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2022年9月27日火曜日

大学対抗小咄合戦

落研の1年後輩、大福さんからDVDが届く。

私たちが4年の時、NHK「昼のプレゼント」という番組の「大学対抗小咄合戦」という企画に呼ばれた際の映像である。当時、ビデオデッキを持っていた、やはり1年後輩の牛丼さんが録画をしておいたのを、この度DVDに焼いてくれたのだという。それをもらい受けた大福さんがコピーして我々に送ってくれたというわけだ。しかも、最初のディスクが再生できなかったことを伝えると、わざわざもう1枚送ってくれた。本当にすまない。

早速見たよ。懐かしかった。

月曜から木曜までの4日間、2校4人ずつ小咄を披露して勝敗を決め、勝ち進んだ4校で金曜日に準決勝・決勝を戦う。このディスクでは月曜日に明治大学と戦った模様が収められていた。

うちのメンバーは、松竹亭五里ん(2年)、松竹亭松時(3年)、夢三亭夕姫(4年)、松竹亭梅王(4年)というラインナップ。ちなみに「松時」は「ショータイム」、「梅王」は「バイキング」と読む。我が校は3勝1敗で明治を下し、見事、準決勝へ駒を進めた。

ディスクには収められていなかったが、私たちは金曜日の準決勝で敗れ、決勝進出はならなかった。決勝要員だった私は着物姿でひな壇に座り、その放送をたまたま昼休みで見ていた役場の職員が、実家に「息子がテレビに出ているぞ」と電話をかけてきたという。

先日の「みほ落語会」では、決勝で演る予定だった小咄を披露させていただいた。ささやかなリベンジである。

それにしても記憶というものはあてにならない。初日に4人出たのはすっかり忘れていた。細部でもけっこう記憶が改変されていたな。やはり、こういう記録を残しておいてくれるとありがたい。牛丼さん、大福さん、ありがとう。

しかし皆若いな。ゲストの八代亜紀も、審査委員長の三遊亭円右も、レポーターの金原亭伯楽も。今は亡き松竹亭松弥も元気だった。いいものを見せてもらった。大福さんには重ねて感謝する。ありがとう。






2022年9月25日日曜日

三連休最終日

朝、御飯、味噌汁、ウィンナーソーセージ入りスクランブルエッグ、納豆。

妻は実家へ行く。

甥が遊びに来る。子どもたちは従兄のお兄ちゃんたちとゲームで遊ぶ。

私はDVD『ゲット・バック』を観たり、漫画を読んだりする。

渡辺ペコ『東京膜』を久々に読む。最近、女性作家のものを読むことが多い。読む度に、若い頃の自分を思い出して恥ずかしくなる。多分、あの頃の自分はミソジニー丸出しの嫌な男だったんだろう。妻と出会って、少しかもしれないが、私は変わることができたと思う。


昼は、昨夜のキムチ鍋うどんに卵を落として温めて食べる。

裏庭に彼岸花が見事に咲いている。




高山T君から提供してもらった、大学のゼミの卒業旅行の写真をアルバムに整理する。アルバムは以前、長男から父の日のプレゼントでもらったもの。卒論提出の時の集合写真を見つけたので、それを最後のページに貼った。

YouTubeで三遊亭圓窓の『写経猿』を観る。上手いと思う。圓窓チャンネルの映像も観る。「前座時代のお話と豆腐屋間男」。昨年10月の収録で、前座時代の話は、ほとんど小三治の思い出話だった。この話が『ユリイカ』の原稿になっていったのだろう。喋りに衰えは見られない。この度の死去が如何に急なものだったかが分かる。

3時半ごろに妻が帰る。

夕方、長男と図書館に行く。リサイクル本で出ていた、庄野潤三『せきれい』をもらって来る。

妻と夕方ビール。

夕食は、水餃子、茶碗蒸し、イカの唐揚げでビール、酒。洋梨が旨い。食後にカティーサーク。

三連休も今日で終わり。のんびりしたよ。 

2022年9月24日土曜日

稽古帰りのラーメン屋

今日は福の家一門会。

稽古は月2回、平日の夜にやっている。

相撲のマクラで使うのが「お相撲さんにはどこ見て惚れた稽古帰りの乱れ髪」という都々逸。それに対で使うのが「噺家さんには愛想が尽きた稽古帰りのまぬけ面」。

私は本職ではないが、「稽古帰りのまぬけ面」をぶら下げて入るのが、ラーメン屋である。

稽古が終わるのが、だいたい9時。帰りに遅い晩飯を食う。御飯物はちょっと重いし、開いている店もラーメン屋が多いので、自然にそうなってしまうのだ。


行く店もほぼ決まっている。まずは土浦ラーメン。人気ナンバーワン、鶏白湯ラーメン。850円。旨いよ。




もうひとつは、ゆきむら。チェーン店だけど、割と好き。よく食べるのが、あっさりゆきむらラーメン。税込みで860円ぐらい。鰹節がいいんだよね。



2022年9月23日金曜日

彼岸の中日

朝、御飯、ポトフ、チキンナゲット、スクランブルエッグ、納豆。

妻は仕事。今日は秋分の日、ということは彼岸の中日である。 

朝のうちに墓参り。彼岸花が満開。



昼は次男が作ったマルちゃん正麵味噌味。キャベツとしめじが入って旨かった。

父と母の実家の墓参りに行く。ここは高台にあって、霞ケ浦が一望できる。


夕方、お寺の長男がお経を読みに来る。

妻と夕方ビール。

夕食はポテトバター焼き、サツマイモのポタージュ、ペンネ、洋梨、生ハムでビール、白ワイン。食後にカティーサーク。


夕方、豆が出窓にいたら、外から野良猫がのぞいていた。突然の遭遇に、豆、パニックになる。その後、しばらくおとなしかった。


台風の影響か、夜になって雨が降り出す。

昼のうち、豆はよく寝ていたのだが。


2022年9月22日木曜日

常陸太田市の火の見櫓

常陸太田、鯨が丘で見つけた火の見櫓。


屋根、半鐘付き。なかなか装飾も凝っていますなあ。



常陸太田市馬場町付近にありました。

2022年9月19日月曜日

台風接近、三遊亭圓窓の訃報

朝、グラノーラ、牛乳、魚肉ソーセージと卵の炒めもの。

台風接近中。さーっと雨が降ったり、かっと晴れて真夏のように暑くなったり、忙しい天気。

彼岸花がきれいに咲いているので、朝のうちに撮りに行く。



妻と買い物。石岡のサンキでソファーのカバーを買う。豆ちゃんが母屋のソファーを引っ搔いてぼろぼろにしてしまった。ソファーは買えないので、カバーで勘弁してください。

昼はピザトースト、冷製スープ。旨し。 

午後、荒れた天気になるが、それも長くは続かなかった。妻と夕方ビール。


夕食はたこ焼きでビール、酒。食後に妻と白ワイン。ワインは昨日買った檜山酒造のもの。地元産の巨峰を使っている。すっきりとした味わい。旨し。やはり昨日買ったブドウをつまむ。


朝刊に三遊亭圓窓の訃報が載った。「15日、心不全で死去、81歳」とある。

もうずいぶん前から寄席には出ていなかった。アマチュア落語の指導に熱心で、私の知り合いでも、梅八さんを筆頭に指導を受けた人は多い。

2010年には、七代目三遊亭圓生襲名騒動でマスコミを騒がせた。五代目圓楽が自らの惣領弟子、鳳楽に圓生を継がせると宣言したのに対抗し、圓窓が「遺族の意向は自分にある」と言って襲名に名乗りを上げたのである。(この辺りの事情は圓窓のブログに詳しい) 果ては「圓生の直弟子は自分だ」と圓丈も参戦。三つ巴の泥仕合になり、圓生襲名は沙汰止みになった。

私が最初に落語を覚えたのは中学生の時だった。圓窓の「寿限無」をテープで覚え、卒業式前日の謝恩会で体育館のステージで演じた。子供心に「圓窓は上手い」と思っていた。

圓窓といえば「五百噺」でも有名だ。意欲的に埋もれていた噺を掘り起こし、ネタを増やしていった。ただ、これには賛否両論あって、埋もれるには埋もれるだけの理由があり(面白くないとか現代の価値観に合わないとか)、それを手掛けることで、かえって芸の上達には遠回りになるのではないか、という声もあった。私も、寄席でさして面白くもない民話風の噺を聞きながら、「上手いんだから定番の落語を演ってくれないかなあ」と思ったことがある。

私の印象では、志ん朝、談志、圓楽らの少し下の世代、柳家小三治、入船亭扇橋、桂文朝らのグループにいた。この人たちも圓窓を最後に、皆、鬼籍に入ってしまったか。

小三治没後の『ユリイカ・特集柳家小三治』の中で、特集記事の巻頭を飾ったのが、圓窓の「小三治のこと」という追悼文だった。彼らの青春時代をしみじみと追想する、胸に迫る文章だった。

三遊亭圓窓師匠のご冥福を祈る。

2022年9月18日日曜日

秋の酒蔵巡り

PCをメンテナンスに出したら、一週間の入院となった。ということで、久し振りの更新である。


朝、ツナマヨトースト、牛乳、チキンナゲット、スクランブルエッグ。

セロニアス・モンクを聴きながらコーヒーを淹れ、子どもたちと飲む。


父の酒蔵巡りに付き合う。今日は常陸太田市へと向かう。

まずは「松盛」の岡部酒造。里川のほとりにある。




社長とお話することができる。社長が、台風対策のためにしまっていた垂幕を、わざわざ出してくださる。



お次は里川の上流へ約10㎞のところにある檜山酒造。


ここでも社長のお話を色々聞くことができた。

今は常陸太田市の名産のブドウを原料にワインを仕込み中とのこと。他に奥久慈のリンゴを使ったシードルも作っているという。父は純米酒、私は白ワインを買った。社長からワンカップをいただく。





里川沿いの風景が素晴らしい。



もうひとつの酒蔵、旧金砂郷村の豪烈富永酒造に向かう。残念ながらお休み。外観を撮る。



そば焼酎が主力のようだが、父は道の駅で「豪烈原酒」を買っていた。

向かい奥に、立派な山門のあるお寺を見つけた。


行ってみると、ものすごい仁王様が安置されていた。



本堂も見事な茅葺屋根。本堂、山門ともに江戸時代、1700年代の建築らしい。もともとは大洗磯前神社の別当寺で神宮寺といった。



太田の街中で、昼飯に蕎麦を食う。私は、けんちんつけそばにする。けんちんは夏野菜中心とのこと。オクラやトウモロコシも入っていた。


父が土産にブドウを買って行くんだ、というのでブドウ園に行く。皮ごと食べられるブドウを購入。甘くて旨かった。



道の駅に寄って帰る。

夕食はしゃぶしゃぶ、焼き椎茸でビール、酒。

食後に白ワイン。寝しなにアイリッシュウィスキー。


今まで経験もしなかったような、すごい台風が来るという。被害が出ないことを祈る。

2022年9月10日土曜日

中秋の名月

朝、サバ缶トースト、牛乳、ウィンナーソーセージ入りスクランブルエッグ。

子どもたちとコーヒーを淹れて飲み、朝ドラを見て、豆ちゃんの蚤取りの薬をもらいに病院へ行く。

今日は朝顔が咲いた。


雑誌『東京人』を読む。浅草木馬亭の源流をたどると、つくば市小田出身の人に行きつくんだねえ。


昼は子どもたちが作った塩焼きそばを食べる。

午後は、ミニつくばに行ってミニの修理。

夕食は、赤飯、けんちん汁、卵焼き、麻婆豆腐でビール、酒。

食後に妻と白ワイン。寝しなにアイリッシュウィスキー。


今日は中秋の名月。



稲刈り、籾摺りが終わり、米ができた。質、量ともにまあまあとのこと。


豆はどうやら高い所がお好き。豆と煙は高い所に上る。



2022年9月7日水曜日

『Get Back DVD』を買っちゃった



ビートルズのDVD『ゲット・バック』を買った。発売当初は公式サイトで13000円。それがアマゾンでは10000円になっていた。これは買っちゃうよねえ。

196912日から130日までの「ゲット・バック・セッション」の映像を、『ロードオブ・ザ・リング』のピーター・ジャクソンが編集した。「ゲット・バック・セッション」は、もともと1966年以降やめていたライヴ演奏を、もう一度やろうと言って始めたプロジェクトだ。リハーサルからライヴに至るまでの全工程を映像に収め、テレビ特番として放送しようというのである。監督は、「ヘイ・ジュード」「レボリューション」のPVを撮った、マイケル・リンゼイ・ホックス。「原点に返ろう」と、「ゲット・バック・セッション」と命名された。紆余曲折があり、この映像は1970年、映画『レット・イット・ビー』として発表された。この映画はビートルズにとってつらいものになったようで、ビデオにもDVDにもなっていない。

それが今回、ピーター・ジャクソンの編集で、ディズニー・プラスで配信され、その後DVD化された。発表されてしばらく経つので即時性はないが、私なりの感想を書いてみる。

 

映画『レット・イット・ビー』は上映時間2時間足らず。ジョージとポールの口論やジョンのやる気のなさが前面に出て、これは解散もやむなし、と思わせた。陰鬱なトーンで、見ていて気が滅入ったものだ。

それに対し『ゲット・バック』はDVDディスク3枚、5時間以上に及ぶ。『レット・イット・ビー』では見えなかった所がよく分かる。ピーター・ジャクソンの編集も巧みで、過去の映像をインサートしつつその背景がよく分かるようになっている。

 

ディスク1の舞台はトゥイッケナム・スタジオ。機材の不満や四六時中撮影されているストレスで、メンバーもピリピリしている。天才ポールには完成イメージが出来上がっている。それに向かっていくやり方をとるが、当然、メンバーは駒として扱われがちになる。リンゴのドラミングやジョージのギターに、細かい注文がポールから出る。曲の仕上がりが遅く、焦るポール。ライヴに消極的なジョージがやがて癇癪を起す。色々あって、とうとうジョージはグループの脱退を宣言する。

ディスク2はアップルスタジオに舞台を移す。取りあえずアルバム制作の過程を映像化することに路線を変更、ライヴは延期となった。説得を受けジョージが復帰した。キーボード奏者のビリー・プレストンをゲストに迎え、レコーディングは軌道に乗る。ジョンがグループを回し始める。

ディスク3はあの伝説のルーフトップ・ライヴだ。画面を分割し、ほぼ全カメラのカットを見せてくれる。高山T君がいみじくも「ライヴバンドとしてのビートルズが躍動している」と言っていたが、まさにその通り。いつまでも見ていられる。実はこのライヴの翌日も、彼らはレコーディングしていた。その映像も収められ、それがエンディングとなっていた。

 

印象に残ったシーンを挙げてみる。

トゥイッケナム・スタジオ。ジョンのスタジオ入りが遅れている。ポール、ジョージ、リンゴの三人が手持ち無沙汰にしている。ポールがベースでコードストロークしながら、メロディーを口ずさむ。これが何と名曲「ゲット・バック」となってゆく。やがてリンゴがドラムの前に座り、ジョージがギターを合わせる。セッションが始まる。遅れて来たジョンもそれに加わる。名曲誕生の現場を目撃する感動にわななく。

アップルスタジオ。ビリー・プレストンのキーボードが加わった時、メンバーの表情が変わった。特にポールの「これだよ、これ」という表情が忘れられない。ジョン曰く、「エレピの音はいいなあ」。これで苦労していた「ドント・レット・ミー・ダウン」が一気に完成に近づく。

ジョージは黙々とジョンとポールの曲にギターを合わせる。やっとメンバー全員で演奏されるジョージの曲が「フォー・ユー・ブルー」だ。今まで特に好きな曲ではなかったが、何だか愛おしくなったよ。ジョージがジョンに向かって「ソロアルバムを作りたい」と言うシーンがあった。ジョンは「皆で結束してアルバムを作っている最中にソロの話か?」と返すのだが、隣にいたヨーコが「素敵だわ」と助け舟を出すと、すかさず「いいことだ」と豹変。解散後、ジョージが鬱憤を晴らすかのように三枚組の『オール・シング・マスト・パス』を発表し大成功を収めたことを思うと感慨深い。(ちなみにその表題作は、このDVDの中でも演奏されている)

ルーフトップ・ライヴ。ジョンが16歳の時に作った「ワン・アフター・909」が出色の出来。ジョンとポールがノリノリでハモる。リンゴが実に楽しそうにドラムを叩く。「ゲット・バック」、「原点に返る」瞬間。

まだある。ポールがジョンとヨーコを前にして、ジョンの先妻シンシアの思い出話をする場面。ライヴ会場が二転三転し、コロッセウムから豪華客船、果ては病院や孤児院でのチャリティーコンサートが提案されていくのを聞きながら、どんどん不機嫌になっていくジョン。演奏しながら歌詞が出来上がっていく様子。ああ切りがない。

 

解散寸前、ビートルズは不仲で言い争ってばかりいた、とされていたが、そうではなかった。楽器を手にして誰かが歌い始めると息の合ったセッションが始ったし、昔話に興じ冗談を言って笑い合っていた。ただ、四人はもう寝食を共にしながらトップを目指していた「仲良し四人組」ではなくなっていた、というだけだ。ジョンにとってポールはたった一人のパートナーではなくなっていたし、ジョージはいつまでも引っ込み思案の末っ子ではなかった。父親のように皆をまとめてくれるブライアン・エプスタインはもういない。解散は避けられなかったのだろう。

でも、そのプロセスは、やはり彼らにとっても必要だったんだな、と私は思う。当時、彼らはまだ30歳にもなっていなかった。あのままだったら彼らはどこか子どものままで、ホモソーシャルの中に閉じこもっていただろう。

後年、ポール、ジョージ、リンゴの三人は『ビートルズ・アンソロジー』の中で、もう一度ビートルズを見つめ直す。巻末に三人の短いセッションも収められているが、これが実に味わい深い。そこに、ジョン・レノンがいないことが、今更ながらに悲しくてやりきれないのだ。

2022年9月3日土曜日

ワクチン接種、『金馬のいななき』読了

朝、御飯、味噌汁、スクランブルエッグ、ウィンナーソーセージ、納豆。

子どもたちとコーヒーを淹れて飲み、朝ドラを見て、散歩がてら床屋に行く。妻は仕事に行った。


近くの義務教育学園から放送の声が聞こえたので、運動会でもやっているのかと思ったら、奉仕作業をしていたらしい。床屋の前でママ友さんに声を掛けられご挨拶する。「*くんパパ」と久し振りに呼ばれたよ。

昼は子どもたちが作ったマルちゃん正麵の塩。

長男がバイトに出掛ける。おにぎりを作って持たせる。

4回目のワクチン接種に市の医療センターに行く。けっこう人がいた。

3時頃帰る。

夕食は、御飯、味噌汁、肉野菜炒め、ソーメンチャンプルー、ポテトサラダ。今日は酒は自重してノンアルコールビールを飲む。


『金馬のいななき』、読了。アマゾンで古本を買った。送料を入れて500円ちょっと。2006年刊の初版本だった。

前回の記事で、四代目金馬の落語協会加入を、ウィキペディアの記述から昭和39年(1964年)としたが、この本によると金馬を襲名した昭和42年(1967年)とのことであった。

金馬襲名についてはこんなエピソードが紹介されている。

三代目のイメージが強烈だったので、本人としてもプレッシャーを感じて、五代目小さんに相談をした。小さんは「いいじゃねえか、継げば」と事も無げに言う。「あと二、三年も勉強して腕が上がってから」と言うと、小さんはこう言ったという。以下、引用する。


「おう、三年やったらお前何か、噺がうまくなるのか」

と—。

「うーん、なると思うんだけど」

「なるのかよ」

「・・・分かんねえな」

「なっ、分かんねえだろう。いいんだよ。継いじゃうんだよ。継げって言われたときに継いじゃうんだよ。俺だってお前、小さんを継げっていうから継いだだけの話。継ぎゃあいいんだよ。やれよ、継ぐんだよ」


小さん師匠、すげえ。

こうして四代目金馬を襲名。正式に落語協会に加入する。金馬は既に、昭和33年(1958年)に東宝名人会で真打ちになっていた。しかも金馬という名跡を継いでの加入である。香盤順が問題になったが、それも春風亭柳朝の「俺の上へ行きゃあいいんだよ、おれの上へ。ちょうどそれでいいじゃねえか」の一言で解決したという。


この本を読んで思った。金馬は、腹話術、軽演劇、タレント、そして落語と、色んなことに全力投球してきたんだな。本当に頭が下がる。

最後に、私の心に残った金馬の言葉を引用する。


落語が目指すところは上手さではありません。それよりも、面白さです。うまい、まずいはお客様の決めることです。


落語を演じている者の端くれとして胆に銘じておきたい。