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2023年2月23日木曜日

圓馬を慰める会

三代目三遊亭圓馬。八代目桂文楽が「芸の師」として終生敬愛した名人である。

明治15年(1882年)大阪生まれ。月亭都勇という落語家の父を持ち、7歳で初高座。笑福亭木鶴の弟子となって都木松を名乗る。12歳で立花家橘之助の弟子になり東京に出て、立花家橘松と改名する。立花家左近と改名後、初代三遊亭圓左の薫陶を受け、落語研究会の準幹部に抜擢される。明治42年(1909年)七代目朝寝坊むらくを襲名して真打昇進。しかし大正4年(1915年)、四代目橘家圓蔵とトラブルを起こし、橋本川柳と改名して東京を去り、旅回りを経て大阪に帰った。大阪で三代目圓馬を襲名。東京弁、大阪弁、京都弁を自在に操るスケールの大きな話芸で東西の観客を魅了し、多くの落語家に大きな影響を与えたが、晩年中風に倒れ、落語を喋れなくなった。

正岡容は一時、作家を辞めて圓馬の下で噺家修業をしたことがある。彼は「三遊亭圓馬研究」という文章の中でこう書いている。(以下、引用は旧字を新字に置き換えてある)

 

私が文学を放棄し、はなしかの真似事をしてゐたときの「噺」の恩師である。この人に私は親しく「寿限無」を教はった。さうして、一と言一と言を世にもきびしく叱正された。どんなに「小説」の勉強の上にも役立ってゐるであらうことよ—

 

ちなみに永井荷風は一時、五代目むらくの弟子になって夢之助を名乗った。荷風、容という異能の作家二人が、五代目、六代目の朝寝坊むらくの弟子になったというのは興味深い。

正岡の「三遊亭圓馬研究」は、『随筆寄席囃子』という本に収められている。この本は、初め昭和19年(1944年)、私家版として刊行された。私が持っているのは昭和42年(1967年)に復刻された限定800部のものである。私はこれを浅草の古本屋で見つけ、大枚5000円を払って買い求めた(今ではとても手が出ない)。後に河出文庫『寄席囃子 正岡容寄席随筆集』の中に一部が収録されたが、「三遊亭圓馬研究」は、その中に入っていない。

「三遊亭圓馬研究」はこのようにして書き出される。

 

けふ昭和十七年三月十日、中風に倒れて久しい三遊亭圓馬を慰める『明治大正昭和三代名作落語集の夕』を、桂文楽と私主催にて今夕上野鈴本に催す。幸ひに文壇画壇趣味界の人々の絶対侠援を得て前売切符はのこらずもうはけてしまった。これから鈴本へでかけるまでの時間を利用して、かねての懸案だった『圓馬研究』を起草する(後略)

 

昭和17年(1942年)310日、上野鈴本において、正岡容、桂文楽共催の落語会が行われた。病床にある二人の師、三代目三遊亭圓馬を慰めるための会であることが、この文章から分かる。

そして、この会のことが『八代目正蔵戦中日記』にも書かれているのだ。以下に引用する。

 

三月十日(火)

 上鈴に円馬を慰める会を正岡君主催でやる。『大正の思ひ出』を一席漫談で演る。楽屋に今輔がゐたが実に不愉快きはまる存在だ。

 会、終ってのち、ぴん助夫婦と正岡君と、文楽師は欠席で酒宴を催す。

 

馬楽時代の正蔵も、この会で高座を務めた。落語ではなく『大正の思い出』という漫談を喋ったようだ。彼の「随談」とでも呼ぶべきこういう噺は、しみじみと味わい深い。どんなものか聴いてみたかったな。

「楽屋に今輔がゐたが実に不愉快きはまる存在だ」とある。随分手厳しい。正蔵と今輔は、かつて改革派を立ち上げて頓挫した経緯がある。両人とも頑固一徹で知られた人物。その時の確執が尾を引いていたものとみられる。

正蔵も打ち上げに参加しているところを見ると、この会の手伝いをしていたのだろう。この頃正蔵と正岡は仲良しだったからな。文楽は打ち上げに参加しなかったんだ。

会は盛況のうちに終ったようだ。「圓馬研究」の末尾で正岡は言う。

 

以上を十日の会の日から書き出して、十四日のけふまで、休んでは書き、休んでは書きして来た。十日の会は上野鈴本お正月以来の盛況で戸障子までみなはづしてしまった。四百二十円と云ふお金が圓馬あて、おくれた。

 

また、次のような文章からも、当日、今輔が楽屋にいたことが分かる。

 

それから春錦亭柳桜の「与三郎」や「ざんぎりお瀧」の圓馬に伝はったのは、大看板柳桜一ところ柳派全体と疎隔し、三遊派に加盟してゐたことがあると、このほど当代古今亭今輔から聞かされた。

 

この辺りのことを、今輔は楽屋で正岡相手に滔々と語っていたのだろうな。

また、この「圓馬研究」には、圓馬の芸について、八代目文楽・三代目金馬をからめて次のように書かれている。文楽・金馬、二人の芸についての優れた批評にもなっていて興味深い。

 

一と口に圓馬の「芸」とは—と訊かれるなら、共に圓馬の教へを仰いだ今日の文楽と金馬とを一しょにして、もっともっと豪放な線にしたものと答へたら、やや、適確にちかい表現であらうか。文楽は「馬のす」「しびん」も写してもらひ、最も圓馬写しの噺の多い今日では第一流の名人肌の落語家であるが、圓馬の豪放な点は少しもつたはってゐない。豪放の中に、一字一画をもゆるがせにしない圓馬。そのきびしく掘り下げてゐる「面」の方が文楽へやや神経質につたはってゐるとおもふ。此は団十郎の精神が、蒼白い近代調となって吉右衛門の上に跡を垂れてゐるがごときであらうか。豪放の点は、むしろ金馬にのこってゐる。しかし、金馬には、人として圓馬ほど俗気を離れたところがない。云ひ換へると、いいイミの「バカ」なところがない。もっとあの人の全人格が簡単に、文化的にしまってゐる。それが圓馬までゆけてゐない所以とおもふ。

 

結局、圓馬は回復しないまま昭和20年(1945年)1月13日に亡くなった。正蔵の日記に、このことについての記載はない。 

8 件のコメント:

quinquin さんのコメント...

三代目圓馬は、中学の頃NHKで放送していた「思い出の芸と人」で取り上げられ、SPレコードですが「六尺棒」「権助提灯」、笑い茸の改作らしい「笑いのコーヒー」といった演目を聴きました(テープは実家にあるはず)。穏やかで聴きやすく、かつ完全な東京弁でした。ゲストは四代目圓馬師でした。しかし倒れたのは1945年に亡くなるずいぶん前だったのですね。

なお、正蔵師と今輔師の確執は、落語革新派の時というより、一朝師の面倒を見ていた頃以降のことではないでしょうか。対談落語芸談の圓楽師によれば「一朝老人はどうしても正蔵師を買っていた」とのことですし、正蔵師長女の藤沢多加子さんの証言によれば「一朝おじいさんが全然行かないんですよ、向こうに(笑)」といったことなので、今輔師がつむじを曲げた、ということのように思われます。

正岡容の著作は「艶色落語講談鑑賞」のみ古本屋で購入して持っています。口絵写真では、当時あった市川鈴本の舞台で、正蔵師、弟子の永井啓夫氏とともに写っています。彼が戦中戦後に住んでいた市川市真間が私の地元で、それなりに有名人だったのか、今年91になる親父も知っていましたね。生まれるはるか前ですが、自分の家の近くに、小沢昭一、大西信行、加藤武、そして米朝師が時折来ていたことを想像すると楽しいものです。圓馬から離れてしまいましたが。

densuke さんのコメント...

quinquinさん、おはようございます。

三代目圓馬の「権助提灯」、まさにそのSPレコード、正岡が昭和17年3月10日、上野鈴本へ行く前に聴いていた音源です。正岡は「圓馬研究」の中で、「「権助提灯」には殊に圓馬の「芸」が浮き彫りにされていしくも遺ってゐる」と書いています。

正蔵・今輔の確執について、ご指摘ありがとうございます。
『正蔵一代』を読み返してみたら、一朝老人の辺りにそれらしきことが書いてありました。当時、老人の死に水をとった正蔵を、世間が盛んに褒め称えたそうなんです。
正蔵曰く、「今輔のほうじゃァ、口じゃァ言わなかったけど、おもしろくなかっただろうと思うんですよ。そりゃそうでしょう。一年のうち六ヵ月まで今輔ンとこの厄介になってて、それからあたしのうちィ来てすぐわずらいついたわけなんで・・・で、あたしのほうが褒められるまわりあわせになっちゃった。そのかわり、今輔のほうが、その後は、あたしよりずっと先に売り出してえらくなったから、そこンとこはまァ、差し引き勘定ですかねェ」と。
quinquinnさんのおっしゃる通り、確執のもとはここにあるようですね。それから、今輔のほうが先に売り出してえらくなった、という記述もあり、正蔵に対する今輔の態度が変わったことも推察できます。

三代目圓馬によく稽古してもらったのは、四代目小さん、八代目文楽、三代目金馬など。一朝老人のほうには正蔵、今輔が通い、圓生はどちらにも稽古をつけてもらっています。一朝は圓朝直系、圓馬は初代圓左を通して身に付けた三遊本流の芸を次代へと引き継ぎました。この辺りの系譜も面白いです。

正岡容の文章、私は好きですね。あの調子は癖になります。談志の文章を読むと、語り口に正岡の影響を感じることがあります。
quinquinさん、地元が市川ですか。市川といえば、永井荷風が晩年住んだ町でもありますね。正岡が没したのが昭和33年、荷風は昭和34年ですか。だいたい同じ頃に亡くなっているんですね。「朝寝坊むらくの弟子」であった二人の作家は、こんな所でも交差しているのかあ。
ちなみに荷風が市川市八幡町に越して来たのが昭和32年、正岡が市川にいたのは昭和28年までだったそうです。

quinquin さんのコメント...
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quinquin さんのコメント...

荷風が市川に転居したのは昭和23年ではないでしょうか。正岡と重なっていたはずです。ただ大西さんの話ですと、荷風にとっては正岡は一顧だにしない存在だったようですね。片思い、ということでしょうか。

それはともかく、正岡自身は、芸人に対してきわめて寛容な評価をした人と思います。安藤鶴夫氏とはそこが違うのでしょう。大西さんの落語無頼語録の、可楽と夢楽、の章で、八代目可楽が、正岡が死んだ時に「惜しい人は早く死んでしまって」といった、と書いていますね。まあアンツルさんも立派な人だと思いますが。

densuke さんのコメント...

荷風が八幡町に越したのが昭和32年、その前に昭和23年に市川市菅野に家を買っていたのですか。失礼しました。
正岡が市川に住み始めたのが昭和20年。荷風の方が後から市川に来たんですね。
まあ荷風と正岡ではちょっと格が違いますかね。
芸人たちには安藤よりも正岡の方が評価は高かったのでしょう。『内儀さんだけはしくじるな』という本の中で、当代左楽が「正岡が一番的を射てるな。正岡は高座に上がったからなあ、だから一番咄家の気持ちがわかって書いてくれる。安鶴は今でこそ偉くなってるけど・・・」と黒門町が言っていたと証言しています。
私は安藤鶴夫の『落語鑑賞』とか『巷談本牧亭』、『三木助歳時記』など、高校の頃読んで感動していました。今、読んでもいいんですよね。安藤もまた大した人だと思います。

文楽のマネージャーだった出口一雄は安藤のことをひどく嫌っていたようですね。

quinquin さんのコメント...

市川市立図書館のウェブサイトですと、荷風は1946年に市川に転居、1957年に八幡に家を新築し転居、とありました。

安藤鶴夫と出口一雄は仲が悪かった、というのはどなたかの文章でも見ました。誰かが仲直りの会を催して、それが終わった後で「あの野郎」といったとか。ただ、このあたり「憎み合う」ということではないでしょうし、もっと深みのある関係だったのではとも思われます。

また、Wikipediaには、正岡と安藤が犬猿の仲だった、と書かれているのですが、そういった文章を読んだことがなく、また何の出典も示されていないので謎です。大西さんの評伝にでも書いてあるのでしょうか。もっともWikiの落語関係の記載は相当独りよがりの文章が目立つので、一部のマニアが書き散らしている可能性もあるかもしれません。

densuke さんのコメント...

出口一雄と安藤鶴夫は、共に東京中学の出身です。出口は立教大学、安藤は法政大学に進みました。出口の弟と安藤は同級生であり、二人は昔なじみでもありました。ブログ内の「桂文楽と出口一雄」というカテゴリの中に「出口一雄と安藤鶴夫」という記事があり、その中で出口の姪御さんの証言もありますので、機会があったらお読み下さい。出口も安藤も八代目桂文楽を敬愛する者同士であって、単に「憎み合う」関係ではなかったと、私も思います。
正岡と安藤が犬猿の仲という印象は、私も持っていませんでした。正岡の文章でも、そんな記述に出会ったことはありません。芸人たちの間では、二人を比較することはあったのだと思いますが。

densuke さんのコメント...

『断腸亭日乗』で確かめたところ、昭和21年1月16日に「菅野二五八番地の借家に至る」と書いてありました。やはり、ウィキペディアを鵜吞みにしてはしてはいけませんね。教訓に致します。