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2010年1月20日水曜日

桂文楽 睦会解散

昭和5年、春風亭柳橋、日本芸術協会創立。時に柳橋、31歳。これは凄いな。当時の平均寿命を考慮しても、今なら春風亭小朝が20年前に落語協会を離脱して新団体を立ち上げた、というくらいの衝撃だったろう。
この辺りから、東京落語界で一方の雄であった睦会の凋落が始まる。
翌年、睦四天王の一人、桂小文治が睦会を脱退。2年後に芸術協会に合流する。
昭和7年には、これも睦四天王の一人三代目春風亭柳好が脱退。翌年には落語家を辞め、幇間になってしまう。(後に柳好は芸術協会に参加する。)
こうして、睦会躍進の原動力となった睦四天王のうち、会に残っているのは桂文楽ただ一人となってしまった。
層が薄くなった睦会は芸術協会との連携を目指すが、それに反対した五代目三遊亭圓生一門の脱退を招いてしまう。
こうなると、後は坂道を転がるように会は落ち目になっていく。一人減り、二人減り、やがて残ったのは、文楽、会長の五代目柳亭左楽、神田山陽、七代目春風亭柳枝だけ。そのうちに柳枝も芸術協会へ行ってしまう。
昭和12年11月、ついに睦会解散。
文楽の自伝『あばらかべっそん』によると、この時、左楽は文楽に「お前はもう向こうの会(落語協会)に行け。俺もどこかへ行くようにするから。」と言った。それに対し、文楽は「待ってください師匠、私も弟子の始末をつけるまで休んで、それから出かけますから。」と答えたという。
左楽は芸術協会へ。文楽は、「ふりい倶楽部」を経て東宝名人会に参加した後、翌昭和13年、落語協会に加入した。師匠と別れ、独立する形となる。時に文楽、46歳であった。

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