昨日、父と川崎に行ってきた。
父が、伯父と伯母の墓お参りしたいと言ってきたのだ。一昨年の暮れにも行った。父も89だ。行けるうちに、もう一度、行きたくなったのだろう。
朝、妻に駅まで送ってもらい、電車で品川に着いたのは、10時を少し過ぎていた。
そこから京浜急行で京浜川崎まで出て、大師線に乗り換えて一駅、港町という駅で降りた。
駅のすぐ近くに、伯父と伯母が眠る寺がある。曇り空、寒い。
父とお線香をあげ、墓石の裏に回ってみる。伯母は平成4年4月に80歳で、伯父は平成7年7月に86歳で亡くなった。
墓参りを終え、再び大師線に乗って、今は従姉夫婦が住む家に向かう。
港町駅のホームには、美空ひばりの「港町十三番地」の楽譜が掲示してある。昔、ここには日本コロムビアの工場があった。開業時は「コロムビア前」という駅名だったという。ひばりが日本コロムビア所属であったことと、歌の舞台がこの付近であったことから、接近メロディーに採用されたとのこと。あの歌の舞台は横浜じゃなかったんだ。
京急八丁畷駅で降りる。幼いころから、何度も降りた駅だ。見ようによっては随分変わったが、それでも懐かしい。
従姉と、従姉の孫娘がお出迎え。寿司と天ぷらでビールをご馳走になる。
伯父や伯母の思い出話に花が咲く。
この辺りは100坪で分譲された土地らしい。伯母が嫁いできた頃は、「たわら」があったと父が言う。どうやら「田藁」と書くらしく(ネットで引いてもでてこない)、水辺の植物のようだ。おそらく、この地域は、その昔、湿地帯だったのだろう。町名が池田、最寄りの駅が八丁畷(「畷」は田のあぜの意味)ということも、それを裏付ける。ちなみに、私が学生時代住んでいたアパートの最寄り駅は「尻手」(川尻の土手が語源)。そのすぐ近く、山口瞳が幼少期を過ごしたのは「河原町」。やはり、水に縁が深い。
伯父は、結婚してすぐ群馬県草津の水力発電所に異動になり、新婚生活は草津で過ごした。やがて、伯父は兵役にとられ(シンガポールにいたようだ)、伯母は川崎の家で夫の帰りを待つ。戦後、千住の火力発電所(「おばけ煙突」と言われた)勤務となり、そこで従姉が生まれた。そして、鶴見への異動に伴い、一家は川崎の家に戻った。
伯母は、自分の実家である我が家へ、75歳ぐらいまで、しばしばやって来た。着物をきちんと着て、お土産にはドーナツを買ってきてくれた。
伯父の運転で車で来たこともある。この時は、私と妹も、車に乗せてもらって、川崎に泊まりに行った。首都高から見た東京タワーの姿が、今も胸に焼き付いている。
川崎にはよく泊まりに行った。伯母は、川崎を拠点に、色んな所に連れて行ってくれた。遊園地は多摩川園、動物園は野毛山動物園が定番だった。鎌倉まで足を延ばしたこともある。初めて見たプロ野球の試合も、川崎球場の大洋対中日戦だった。私にとって、都会といえば川崎だったのだ。
15時までいて、川崎を出る。
御徒町まで行って、アメ横界隈を歩く。父にとってはこれがメインイベント。昔、家でついた餅を川崎に持って行った頃は、年末のアメ横を散策するのが恒例だった。
さすが年末、人は多い。父としては、叩き売りが盛況だった昔に比べ、今の様子は何となく寂しく映るようだ。「昔はな」と何度も言う。
「じゅらく」系列の居酒屋に入る。刺身、焼き鳥、ねぎとろユッケで酒を飲む。酒は秋田の「雪の茅舎本醸造」、新潟の「越の寒中梅吟醸」、山形の「初孫純米」を飲み比べ。それぞれ300mlだから、二人で五合飲んだことになるか。満足満足。
シメは上野藪でせいろ。ここも、父には上野に来たからには寄らなければならない店。「藪の蕎麦は旨いなあ」と何度も言う。
19時頃の電車で帰る。幸い上野発だったので、座ることができた。
21時頃、無事帰宅。従姉に電話したら、「随分ゆっくりしてたのねえ」と言われました。


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