柳家小満んの『べけんや―わが師、桂文楽』は、著者の師匠に対する深い敬慕の念が感じられる好著だが、それによると、晩年の文楽は肝機能が相当に悪化していたらしい。自宅での稽古でも噺が止まってしまい、弟子に台詞をつけてもらうほどだった。不本意な高座も何度かあり、「三代目になる日」が近づきつつあることを直視せざるを得ない状況だった。そこで、文楽はしくじった時の詫び口上を練習することになる。
このエピソードを、大西信行は『落語無頼語録』の中で悲壮感たっぷりに描いているが、小満んによると、実際はもう少しあっけらかんとしたものだったらしい。文楽は、当時、桂小勇といっていた小満んに向かって、「勉強し直して参ります、ってのはどうだい?」と訊き、「そうかい、ハマるかい?じゃあ、“勉強し直し”でいきやしょう。」と明るく笑ってみせたという。
あの日、文楽の前に高座に上がっていたのが、その、小勇の小満んであった。帰りの車の中で、文楽は、その日小満んが演じた『宮戸川』を「お前の『宮戸川』はよくなるよ。」と言って褒めた。そして、「あたしは、本当は『宮戸川』を演りたかったんだが、『明烏』があったからねえ。あたしは『明烏』のためにいくつ噺を犠牲にしたかしれない…。」としみじみと述懐した。
文楽の後に上がったのは立川談志。談志はこの時のことを全く覚えていないという。『対談落語芸談2』の中で、彼はこう言って首を傾げる。「それが不思議なんだ。あたしはそういうことを覚えているという生き方をしてきたはずなのに。」
文楽の主治医、西野入尚一はこの日客として来ていたが、絶句するやいなや楽屋に飛び込んだ。ただちに診察をしたが、身体的には特に異常を認めない。西野入は、文楽をそのまま帰宅させた。
普段喋る分にはろれつが回らなくなるわけでもなく、その後も至って元気なので、少しの間静養すれば復帰できると西野入は考えていた。ところが、いつまでたっても文楽が高座に上る気配がない。心配した西野入は文楽に会って「師匠、もう大丈夫だから小咄ぐらい演りましょうよ。」と復帰を勧めた。しかし、何回言っても文楽の答えは決まっていた。「お気持ち、ありがとございます。」
精緻に磨き上げた芸の崩壊を見、緊張の糸がぷっつり切れた文楽に、もう一度はなかった。その後、文楽が客の前で落語を演じることは二度となかった。
ただ、文楽が最後に演じた落語は、この時の『大仏餅』ではない。
入院中ベッドの上で、「林家になら合う噺だから」と言って八代目正蔵に譲っていた、正岡容作の『どくろ柳』を、「いいかい、これはあたしの工夫だよ。」と言って弟子たちの前で演じたのが、正確には最後だろう。
芸人としての業が、ここにある。
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