久し振りに落研の話をします。
S大寄席が終わり、落語長屋が終わると、その年の対外発表会は幕を閉じる。
そして、4年生の追ん出し寄席が始まる。校内での所謂引退興行である。
2人組になることもあれば、単独でやることもある。
私は一人でやった。8人いる同期の中で、いちばん後、12月の10日頃だったかな、正確な日付は覚えていないが、ちょうど卒業論文提出の日だった。
ちなみに卒論は太宰治の「人間失格論」。他のゼミ員たちは、十分な準備期間を取って、図書館に日参しながらこつこつ書いていたが、私は例によって変な見栄を張って、1ヶ月で書き上げるつもりでいた。
原稿用紙50枚以上の論文はさすがに手強く、清書は落研の後輩3人を、1日500円でバイトに雇った。完成したのは、提出日の午前2時過ぎだったと思う。
ちょっと寝て部室へ行き、製本をしてから研究室に提出しに行った。上には上がいるもので、ゼミ長のS君は、研究室で最後の清書にかかっていた。
晴れて卒論を提出した私は、昼休みの追ん出し寄席に臨む。
文字通り最後の高座だと覚悟していたので、出演者は最小限に絞った。
前座に夢三亭ペコちゃん、口上に夢三亭錦之介(大福さんの真打名である)と夢三亭おち坊、そして私。おち坊君を除いて、茨城出身者を並べた。
高座も少し工夫した。後ろの壁には後ろ幕を引いて、その上の方に私が描いた昭和の三名人(文楽・志ん生・圓生)のイラストを掲げた。めくり台の所には、部室にあった一升瓶を2、3本並べ、寄席の特別興行の雰囲気を出してみた。
一番太鼓が入り、二番太鼓を入れる。二番の締めは私、大太鼓を悟空君で叩く。1年の時は、この二人が太鼓担当だった。
ペコちゃんの『手紙無筆』に続いて口上。大福さんの口上は、見事に私の本質を言い当ててくれた。
「自分じゃ無頼派って言ってますけど、本当は不器用な方で、すぐムキになる。…スマートに女の子を誘うなんてできない」なんていうことを、もうちょっと色んな比喩を使って喋って、ウケを取っていた。
さて、いよいよ私の出番だ。出囃子には普段「木賊刈り」を使っていたが、今回は「野崎」。
うちの落研は、出囃子に「野崎」「一丁入り」「正札附」「お江戸日本橋」を使ってはいけないというのがルールだったが、追ん出し寄席だけは何を使ってもいいことになっていた。私は、現役最後の高座には八代目桂文楽の出囃子で上がりたかったのだ。
出演者を絞ったので、30分ほどの時間があった。私はたっぷりと時間をかけて枕を振り、落研での思い出話をした。できるだけこの高座にいたかった。ネタは『かんしゃく』。ネタ下ろしである。枕15分、本題15分という、後の柳家小三治みたいな構成になった。
『かんしゃく』については、後日「風柳の根多帳」で詳しく語りたい。
後で思ったのだが、リクエストという手もあったなあ。
当時、花王名人劇場というテレビ番組があって、リクエスト落語という企画があった。高座に上がってから、客のリクエストに応えてネタに入るという趣向である。
番組では、笑福亭仁鶴が『延陽伯』、月の家圓鏡(現橘家円蔵)が『猫と金魚』、柳家小三治が『小言念仏』を演じた。見事に十八番ぞろいである。
私の場合は『牛ほめ』『豆屋』『猫の災難』といったところかな。
終わってから、後輩に「『芝浜』演るのかと思ってましたよ」とも言われたけどね。
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2015年1月24日土曜日
穏やかな休日
寒い朝だった。
午前中、次男と家の周りを散歩する。
彼は畑や裏山が好き。羊歯や苔のことをよく知っていた。
「ぼくは杉苔が好きなんだよ」と言う。
霜柱や氷を見つけては、飽きずに眺めていた。ああいうきらきらしたものに、心惹かれるらしい。
以下は散歩での写真です。
甕に張った氷をかきまぜる次男。
見事な霜柱。
ほんと寒かったんだねえ。
庭のネコヤナギに鳥の巣がありました。
昼はやきそば。
午後は次男と柳家小三治の『初天神/時そば』のCDを聴く。
夕方にハートランドビール。
晩飯は、ピザ、大根のトマト煮で白ワイン。寝しなにボウモアを飲む。
2015年1月23日金曜日
科学未来館に行って来た
うちの子どもたちは科学館が大好き。
では、というので、お台場の日本科学未来館に連れて行った。
折しも特別展では「チームラボ 踊るアート展と 学ぶ!未来の遊園地」をやっていて、評判を呼んでいるらしい。
開演30分前に到着。チケットを買うのに15分ぐらい。開館は10時からだが、それより前に入場できる。
特別展会場入場口に並ぶ。事前の情報では、1時間待ちということもあったらしいが、この時間だと会場と共にすぐに入れた。
とにかく映像がすごい。最初の方はデジタルアート作品。日本の古典をモチーフにしたような映像が美しい。
伊藤若冲の象がモチーフなんでしょうなあ。
次の間は「学ぶ!未来の遊園地」。
ここも圧巻の映像。字に触れると、そこから絵が現れたり、自分が描いた絵がすぐアニメーションとして映し出されたり、とにかく仕掛けがすごいのよ。
これは面白いはなあ。
これが次男のお気に入り。
こちらは長男のお気に入り。
もちろん常設展もたっぷり遊ぶ。
お昼はカフェでカレーライス。妻や子どもたちはハンバーグライス。そっちの方が盛りがよかったなあ。お味はよろしゅうござんした。
カレーに海苔はどうなのよ、って感じでしたが。
3時間たっぷり遊んで、豊洲のららぽーとに行った。
ゴディバのチョコレートドリンクを飲んで、ちょっと買い物。私は佐野元春のCD『ヴィジターズ・デラックス・エディション』、妻はバーゲンで服を買えた。
子どもたちは寒風吹きすさび小雪ちらつく中、元気に外で遊んでおりました。
帰りにスーパーやまうちで晩飯を買って帰る。鯵のたたき、アジフライ、干瓢巻で酒。
楽しかった。また行こうね。
2015年1月19日月曜日
鹿島神宮
昨年の11月に鹿島神宮に行った時の写真をアップします。
上の写真は大鳥居。以前のものは石で作られていましたが、東日本大震災で倒壊してしまいました。再建されたのは、ほんの数か月前のことです。
さすが常陸の国一宮。一歩足を踏み入れると、荘厳で清澄な空気が流れています。
鹿島神宮のユニークなのは、突き当りがないんです。神社というのは、奥の正面に拝殿があり、その後ろに本殿がある、というのが一般的ですが、ここは、長い参道が続いていて、その脇にお社が建てられている。ずーっと歩いて行くと御手洗の池に出てお終いといった感じ。
でも、その長い参道を歩きながら森閑とした雰囲気に身を浸していると、身も心も清められていくようで、何とも言えませんね。
最近、パワースポットとして人気なのも、分かるような気がします。
では、中へと入ってみましょう。
これがいちばん奥にある御手洗の池。
なかなかいいでしょ。
そして、鹿島神宮駅の方に向かうと…、
塚原卜伝の銅像があります。
では銅像フェチの高山T君のためにアップで。
2015年1月15日木曜日
藤本蚕業株式会社支店
藤本蚕業株式会社支店。土浦の真鍋宿通り。真鍋の坂を上りきる手前にある。
もともとは長野県上田市に本社に本社があり、そこは今、歴史館となっているらしい。
ついでに土浦の繭取引について調べてみたら、面白かったので、ちょっと書いてみる。
土浦には、大正6年から昭和14年まで、我が国屈指の「豊島繭取引所」があった。ここは普段は百貨店であったが、季節になると繭取引所となった。
豊島百貨店は、戦後、霞百貨店となり、その後、京成霞百貨店となる。
京成霞百貨店があったのは、土浦駅を出て正面、現在イトーヨーカドーが撤退した後のウララビルの所である。私が子どもの頃は、屋上遊園地があって、遊びに行くのが楽しみだった。
ちなみに、駅を出て向かって右手、居酒屋なんかが入っている雑居ビルが元の丸井。
丸井の脇の道を常磐線沿いに下り方向に行くと、西友があり、旧イトーヨーカドーがあった。
駅前通りを亀城公園の方に行くと、左側に小網屋があった。
土浦には、これだけのデパートがあった。今は、そのいずれも残っていない。
豊島百貨店は鉄鋼コンクリート3階建て。繭取引所になった時は、売り場を取っ払って、10畳敷きほどのセリ台をしつらえた。
台の上に農家から持って来た繭がぶちまけられ、仲買人が周りに集まる。品定めをした後、セリが始まる。
値段はお椀のような器の底に筆で書いて「読み屋」に投げる。「読み屋」が値段を読み上げ、値が決まると、手締めをする。
セリ落とされた繭は大きな板で寄せられ、どんどんざるに入れられる。男たちがそれを次々と運び、エスカレーターに載せる。乾燥所は木造2階建て。エスカレーターで2階に運ばれた繭はレールの上をゆっくり移動し、4時間かけて乾燥される。
乾燥したものは倉庫に保管され、やがてそれぞれの製糸工場に送られる。
ここでは1昼夜に12000貫の繭を乾燥した。
取引先は県内を除けば、長野県が最も多く203社。2位の山梨県が30社だから、群を抜いている。藤本蚕業株式会社もその一つだったのだろう。
ネタ本は『伝聞ノート3 町場の女たち』(佐賀純一編 ふるさと文庫)。
本の中では、豊島乾燥所で40日働いて50円稼いだ金を、豊島裏にあった「とよのや」という女郎屋に2か月半居続けて、すっかり使い果たした男の話が載っている。
土浦にそんなに熱い時代があったことが、今では信じられないよねえ。
震災で大分やられたんでしょうなあ。
2015年1月9日金曜日
出口一雄と妻たち 予告編
出口一雄がどのような容貌の人だったか、今はほとんどの人が知らないだろう。
私も、京須偕充の「鬼の眼に涙」の扉ページのイラストでしか知らなかった。
それがこれ。
ちょっとなあ、という感じだよね。
ところが、先日、Suziさんから出口一雄の画像をいただいて驚いた。
向かって左から2番目が出口一雄。右側の二人が弟夫婦。左端は妹である。
色男だよねえ。
Suziさんはこのように言っている。
「銀座で映画のスカウトにあっていたそうです。母は父と見合いした後、伯父に会って腰を抜かさんばかりに驚いた、って言ってました。『まあ素敵な人だったわよ。こんな違う兄弟もあるんだ、ってほんとびっくりしたの。』そういつも笑って説明してくれました。」
三遊亭圓生は、「鬼の眼に涙」の中でこう語る。
「姿勢がよくて、いい身装(なり)をして、気っぷが江戸前で颯爽としていましたよ。ですからねえ、あれでなかなかモテたんです。」 そして、それにこう続けた。 「ですからね、出口のお内儀さんは割に若い。」
この、圓生の言う「お内儀さん」は、出口の三番目の妻に当たる。 それもSuziさんの証言で明らかになった。
では、次回より、出口一雄の結婚歴を、Suziさんのお話を基に辿って行くことにします。
私も、京須偕充の「鬼の眼に涙」の扉ページのイラストでしか知らなかった。
それがこれ。
ちょっとなあ、という感じだよね。
ところが、先日、Suziさんから出口一雄の画像をいただいて驚いた。
向かって左から2番目が出口一雄。右側の二人が弟夫婦。左端は妹である。
色男だよねえ。
Suziさんはこのように言っている。
「銀座で映画のスカウトにあっていたそうです。母は父と見合いした後、伯父に会って腰を抜かさんばかりに驚いた、って言ってました。『まあ素敵な人だったわよ。こんな違う兄弟もあるんだ、ってほんとびっくりしたの。』そういつも笑って説明してくれました。」
三遊亭圓生は、「鬼の眼に涙」の中でこう語る。
「姿勢がよくて、いい身装(なり)をして、気っぷが江戸前で颯爽としていましたよ。ですからねえ、あれでなかなかモテたんです。」 そして、それにこう続けた。 「ですからね、出口のお内儀さんは割に若い。」
この、圓生の言う「お内儀さん」は、出口の三番目の妻に当たる。 それもSuziさんの証言で明らかになった。
では、次回より、出口一雄の結婚歴を、Suziさんのお話を基に辿って行くことにします。
2015年1月8日木曜日
最下位上等!
都道府県魅力度ランキングなるものがあって、我が茨城県は、ここ数年連続で、47都道府県中47位、最下位に甘んじているという。
県の方もいたく気にしており、昨年などは、渡辺直美とピース綾部を起用して、「なめんなよ♡ いばらき県」をキャッチコピーにしたポスターを作成した。朝日新聞の茨城版でも、新年から、著名人にインタビューして茨城の魅力を語ってもらうという連載をやっていたし、官民挙げて何とか最下位を脱出しようと、懸命に魅力の発信に努めているところのようだ。
だけどなあ、何か皆、相対評価の罠に引っ掛かってないか。47都道府県があってランキングを付ければ、そりゃ、どこかが1位にもなるし、必ずどこかが最下位にもなるさ。しょうがないだろ。
しかも、この魅力度ランキングって、学力検査みたいに歴然とした客観性とか、達成すべき基準とかないよね。これで最下位になって、何が口惜しいの?ランキングを上げようと、しゃかりきになることなんて、これっぽっちもないと思うよ。
いいんじゃない、最下位で。茨城が最下位じゃなくなれば、他のどこかが最下位になるんだもん。いいよ、最下位は我が茨城が引き受けてあげましょう。最下位ということを、遊んじゃえばいいんだ。
次のポスターのキャッチコピーは、「最下位上等!」なんてのはどうでしょう。もちろんその時も、渡辺直美とピース綾部にご登場願いたい。(鈴木奈々が入ってもいいよ。)
県の方もいたく気にしており、昨年などは、渡辺直美とピース綾部を起用して、「なめんなよ♡ いばらき県」をキャッチコピーにしたポスターを作成した。朝日新聞の茨城版でも、新年から、著名人にインタビューして茨城の魅力を語ってもらうという連載をやっていたし、官民挙げて何とか最下位を脱出しようと、懸命に魅力の発信に努めているところのようだ。
だけどなあ、何か皆、相対評価の罠に引っ掛かってないか。47都道府県があってランキングを付ければ、そりゃ、どこかが1位にもなるし、必ずどこかが最下位にもなるさ。しょうがないだろ。
しかも、この魅力度ランキングって、学力検査みたいに歴然とした客観性とか、達成すべき基準とかないよね。これで最下位になって、何が口惜しいの?ランキングを上げようと、しゃかりきになることなんて、これっぽっちもないと思うよ。
いいんじゃない、最下位で。茨城が最下位じゃなくなれば、他のどこかが最下位になるんだもん。いいよ、最下位は我が茨城が引き受けてあげましょう。最下位ということを、遊んじゃえばいいんだ。
次のポスターのキャッチコピーは、「最下位上等!」なんてのはどうでしょう。もちろんその時も、渡辺直美とピース綾部にご登場願いたい。(鈴木奈々が入ってもいいよ。)
去年のポスター。
改めて見ると、まだまだおとなしいなあ。
「なめんなよ」と言ってる割には、好感度を気にしてそうな感じがする。
2015年1月6日火曜日
古今亭志ん生 『心中時雨傘』
先日、妻子が買い物に行っている間、留守番をしながら、古今亭志ん生の『心中時雨傘』を聴いた。
昭和33年の録音。音源はポニーキャニオン。ということは、志ん生がニッポン放送の専属だった頃に録音されたものか。
三遊亭圓朝作と言われる人情噺。慶応年間にあった心中事件を題材にしたものだという。あらすじは次の通り。
根津権現の宵祭りの夜、境内でどっこい屋をやっているお初が商いを終え、深夜、下谷稲荷町の家まで帰る途中、三人のごろつきにからまれる。あわや近くの稲荷の社に連れ込まれて暴行されようとする時、同じ町内に住む型付職人の金三郎がお初を救う。が、その際、ごろつきの一人が金三郎の殴った打ち所が悪く死んでしまう。
翌朝、殺しの罪でお初が奉行所にしょっぴかれる。他の二人が仲間の敵というので、奉行所に告発したのだ。それを知った金三郎は、自分が真犯人だと名乗り出る。調べが進むと、殺されたごろつきの日頃の所業が明らかになり、正当防衛も認められて、金三郎はお咎め無しとなる。そうして二人は金三郎の家主の仲人で、めでたく夫婦になる、というのが前篇。
後編はその後のお話。お初・金三郎は夫婦仲もよく、お初の母親にも孝行を尽くし、親子三人、つつましいながら幸せな日々を送っている。
ある年の暮、家主の勧めで夫婦二人酉の市の熊手売りをするのだが、その晩家が火事になってしまう。逃げ遅れた母親を救い出す際、金三郎は崩れ落ちた梁の下敷きになり、右肩の骨を砕かれた。翌年、母親が死に、金三郎は寝たきりに。稼ぎはお初一人の肩にかかる。金三郎の右腕は回復の見込みがなく悪化するばかり。金三郎は我が身のふがいなさに自ら死を決意。お初が懸命に翻意させようとするが、夫の意志は固い。それならばと、とうとう二人は心中することにした。
知人に暇乞いをして、最後の食事を天ぷら屋で済ませる。折からの時雨。相合傘で、母の葬られた日暮里の花見寺に入り、落ちていた矢立で差してきた傘に遺書を書くと、二人は母の墓前で、石見銀山ネズミ取りを飲み下して死ぬ。
お初も金三郎も人間がよくて働き者で、なのに不幸な事故がもとで金三郎が働けなくなり、心中するまで追い詰められてしまう。社会保障なんて言葉もない時代。稼げなくなれば、あっけなく死へと追いやられる。哀しい噺だ。
それを、志ん生は淡々と演じる。ドラマチックな展開は、これっぽっちもない。日常の延長に死があるかのように、あわあわとお初と金三郎は死んでゆく。今の落語家に慣れた耳で聴くと、「演技力」が感じられず、物足りないかもしれない。だけど、そこには見事に「江戸の風」が吹いているのだな。
過剰な感情移入を避けた、抑制のきいた人物描写。根津遊郭の華やぎ。下谷稲荷町の裏長屋での人々の暮らし。江戸の空に浮かぶ冴え冴えとした月。稲荷の森の暗がり。夫婦最後の天ぷら屋での食事。時雨の中、相合傘で歩く死を決意した二人。静かに、しかし細やかな情愛を交わしながら迎える最期。
それらを紡ぎ出す志ん生の口跡に、私は明治の名人たちの面影を見る。
志賀直哉は「桂文楽がいいって言うけど、古今亭志ん生の方が昔の連中の風格を備えていて好きだな」と言っていたらしいが、この噺を聴くと、それが素直に頷ける。志ん生の人情噺は、彼が青春時代憧れた四代目橘家圓喬や初代三遊亭圓右へのオマージュなんだと思う。(少なくとも志ん生は、圓右の口調は取り入れていた。先代の古今亭甚語楼は楽屋で志ん生の噺を聴きながら、「圓右の真似じゃねえか」と言っていたという。)
談志はよく「志ん生の人情噺は酷い」と言っていたけど、この『心中時雨傘』に関してはその言は当たらないんじゃないかな。この味は、談志でも志ん朝でも出せないと思う。もちろん、育った環境も時代も違うものを比べるのはナンセンスだ。逆に志ん生には、談志のような『芝浜』も、志ん朝のような『文七元結』もできないだろう。しかし、私はこの噺の中に吹く江戸の風に、強く惹かれるのだ。
晩秋の雨の夜、人形町末廣の志ん生独演会で『心中時雨傘』を聴く。想像しただけでも、うーん堪らんなあ。
昭和33年の録音。音源はポニーキャニオン。ということは、志ん生がニッポン放送の専属だった頃に録音されたものか。
三遊亭圓朝作と言われる人情噺。慶応年間にあった心中事件を題材にしたものだという。あらすじは次の通り。
根津権現の宵祭りの夜、境内でどっこい屋をやっているお初が商いを終え、深夜、下谷稲荷町の家まで帰る途中、三人のごろつきにからまれる。あわや近くの稲荷の社に連れ込まれて暴行されようとする時、同じ町内に住む型付職人の金三郎がお初を救う。が、その際、ごろつきの一人が金三郎の殴った打ち所が悪く死んでしまう。
翌朝、殺しの罪でお初が奉行所にしょっぴかれる。他の二人が仲間の敵というので、奉行所に告発したのだ。それを知った金三郎は、自分が真犯人だと名乗り出る。調べが進むと、殺されたごろつきの日頃の所業が明らかになり、正当防衛も認められて、金三郎はお咎め無しとなる。そうして二人は金三郎の家主の仲人で、めでたく夫婦になる、というのが前篇。
後編はその後のお話。お初・金三郎は夫婦仲もよく、お初の母親にも孝行を尽くし、親子三人、つつましいながら幸せな日々を送っている。
ある年の暮、家主の勧めで夫婦二人酉の市の熊手売りをするのだが、その晩家が火事になってしまう。逃げ遅れた母親を救い出す際、金三郎は崩れ落ちた梁の下敷きになり、右肩の骨を砕かれた。翌年、母親が死に、金三郎は寝たきりに。稼ぎはお初一人の肩にかかる。金三郎の右腕は回復の見込みがなく悪化するばかり。金三郎は我が身のふがいなさに自ら死を決意。お初が懸命に翻意させようとするが、夫の意志は固い。それならばと、とうとう二人は心中することにした。
知人に暇乞いをして、最後の食事を天ぷら屋で済ませる。折からの時雨。相合傘で、母の葬られた日暮里の花見寺に入り、落ちていた矢立で差してきた傘に遺書を書くと、二人は母の墓前で、石見銀山ネズミ取りを飲み下して死ぬ。
お初も金三郎も人間がよくて働き者で、なのに不幸な事故がもとで金三郎が働けなくなり、心中するまで追い詰められてしまう。社会保障なんて言葉もない時代。稼げなくなれば、あっけなく死へと追いやられる。哀しい噺だ。
それを、志ん生は淡々と演じる。ドラマチックな展開は、これっぽっちもない。日常の延長に死があるかのように、あわあわとお初と金三郎は死んでゆく。今の落語家に慣れた耳で聴くと、「演技力」が感じられず、物足りないかもしれない。だけど、そこには見事に「江戸の風」が吹いているのだな。
過剰な感情移入を避けた、抑制のきいた人物描写。根津遊郭の華やぎ。下谷稲荷町の裏長屋での人々の暮らし。江戸の空に浮かぶ冴え冴えとした月。稲荷の森の暗がり。夫婦最後の天ぷら屋での食事。時雨の中、相合傘で歩く死を決意した二人。静かに、しかし細やかな情愛を交わしながら迎える最期。
それらを紡ぎ出す志ん生の口跡に、私は明治の名人たちの面影を見る。
志賀直哉は「桂文楽がいいって言うけど、古今亭志ん生の方が昔の連中の風格を備えていて好きだな」と言っていたらしいが、この噺を聴くと、それが素直に頷ける。志ん生の人情噺は、彼が青春時代憧れた四代目橘家圓喬や初代三遊亭圓右へのオマージュなんだと思う。(少なくとも志ん生は、圓右の口調は取り入れていた。先代の古今亭甚語楼は楽屋で志ん生の噺を聴きながら、「圓右の真似じゃねえか」と言っていたという。)
談志はよく「志ん生の人情噺は酷い」と言っていたけど、この『心中時雨傘』に関してはその言は当たらないんじゃないかな。この味は、談志でも志ん朝でも出せないと思う。もちろん、育った環境も時代も違うものを比べるのはナンセンスだ。逆に志ん生には、談志のような『芝浜』も、志ん朝のような『文七元結』もできないだろう。しかし、私はこの噺の中に吹く江戸の風に、強く惹かれるのだ。
晩秋の雨の夜、人形町末廣の志ん生独演会で『心中時雨傘』を聴く。想像しただけでも、うーん堪らんなあ。
2015年1月2日金曜日
村松へ行く
2日は毎年恒例、妻子を連れて村松虚空蔵尊に行く。
今年もなかなかの賑わいであった。
まずはお参り。虚空蔵菩薩は丑年と寅年の守り本尊。
よく見ると、本堂の屋根にも牛と虎がいる。
私と妻は丑年生まれ。本堂の前の牛の像を撫でる。
参道をぶらぶら駐車場へ戻る。
息子二人は大判焼き、私はたこ焼きを買う。
妻は酒屋の店頭で売っていた干しいもをゲット。一袋500円。安いと言って、妻は感動していた。甘酒も飲んで温まる。
コンビニで昼食を買い込み、阿字ヶ浦の海を見ながら食べる。
食後、子どもたちは海岸に出て遊ぶ。
案の定、靴を濡らして帰って来たよ。
海を見ると、遠くの陸地が浮かんで見えた。これ蜃気楼現象なんでしょうか。
平磯港の辺りから撮った写真がこれです。
ついでに、「くじらの大ちゃん」も撮ってみました。
新年初の親子そろってのお出かけ。楽しかったね。今年も仲良くやっていきましょう。
2015年1月1日木曜日
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