東京を抜けるのに2時間かかった。
8月第2週の行楽シーズン、しかも金曜日ということもあって、首都高速は、三郷から新宿まで、ずっと渋滞していた。その上、家を出るときは晴れていたものの、台風10号が不気味に北上を続けていた。
中央高速を国立府中インターチェンジで下り、日野市の高幡不動尊に向かう。
日野は、新撰組副長、土方歳三生誕の地である。高幡不動尊の境内には土方の銅像が立ち、道の向かいの和菓子屋では「歳三まんじゅう」を売っている。
ざっとお参りを済ませ、近くの寺に歳三の墓所があるというので、そちらの方にも行ってみる。
都立日野高校(忌野清志郎の母校である)の近くだというが、案内板がなかなか見つからず苦労する。翌年の大河ドラマが「新撰組」に」決まり、高幡不動尊近くには、そういった幟がたくさん立っていたのだが、この辺りは実にそっけない。
やっとのことで寺を見つけ、墓所を見つける。ピカピカの墓石。平成になって建立されたものらしい。それにしても近所は見事に土方という家ばかり。中には庭に鶏を放し飼いにした農家然とした家もあった。多分、住宅地として開ける前は、土方一族が住む集落だったのだろう。
土方歳三は農家の生まれだが、天然理心流を学び、剣の達人となった。同郷の近藤勇、沖田総司らとともに京都に上り、幕府を助け京都の治安を守るべく新撰組を結成する。幾度かの内部抗争を経、局長近藤、副長土方を中心とした鉄の結束を誇る新撰組が出来上がる。その存在は京都の討幕勢力にとって大いなる脅威となった。
やがて、幕府と討幕軍(官軍)との戦争になるが、土方は最後の最後まで官軍と戦い、ついに北海道函館の地で壮烈な戦死を遂げる。
旗本八万騎といわれた徳川の直参が多く惰弱に流れたのに対し、武蔵野の農民の方が幕府のために一生を捧げたとは皮肉なものである。
日野でバラガキと言われた時分から、土方は組織の統率に特異な才能を発揮していた。新撰組においても、局長は近藤だったが、実質のリーダーシップは土方が執っていた。日本的な権力の二重構造は、ここでも見られたのであった。
ついでだが、土方歳三、かなりなイケメンである。
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