久し振りに落研の話をします。
S大寄席が終わり、落語長屋が終わると、その年の対外発表会は幕を閉じる。
そして、4年生の追ん出し寄席が始まる。校内での所謂引退興行である。
2人組になることもあれば、単独でやることもある。
私は一人でやった。8人いる同期の中で、いちばん後、12月の10日頃だったかな、正確な日付は覚えていないが、ちょうど卒業論文提出の日だった。
ちなみに卒論は太宰治の「人間失格論」。他のゼミ員たちは、十分な準備期間を取って、図書館に日参しながらこつこつ書いていたが、私は例によって変な見栄を張って、1ヶ月で書き上げるつもりでいた。
原稿用紙50枚以上の論文はさすがに手強く、清書は落研の後輩3人を、1日500円でバイトに雇った。完成したのは、提出日の午前2時過ぎだったと思う。
ちょっと寝て部室へ行き、製本をしてから研究室に提出しに行った。上には上がいるもので、ゼミ長のS君は、研究室で最後の清書にかかっていた。
晴れて卒論を提出した私は、昼休みの追ん出し寄席に臨む。
文字通り最後の高座だと覚悟していたので、出演者は最小限に絞った。
前座に夢三亭ペコちゃん、口上に夢三亭錦之介(大福さんの真打名である)と夢三亭おち坊、そして私。おち坊君を除いて、茨城出身者を並べた。
高座も少し工夫した。後ろの壁には後ろ幕を引いて、その上の方に私が描いた昭和の三名人(文楽・志ん生・圓生)のイラストを掲げた。めくり台の所には、部室にあった一升瓶を2、3本並べ、寄席の特別興行の雰囲気を出してみた。
一番太鼓が入り、二番太鼓を入れる。二番の締めは私、大太鼓を悟空君で叩く。1年の時は、この二人が太鼓担当だった。
ペコちゃんの『手紙無筆』に続いて口上。大福さんの口上は、見事に私の本質を言い当ててくれた。
「自分じゃ無頼派って言ってますけど、本当は不器用な方で、すぐムキになる。…スマートに女の子を誘うなんてできない」なんていうことを、もうちょっと色んな比喩を使って喋って、ウケを取っていた。
さて、いよいよ私の出番だ。出囃子には普段「木賊刈り」を使っていたが、今回は「野崎」。
うちの落研は、出囃子に「野崎」「一丁入り」「正札附」「お江戸日本橋」を使ってはいけないというのがルールだったが、追ん出し寄席だけは何を使ってもいいことになっていた。私は、現役最後の高座には八代目桂文楽の出囃子で上がりたかったのだ。
出演者を絞ったので、30分ほどの時間があった。私はたっぷりと時間をかけて枕を振り、落研での思い出話をした。できるだけこの高座にいたかった。ネタは『かんしゃく』。ネタ下ろしである。枕15分、本題15分という、後の柳家小三治みたいな構成になった。
『かんしゃく』については、後日「風柳の根多帳」で詳しく語りたい。
後で思ったのだが、リクエストという手もあったなあ。
当時、花王名人劇場というテレビ番組があって、リクエスト落語という企画があった。高座に上がってから、客のリクエストに応えてネタに入るという趣向である。
番組では、笑福亭仁鶴が『延陽伯』、月の家圓鏡(現橘家円蔵)が『猫と金魚』、柳家小三治が『小言念仏』を演じた。見事に十八番ぞろいである。
私の場合は『牛ほめ』『豆屋』『猫の災難』といったところかな。
終わってから、後輩に「『芝浜』演るのかと思ってましたよ」とも言われたけどね。
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