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2010年1月14日木曜日

文楽と柳橋

文楽の終生のライバルは志ん生である、というのは衆目の一致するところである。
ただ、文楽は大正6年に真打ちに昇進した頃からずっと売れっ子であり、志ん生が世に認められ出したのは、昭和9年の金原亭馬生を襲名した辺りから。いわば、志ん生は文楽にとっては遅れてきたライバルだった。
大正から昭和にかけて、文楽の最大のライバルは、六代目春風亭柳橋だ。
六代目春風亭柳橋。明治32年生まれ(文楽より7歳下)。明治42年、四代目春風亭柳枝に入門して柳童。枝雀を経て、大正6年、文楽と同年に柏枝を襲名して真打ち昇進。大正10年、小柳枝を襲名。さらに大正15年、春風亭柳橋を襲名した。もともと柳橋は麗々亭の止め名だったのを、師匠柳枝と同じ春風亭に改めた。
文楽とともに睦四天王として売り出す。いや、正確に言うなら、四天王の筆頭はこの柳橋だった。後に六代目三遊亭圓生は柳橋を評し、「うまい上に大胆で芸度胸があり、末恐ろしい。文楽などよりもずっと大物になると思った」と言い、「一時は本気であの人の弟子になろうかと思った」とさえ言った。柏枝を名乗っていた頃、大阪で「子別れ」を演じたが、その時大阪の落語ファンは「江戸っ子の腕で打ったる鎹は浪速の空に柏枝喝采」という歌を詠んで讃えたという。どのエピソードも柳橋の大器振りを物語っている。
初代圓右・三代目小さん亡き後、名人と言えるのは、五代目圓生、四代目小さん、八代目文治といった人たちだった。(五代目小さんは彼らを昭和の名人に挙げていた。)それに続く存在が、柳橋、文楽だったのだろう。昭和15年の落語家番付では、柳橋が東の大関に座り、文楽が西の大関となっている。ちなみに三代目金馬が文楽と同じ西の大関、五代目志ん生が西の小結、六代目圓生は東の前頭筆頭だった。
昭和初期、文楽は三代目圓馬のもとに通い、後の十八番となるネタと不器用に格闘する。
一方、柳橋はスターの道を駆け上った。昭和5年には金語楼とともに日本芸術協会を設立。30歳そこそこで団体の会長となる。金語楼の新作に刺激を受け、「うどん屋」を「支那そば屋」に、「掛け取り万歳」を「掛け取り早慶戦」にと大胆に改作し、ラジオやレコードで売れに売れた。「支那そば屋」では軍歌を歌ったように、戦時中も時流に合わせる器用さを見せた。
文楽の方は戦時中、得意の幇間ものや廓噺を封印され、不遇の時代を送った。戦時中の「子ほめ」の録音が残っているが、必死に軍事色を加えようとしてはいるものの、まるでニンに合わない無惨なものである。文楽が名人の称号を手にするのは戦後を待たなければならない。戦前、最も輝いていたのは柳橋であった。文楽もずっと売れていたし、名人への階段を着実に上りつつあったが、柳橋の勢いは圧倒的なものであり、文楽といえども太刀打ちできるものではなかった。

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