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2010年6月14日月曜日

落語協会分裂騒動とは何だったか⑦

真打ち問題はもう暫く迷走が続く。
落語協会は、真打ち試験を導入。大量真打ちへの批判をかわそうとしたが、話芸の巧拙に明確な基準など設けられるはずもない。「下手でも面白い、だから、売れる」というタイプの落語家もいる。結局、昇進の根拠は曖昧なまま。試験に落ちた者は、納得などできるものではない。弟子を落とされた立川談志は、昭和58年、協会を脱会し立川流を旗上げする。
現在は抜擢真打ちと年功真打ちとの併用の形をとっているが、これが最もバランスがとれたやり方だろう。紆余曲折、試行錯誤を経て、やっとあるべき形になったような気がする。
協会全体を見れば、分裂騒動は、三遊本流の崩壊により、柳家の隆盛を生んだ。現在の、小三治を筆頭に、さん喬、権太楼、市馬、花禄、喬太郎、三三と連なるラインナップは壮観ですらある。
さて、この騒動のキーマンとなった二人、古今亭志ん朝と立川談志についてである。
志ん朝は、落語三遊協会が寄席に出られなくなったことを受けて、落語協会に復帰した。戦いに敗れ、無条件降伏したようなものである。それまで順調に伸びてきた志ん朝にとって、初めての挫折だった。しかも、北村銀太郎の鶴の一声で、ペナルティーを課されることもなかった。これは志ん朝のプライドを酷く傷つけた。
彼は絞り出すように「これからは落語で勝負します」コメントした。
それから、若旦那の甘さは消え、芸に対し、よりストイックになった。若手の育成に努め、落語界を背負う覚悟を決めた。志ん生の血と文楽の品格、圓生の幅を融合させたような大輪の芸の華を咲かせた。
平成13年、その大輪の華を癌が奪っていった。以後10年の月日が流れたが、私たちは今もその傷から癒えていない。
談志は、落語三遊協会設立直前に逃亡した。落語協会にも柳家一門にも居場所はなく、弟子の真打ち試験落第を理由に協会を辞め、立川流を設立する。上納金制度や有名人を弟子に取るなどで、話題を呼んだ。
一方、弟子の真打ち昇進には厳しい条件を設け、極端な実力主義を貫いた。(圓楽の年数真打ちとは対照的だ。もしかしたら、圓生の遺志を継いだのは、この談志だったのかもしれない。)談志が認めなければ真打ちにしない、という意味では明解な基準だった。志の輔、志らく、談春といった立川流のスターは、このシステムの中で育っていった。
談志は寄席を捨てたことで、自分を目当てに来た客だけを相手に、思う存分己の落語を演じることができた。そして、多くの信者を集め、カリスマとなった。多分、談志は伝説の名人としてその名を残すだろう。しかし、なぜだろう、今なお彼は満たされていないように思えてならない。
落語協会分裂騒動に関わった者は、皆、大なり小なり傷を負った。その傷を最後まで引きずった者もいれば、その痛みをバネに大きく飛躍した者もいた。騒動自体はあっさり片が付いたが、その影響は大きく、その後の落語界を決定づけたと言っていい。
そして、現在、七代目圓生襲名騒動が起きている。それを思うと、30年を経過してなお、騒動は依然として終わっていないのである。

2 件のコメント:

quinquin さんのコメント...

分裂騒動の時は中学生だったので、いったい何が起きているのか、と思ったくらいですが、その後の情報でいろいろ理解できました。それでもなお、いったい何だったんだ、あれは? と思います。

ところで、志ん朝師について、「志ん生の血と文楽の品格、圓生の幅を融合させたような大輪の芸の華を咲かせた。」と表現されているのは素晴らしいと思いますが、一点、志ん朝師の芸の基盤に正蔵師があったことも付け加えたいところです。志ん生師は、せがれの素質を見抜いて、正蔵師に約1年半預けたわけですよね。柳朝師や文蔵師とは、兄弟弟子同様だった、とのこと。

densuke さんのコメント...

そうですね。志ん朝は前座の頃、稲荷町の正蔵の下に通い、基礎をみっちりと仕込まれました。
正蔵からは「三遊派の型」を受け継いだのだと思います。昔、テレビ番組で「首提灯」を演じた後、志ん朝自身の解説で正蔵から教わった型の話をしていましたが、興味深いものでした。
志ん朝は「穴子でからぬけ」を弟子に教えるために、改めて文蔵に稽古してもらったそうですね。
柳朝とは「二朝会」という二人会もやっています。
志ん朝にとって稲荷町での稽古の日々は、落語家としての基盤になったとともに、大切な青春の思い出にもなっていたのだと思います。
ご指摘、ありがとうございました。