中に落語協会歴代会長の表があった。三代目柳家小さん、五代目三升家小勝、六代目一龍齋貞山に続いて、八代目桂文楽の名前があって「ん?」となった。
1939年(昭和14年)から会長を務めたのが講談の一龍齋貞山。貞山は、1945年(昭和20年)3月11日の東京大空襲の犠牲となった。戦後、現在の落語協会が結成され、四代目柳家小さんが会長に就いたから、貞山死後につなぎの会長がいたものと思われる。それが、黒門町だったということなんだろう。
ここに私は疑義を呈したいと思う。
当時の落語界を知るための第一級の資料『八代目林家正蔵戦中日記』の記述を見てみよう。以下、関係する部分を引用する。なお正蔵は当時の名前、馬楽で登場する。
三月十四日(水)
放送局へ用達に行って帰宅すると山春さんが来てゐた。偶然貞山先生の死体を見つけたからと報せに来て下すったのだ。文治、文楽の諸先輩と訪れて、みなみな現場へ駈けつけた。隅田川に在ったとかで満足な仏様になってをられた。
三月十五日(木)
警報発令中を貞山先生の死体を引取る工作をなす。貞丈金壱千円を持参して諸払いをする。まづ棺桶が壱百十円。公園課の係りに壱百円献上した。納棺して上野鈴本亭主人が引ぱって来て下すった荷車に安置して、貞丈、上原、馬楽で奉仕し、文楽、文治其他の諸氏ならびに遺族がつき添い、落語協会事務所桐廼家の焼跡へ一時納めてくる。
三月十六日(金)
貞丈、山春さん、馬楽の三人で鈴本の荷車へ貞山先生を乗せて日暮里の火葬場へ運び、特等で焼くべく万事好都合に行く。
貞山会長の死に際し、正蔵がよく働いている。記述からは正蔵の上にいるのが、文楽と文治だということが分かる。ちなみに「上原」というのは、協会の事務員、上原六三郎。元は落語家で二代目柳家小せんを名乗っていた。
当時、正蔵の馬楽は協会の幹部として雑事に奔走していた。正蔵が足しげく通っていたのは、根岸の文治宅だ。「旧落語協会を落語部第一班と正称し、再建の会議を文治師宅に開催す。(中略)円歌会計係、馬楽営業係に選ばる。(4月4日)」、「営業係の打合せに文治師宅に赴く。(4月18日)」、「根岸(文治宅)へも顔出しをして第一班再建の方針を基に働く決心をなす。(5月22日)」などの記述が見える。
そして、その中に正蔵の文治評がある。
七月三十日(土)
文治師匠を訪ひ営業上の話をきく。上原に対する態度などどうもスケールの小さいやうな気がする。この人を首班としての会は無事だが非常時には不適当だ。尤も誰が代ってもさう急速には良くはならないのだが安心が得られる。
協会の会合が文治宅で行われていること、正蔵が文治を「首班」と呼んでいることを考えると、「つなぎの会長」は八代目桂文治であろう。正式な会長就任なのか、会長代行のようなものだったのかは分からない。
正蔵によると、文治はリーダーとしては狭量だったらしい。それが、戦後新体制となった時、四代目小さんが会長に就いた要因になったのだろう。
戦後の落語協会会長は、小さんの後が文治、そしてその後になってやっと文楽に回ってくるのだから、つなぎとはいえ小さんの前に文楽が会長というのは無理がある。
ここはやはり、貞山死後、八代目桂文治が会長を務めたと言っていいだろうと思うのだが、いかがでしょうか。
付記。落語協会の公式ホームページで、八代目桂文楽が貞山亡き後の暫定会長だったことが明記されていた。協会内で記録や口伝もあってのことだと思うので、「つなぎの会長」は文楽だったに間違いはなかろう。ただ、そこまでに至るには「やっぱり文治師匠より文楽さんだな」という経緯があったのではないか、と私は思う。
2 件のコメント:
久しぶりに伺いました。落語協会歴代会長についての考察、興味深く拝読しました。
落語協会の公式サイトにも暫定的に就任とありました。さすがに詳細はありませんでしたが、仰る通りなのではないかと思います。
文楽師匠といえば思い浮かぶのが五代目。
末広亭の北村銀次郎氏の聞書き『寄席末広亭』によれば文楽師匠について「人生を渡る処世術についちゃ五代目の教えを仰ぎ」とありました。
左楽師匠は、関東大震災のピンチに個性だらけの芸人に団結を呼びかけとりまとめた方です。東京大空襲で亡くなられた貞山先生が会長になられた経緯は、協会の財政面も関係していた記憶があります。戦局も悪化し後に終戦を迎えるこの時期は、文治師匠でなくとも取りまとめは難しかったでしょう。左楽師匠の背中を見ていた文楽師匠は香盤は下でも適任だったのかもしれません。
東京人の特集は、読み応えがありましたが、落語協会がカウントする100年の基準日は左楽師匠が離れた後で、歴代会長に左楽師匠の名前がなく、わざとなのか勘ぐってそちらの方に気が行っていました。
暫定とはいえ文楽師匠は再々任される人物だったのでしょう。他の師匠方が芸人過ぎたのかもしれませんが。
大正の大団結について言えば、ひとつになったのは「非常時」であればこそで、分裂して2リーグ制(野球ではありませんが)の状態が「平時」のものとしてしっくりくる。それに、ひとつになって、わずか1年で、会長自らが離脱をしたわけで、その人を「初代会長」とは認めたくなかったということもあるかもしれません。左楽はあくまで「睦会の人」だったのでしょう。
五代目左楽について、文楽は、著書『あばらかべっそん』の中で、「五代目の師匠くらい私にとってコワイ師匠はなかった。そのくせどうしてもはなれられませんでした。」と書いています。そして、「決しておもわせぶりをしない。何でもおもったとおりのことをハッキリいってしまうところに、人の真似のできないところがありました・」とも。政治的に優れた人だったのでしょうが、決して策を弄するタイプではなかったのだと思います。そこが、多くの人を引き付けた所以ではないでしょうか。
八代目文治は、文楽が左楽門下に入る前の師匠でした。だからこそ、暫定的とはいえ、文治を差し置いて文楽が会長に収まるとは、どうしても思えませんでした。やはり貞山死後、首班に就いたのは文治の方だったと私は思います。
ただ、文治は弟子との博打でいかさまをやるような人物で、人を束ねる器ではなかった。文楽自身、文治の下を離れて左楽の方に行っています。はじめ文治が首班に就きはしたが、やがて人望は文楽の方に移って行った、とも言えなくはない。四代目小さんが協会に復帰して会長に就く前には、文楽の方が実権を握っていたのかもしれません。
後に文楽は落語協会の会長を二度務めます。2年ずつで通算4年。意外と短い。長期政権を敷こうと思えばできたはずなのに、そうしませんでした。思えば柳家小三治も、会長を4年務めて現会長の柳亭市馬引き継ぎました。もしかしたら、小三治は文楽に倣ったのかもしれませんね。
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