七代目橘家圓蔵師匠の個人的な思い出を書いてみたい。
初めて噺を聴いたのは、中学生の頃だった。NHKの「お好み演芸会」で『三方一両損』を観たのが最初だった。
その前に、古今亭志ん朝の『三方一両損』を聴いていて、すごく楽しかったこともあり、加えて、「橘家圓蔵」という名前が大看板であったことから、どんな芸を見せてくれるんだろうと期待をして出番を待っていた。
中学生の耳には分からなかったなあ。志ん朝の華麗な啖呵と比べると、迫力は全然なかった。小さなおじいさんが、小さな声で淡々と演じていたという印象しかない。
やがて、私は大学で落語研究会に入る。圓蔵師匠はそこの技術顧問をされていた。部室の正面には圓蔵師匠の写真が飾ってあった。
杉並の方南町にある圓蔵師匠のお宅に伺ったことがある。確か同輩の酒合丈君と一緒だった。師匠の部屋の鴨居には八代目桂文楽の写真が飾ってあった。熱烈な文楽ファンの私は、「そうか、文楽はおれの大師匠なのだ」と、改めて感動にうちふるえた。
夏と冬の合宿では、圓蔵師匠がいらっしゃる。そこで師匠から1本の噺を教えていただき、代表者2名が師匠に噺を見ていただくのが常だった。
私が1年の夏は、三遊亭圓生の葬儀と重なり、師匠は来なかった。1年の冬が、私にとって圓蔵師匠がみえた最初で最後の合宿だった。
この時、私は『道灌』を見ていただいた。一緒に噺を見せたのが、2年先輩の朝太郎といっていた、後の夢三亭圓漫さん。彼は『権兵衛狸』を演じた。師匠は私たちの出身地を訊いた。そして、八つぁんとご隠居の噺をした私が茨城の、田舎者の噺をした朝太郎さんが東京の出身と聞いて、「あべこべだねえ」と面白がって見せた。(この後、八海君の出身地を訊いて、師匠は「あそこ行くと皆疲れちゃうんだ、もうネムロってな」というセコ洒落をとばしたのだ。)
この時、師匠が教えてくれたのが『袈裟御前』という噺。正直、どんな筋かよく分からなかった。ただ、この時、枕で振った、当時若い者の間で流行っていた、セーターを羽織って両方の袖を縛る格好を皮肉ったのが、何とも言えず可笑しかった。師匠の、こういう一筋縄ではいかない面白さが、私は好きだった。
『談志絶倒昭和落語家伝』などの師匠の若い頃の写真を見ると、剽軽で愛嬌のある、とてもいい表情をしている。月の家圓鏡時代の師匠が爆笑派だったことがよく分かる。
京須偕充の『落語で江戸のうらおもて』という本に、柳家小三治と圓蔵師匠のエピソードが載っている。『大工調べ』を演って高座を下りた小三治に師匠がこう言ったそうだ。「お前の今の演り方では、お前が怒って怒鳴っているようだ。お前がいくら威勢よく感情を込めて演ったって、お客はお前の怒りを聴きに来たんじゃない。政五郎は若いとはいえ棟梁だ。お屋敷仕事を任されるだけの貫禄がある。子分の大工が怒ってるんじゃない、棟梁の政五郎が怒っているんだ。あたしは『大工調べ』は演らないし出来ないけど、お前の師匠(五代目小さん)のをよく聴いてごらん。」これを読んで感動したね。師匠にはプロとしての確かな目と、分を知る謙虚さがあったのだなあ。
あの冬合宿の年の5月、圓蔵師匠は突然亡くなった。私たちは落研の法被を着て、お通夜とお葬式の手伝いに行った。葬儀委員長の林家三平の衰弱ぶりが痛々しかったのと、川柳川柳が酔っ払って顰蹙を買っていたのが印象に残っている。(三平は間もなく師匠の後を追うようにこの世を去った。)そう言えば、お通夜に小三治が来ていた。私は後輩を制して彼の草履を揃えた。小三治は怒ったような顔をして立ち去った。彼は前述した『大工調べ』の忠告を忘れられないと言っていたという。今にして思えば、あの怒ったような顔は、小三治の圓蔵師匠の死を悼む気持ちの表れだったのかもしれない。
ブログも通常業務に入ります。
大福さんお疲れ様。大福さんの文章読んで、力をもらいました。ありがとう。
お互い頑張りましょうね。
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