『対談・落語芸談4』の中で、編者の川戸貞吉は十代目金原亭馬生についてこんなエピソードを紹介している。
馬生は「落語評論家は絶対に信用しない」と言う。それは「金原亭馬生の悲劇は、五代目古今亭志ん生の長男に生まれたことからはじまった」という論評に憤慨したからだ。「そんなことをいったって生まれちゃったものはしょうがないでしょ」「あたしだって生まれたくはなかった」と馬生は抗弁していたという。
対談の相手は立川談志。その時談志は「その言葉通り取れば、たしかにいった奴は暴言だけど、しかしそういう会話もわからないことはない。だけど、もういまさらねェ“天才の子に生まれた”とか“親父の子に生まれた”というのは、そんなことまで論じる奴は馬鹿だね。それよりも馬生師匠の出来不出来、または彼の功績を判断すべきではないかと思いますよ」と至極真っ当なことを言っている。
この落語評論家は大西信行、この論評は『落語無頼語録』という本に収められている。
その部分を、いくつか以下に引用する。
・いまぼくの目に浮かぶ馬生は、一席終って、立ち上がり、キザなシナをつけて踊るその姿・・・どうにも好きになれない芸人だった。なぜだろうと考えてみる。
考えてみて、馬生という人が、いくつもの不幸を背負った芸人だと思い到った。不幸の第一は志ん生の子であるということ。
・志ん生がいつ帰るとも知れないことを理由に、それぞれ新しい師匠を選んで去って行って、置き去りにされた馬生はあたかも浮浪児と呼ばれた戦災孤児のごとき淋しい境遇になった。孤児の淋しさを正直に涙にでもして見せたなら、楽屋の同情も集められたかも知れないものを、馬生は可愛げのないいじめられっ子の顔で、周囲を睨み、すねて暮らした。馬生にすればそれは志ん生の子の意地だったろうけれど、ことさらに胸を張って、言うことなすこと、生意気だネ、キザでいけねェとそしられる結果だけを生んだ。この周囲の白い目をはね返すためには・・・うまくならなきゃ、と、若い馬生に思い込ませた。うまく聞かせようと、わざと声をひそめ加減の低調子、どうにも陰気な高座になった。大ネタと称される人情ばなしのような演題ばかり演じて、いっそう先輩の糾弾を受けた。まずいと言われて次々にネタを変えて・・・現在円生についでネタの多い落語家であると言われるのは、この頃の馬生のあがきがもたらしたものであった。
・志ん生の子でいながら、馬生は志ん生の子であることの不幸にいじめ抜かれて、志ん生のうまさを自分のものにはなし得なかった。いやむしろ、志ん生とはべつの、うまいはなし家になろうと馬生は苦労したのだとも言える。つまり円右円喬流の・・・。
志ん生の子。落語家としてのデビューは二つ目から。若くして金原亭馬生を襲名。やっかみを受ける要素はそろっている。しかも志ん生がわがままな人であったから、その意趣返しが馬生に降りかかった。確かに馬生がいじめられたのは、志ん生の子であったがゆえだろう。また、その悔しさをばねに、馬生が志ん生とは違うタイプの芸を追求したことも間違いではない。
論理としては正しい。しかし、改めて読むと、ずいぶんひどいことを書いているなあ。馬生の苦闘に対し、あまりに手厳しい。
大西は、また、こんなことも書いている。
現代人の癖に、いかにも江戸前ということばの似合う、キリッとした顔に愛くるしい微笑みを浮かべて言った。志ん朝の幸せは志ん生の子であるということ—。
対比という技法はある。対照的なものを並べて、その差を際立たせ自分の主張をはっきりさせるやり方だ。とはいえ、兄弟を比較し、弟志ん朝の素晴らしさを示すために兄馬生を引き合いに出すのは、あまりに酷ではないだろうか。
「あとがき」の中で、大西は、永六輔に「ぼくは、大西さんがなにかに対して怒っている時が好きだな」と言われたことで、「精いっぱい怒りながら書く」という基本姿勢を得たと書いている。
大西には、当時東京の実力派と言われる落語家が、芸の本質よりも論理や技巧を重んじ、偏った名人志向に走っているという現状認識があったようだ。「うまいと呼ばれたい落語家」の代表として、大西は馬生と立川談志を挙げ、痛烈に批判している。
私が持っているのは角川文庫版だが、その「解説」で永井啓夫は次のように書いている。
現代落語の質的解明には、江國滋・三田純市・矢野誠一・山本益博らのような見巧者の愛情にみちた指摘も多い。しかし、かんじんのはなし家たちは、落語ばかりでなく伝統芸能の世界ではいずれも共通のことだが〈批評〉をいっさい受け入れようとしないのである。それが見え透いた追従であっても〈賛辞〉は正しく、その反対に〈批判〉はすべて悪意と曲解によるものとして耳を貸さない。これは現代の伝統芸能が抱えている最大の不幸であろう。
大西信行の『落語無頼語録』は、こうした固陋なはなし家に向かって堂々と所信をぶっつけた壮挙ともいうべき評論である。
大西の鋭い筆致は、当時高く評価され、昭和50年度「日本ノンフィクション賞」佳作を受賞した。翌年には文庫化もされたので、よく売れたのだろう。私も高校の時、この文庫版を買ったし、落研の部室にはハードカバー版が置いてあった。
一方で、芸人たちには評判が悪かった。後年、この馬生への論評は、評論家の暴論のサンプルとして、多くの人が取り上げた。
私は「附 桂文楽の死」を読むのがつらかった。そこには、文楽の落語家としての限界が極めて明晰に論じられていた。つらかったが、何度も何度も読み返した。
私はこの本を読む度に、落語とは何か、落語を、落語家を論じるとはどういうことか、について深く考えさせられる。私はこういう書き方はしない。しかし、この本が私の落語観に大きく影響を与えていることは否定できない。
永井啓夫はこうも書いている。
(大西信行は)落語を愛するあまり、怒り狂ってさんざんに斬りまくるものの、実はそのことによって一番傷ついているのが大西自身であることを知る人は少ない。
十代目金原亭馬生は、志ん生から離れようともがき苦しみ、必死になってネタを増やして芸の幅をひろげた。長い道程を経て、馬生がたどり着いたのは「志ん生」だった。
晩年の馬生は志ん生に似ていた。「一丁入り」で飄々と高座に現れ、さらっと一筆書きのような行書の芸を見せた。時折入る長い間も、きちんと芸になっていた。しかし、それは志ん生のコピーなどでは断じてない、馬生だけの世界だった。テクニックや論理を越えた所に馬生はいた。
馬生は昭和57年(1982年)、54歳で死んだ。誰もが馬生の早過ぎる死を惜しんだ。その時大西は、馬生について何を書いたか、その後何を書いたか、残念ながら私は知らない。