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2012年7月31日火曜日

古今亭圓菊

古今亭圓菊が高座に出なくなって暫く経つ。1928年生まれだから、もう84歳になるのか。
私が学生の頃、寄席でいちばん聴いた落語家じゃないかな。うちの落研のホームグラウンド、新宿末広亭に行くと必ずと言っていいほど出ていた。『長短』『饅頭怖い』『宮戸川』など身をくねらせての熱演は、常に爆笑をとっていた。
師古今亭志ん生が脳溢血で倒れ、右半身に麻痺が残ったまま高座に復帰した時、志ん生を背負って寄席を回ったのが、むかし家今松時代の圓菊だった。志ん生の二つ目時代の名前、圓菊を襲って真打に昇進した時は「おんぶ真打」と揶揄された。芸よりも師匠への献身ぶりが買われての昇進だということなのである。
24歳の遅い入門。その時、既に志ん生の長男十代目金原亭馬生は真打になっていた。本当は馬生と同い年だったが、年をごまかし馬生の1歳年下とした。屈折を抱えての落語家スタートだった。
やがて独特の圓菊節とオーバーアクションという自分だけのスタイルを作り上げる。六代目三遊亭圓生からは「あれは古典落語じゃござんせん。」と否定されたが、観客の笑いに支えられた。後に立川談志からは「いい芸を見つけたなあ。」と言われたという。
うちの落研では「圓菊さん」と呼ばれていた。別に知り合いではなかったが、不思議に皆「さん」付けだった。何となく親しみやすい落語家さんだった。
そういえば、うちの落研のOBがやっている落語会に、圓菊さんがゲスト出演したことがあった。川崎駅近くの映画館での会。確か「美須多運(ミスタウン)寄席」と銘打っていたと思う。
近くに住んでいた私もお手伝いに駆り出された。前の晩私のアパートに泊まった八海君と、太鼓を担いで参加した。映画館のステージに高座の準備をした後、私は圓菊さんを迎えに行くようにと言われた。地元だったからだろう。川崎駅で待っていると、圓菊さんが電車でやって来た。前座もつけず、一人で着物のバッグ一つ提げてである。無口でおとなしい人という印象だった。
楽屋では着替えを手伝い、高座の後は着物を畳んだ。プロの落語家の着物を畳むのは、やはり緊張した。六代目圓生は「あなた油っ手でげすね」などと言って駄目を出したというが、もちろん圓菊さんは何も言わなかった。
古今亭志ん生門下では最も弟子が多い人ではなかろうか。誠実な人柄と苦闘の末練り上げたオリジナルの芸は、そういう形でも人を惹きつけるのだろう。
余談だが、圓菊の高座姿、胸元から覗く赤い襦袢の襟が色っぽかった。

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