先日、水戸での飲み会の帰り、時間があったので、石岡の養老乃瀧に寄る。
ここ好きなんだよなあ。チェーン店とはとても思えない佇まい。いいねえ。
普通酒常温の冷や。お通しがまぐろぶつオクラ。
鰹の刺身を頼み、シロを一本焼いてもらう。
テレビをぼんやり見ながら、約1時間ほど一人酒を楽んだ。
いやあよかった。大事にしたいお店です。
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2014年7月29日火曜日
風柳の根多帳⑤
前回の『らくだ』の続き。
正岡容が、『寄席囃子』という随筆の中で、『らくだ』について書いている。
それによると、『らくだ』の、いわゆる凄惨な演出の出所は、朝寝坊むらくにあるらしい。
屑屋がらくだの髪の毛を引っこ抜く場面。茶碗酒にその髪の毛が入っていて吐き出す場面(可楽や談志が演っていた)。らくだと間違えられて、火葬場の釜に入れられ、紅蓮の炎の中で願人坊主が立ち上がる場面(これは談志の鬼気迫る描写が忘れられない)。これらは皆、もとを辿れば、むらくの演出だったのである。
このむらくは、調べてみると、どうやら八代目。
最初、三代目柳家小さん門下で出発し、後に五代目春風亭柳枝門に転じた。出世名である小柳枝を襲名するも、師匠をしくじって名前を取り上げられる。その後上方で修業し、大正になって東京に戻った。関東大震災の前に、朝寝坊むらくを襲名する。
ちなみに、桂文楽が終生師と仰いだ、名人三代目三遊亭圓馬は、この人のひとつ前のむらくだった。
酔っ払いの噺を得意とし、「酔っぱらいのむらく」として売り出したが、昭和初年には寄席からも遠ざかり、昭和8年、不遇のうちに死んだ。しばらく死骸の引き取り手がなかったという。(まるで『らくだ』みたいだ。)
晩年、「おれの『らくだ』を覚えてくれ」と言って、五代目三遊亭圓生に無理矢理稽古した。
『らくだ』自体、三代目小さんが上方から持って来た噺だから、この噺が東京に定着する過程において、むらくが果たした功績は小さくなかったと思う。
してみると、立川談志の演出は、見事に過去を踏まえたものだったのだなあ。まさに「伝統を現代に」である。もしかしたら、談志も、この正岡の文章を読んだことがあったのかもしれないな。
そういえば、談志の文章の呼吸、正岡容に似た所がある。
さて、この間、ちょっと『らくだ』をさらってみたら、けっこうできた。
やってて少し気づいたことがある。
覚書程度に、書いてみる。
丁の目の半次は人を支配するのに長けた男。自分では動かず、屑屋を支配してやらせる。恐怖で人を動かすタイプだな。こういう奴、いるよ。実社会の方が、半次よりずっと巧妙だけどな。
半次と屑屋の立場の逆転は、単に屑屋が酔っ払ったからというんじゃ説得力に欠ける。屑屋には、半次を怯えさせる狂気があったのだ。屑屋の狂気を示す1シーンを入れたい。
こんなふうに、噺を作っていくのは楽しいなあ。
今なら、あの頃より、もうちょっとましな噺ができると思うけど、どうかなあ。
正岡容が、『寄席囃子』という随筆の中で、『らくだ』について書いている。
それによると、『らくだ』の、いわゆる凄惨な演出の出所は、朝寝坊むらくにあるらしい。
屑屋がらくだの髪の毛を引っこ抜く場面。茶碗酒にその髪の毛が入っていて吐き出す場面(可楽や談志が演っていた)。らくだと間違えられて、火葬場の釜に入れられ、紅蓮の炎の中で願人坊主が立ち上がる場面(これは談志の鬼気迫る描写が忘れられない)。これらは皆、もとを辿れば、むらくの演出だったのである。
このむらくは、調べてみると、どうやら八代目。
最初、三代目柳家小さん門下で出発し、後に五代目春風亭柳枝門に転じた。出世名である小柳枝を襲名するも、師匠をしくじって名前を取り上げられる。その後上方で修業し、大正になって東京に戻った。関東大震災の前に、朝寝坊むらくを襲名する。
ちなみに、桂文楽が終生師と仰いだ、名人三代目三遊亭圓馬は、この人のひとつ前のむらくだった。
酔っ払いの噺を得意とし、「酔っぱらいのむらく」として売り出したが、昭和初年には寄席からも遠ざかり、昭和8年、不遇のうちに死んだ。しばらく死骸の引き取り手がなかったという。(まるで『らくだ』みたいだ。)
晩年、「おれの『らくだ』を覚えてくれ」と言って、五代目三遊亭圓生に無理矢理稽古した。
『らくだ』自体、三代目小さんが上方から持って来た噺だから、この噺が東京に定着する過程において、むらくが果たした功績は小さくなかったと思う。
してみると、立川談志の演出は、見事に過去を踏まえたものだったのだなあ。まさに「伝統を現代に」である。もしかしたら、談志も、この正岡の文章を読んだことがあったのかもしれないな。
そういえば、談志の文章の呼吸、正岡容に似た所がある。
さて、この間、ちょっと『らくだ』をさらってみたら、けっこうできた。
やってて少し気づいたことがある。
覚書程度に、書いてみる。
丁の目の半次は人を支配するのに長けた男。自分では動かず、屑屋を支配してやらせる。恐怖で人を動かすタイプだな。こういう奴、いるよ。実社会の方が、半次よりずっと巧妙だけどな。
半次と屑屋の立場の逆転は、単に屑屋が酔っ払ったからというんじゃ説得力に欠ける。屑屋には、半次を怯えさせる狂気があったのだ。屑屋の狂気を示す1シーンを入れたい。
こんなふうに、噺を作っていくのは楽しいなあ。
今なら、あの頃より、もうちょっとましな噺ができると思うけど、どうかなあ。
2014年7月22日火曜日
風柳の根多帳④
久々、持ちネタシリーズ。今回は『らくだ』。
4年の夏合宿に持って行った。
高校生の頃、五代目柳家小さんのを聴いて以来、いつか演ってみたかった。
小さんの『らくだ』は、「冷やでもいいからもう一杯」のサゲまで1時間かかる大作だった。
だけど、当時の私には、ちっとも長く感じなかった。小さんの噺に、すっかり引き込まれてしまったのだ。
特に、丁の目の半次に脅されて、屑屋がらくだの死んだのを皆に知らせて回り、最後に酒と肴を出すのをしぶる大家の所で、らくだの死骸を運び込み、かんかんのうを踊らせて、見事酒を持ってこさせ、飲み食いをする場面が大好きだった。(一文が長いなあ。)
小さんの手にかかると、まさにそこに「芋、蓮、はんぺん、塩を辛目にした煮しめ」が現れるのだ。そして、半次が無理矢理飲ませた酒が利いてきて、屑屋が思わずもらす、「親方、勧め上手だから…」の一言の可笑しさ。会場の観客の、じわじわと広がる笑いが、小さんの芸の凄味を際立たせた。
小さんの屑屋は、談志のように心情を吐露しない。らくだの酷い仕打ちを思い出して感情を爆発させたりしない。でも、状況の波に翻弄され、昼酒の酔いに暴走してしまう人の好さを、小さんは何気なく描いてゆく。
基本的には、八代目三笑亭可楽のテープで覚えた。
可楽は、小さんが1時間かけて演るところを、30分で演じてみせる。確かに演出は荒っぽいが、そのスピード感がいい。
可楽をベースに、小さんの気分で構成してみる。サゲまではやらない。火葬場まで聞き手を引っ張っていく力量は、今の自分にはないと判断した。
らくだを坊主にするのに、髪の毛を引っこ抜くという可楽の演出は採用した。引っこ抜くのに疲れて、屑屋が半次に剃刀を借りに行かせる。「貸すの貨さねえの言ったら、死人にかんかんのう踊らすって言え」というのをサゲにした。
ここまでで30分。まあいい切れ場でしたな。
髪の毛を引っこ抜く場面で、アドリブで「楳図かずおの世界だな」と言ったのを、当時はOBとなっていた三代目紫雀さんが聴いてウケてくれた。
「いかにも伝助らしくてよかったよ」と紫雀さんは言ってくれた。
この噺は、ニンに合っていたんでしょうな。演ってて手ごたえがあった。ただ、おいそれとできるネタではなく、客前ではできなかった。演ってみたかったな。
余談。
この前OB会で、夢三亭おち坊君と話した時、私の『らくだ』について、こんなことを言われた。「当時、僕は、この人は何でこんな面白くない噺を演るんだろうって思っていました。」
…どうやら、私の手ごたえは伝わってなかったみたい。
4年の夏合宿に持って行った。
高校生の頃、五代目柳家小さんのを聴いて以来、いつか演ってみたかった。
小さんの『らくだ』は、「冷やでもいいからもう一杯」のサゲまで1時間かかる大作だった。
だけど、当時の私には、ちっとも長く感じなかった。小さんの噺に、すっかり引き込まれてしまったのだ。
特に、丁の目の半次に脅されて、屑屋がらくだの死んだのを皆に知らせて回り、最後に酒と肴を出すのをしぶる大家の所で、らくだの死骸を運び込み、かんかんのうを踊らせて、見事酒を持ってこさせ、飲み食いをする場面が大好きだった。(一文が長いなあ。)
小さんの手にかかると、まさにそこに「芋、蓮、はんぺん、塩を辛目にした煮しめ」が現れるのだ。そして、半次が無理矢理飲ませた酒が利いてきて、屑屋が思わずもらす、「親方、勧め上手だから…」の一言の可笑しさ。会場の観客の、じわじわと広がる笑いが、小さんの芸の凄味を際立たせた。
小さんの屑屋は、談志のように心情を吐露しない。らくだの酷い仕打ちを思い出して感情を爆発させたりしない。でも、状況の波に翻弄され、昼酒の酔いに暴走してしまう人の好さを、小さんは何気なく描いてゆく。
基本的には、八代目三笑亭可楽のテープで覚えた。
可楽は、小さんが1時間かけて演るところを、30分で演じてみせる。確かに演出は荒っぽいが、そのスピード感がいい。
可楽をベースに、小さんの気分で構成してみる。サゲまではやらない。火葬場まで聞き手を引っ張っていく力量は、今の自分にはないと判断した。
らくだを坊主にするのに、髪の毛を引っこ抜くという可楽の演出は採用した。引っこ抜くのに疲れて、屑屋が半次に剃刀を借りに行かせる。「貸すの貨さねえの言ったら、死人にかんかんのう踊らすって言え」というのをサゲにした。
ここまでで30分。まあいい切れ場でしたな。
髪の毛を引っこ抜く場面で、アドリブで「楳図かずおの世界だな」と言ったのを、当時はOBとなっていた三代目紫雀さんが聴いてウケてくれた。
「いかにも伝助らしくてよかったよ」と紫雀さんは言ってくれた。
この噺は、ニンに合っていたんでしょうな。演ってて手ごたえがあった。ただ、おいそれとできるネタではなく、客前ではできなかった。演ってみたかったな。
余談。
この前OB会で、夢三亭おち坊君と話した時、私の『らくだ』について、こんなことを言われた。「当時、僕は、この人は何でこんな面白くない噺を演るんだろうって思っていました。」
…どうやら、私の手ごたえは伝わってなかったみたい。
2014年7月19日土曜日
2014年7月18日金曜日
石岡、キテるよ
石岡の街は、看板建築や文化財じゃない建物でも味があるものが多い。
多分、そういうのは、時が経つにつれて、どんどんなくなっていっちゃうんだろう。
ほんと今のうちだよ。震災からこっち、けっこういいのがなくなったもん。
シブイのが好きな人は、ぜひ足を運んでほしい。そして、その辺のお店で飲み食いしてほしい。
そういや、この間はNHKの鶴瓶の番組で石岡が取り上げられていたなあ。
タカトシもロケやってたし、最近、石岡、キテますよ。
では、私好みの建物です。
多分、そういうのは、時が経つにつれて、どんどんなくなっていっちゃうんだろう。
ほんと今のうちだよ。震災からこっち、けっこういいのがなくなったもん。
シブイのが好きな人は、ぜひ足を運んでほしい。そして、その辺のお店で飲み食いしてほしい。
そういや、この間はNHKの鶴瓶の番組で石岡が取り上げられていたなあ。
タカトシもロケやってたし、最近、石岡、キテますよ。
では、私好みの建物です。
しばのやさんの店先の雰囲気が好き。
こちらも、しばのや。いいでしょ。
この金物屋さんも、店先の雰囲気じゃ負けていない。
この電気屋さんは現役。店名がいいねえ。
震災のせいだろうな。窓枠がすごいことになってる。
モリコービル壁面。家が埋め込まれているみたいだ。
2014年7月17日木曜日
1987年の岩手③
遠野を後にした私は、釜石で太平洋に出た。
釜石は、言わずと知れた製鉄の街。駅前の一等地に製鉄所があり、その周りを住宅やら店舗やらが取り巻いていた。
そこで私は昼食をとった。地元の人が集う、何てことないラーメン屋に入り、あさりラーメンなるものを食べた。あさりの入った塩ラーメン。これが、あっさりして旨かったねえ。
やはり、旅の昼飯は、地元の人が日常で使う、何てことない店がいい。
そこからさらに宮古に進み、民宿に宿をとった。
では、釜石と宮古の写真です。
明くる日、茨城に向けて帰る。旅のシメの晩飯は、白河のデニーズでハンバーグを食べた。店に入るなり、バイトの女の子が「いらっしゃいませ、デニーズへようこそ」と明るい声で迎えてくれたが、何だかこっ恥ずかしかったなあ。
釜石は、言わずと知れた製鉄の街。駅前の一等地に製鉄所があり、その周りを住宅やら店舗やらが取り巻いていた。
そこで私は昼食をとった。地元の人が集う、何てことないラーメン屋に入り、あさりラーメンなるものを食べた。あさりの入った塩ラーメン。これが、あっさりして旨かったねえ。
やはり、旅の昼飯は、地元の人が日常で使う、何てことない店がいい。
そこからさらに宮古に進み、民宿に宿をとった。
では、釜石と宮古の写真です。
釜石。昼飯を食べた辺り。
宮古の海は静かだった。
宮古市街。津波はここを襲ったのだろうか。
こんな静かな海が、あの時は牙を剥いたんだな。
コスモスが咲いていた。
そして、ススキもいいねえ。
明くる日、茨城に向けて帰る。旅のシメの晩飯は、白河のデニーズでハンバーグを食べた。店に入るなり、バイトの女の子が「いらっしゃいませ、デニーズへようこそ」と明るい声で迎えてくれたが、何だかこっ恥ずかしかったなあ。
2014年7月15日火曜日
1987年の岩手②
その晩は、花巻の奥座敷、台温泉に泊まった。
温泉に入っていると、中年の男の人が「お仕事ですか?」と声を掛けてきた。
私は、よく旅先で、仕事で来ているものとよく間違えられる。
小諸では、短パン、サンダル履きなのに、宿の人に「ビジネスですか?」と尋ねられた。
まあいい。
温泉で一緒になった人は、北海道から仕事で来たとのことだった。
翌日は遠野へ向かう。
山道の国道を辿っていくと、茅葺屋根の民家が点在する集落に出る。
柳田国男の『遠野物語』で知られる、遠野だ。
河童や妖怪、山男、山女が、フツーに何気なく、当たり前に登場してきそうな感じ。
ぶらぶら歩いていると、頭上から「おもしろいぞー」という声が聞こえてきそうな気がした。
温泉に入っていると、中年の男の人が「お仕事ですか?」と声を掛けてきた。
私は、よく旅先で、仕事で来ているものとよく間違えられる。
小諸では、短パン、サンダル履きなのに、宿の人に「ビジネスですか?」と尋ねられた。
まあいい。
温泉で一緒になった人は、北海道から仕事で来たとのことだった。
翌日は遠野へ向かう。
山道の国道を辿っていくと、茅葺屋根の民家が点在する集落に出る。
柳田国男の『遠野物語』で知られる、遠野だ。
河童や妖怪、山男、山女が、フツーに何気なく、当たり前に登場してきそうな感じ。
ぶらぶら歩いていると、頭上から「おもしろいぞー」という声が聞こえてきそうな気がした。
台温泉。落ち着いた、いい温泉場だった。
遠野へ行く途中だったかな。当たり前のように水車小屋があった。
遠野。観光客が歩いているのが見える。
多分、これも遠野へ行く途中だったと思う。
2014年7月10日木曜日
1987年の岩手
30前の頃、一人旅が好きだった。
一人で、ぶらっと車に乗って、遠くへ行く。
日常と地続きでありながら、非日常へとずれていく感覚が面白かった。
当時の相棒は、シビックシャトル・リアルタイム4WD。サンダーバード2号みたいなデザインで、好きだったなあ。パワーはなかったが、雪道にも滅法強かった。
1987年秋、まとまった休みが取れた私は、東北道をひたすら北上し、岩手に向かった。
テーマは「賢治に会いに行く」。
宮澤賢治の花巻へ、とにかく私は向かったのだ。
花巻ICを下りて、まずは宮澤賢治文学館を見学。
その後、羅須地人協会があった場所へ向かう。
ここには、高村光太郎の筆による「雨ニモ負ケズ」の詩碑がある。
その時の写真を以下に載せる。
詩碑そのものは撮っていなかったんだね。
私は、当時、こんなものに心を惹かれたのだ。
一人で、ぶらっと車に乗って、遠くへ行く。
日常と地続きでありながら、非日常へとずれていく感覚が面白かった。
当時の相棒は、シビックシャトル・リアルタイム4WD。サンダーバード2号みたいなデザインで、好きだったなあ。パワーはなかったが、雪道にも滅法強かった。
1987年秋、まとまった休みが取れた私は、東北道をひたすら北上し、岩手に向かった。
テーマは「賢治に会いに行く」。
宮澤賢治の花巻へ、とにかく私は向かったのだ。
花巻ICを下りて、まずは宮澤賢治文学館を見学。
その後、羅須地人協会があった場所へ向かう。
ここには、高村光太郎の筆による「雨ニモ負ケズ」の詩碑がある。
その時の写真を以下に載せる。
詩碑そのものは撮っていなかったんだね。
私は、当時、こんなものに心を惹かれたのだ。
賢治詩碑前のバス停留所。
停留所のT字路の所にあった建物。よく見ると、看板に賢治の詩句が書いてある。
この道の奥、正面の茂みの中に詩碑はある。
訪れた時は、田圃は黄金色に色づいていました。
2014年7月6日日曜日
涸沼 広浦
仕事の帰り、涸沼湖畔の広浦を通った。
思わず、車を止めてぶらぶら歩く。
広浦では、若い頃、よくキャンプをした。
あれは、S君と「満点小原庄助隊」を結成し、いかに旨い酒を、いかに旨く飲めるシチュエーションで飲むか、ということに精進していた頃だった。
初夏にはカヌーを湖面に浮かべ、厳寒の大晦日には「年越しキャンプ」を敢行した。
S君の作るキャンプ料理は旨かった。キャベツとコンビーフを炒めたのとか、葱とこんにゃくを手でちぎって酒と醤油で味付けした芋煮とか、しみじみと旨かった。そいつを肴にして飲む、純米酒やバーボンなどは、それはそれは旨かったなあ。
今日の涸沼。曇り空。風が強く、波も荒かった。
思わず、車を止めてぶらぶら歩く。
広浦では、若い頃、よくキャンプをした。
あれは、S君と「満点小原庄助隊」を結成し、いかに旨い酒を、いかに旨く飲めるシチュエーションで飲むか、ということに精進していた頃だった。
初夏にはカヌーを湖面に浮かべ、厳寒の大晦日には「年越しキャンプ」を敢行した。
S君の作るキャンプ料理は旨かった。キャベツとコンビーフを炒めたのとか、葱とこんにゃくを手でちぎって酒と醤油で味付けした芋煮とか、しみじみと旨かった。そいつを肴にして飲む、純米酒やバーボンなどは、それはそれは旨かったなあ。
今日の涸沼。曇り空。風が強く、波も荒かった。
合歓の花が咲いていた。
スワンボートの向こうに小っちゃく本物の白鳥がいるのだ。
屋形船。いいねえ。
向こう側が広浦キャンプ場。
波が荒い。
舟の中には、シジミ採りの漁具があった。
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