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2011年3月3日木曜日

桂文楽「長生きするのも芸のうち」

文楽が金科玉条の如く大切にした「長生きするのも芸のうち」という言葉は、歌人、吉井勇から贈られたものである。
吉井勇、明治19年生まれ(文楽の6歳年長)。大正デカダンを代表する歌人だ。「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水のながるる」で知られるような、女の白粉と酒の匂いでむせかえるような歌を詠んだ。落語にも造詣が深く、三代目蝶花楼馬楽と初代柳家小せんをモデルにした『句楽と小しん』という戯曲を書いている。(「かかる日のいづれ来らむ身なるべし馬楽狂はば狂ふまにまに」、「盲目の小せんが発句を案じ入る置炬燵よりかなしきはなし」などはこの二人を詠んだ歌である。)晩年は文楽の大正の薫り高き芸を愛した。
文楽はもともと小心で臆病なタイプだったが、この言葉を贈られた後、より細心に健康に留意するようになった。長生きすることによって、文楽は昭和の名人の名を不動のものにする。五代目圓生、四代目小さんは早く死に、同世代のライバル三代目金馬も昭和40年代を見ることもなく死んだ。スター春風亭柳橋は名人路線からは失速する。
一方で、自分の健康を最優先にする姿勢は、文楽の芸を小さくした。名人の称号を得ると共に持ちネタを限定したのと重なる。新境地への挑戦など、もちろんあるはずもない。
しかも、文楽は不器用な落語家だった。若いうちに完成させた熱演型の演出を、年齢に合わせてモデルチェンジすることはできなかった。速球派でならした豪腕投手が、コントロール重視の変化球投手に変身するのが困難なようにだ。
昭和41年、文楽は『富久』で2度目の芸術祭を受賞、瑞宝章も受章する。多分、これが文楽の絶頂だった。
やがて、年齢と共に衰える体力と芸とのギャップが大きくなってくる。それを物語る代表的なエピソードがある。十八番、『愛宕山』は仕草が多く体力を使う噺で、文楽はこの噺を演った後は、息も絶え絶えで長いこと楽屋で横にならずにはいられなかった。主治医は、『愛宕山』を封印するか、もっと楽な演出をするか、どちらかにするべきだと勧めたが、文楽は「『愛宕山』を演らない文楽は文楽ではないし、この演り方ではない『愛宕山』は『愛宕山』ではない。」と言って聞かなかった。この時、文楽の芸の破綻は、間近に迫っていたといっていい。
吉井勇は晩年、「文楽に『長生きするのも芸のうち』という言葉を贈ったのは間違いだった。」と言ったという。勇が死んだのは昭和35年。文楽の全盛期に、彼はその後の文楽の悲劇を予言していたように思えてならない。

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