤロウ、カミさんにペコペコすんな』なんて志ん生さんが言って。そこへ三亀松さんが三味線持ってきて・・・『どうです、お一つ』、なんて・・・。」
彼女はこうも言っていた。
「(圓鏡さんが亡くなって)どんどん昔話が増えますねエ。益々伯父の事を知っている年代は居なくなってしまいます。頑張って書き残さないといけませんね。寂しくなります。」 
圓蔵さんが行けば、出口さんは「ご苦労さん、まあ飲め」と言って、剣菱の瓶を傾けるだろう。圓蔵さんが頭をかきながら、困ったような笑顔を浮かべるのを、私は想像する。

2015年10月20日火曜日

続 文楽と出口③

晩年、出口一雄は八代目桂文楽について、京須偕充にこんなふうに語っている。(引用は『みんな芸の虫』中「鬼の眼に涙」から)

「放送で手がかかったのは黒門町と三遊亭だな。黒門町は用心深すぎるし、三遊亭は註文が多い」
「(黒門町は)ラジオ東京の専属になったばかりの時分が一番よかった。あとは咽喉を痛めたりして、当人も臆病になったしなア」 

文楽が小心で臆病なことは、彼を知る万人が認めるところである。文楽の弟子、七代目橘家圓蔵は、「師匠は『河豚は喰いたし、命は惜しい』といった人でした」と言っている。
その部分を、出口も十分に承知していたことが、前述の台詞で分かる。 

文楽が「咽喉を痛めた」のはいつか。河出書房刊『文藝別冊・八代目桂文楽』の年譜によると、1954年(昭和29年)に「喉のポリープ除去手術を受ける」とある。文楽62歳のことだ。
私が見た「文楽年譜」の中で、喉のポリープ除去手術に触れたものは、これだけ。(ちなみに、1961年、昭和36年には「この歳、入れ歯を入れることになる」との記述もある。こういうところが、この本の値打ちだと思う。)
1954年といえば、文楽がラジオ東京の専属になった翌年。出口は、文楽が臆病になった転機を、ここに見ていたか。 

実際、咽喉の手術は、文楽の芸に少なからぬ影響を及ぼした。
川戸貞吉編『落語芸談2』には、このような件がある。 

川戸「昭和30年代の文楽師匠は、実にいい声でした。晩年の頃とは雲泥の差でしたね。」
円楽「そう。咽喉を手術したのが昭和32年頃だと思いますが、手術して、しばらくは元に戻らなかった。」
川戸「ええ。」
円楽「声がちょっと高くなっちゃってね。キンキン声ンなっちゃった。全盛期の錆びた声がうわついちゃってね。」
川戸「そう。」
円楽「それを気にして、とてもイライラしてた、一時はね。」
川戸「ああ。」
円楽「だから、あんな練れた人が八方に当たってましたよ、その時分は。楽屋でも自分の家でもね。」
川戸「まあイライラしてたんでしょうね。思うがままに声が出ないということで。」 

また、圓楽は自署『圓楽 芸談 しゃれ噺』の中でこんなことを書いている。 

 これははっきり覚えているんですが、昭和32年、文楽師匠がのどの手術をしたあとでイライラしてたんでしょう。幹部会の席で金原亭が何気なく上座に座ったら「清っ(馬生の本名)、お前はそんなとこに座れる芸人じゃないんだっ」って黒門町が怒った。
 金原亭も若かったですから、むかっとしたんでしょう。そのことを家に帰って愚痴った。
 そうしたら古今亭が怒ってねえ。
 そのときはまあ、林家が間に入って丸くおさめたんですが、人前で自分の子供が恥をかかせたら許さないっていうところがありましたね。旗本の血も騒いだのかもしれません。

圓楽は、文楽の咽喉の手術を昭和32年(1957年)と記憶している。
咽喉の手術が、昭和29年なのか、32年なのか、それとも2回にわたっての手術だったのか、正確な所は分からない。
ただ、この手術が、文楽の芸にとって大きな転機となったのは、間違いなさそうである。
そして、昭和36年には文楽は入れ歯を入れる。そのことによって、滑舌が悪くなった。
色川武大は、「入れ歯以後の口跡によるものは、いたしかたないとはいえ、真正の文楽とは認めがたい」と言っているし、春風亭小朝が声の分析を依頼した日本音響研究所の主任研究員は、文楽を「本当に素晴らしい声の持ち主です」としながらも、欠点として「各音韻の区切りが曖昧ではっきり聞き取るのが難しいところがある」と入れ歯の影響を指摘している。 

五代目小さんは、芸についてこんなことをよく口にした。
「芸ってのは、上がるだけ上がると、そっから先は落ちていくもんなんだ。」
文楽は、歌人吉井勇からもらった「長生きするも芸のうち」という言葉を終生大事にした。出口も「芸も大事にしたが、身体にも気をつかった。神経質だったな」と言っている。
確かに健康に気を付けることで、文楽は80年近い齢を保つことができた。戦後すぐに落語協会の会長になった四代目柳家小さんは1947年(昭和22年)に60歳で、睦の四天王で売れた三代目春風亭柳好は1956年(昭和31年)に69歳で、共に三代目三遊亭圓馬の薫陶を受けた三代目三遊亭金馬は1964年(昭和39年)に70歳で、それぞれ世を去った。1971年(昭和46年)まで高座に上がっていた文楽の現役生活は、同世代の落語家のそれよりも長いものだったといっていいだろう。― 五代目古今亭志ん生ですら、1968年(昭和43年)以降は高座に上がっていないのだ。
 しかし、一方で文楽は、臆病さゆえに噺の数を限定し、いわゆる十八番しか高座に掛けなくなった。また、無器用さゆえに噺のスタイルを変えることもできなくなっていた。体力気力が充実した頃に確立した演出で、彼は70歳を越えても演じようとした。当然、完成されたスタイルと衰える身体とのギャップは、年を経るにしたがって次第に大きくなっていく。
京須は、著書『落語名人会夢の勢揃い』の中でこう記す。
「歌人吉井勇に、文楽さん、長生きするのも芸の内だよ、と言われたのはいつのことだったのだろう。命短し 恋せよ乙女、と詠ったひとに長生きを説かれて、文楽はことのほか健康に気をつかったという。しかし、乙女の朱き唇は褪せ、文楽の至芸は老境に入り次第に凋落の影を濃くしていった。」
京須は「自分は誰かのファンになったことがない」と公言して憚らない人である。芸が落ちてくれば容赦なく離れる。そこにべたべたした情はない。クールでドライな一面は、時として非情に映らないこともない。 

出口が言うように、文楽の芸がラジオ東京専属契約時にピークにあったとすれば、出口は文楽の死まで、その下り坂を伴走して行ったことにならないだろうか。
特に、出口がTBSを退社し、デグチプロを立ち上げ、文楽の私生活のかなり立ち入ったところまで面倒を見始まったのは、文楽が70歳半ばを迎えた頃だった。その日々は、やがて訪れる文楽の芸の終焉へと至る道筋と重なる。
文楽の芸に惚れ、その人となりに心酔していた出口にとって、それは、さぞ切ない日々であっただろう。
そうして二人は運命の日、1971年(昭和46年)8月31日を迎えるのである。

2015年9月27日日曜日

続 文楽と出口②

文楽が出口の家にやって来た時の思い出話をSuziさんがしてくれた。以下に記す。
                      *     *
新宿の牛込だったかのアパートに伯父にアイススケートの靴買ってもらいたくって行ったんです。訪ねていったときにお会いしました。
何か欲しいと平気で「買ってよーー」って言うので、伯父にこう言われました。
「お前が言ってくるのはいいんだが、お前はいつも高ェ物ばっかりねだりやがる。この間はスキーだ、今度はアイススケート靴。それもホッケーシューズだと?! 俺は戦争中朝鮮で滑ってるから少しは面白ェのは解るけど・・・、オッ!これは弟の娘でして、跳ねっかえりでしてねえ・・・」と紹介されたんです。
「元気が良さそうですなあ」と答えた黒門町に、「こんちわ」ぺこりと頭下げた私。そうやってお会いしました。
どういう訳か文楽さんは最初っから私を可愛がってくださり、「ウン、元気が良い子はいいよ」と言ってくださいました。
何だかんだと、これもおかしなことから落語の話かなんかを、生意気にも黒門町とし出して・・・、伯父が「お前なあ・・・」と制止するのですが、私には文楽さんも偉いサンも同じ伯父のところにたまたま居る師匠、って感覚で(ま、そういう一切お構いナシの子でしたが・・)、それが師匠に受けたのかもしれません。
私はこういう子だったおかげで(?)円生さん、金馬さん、志ん生、皆かわいがって呉れました。伯父もハラハラしながらですがそのうち放っておいてくれるようになり・・・でした。 
黒門町は背の高い人ではなく、もうその当時すでにおじいちゃんのお年でしたが(私から見て、だって中学生か高校生ですから)、眉毛が長くて・・・それが最初のウヘッ!?って印象。物静かな方で、ちょっと他の落語家さんとは違い、インテリジェンスがありそう!っていう印象でもありました。それにとってもシックなグリーンのブレザーかなんか着て、カッコよかった、モダンな上品なおじいちゃんに見えました。そうそう確かにTBSのバッジが襟にとめてありましたよ。
そして話していくうちに・・・師匠の甘納豆のあの調子が大好き!!って興奮して言ったんです。
そうしたら、「お嬢ちゃん、あれもね、いろいろやり方があるんだよ」と黒門町が応じてくれたので、私は「ヘェーー???」って言ったんです。
「小粒のね、小豆があるでしょ、あれはね小さいでしょ、だからこう手の先に持ってね、チョチョッと、早く小刻みに口に放り込むのよ」
「へエーー、やっていいですか?」
「どうぞ、どうぞ」ってんで、私がシュシュッと食べる真似した。
すると、「上手い!上手いよ!」って褒めるんですよ。 「すみません」 「いやホントだよ、お嬢チャン、男だったらいいのになあ」ってマジで言ったんです。
伯父はあきれて、ビックリして見てました。 そしたら又続けて「大きい豆があるでしょ、あれはね大きいから沢山持てないし一個かせいぜい食べたって2個、だからチョッとゆっくりと口に運ぶの。時にはじっくり噛むじゃないですか、だからこうなんだよ」って又教えてくれた。
私もすぐに真似た。何しろ子供の時から人の癖を真似るのが得意な子で、ま、言うなれば私は太鼓持ち的な子供でしたから・・・すぐやった。
「上手い!すごいなあ、オセイジじゃない。惜しいなあ女の子で」 (当時女で落語家になろうなんて子は居ませんよ)そんなエピソードがあります。
伯父は文楽さんが帰って行った後、少し驚いて私に言ったんです。
「お前なあ、黒門町があんなことするってのは、後にも先にも俺は初めて見たぞ。驚いたよ」 私はただ「フーーーン」てな感じでした。
父にも帰宅後話したら父も、「お前ってヤツは・・・」ってビックリしてました。
きっと今頃あの辺の斜め上の方から、「又おいで、」って言ってくれるような気がします。そうしたら今じゃ《天上女子落語会》だって出来るでしょう。会長にでも納まろう!って夢見るのも悪くないですね。今度はおつまみだってなんだって出してあげられるし(私は写真の次にか、同等くらいに好きなのが料理、なんでス) だってものすごく物静かに教えて下さって、って印象なんですよ。
             *      *
無邪気な若い娘さんに相好を崩す文楽師匠。それが生き生きと描かれている。それにしても羨ましい体験だなあ。
Suziさんは志ん生、圓生、先代金馬にも可愛がられたという。彼女の、彼ら「昭和の名人」についての感想も聞いてみた。寸評は次の通り。 

「志ん生さんは、いつも酔っ払ってて、長屋の熊さんのお父っつあんみたいな人。小柄ででころころしてた。(でも太っているというのとは違います。どういったらいいんでしょうか?ポッチャリ型、です。貌から来る印象が今そんな風な記憶になっているのかもしれません。)時には高座で話し忘れちゃって・・・、今何話していましたっけ?なんてお客に聞いたりして・・・それが又受ける人でしたね。むちゃくちゃだけど憎めない、子供みたいなところがあって。何やらかしてもみんなが許しちゃう、そんな人。奥さんが兎に角偉かった。伯父もあんな良い内儀さんはいない。志ん朝、馬生があんなによく育ったのも内儀さんのおかげ、っていつも言ってました。
円生さんは、粋な感じで背が高く色男。女性に人気があったんじゃないでしょうか。でも細かくってケチなところが一杯在る。だから金持ち。式服用の靴はコードバン履いてました。高座でもいつも話しながら襟をしょっちゅう直しているくらい神経質な人、という印象です。 
金馬さんは、出っ歯の金馬とも口の悪い人は言いました。こまっしゃくれた子供の出てくる落語をやらせたら天下一品でしたね。
小さんさんは、(がっちりした体つきでした)。剣道好きで自宅に道場があった。おかみさんも強くて。実際にバンバン手を出してけんかしちゃうくらいな人。でも夫婦仲は兎に角円満でした。」 

文楽・志ん生・圓生・金馬・小さんなんてところが、始終出入りしている環境なんて、想像もできないなあ。
出口一雄という人は、彼ら昭和の名人たちと堂々と渡り合い、信頼を勝ち得ていたんだな。その大きさに改めて感じ入る。

2015年9月26日土曜日

続 文楽と出口①

出口一雄シリーズは「文楽と出口」という記事から始まった。
この記事を書いたのがきっかけで、出口の姪、Suziさんとお知り合いになれた。おかげで、出口一雄について色々なことを知ることができ、今のこのシリーズがある。
あの記事を書いて数年が経つ。新たに分かったことも多い。この辺でもう一度、出口と黒門町八代目桂文楽について書いてみたいと思う。 

そもそも、文楽と出口の出会いはどのようなものであったのだろうか。
文楽の弟子、柳家小満んは著書『べけんや』の中で、こんな風に書いている。 

「出口一雄さんはレコード会社にいる頃は志ん生師匠と大変に親しかったようだ。その頃の志ん生は、次々と新作、改作のような落語を持ちこんではレコード(SPレコード、両面十数分)に吹きこんでいったそうで、『女給の文』『夕立勘五郎』『電車風景』等々、後世にも残る名作、珍作もあった。
  そんな志ん生師匠と出口一雄さんとの縁から、落語家五人によるラジオ東京との専属契約となったが、当の志ん生師匠は、契約早々他局へ出演してしまい、 『専属てえのは不便だねえ……』 と云いながら、さらにニッポン放送へと専属替えをしてしまったのである。」 

これを読むと、出口は、レコード会社時代親交のあった志ん生を介し、文楽・圓生・小さん・桃太郎と専属契約を結んだことになる。ということは、文楽との本格的な関わりは、この時期に始まったと言っていいだろう。
しかし、この人選については出口の意向が大きく反映していると思う。あくまで、志ん生を含め、この5人を選んだのは出口一雄なのだ。 

出口が文楽の芸に惚れていたというのは、誰もが認めることである。
文楽が、翁家馬之助で真打に昇進したのが大正6年(1917年)、出口10歳の時、八代目桂文楽襲名が大正9年(1920年)、出口が13歳の時である。出口の家は裕福な商家、芸事には恵まれた環境だ。芝居や寄席等は、なじみの深い場所だったに違いない。加えて出口は15歳の頃から花柳界に親しむほどの早熟ぶりを発揮していた。
その時期に、文楽は睦の四天王として大いに売れ、「馬之助の情婦になるとケツの毛まで抜かれる」と噂されるほどの色男だった。
出口少年の憧れの存在であったとしても不思議はない。
そして、出口がポリドールの社員時代、志ん生と交流のあった頃(昭和10年頃か)、文楽と志ん生は同じ睦会の高座に出ていた。志ん生を通じて文楽と知り合ったのが、実際にはこの時期なのではないか、と私は見ている。TBS専属以前から、出口は文楽との仕事を切望していたように、私には思えてならないのだ。 

いずれにせよ、TBSで出口は文楽のプロデュースを始める。それは、三遊亭圓楽が『落語芸談2』(川戸貞吉編)の中で語ったように、文楽の芸の特質を知ったうえでの、きめ細やかに行き届いたものだった。以前記事にしたものだが、それを再録してみよう。

「まず出口さんというもっとも桂文楽を愛していた人を番頭さんにしたということね。これァもう番頭さんというよりブレーンですね。
それからTBSの専属だったということ。それがためにあの文楽師匠は、時間の制約がなく、気ままに出来たっていうことがあるでしょ、あの師匠に限っては。 おそらくねェ、どのネタでも、文楽師匠のはぴったり28分なんて、30分番組に寸法通りの噺はないですよ。みんな23分であったりね、21分であったり。20分デコボコが多いんですよ。そうすとね、あとどうするかというと、対談やなにやらで埋めて、そうして大事に使われたということですね。
そして季節感のある噺が多かったもんですから、夏ンなると『船徳』、『酢豆腐』、ね?冬ンなるとなにッていうふうに、ピシャアッと頭ンなかで全部出口さんが計算して、出してましたね。したがって、飽きも飽かれもしなかったということね。」

その中で、出口自身、文楽の芸に感動し、いっそう傾倒していく。専属契約を結んだ昭和20年代後半といえば、正に桂文楽の全盛期。ものすごい迫力だったと、当時を知る人は口を揃える。出口は文楽の芸についてしばしば感嘆の念をにじませてこう言ったという。「何しろ同じ噺は1分と違わないんだ」
そしてまた、文楽も出口に全幅の信頼を置く。後年、専属制度が有名無実化する中で、文楽だけが頑なにTBSにしか出演しなかった。洋装を好んだ文楽は、背広の襟に常にTBSの社員証を付け、TBSを「うちの会社」と言ったという。

出口の文楽に対する目がいかに行き届いたものだったかを示すエピソードが、やはり『落語芸談2』の中にあるので、引用してみる。(文中の「川戸」は元TBSプロデューサーの川戸貞吉、「西野入」は文楽の主治医だった西野入尚一である。) 

川戸「黒門町もこよなくご婦人を愛しまして、奥さんに先立たれたあとは、色んな話がありました。」
 西野入「そうそう。」
川戸「またそれをうれしそうにしゃべるんだ。『君ィ知ってんのかい、あれを?』なんて。出口さんがね、怒ってた。『ご婦人と接した翌日は、ガタガタだ』って。」
西野入「ああそう。」
川戸「『接しなきゃいいのに』って、怒ってましたよ。」
西野入「ボクは『接して漏らさずでいきァいい』っていってたの。だから、漏らしてはいないんじゃァないかな。」

出口さん、そこまで黒門町のコンディションを把握してたのか、って感じですな。
出口は文楽を公私にわたって献身的に支えた。TBS退社後、デグチプロを設立したのも、文楽が出口を頼りにしていたから、というのが大きかったのだろうと思う。
文楽の弟子がしくじった時も、出口が間に入るのが常だったらしい。
まさに文楽と出口一雄は家族同様の絆で結ばれていたのだ。

スーツ姿の出口一雄(後列向かって右)
一雄は立教大学卒業後、ポリドールレコードに入社。
落語レコードの制作に関わる。
そこで古今亭志ん生と親交を深めた。
志ん生は一雄の17歳年上。それでも、弟利雄(後列向かって左)とともに飲み仲間だった。
写真提供はSuziさんである。