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2025年12月13日土曜日

土曜日の夜は雨

朝、御飯、味噌汁、ポテト、納豆。

妻は仕事。私もイベントの手伝いがあり、休日出勤。日中はいい天気、イベント日和だった。

昼はキッチンカーのタコライス。750円。けっこう盛りもいいし、旨かったよ。


夕方帰る。

実はここのところ、台所の工事が入っていたのだ。うちは1990年築なのだが、寄る年波には勝てず、水回りが順番にいかれてきたのだ。そして、大トリが、この台所なのだ。

工事中、猫が落ち着かず、大変だった。今日もそわそわしていたが、工事の終わりごろは側にいてやった。膝の上で眠ってくれたよ。ご苦労さん、大変だったな。

妻は夕食の支度をして、職場の忘年会に行った。

夕食は、次男が作った回鍋肉、父が買ってきた卵焼き、妻が買ってきたザンギ、厚揚げで燗酒。

風呂に入って湯上りのビール。旨いなー。


仕上げにカティサーク。猫を膝に乗せ、YouTubeで音楽を聴きながら飲む。

ジャック&デイジーの、サイモンとガーファンクルのカバー。『アメリカ』『ボクサー』は永遠の名曲。

友部正人の『六月の雨の夜チルチルミチルは』。「知らないことでまん丸なのに/知ると欠けてしまうものがある」で、いつもぐっときてしまう。

ビートルズのルーフトップコンサート。ふと、初期の立ち位置と違うことに気づく。初期では向かって右端にポール、左端にジョンでジョージが真ん中だった。ポールが左利き、ジョンが右利きだったから、きれいにギターが外側を向いていたんだ。それが、ルーフトップでは、向かって右から、ポール、ジョン、ジョージの順。ジョージがポールの隣に行きたがらなかったのか。そして、演奏された曲も、リードボーカルはジョンかポール。ジョージの曲は演奏されなかった。リンゴに至ってはアルバム『レット・イット・ビー』でボーカル曲は一曲もない。そういうことだよな。この時点で、ビートルズは壊れていたんだなあ。

雨が降り出した。夜中はみぞれになるという予報。寒くなってきた。 

2025年12月10日水曜日

ラーメン三種

ラーメン三種。


まずは、牛久の千成亭。ここでは一択のサッポロラーメン、850円。



 妻のソウルフード。先代が亡くなって、今は二代目が後を継いでいる。さすがに妻と義妹は小さい頃から食べているだけあって、細かいところに気が付く。この日は、味はよかったが、麺がすこし固めだったらしい。

にんにくが効いてパンチがある。旨し。やはり、私たちにとってのナンバーワン味噌ラーメンだな。

餃子も野菜たっぷりで旨いのだ。


お次は、ゆきむら亭の二品。

きのこラーメン、979円。秋冬の限定メニュー。ガリバタ味。


エリンギ、シメジ、エノキ、マイタケときのこたっぷり。滋味深い。


この間食べた新メニュー、魚介とんこつラーメン。値段は忘れた。950円ぐらいじゃなかったかなあ。




ちゃんと旨い。大手酒造メーカーの純米酒とか吟醸酒といった感じ。不味かろうはずはないよね。

2025年12月8日月曜日

ジョン・レノンの命日、ジョンについて語る

野暮用があって、年休を取った。

一日中、猫の相手をしながら、『music magazine増刊 ジョン・レノンを抱きしめて メモリアル・エディション』を読む。この本は2000年に刊行された。1981年2月に発売された『music magazine増刊 ジョン・レノンを抱きしめて』の主要記事と、ジョンの死後20年に新たに書き加えられた記事とで構成されている。

今年はそれからさらに四半世紀が過ぎた。ジョンが死んで45年の月日が流れたことになる。

そして、今日、12月8日はジョン・レノンの命日である。

高山T君は、今年も何かしらジョンについて語っているという。私も何かしら語ってみようと思う。この日ぐらい、ジョン・レノンに思いを巡らせるのもいいではないか。


ジョン・レノンは、45年前の今日、妻ヨーコと帰宅したところで射殺された。

こう書いて、改めてその事実の重さに気づく。ジョンはその人生の最後の時まで、ヨーコと一緒だったのだ。

ジョンとヨーコ。彼らほど様々な批判にさらされた夫婦はいないだろう。

ヨーコの出現がビートルズ解散の原因だったと言う人がいる。ヨーコの存在はジョンの音楽の足を引っ張りこそすれ、何一つ寄与しなかったと言う人がいる。二人の別居時代、ジョンがメイ・パンと恋人関係にあったように、ヨーコもデイビッド・スピノザとよろしくやっていたのだ、と言う人もいる。1980年当時、ヨーコはジョンと離婚したがっていたと言う人さえいる。

前妻のシンシアを追いやる形でジョンと結婚したことからも、ヨーコをよく思わない人は多い。シンシアが美しく慎ましやかな女性であるのに対し、エキセントリックなアーチストであるヨーコは、どこか不気味でやかましくも映ったのだろう。

しかし、ジョンはヨーコを選び、ヨーコとともに生きることを選んだ。

ジョンは父からも母からも捨てられ、母の姉夫婦に預けられて育った。伯母は厳格な人で、厳しく躾けられた。無条件な愛に包まれて育ったわけではない。

最初の結婚は22歳で、それはシンシアが妊娠したからだった。その後、ビートルズは爆発的にスターダムにのし上がり、家庭を顧みる暇はなかった。リバプールの父権社会で育ったジョンは相当な亭主関白だったという。

ヨーコはジョンの7歳年上。自己肯定感の低かったジョンを無条件で肯定した。ジョンは、後にヨーコを「マザー」と呼ぶ。ヨーコの母性に包まれることが、ジョンには必要だったのかもしれない。

ジョンは29歳でヨーコと結婚し、35歳でショーンを授かった。

私は妻と35歳で結婚し、40歳で長男を授かった。農家の長男として生まれ、男性優位社会の恩恵にただ乗りしてきた私は、男女の非対称について、あまりに無自覚だった。妻は、おかしいことはおかしい、ときちんと言う人だったから、色々気づかされた。私は妻と生活することで大人になっていったと思う。

ジョンもまた、そうだったのだろうと今にして思う。ジョンはヨーコに支配されていったと言う人もいるけど、むしろ彼は進んで身を預けていったのではないか。何しろ、ヨーコは妻であるとともに母でもあったのだから。そして、ビジネスは男の仕事、家事は女の仕事などという線引きは溶け去り、ビジネスには向かないと、そちらはヨーコに任せて、自分はショーンの育児を含めた家事に専念することにしたのだろう。男としての面子やプライドなど、ジョンにはどうでもいいことだったのだ。

ポール・マッカートニーが、ある日、ギター抱えてダコタハウスにふらっとやって来た。ジョンは「お互いティーンエイジャーじゃないんだから、来るときには電話一本かけてからにしてくれ」と言ったという。これ、よく分かるなあ。

ヨーコはジョンの音楽に貢献しなかった、と言う人もいる。だが、「イマジン」「ハッピー・クリスマス」「女は世界の奴隷か」「ウーマン」などは、ヨーコの存在なしにはありえないだろう。音楽は人間が作る。ならば、その人格に大きな影響を与えたものが、音楽にまるで影響を及ぼさないということはあるまい。

ジョンが死んだ後、ヨーコはジョンの未発表音源を次々と世に出してくれた。もちろん、それはビッグビジネスで、莫大な収入にもなっただろう。でも、おかげで私たちはより多面的なジョンの魅力を知ることができた。中にはレコードテイクよりも素晴らしい演奏を聴かせてくれる曲も少なくない。ヨーコさんには深く感謝したい。


ジョン・レノンは1940年生まれ。日本で言えば昭和15年。戦中派の一人だ。ジョンが生まれた頃、イギリスはナチスドイツによる激しい空爆にさらされていた。イギリスではジョンのひとつ上の代まで兵役の義務があった。そう考えれば、ジョンにとって、やはり戦争は切実な問題で、「イマジン」の世界は決して絵空事ではなかったのだろう。

覇権国家の復活、ただ威勢のいいだけの言葉、声を上げる者への揶揄冷笑・・・、世の中は間違いなく危険な方向に向かっている。ここにジョン・レノンはもういない。自分たちで何とかしなくてはならないのだ。

2025年12月7日日曜日

義父のお墓参り

朝、御飯、味噌汁、ウィンナーソーセージ、スクランブルエッグ、塩昆布、鮭フレーク。

地区のごみ拾い。今朝は寒かった。

義父のお墓参りに、皆で牛久大仏に行く。


冬晴れ。陽射しは暖かいが、空気は冷たい。

義父は9年前の12月8日に亡くなった。見てください。4人の孫も随分大人になりましたよ。

お昼は、久し振りに千成亭へ。

私はもちろん、サッポロラーメン。餃子も一皿取って食べ分ける。旨し。

午後は妻の実家で恒例のビンゴ大会。

15時頃、帰宅。片付け。

妻と夕方ビール。

夕食は鍋、義母の作った鶏レバーの煮たので燗酒。

寝しなにカティサーク。


木の葉もすっかり散った。高村光太郎の詩、「きっぱりと冬が来た【中略】公孫樹(いちょう)の木も箒(ほうき)になった」というフレーズそのままだ。

人生は思い通りにならないし、人の世はろくでもない。できるのは、ほんのちょっとのいいことを拾い集め、それを愛でていくことか。でも、言うべきことは言わなきゃな。

勇ましい言葉で煽るな。弱い者の口を塞ぐな。我々を危ない方に連れて行くな。

2025年12月6日土曜日

今日の日記。

朝、御飯、味噌汁、ハム、スクランブルエッグ、塩昆布。

明け方、西の空に見事な満月。

『ばけばけ』総集編を観ながら、コーヒーを淹れて飲む。

妻は仕事に行く。

私は動物病院へ行き、豆ちゃんの蚤取りの薬と餌を買う。帰りに灯油を買い、ボイラーに入れる。

ちょっと一息、チェット・ベーカーを聴く。いい天気。チェット・ベーカーがよく合う。

昼は次男が作ったスパゲティ。私と次男はガーリックトマト、長男はボロネーゼ。けっこうにんにくが効いて旨い。

チャーリー・パーカーを聴きながら、皿を洗う。チャーリー・パーカーは皿洗いに合うな。よく体が動く。天才の音は苦労を感じさせない。

14時頃、妻が帰る。昼食を済ませた妻の号令一下、台所の片付け。ココアでいったん休憩を取り、何とか夕方に終わらせる。

早めに夕食。御飯、味噌汁、豚の生姜焼き、コブサラダ。

野暮用で職場へ。野暮用を済ませ、帰宅は21時過ぎになった。

風呂に入って、ビール。ピスタチオでグッドエール。納豆でワンカップ大関の燗。つまみは豆シリーズだな。寝しなにカティサーク。


今日の豆ちゃん。ここ、エアコンの風が当たって暖かいんだよね。


鹿島アントラーズが優勝を決めた。これで茨城県のチームがJ1、J2の優勝を果たしたことになる。茨城県知事は「茨城県がサッカー王国になった」と宣言したという。それは、はしゃぎすぎだよ。もっと謙虚にいこうじゃないの。

ともあれ、アントラーズは久し振りの優勝だ。私としてもうれしい。鬼木監督はすごい人だなあ。

2025年12月4日木曜日

土日の外食

 土日の外食。

まずは、国道50号線沿い、水戸インターチェンジ近く。「どさんこ」の隣の蕎麦屋、長屋門。

ここで、天もりを食す。1280円。

天ぷらは海老、茄子、さつまいも、菊の花、玉ねぎというラインナップ。

玉ねぎが甘い。絶品。

蕎麦はこんな感じ。


つゆは辛め。蕎麦との相性もいい。


旨し。お客も次々入ってきた。いい店だと思う。また来たいねえ。


つくば、研究学園駅近くの北京老飯店。午前中の散歩のシメに入る。

麻婆麵、950円。



しっかり辛い。山椒系の痺れるタイプ。

担々麺とか麻婆麵とか、挽肉が入っているのは、残すのがもったいなくて、どうしてもスープまで飲んでしまう。


旨かった。町中華というよりは本格中華だな。厨房は中国語が飛び交っていた。それをどうのこうの言いたい人がいるだろうが、昨今の「暴支膺懲」的な空気は嫌だ、と言っておく。

ちなみに駅前は飲み屋が多かった。

2025年12月3日水曜日

神田須田町界隈

この前歩いた、神田須田町界隈。

小さんの『かぼちゃ屋』、「お前のバカは慢性(万世)だな」「次は須田町」というくすぐりを思い出す。

万世橋

この辺りは、老舗名店がひしめく。





こんなシブいお店もありました。



もちろん、素敵な建造物もあちこちに。




こちらは柳原通。『三方一両損』で、左官金太郎が大工吉五郎の財布を拾ったのはこの辺りか。



ちょっと脇ィ入ると、こんな並びも。





神田川を渡る橋から見た柳森神社。


御徒町の駅からすぐの所。またゆっくり歩いてみよう。