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2018年1月28日日曜日

県西の火の見櫓(火の見櫓14)

境町へは県道つくば古河線を通って行ったが、この沿線に火の見櫓がけっこうあった。
思わず帰りも同じルートにして、ばーしばし撮って来た。
では県西の火の見櫓をまとめて御覧ください。

まずは坂東市逆井(旧猿島町)のもの。すらっとした形。



お次は八千代町蕗田の辺り。最上部に物見のスペースがない。この形は珍しい。



半鐘がきちんと付いている。

寄贈者のプレートがあった。
60年ものなんだね。

つくば市吉沼にある、吉沼八幡神社境内にあったもの。ミニサイズだね。


半鐘付き。

こんな風に街道を見下ろしている。

つくば市大砂。すらりとして美しい。



細工も細かいねえ。

つくば市今鹿島。企業の敷地内にあったもの。全体がライトグリーンにペイントされている。



半鐘も付いている。

火の見櫓も最近、屋根がなくなっているのが多い。この日見たのは全て屋根付き。しかも5基中3基に半鐘が付いていた。えらい。

2018年1月27日土曜日

境町再訪


仕事で境町に行って来た。境に行くのは2度目。前回は2013年の11月だった。
茨城県猿島郡境町。かつては水運で栄えた町。利根川の対岸にある関宿とは一体と見なされ、関宿藩の城下町であった。現在は茨城県と千葉県に分かれているが、その昔は同じ下総国だったのだ。
午前中に仕事を終えて、午後からは休みを取った。
利根川の土手のすぐ下にある、船町という蕎麦屋に入る。けんちんせいろを食べる。


食後、まず利根川の堤防へ上がる。
月曜日に降った雪が、まだずいぶん残っている。ずっと寒い日が続いていたからなあ。

一面の雪景色。

対岸の関宿城博物館の天守閣。
実は写真中央にかすかに富士山が見えるのである。

境町からの筑波山。

堤防から下りて、街中をぶらつく。この辺は古い家並が残っていて面白い。



前回来た時、一目惚れした高木書店。
閉店したようだ。

高木書店正面。


奥まった所に焼き鳥屋があった。


煉瓦造り。


次来たら、ここで食べるのもいいな。


やっぱり古い街を歩くのはいいね。また機会があれば訪れたいものです。

  *  *  *

自民党の元衆議院議員で、自民党幹事長や内閣官房長官等を歴任した、野中広務氏が亡くなった。
野中氏と辛淑玉氏の共著、『差別と日本人』は、私の座右の書である。
1998年だったか、妻と沖縄旅行に行った時、偶然、那覇のホテルで野中氏の姿を見た。権力の中枢にいる者として、きちんと沖縄に向かい合った人だと思う。沖縄に対し、小学生のいじめのようなことをしている現政権及びその支持者とは、まさに対照的だ。
確かにきれいごとだけでは権力は維持できない。野中氏自身、相当際どいこともしてきたろうし、清濁併せ飲む人でもあっただろう。でも、弱い者に思いを致す心根が、彼の根本にはあった。『差別と日本人』で語られた言葉の中に、それは十分表れている。
92歳、長い間我が国を支えてきてくれたことに敬意を表したい。そして、氏はずっと平和の大切さを主張してきた。その遺志を私たちも受け継ぎたいと思う。
野中広務氏のご冥福を祈る。

2018年1月23日火曜日

古今亭志ん駒、柳家小蝠を悼む


大雪。いつもは30分のところ、今日は1時間かけて仕事に行く。

  *  *  *

先日、落語協会元理事の古今亭志ん駒師が亡くなった。81歳。
五代目古今亭志ん生最後の弟子。志ん生死後は十代目金原亭馬生門に移った。志ん朝の信頼厚く、昭和53年の落語協会分裂騒動では、馬生門でありながら志ん朝と行動を共にした。それ以降、古今亭志ん朝一門の叔父貴として後進の面倒を見た。
1974年NHK新人演芸コンクール落語部門最優秀賞受賞。この時のネタは『幇間腹』。私はこの時の高座をテレビで見た。明るくて軽くて、幇間一八はまさにはまり役だった。人呼んで「ヨイショの志ん駒」。人の気をそらさないヨイショは、まさしく名人芸だったという。
前歴は海上自衛隊。高座で見せる手旗信号は楽しかった。また、個人的に親交のある杉良太郎の裏話や志ん生の思い出話も面白かった。
長い間、楽しませていただいた。ご冥福をお祈りします。

志ん駒師の手拭い。


芸術協会では小文治さんの弟弟子、柳家小蝠さんが亡くなった。
最初立川談志に入門し立川志っ平。その後十代目桂文治門下に転じて桂前助。文治死後は、兄弟子の柳家蝠丸が引き取った。二つ目昇進時に師匠蝠丸の前名、小蝠を継ぐ。
苦労した人なんだな。小文治さんのHPでは、2014年の真打昇進で初のトリをとった時、高座で感激のあまり涙がこみ上げ、5分間絶句したと書いてある。
今年1月9日、インフルエンザが悪化して救急搬送され、12日、肺炎を起こして亡くなったとのこと。42歳という早過ぎる死だった。さぞ無念だったと思う。ご冥福を祈る。

2018年1月21日日曜日

行方市天王崎


妻のしもやけがひどくなってきたので、親子4人、行方市の麻生温泉白帆の湯へ行く。
すぐ目の前が霞ケ浦という絶好のロケーション。条件がよければ、筑波山はもちろん、富士山を望むこともできる。料金は一般で700円。そんなに混み合うこともない。日帰り温泉の穴場スポットだ。うちはずっとここを愛用している。
今日は、天気はいいものの、残念ながら眺望は利かず、富士はおろか筑波山も見えない。のんびりと霞ケ浦を眺めながらお湯につかる。
休憩所で湯上りの牛乳。頃合いを見て昼食にする。カレーそば600円に、半ライス100円を付ける。


ラー油が浮いている。辛みはこれなんだな。
食休みの後、2度目の入浴。湯上りにはチョコもなかアイスを食べる。

妻と次男は売店を見に行き、私と長男はすぐ近くの神社をぶらぶらする。




八坂神社。1604年、新庄氏によって麻生藩三万石が創始されたのに伴い、鎮守の神としてここに祀られた。7月最終土日の祭りでは、八岐大蛇に見立てた飾り馬と、祭神素戔嗚尊を奉じた神輿がもみあう神事が行われるという。
この辺りは天王崎といって、その昔は湖水浴場として多くの観光客を集めた。白帆の湯はもとの国民宿舎白帆荘である。
八坂神社の境内には「茨城百景水郷麻生」の碑が立っている。


さらに厳選された「茨城四十五景」の当選記念塔もある。


レリーフがまたいいのよ。


八坂神社の隣には、水神宮が祀られている。


船の碇が奉納されていた。

では、天王崎から見た霞ケ浦です。




2時過ぎ帰る。夕方ビール。夕食は父が買って来た、鯉の洗い、刺身で燗酒。いい休みでした。

2018年1月18日木曜日

漱石『三四郎』と落語

夏目漱石と落語というと、必ず引用されるのが、『三四郎』に出てくる「小さん名人論」だろう。
これは登場人物、佐々木与次郎によって語られる。
与次郎は「小さんは天才である」とした上で、小さんと円遊を比較して、このように言っている。
「円遊も旨い。然し小さんとは趣が違っている。円遊の扮している太鼓持は、太鼓持になった円遊だから面白い。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物がまるで消滅してしまう。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活溌溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい。」
ここでの小さんは三代目柳家小さん。明治28年3月に師匠の二代目小さんが柳家禽語楼に改名したのに伴って、三代目を襲名した。円遊は「ステテコ」で知られた初代三遊亭圓遊のことだ。明治40年11月26日没。『三四郎』が朝日新聞に連載されたのが、明治41年だから、すでに円遊は死んでいる。
与次郎の説では、演者の個性が際立つのが円遊、演者が消え登場人物が浮かび出るのが小さん。昭和の名人でいえば、前者は五代目古今亭志ん生、後者が八代目桂文楽ということになろうか。
第1次落語研究会が始まったのは明治38年3月。三代目小さんはこの研究会の発起人として柳派からただひとり名を連ねた。この研究会で、四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓右、三代目柳家小さんは名人の名を確立させていく。
昭和の名人、文楽・志ん生・圓生が口をそろえて「本当の名人」と言う圓喬に対して、漱石は言及していない。圓喬のような大向こうをうならせるタイプは、漱石の好みではなかったのかもしれない。

この『三四郎』では、もうひとつ落語の影響を感じさせる箇所がある。
冒頭、主人公の小川三四郎が熊本から汽車に乗って東京に出てくる場面。車中で三四郎は一人の女と知り合う。その汽車の終点、名古屋で女は三四郎に「一人では気味が悪いので、宿屋に案内してほしい」と頼む。横町の目立たない所にある宿屋に入ると、あれよあれよという間に同室に案内される。布団もひとつしか敷いてくれず、二人は同衾することになる。
となれば、落語『宮戸川』を連想せずにはいられない。
ある晩、将棋に熱中して遅くなり締め出しを食った半七。お向かいのお花も歌がるたがもとで締め出しを食っている。半七が叔父さんの家に泊めてもらいに行くと言うと、お花は泊めてもらえる当てがないので、一緒に連れて行ってほしいと頼む。半七は嫌がるが、お花は無理について行く。また叔父さんがさばけた人で、ひとりで飲みこんで二人を二階に上げてしまう。布団も一つしかなく、やむなく二人は一緒に寝ることにする。
ね、似てるでしょ。
寝る段になると、半七はこう言う。
「それじゃあ、ま半分の所に線を引きますから、あなたはあっちに寝てください。私はこっちに寝ます。どんなことがあってもこっちに入っちゃいけませんよ!」
三四郎が布団に入る場面はこうだ。
「『失礼ですが、私は疳性で他人の蒲団に寝るのが嫌だから…少し蚤除の工夫を遣るから御免なさい』
 三四郎はこんなことを云って、あらかじめ、敷いてある敷布の余っている端を女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻き出した。そうして蒲団の真中に白い長い仕切りを拵えた。女は向こうへ寝返りを打った。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に細長く寝た。」
私はここを「お前は半七か」と突っ込みを入れながら読んだよ。
『宮戸川』では、やがて雷雨となり、近くに落雷が起こる。思わず半七にしがみつくお花。女の匂いが半七の鼻に届く。ふと見るとお花の裾が乱れ、緋縮緬の長襦袢から真っ白な肌がのぞいている。息を飲む半七…、「この後は本が破れて読めません」と、多くの落語家はここで下げる。まあ二人は結局結ばれるのだけれど。
一方、『三四郎』では落雷なんぞは起こらない。何事もなく翌朝を迎える。二人は名古屋駅のホームで別れるのだが、女は三四郎にこう言って、にやりと笑う。
「あなたは余っ程度胸のない方ですね」
…こっちのサゲはすごいなあ。『三四郎』のこの場面は、詳細に見ていくと謎が多くて面白い。機会があったら、改めて書いてみたいと思います。

2018年1月16日火曜日

鹿島神社「由緒」について

前回の記事で、小美玉市小川地区馬場山の鹿島神社の「由緒」を、鹿島神宮のものと混同していたので訂正した。明らかに誤読であり、全くもって恥ずかしい限りであります。
その直前、『古代日本正史』(原田常治著・昭和57年・同志社刊)を読んでいたら、このような記述があったのだ。以下、引用する。

   *  *  *

鹿島神宮 茨城県鹿島郡鹿島町
(祭神)武甕槌大神
(記録)往古鹿島の大神が東海より霞ケ浦を遡り、小川の園部川に止まり給うた。即ちこれを久殿森に鎮め奉り、後、羽木上、成山等に遷し、さらに大同二年、今の鹿島の地に遷し奉った。
 これでみると、香取神宮が神武天皇の時代に現在の地に祀られたのに対し、鹿島神宮が現在地に鎮座したのは、ずっと後の大同二年(西暦八〇七年)のようである。

   *  *  *

内容は馬場山の鹿島神社の「由緒」とほぼ同じ。以下に画像を掲載する。


これはあくまで「鹿島神社」の「由緒」なのだから、「現在地」とは、小美玉市馬場山でと見るのが自然である。原田氏は、この「由緒」を鹿島神宮のものとして、「現在地」を鹿島に読み替えたのだと思う。
また、「東海」を、「東海道」や「東海地方」のイメージで見ると、いかにも鹿島の大神が大和辺りからやって来たように思われるが、これを馬場山の地から考えれば、「東海」とは文字通り「東の海」、つまり霞ケ浦東方の北浦湖畔、鹿島の方ではないか。鹿島の大神は鹿島からやって来たと見てよいのではないか。
鹿島神宮が小川から鹿島の地に落ち着いたというのは、やはり無理があると思う。
念のため『常陸風土記』を見てみたら、鹿島神宮の縁起を次のように綴っている。口語訳で記す。
「孝徳天皇の己酉の年(西暦649年)中臣氏が総領であった高向の大夫に請い願って、下総国の海上の国造の所領から南にある一つの里、那賀の国造の所領から寒田より北にある五つの里を割いて、別に神郡を設置した。その地に鎮座まします天の大神の社・坂戸の社・沼尾の社を合わせ称して、香島(かしま)の天の大神と申し上げる。(中略)天智天皇の時代(662年~672年)に初めて使いの人を派遣して神の宮をお造らせになった。それ以来今に至るまで、修改築が絶えたことがない。」
鹿島神宮では創建を神武天皇元年としている。
いずれにしても鹿島の大神が、広く常陸国で信仰されていたことは間違いない。

2018年1月14日日曜日

小美玉市小川の二社(訂正版)

昨日、小美玉市小川地区にある二つの神社をお参りしてきた。

まずは素鵞神社。




園部氏の小河城があった高台にある。
境内にある「御由緒」には、こう書いてある。
「享禄二年 橋本源左衛門尉重長 橋本孫左衛門尉重孝 薗部川で神像を御掬い申し上げ これを花蔵院に祀る薗部宮内少輔小川鎮守として城内へ陰神たる櫛稲田姫命を 城外へ建速素戔嗚命を祀る 天保年間天王宮を素鵞神社と改め 昭和二十二年神道令により陰神を現在の地に鎮祭し盛大なる祭事を行ふに至る」
享禄2年とは、西暦1529年、時は戦国時代、室町幕府12代将軍足利義春の時代であった。
拝殿の前に近隣の主だった神社の御朱印が並べてあって、300円ほどのお志を出していただくことができる。
7月には小川の街でこの神社の祭事として祇園祭が行われる。祇園というからには八坂神社系なのかな。
文中にある櫛稲田姫命を祀った神社はこれ。鳥居を入ってすぐの所にある。




お次は馬場山にある鹿島神社。




ここの「御由緒」は次の通り。
「鹿島の大神東海より霞ケ浦に入り園部川を遡って馬場村の金輪田に来臨された。里人らこれを久殿の森に奉紀したが、神慮にかなわず羽木上成山等を経て、大同2年現在地に鎮座されたという。」
大同2年というのは、西暦807年。東北各地の神社の創建に関する年号はこの年とされるらしい。
小河十二郷大鎮守として尊崇され、江戸時代初頭には元道神官11人の社人が常住し、慶安元年制定の祭礼日限帳に基づいて、大の祭り、小の祭りが連日斎行されたという。
今、その賑わいはないが、県道沿いにあるにもかかわらず、しんと神寂びた雰囲気が漂っている。